仮面に愛を
『仮面にキスを』の会長視点になります。
仮面にキスを、を先に読んだ方が断然分かりやすくなっているので一読をオススメしますが、単体で読んでも問題はないかと。
自サイトにも公開されています。
花京院織色という男が苦手だった。
「会長。判を」
差し出される書類は繊細な乱れ一つない字体で纏められ、彼のまめで神経質な性格をよく表していると思う。
書道を嗜んでいるのだと、噂で小耳に挟んだ。その努力の賜物だろう。――いや、ただの才能かもしれない。
「会長?」
「あ、いや、少し待て」
ぼんやりと眺める俺に、花京院の怪訝な声が降って落ちた。
彼の完全主義な意に沿うよう、楕円を画いた点線から一ミリもずれる事なく朱印を押し付けた。
花京院織色という男は『完璧』だ。人として完成されている。それはもう、人間味というものを感じさせない程に。
些細な風でもふわりと流される髪は艶やかな濡れ羽色で、しかし彼を何処か儚く見せる。触れたことのないそれに触れてみたいと思う事は、極自然な心理だろう。
涼やかな瞳を守る睫毛は、瞬きのたびにハッとする程の色気を醸し出し、その睫毛の下に隠れた魅惑的ブルーは、和風な印象を与える彼の唯一、アンバランスな部分だ。またそれが、ひと度合わされば此方からは逸らせられなくなるくらいに惹き付ける。
――熱のないブルーが欲に濡れた時、どんな色を見せるのか。そんな邪な気持ちが過ってしまう程に。
肌は抜けるような白さで、とても日の下にいる姿が想像できない。実際、体育などでそのような姿を見るたびに、今にも倒れてしまうのではないかと不安になってしまう。彼に似合うのは淡く涼やかな日陰だ。
スラリと長い手足は彼の線の細さを強調するようで、決して低くはない背を(それでも己とは頭一つ分違うが)か弱く見せる。ただでさえ触れただけで手折れてしまいそうな白菊を彷彿とさせる容姿だというのに、これではとても気が気でならない。
しかし、そんな見た目を裏切り武道の心得はそれなりにあるのだというのだから、全く、とんだ毒華だ。涼やかな色香に呑まれたが最後、根っこまで冷徹な視線と言葉に叩きのめされることだろう。
雄々しいとはとても言えないが女性的でもない。その絶妙なラインが何とも不安定な青年らの欲を擽るのだと思う。
また、頭脳にしてもそう。非常に優秀な能力の持ち主である。
彼に任せた仕事はいつだって期待以上の出来で返されるし、よく気も利く。ホッチキスの芯やクリップ、ファイルなどが切れた所を俺は見た事がない。この生徒会内でそこまで神経質に動くのはこの男くらいだろう。その他は適当に処理し適当に済ます阿呆ばかりだ。
品行方正。質実剛健。容姿端麗。まさに高嶺の花。
ああ、全くもってずるい男だ。
これだけ完成されて、これだけの実力を見せ付けて、それでいて本人はてんで涼しい顔をしている。自身がやり遂げてしまう事に何の疑問も持たない。絶対的な自信がある。
彼の頭の辞書の中に、果たして“失敗”という言葉があるのかどうか、一度調べてみたいものだ。
――そんな彼が、本当はひどくのんびりとした緩やかな性格であること。神経質と思える程に完璧に書類を仕上げていたのは、俺がそうでなければ許さないだろうという考えから。互いに互いを完璧主義なのだと思い込み、細心の注意払い合っていたことを知るのは、もう少し後の話だ。
「おっつかれっしたー! おっさき~」
「ああ、お疲れ。天文部の予算見直し表と園芸ボランティア委員会活動費の領収書データ打ち込み、明日の放課後までには仕上げて来いよ」
「んえー、まじかよお。今日はキョーイチくんとにゃんにゃんする予定だったのにい。ん? キョースケくんだったかな? キョーヘイくん?」
「……相変わらずですね。下半身馬鹿が」
軽薄に騒ぐ男へ向かって、ぽつりと冷ややかな声が落とされた。
「は、はなちゃん……」
発生源は勿論、パソコンに一心に向かっていた我らが冷徹な副会長様、花京院織色だ。
深味のあるブルーが絶対零度を湛えて青年を射抜いていた。
「や、ちゃんとやる、やるから!」
「ふん、精々背後から刺されないよう気を付ける事ですね」
「はなちゃぁぁぁん」
会計を務める、仕事は出来るものの少々おつむの弱い後輩が情けない声を上げて花京院に縋り付く。いつもの光景だ。呆れて声も出ない。
「バ会計がバカやってる間にぼくもできちゃーった!」
次に声を上げたのは同じく後輩の書記だった。
「議事録のまとめデータは京ちゃんに渡しとくねえ。クリオネ生体研究会とかいうわけわかんない団体の申請書類確認はまた明日しまぁーす!」
