3 田舎貴族は根性無し
憂鬱をため息で吐き出しながら、フランツは薄っぺらい夜着に袖を通した。
「私は花嫁に嫌われてしまったかな?」
まだ痛む鼻を気にしながら、フランツは項垂れた。
主人の様子を見て、ラディスが肩を竦める。
ラディスは故郷から連れてきた唯一の従者であり、友人だ。今は帝都で頼れるのは彼しかいない。
「少なくとも、好かれてはいないでしょうな。はっきり申しますと、かなり嫌われているかと」
ラディスは涼しい口調で言いながら本に目を通し、紅茶などすすっている。いつもと変わらない友人を横目に、フランツは頭を抱えた。
「結構ではありませんか。シャルアフィヌ殿下は、かなりのお転婆と聞いています。今日だって、式の前に花婿の下見なんてしようとして。お行儀のいいことだけが取り柄で、子供を産むしか役割の持てない馬鹿な貴婦人よりは、面白味があるというものです」
「ラディス、もう少し優しい言い方は出来ないかい?」
「私は充分、優しいつもりです。一応は褒めたつもりですよ。フランツ様が生温いだけでございますよ」
顔に満面の笑みを浮かべながら、ラディスは当然のように言う。その笑みは至極涼しげで、高原に吹くそよ風を連想させるほど爽やかだ。
口を開かなければ、優しい男だろう。口さえ開かなければ。
「それに、出来すぎた皇女様ではフランツ様と釣り合いませんから。数多の婚約者候補の中から選ばれた猛者……と言っても、贔屓目に見てフランツ様は田舎者です。しかも、割と大真面目に超がつくくらいマイペースであらせられる」
「それは、今後殿下と仲良く出来るかもしれないと励ましてくれているんだね?」
「そんなわけないでしょう、馬鹿なのではありませんか? お可哀想に、故郷が恋しくて頭の具合を悪くしましたか」
「……わかってた」
フランツは改めて落ち込みながら、居心地悪く夜着を整えた。
帝国の慣習では、夫になった男が妻の寝室へ出向かなければならない。
これから、式の失態を覆す評価を得られる自信がなかった。
この二十二年間、恋愛経験がないと言えば嘘になるが、どうも、会ったばかりの女の子と寝るのは気が引ける。嫌われていれば、尚更だ。
フランツは妻の部屋へと続く通路の扉に手をかけながら、曖昧に笑った。
「じゃあ、いってきます。戻ってきたら、慰めてくれると有り難いな」
「失敗を前提に話を進めても、ロクなことはありません。皇女殿下の機嫌を損ねたら、宮廷でのあなたの立場がないことをお忘れなく。ただでさえ家柄が釣り合わない結婚なのですから」
相変わらずの毒舌で見送られるが、確かにそうだ。フランツが帝都で上手くやっていくには、シャラの機嫌を取る必要があった。
夫婦の寝室は狭い通路によって繋がっている。燭台に照らされた薄暗い通路には、安産の女神や愛の化身の絵が飾られており、今のフランツには余計な重圧のように感じられた。このままでは、愛の天使が悪夢に出そうで怖い。
短い通路の終点が妻の部屋だ。フランツは教えられた通りに、ゆっくりと三度扉を叩いた。すると、向こう側から、「どうぞ」と声がかかる。
扉を開けると、目眩を覚えるほど甘い香りをまとった空気がフランツを包んだ。香を焚いているのだろう。あまり好みではない。
薄暗い部屋を見回すと、奥の寝台で膝を抱えて丸まっている少女の姿を見つけた。
「こんばんは」
とりあえず笑ってあいさつすると、シャラは唇を曲げたまま視線を逸らした。
昼間は美しい純白の花嫁衣装をまとっていたが、灰色がかった金髪は背中に流すように下ろされ、着ているのも簡素な夜着だ。化粧が落とされた顔はまだ垢抜けない少女のもので、青灰の瞳は憂鬱な色を浮かべている。
「今日は、本当に申し訳ありません。緊張してしまって。ああいう場では、いろいろ考えてしまっていけませんね」
まずは謝罪すると、シャラはムッとした表情で眉を寄せる。
「本当にいい迷惑。皇族の恥さらしです。これからは、気をつけて頂かなくては困ります」
思いのほか冷静な口調で窘められて、フランツは内心で息をついた。
どうやら、不機嫌は収まっていないようだ。が、結婚式のときのようにいきなり頭突きされることはなさそうだ。
「いつまで、そこに立っているつもりです?」
居場所なく部屋の隅に立っているフランツを睨んでシャラが声を上げた。
「そうですね……では、そちらへ行っても、よろしいですか?」
「いちいち許可を取る夫が何処にいますか」
「そういうものですか」
「……そういうものだと思いますけど!」
夫という単語を妙に強調して、シャラは寝台の上で姿勢を崩す。
挑むような視線で睨みつけられてフランツは辟易しながらも、ゆっくりと寝台へ歩み寄った。明らかに、これから床を共にする妻の顔ではない。今にも吠えられそうだ。
燭台の光に照らされて、灰がかった金髪が淡い銀の光を宿している。やや丸みを残した頬はほんのりと色づき、薔薇のような唇も愛らしく結ばれていた。
今でも美しい少女だと思うが、あと二、三年経てば、誰の目から見ても文句のつけどころがない美女になるだろう。
結婚式のときはベールに隠れてよく見えなかった花嫁の顔を間近で見て、フランツは少しばかり気恥ずかしくなってきた。
だが、結婚した以上は務めを果たさなくてはならない。柔らかな寝台に身を寄せながら、フランツは恐る恐る自分の妻になった少女に手を伸ばした。
淡雪のような肌に触れた瞬間、シャラが身を強張らせたのがわかる。フランツが戸惑って手を引っ込めると、シャラは彼を射抜くような視線で睨みつけてきた。
「どうしました。ひと思いに、サクッと済ませてしまいましょう」
「いえ……殿下は初めてでいらっしゃいますよね?」
「当たり前です。なんですか? わたくしが穢れていると? 処女である証明が必要ですか?」
「そうではありません」
シャラはますます語調を強くして威圧しようとする。
「少し落ち着きませんか。お互いについて話す時間があった方が……」
「そんなこと、どうだっていいではありませんか。これくらいの義務が果たせなくて、なにが皇族ですか!」
なんだか、自棄になっているような気がするのは勘違いだろうか。
シャラは押し迫るような勢いでフランツのそばに近寄ると、自分の夜着を少しだけ肌蹴させた。成熟しきっていない控え目な膨らみがわずかにのぞく。
けれども、程なくしてシャラの白い頬がみるみるうちに紅潮して、瞳が潤んで揺れはじめる。その表情からは羞恥と怒り、悲しみに、覚悟。複雑に絡み合う様々な感情が滲み出ていた。
明らかに無理をしているのが見て取れて、フランツは目をパチパチと見張る。
「早くしなさいよ! それとも、わたくしではダメだとでも?」
「……いや、そんなことはないです。殿下は充分、可愛らしい方だと私は思いますよ。それは保証します。とても綺麗です」
「だったら、もたもたせずに務めを果たしなさい!」
突如、強引に胸倉をつかまれて顔を引き寄せられる。
フランツは抗議を口にしようとしたが、それを阻むように、シャラが素早く唇を重ねてきた。
子供のような一瞬の口づけ。
顔を離すと、シャラの顔は怒りのためか、羞恥のためか。耳まで真っ赤に染まっていた。
自分からしておいて、こんな反応をされては、どうすればいいのか逆にわからなくなってしまう。むしろ、これ以上の行為をして、彼女の身が持つのだろうかと心配になってきた。
「早くしなさ――ひゃっ」
瞬間、フランツは衝動的に少女の細い身体を自分の方に抱き寄せた。腕の中で、シャラが短い悲鳴を上げる。
この人は強がって、こんなことをしているのだろう。そう思うと、どうしてもそうせずにはいられなかった。
繊細なガラス細工を扱うように、フランツはそっとシャラの身体を抱きしめた。
「やっと、その気になったんですか? じゃあ、早いところ――」
「あの……気合いを入れているところに申し訳ないのですが、提案があります」
抱き寄せた少女の肩が小刻みに震えている。
その姿は帝国の皇女殿下でも、結婚式を終えた花嫁のものでもない。
ただ怯えた少女にしか見えず、フランツは安心させようと出来るだけ優しい笑みを作って頭を撫でた。
そんな顔なんてしないでほしい――心からそう思った。
この淡い感情を愛と呼ぶにはまだ早いかもしれない。今目の前にいる少女に笑顔で在ってほしい。そのためなら、出来るだけ努力したいと願う気持ちに嘘はなかった。
最初は機嫌を取って仲良く出来ればそれでいいと思っていたが、今は確かに別の感情が芽生えはじめている。
彼女に明らかな興味が湧いた。
シャラが驚いたように眼を見開いて、まっすぐにフランツを見上げる。
「今日は添い寝くらいにしませんか? 少しずつ慣らした方が、気が楽だと思います。焦っても、いいことはありませんよ」
子供を宥めるように優しく言いながら、頬を撫でる。
シャラの身体から徐々に緊張が解けていくのがわかった。フランツは柔らかく唇を綻ばせながら、シャラの顔を真摯に覗きこんだ。
「は? 添い寝、ですって……?」
身体の緊張が解れていく反面、シャラの小さな唇はわなわなと大きな震えを増していた。潤んだ瞳からは、はっきりとした怒気まで感じ取れる。
あれ、なにか怒らせるようなこと言ったかな? 自分の言動を顧みようとしたときには、既に遅かった。
結婚式の頭突きとは比べ物にならない強烈な拳の一撃を顎にくらい、フランツは綺麗に後方へ身体を仰け反らせてしまう。
「な、なにするんでげふっ……ッ」
もう一発鳩尾にお見舞いされて、フランツは寝台から転げ落ちそうになった。シャラはフランツの胸倉を両手でつかむと、憤怒を露わにした声で叫んだ。
「この根性無し! あなたは花婿としてだけじゃなくて、男としても失格のようねッ!」
胸倉をつかまれたままグラグラと揺らされ、頭の中がかき回される気分だった。だんだん意識が遠くなり、目が回りはじめる。
「よりにもよって、こんな男と結婚しなきゃいけないなんて! 冗談じゃありませんッ。子供扱いする前に、ちょっとは男らしくしたらどうなのよッ! 根性無し! 甲斐性なし! ヘタレ! ダメ男! すぐ冬宮殿に送ってやるわ!」
やがて、シャラの怒声を聞きつけた寝室の見守り係が悲鳴を上げる。
更に、それを聞きつけたシャラの執事や、ラディスが部屋に乱入して、ようやく、荒れ狂う皇女殿下を取り押さえることが出来たのだった。