「ああ、お疲れ。ご苦労様です。確かに預かりました」
「ゆっくり休めよ」
「ちょっとォ! 俺と書記ちゃんのその対応の差はなにぃ!?」
「ぼくはバ会計とは違って優秀だから☆」
「ヒッデー!!」
バタバタと元気な後輩二人が生徒会室を後にしていく。
途端に、無音が室内を包んだ。
「……お前も帰っていいぞ。花京院。どうせ終わっているんだろう」
彼はいつもそうだ。誰よりも早くノルマを終えながら、必ず後輩を見送ってから活動をやめる。彼なりの先輩としての信条なのかもしれない。
「いえ、……手伝います」
さっと瞬時に厳選され、有無を言う間もなく未処理書類を取り上げられた。
「……っ」
――ああ、まただ。そうやって、奴は好意という刃で俺のプライドを傷付けていくのだ。
助かるのは事実だ。頭の回転が早い彼は、手当たり次第ではない。会長印、署名が必要な書類以外を選んで書き込んでいる。とことん無駄がない。
そんな要領の良さすらも、――癪だった。
自分の能力の低さを突き付けられているかのようだった。当たり前のように倍のスピードで処理していく彼の有能さに嫉妬した。
そして、そんな卑屈にしか捉えられない自身の器の小ささに、絶望した。
「会長?」
「……っいや、今日は、ここまでにしよう」
悔しい。きっと彼の中で、俺は認められていない。彼のブルーに、熱は灯らない。
生徒会活動を終え戸締まりをしてから、何となしに校内をぶらついた。
このまま寮に帰っても碌な事を考えない。ならば、誰もいない黄昏の空間を、楽しんでみよう。……ただ、それだけだったのだ。
「……?」
ふと、耳が拾った物音に足を止めた。
古典準備室。確かここは、古典教師の藤堂の担当管理室だった筈だ。
藤堂は非常にずぼらな性格をしていて、これまでにも鍵を閉め忘れていた事が多々あった。もしかしたら今回もそうなのかもしれない。馬鹿な生徒が潜り込んだか?
そう、室内を覗き込んだそこには。
「――誰だ、お前」
「――へ、」
窓から射し込む夕陽を眺めていたひとつの影。後ろ姿のみ見えたそれは、緋の陽にも負けない鮮やかな黒髪で。
「は、はろー。会長サマ」
振り返った顔には、――狐の能面。
……ふざけているのか。
「なんだお前は。何年何組だ。名乗れ」
うろうろと焦ったように周りを見渡す男に、警戒を込めながら近付いた。
制服を着用してはいるものの、学年別カラーになっているネクタイは外されている為身元が特定できない。生徒手帳でも出させれば済む話なのだろうが。
「おい、聞いているのか。名を名乗れと言っている」
「えっと、僕は……」
――聞き覚えのある声だった。同学年か? ……高すぎず低すぎず、聞き心地の好い声だ。
「オリ、です」
「……オリ?」
述べられた名に覚えはない。あだ名、か? ――自白する気はないということか。
「……そうか。わかった」
「――えっ」
狐の能面――オリが戸惑った声を上げた。追及されると思っていたのだろう。
無論、そのつもりだった。けれど。
――きっと、この時の俺はどうかしていたのだ。
疲れていたのかもしれない。皆が理想とする『生徒会長』を、そして、俺自身が望む『焔蓮哉』の姿を求めることに。
あるいは、この幻想的な紅の世界に、酔ってしまっていたのかもしれない。
“その行動”は、とても生徒会長の焔蓮哉が起こすとは思えないものだった。
「お前は、いつもここにいるのか?」
「えっ、……と、まあ、はい」
はっきりしない相手の物言いに、少し黙考して。
「――明日も、来る」
「…………は?」
返事も待たずに古典準備室を後にした。
どうしてだか、彼が室内や校内を荒らしたりする可能性が、微塵も浮かばなかった。
そして翌日。
「遅くなったな。――――オリ」
彼は、いた。相変わらず表情の見えない狐面をして。
「あ、はは、昨日ぶりー」
ヒラヒラと、緊張感の欠片もない声で手の平を掲げられた。自分で言うのもなんだが、天下の生徒会長相手に随分な態度である。
「ああ。……本当にいるんだな」
散らばる書類やら資料やらを除け、埃を落として(藤堂が持ち込んだのか、それ以前からあるのかは知らないが)ソファに腰掛けた。座り心地は中々だ。
「……えーと、何かあったの? 会長サマ」
「何かなければ、ここにいては駄目なのか?」
「えっ」
明らかに迷惑そうな声色のオリに、ほんの意地悪も込めて聞き返した。
「え、あ、え、そんなことは、……あー、じゃあ、はい」
……適当だな、おい。
しかし。
「……そうか」
一理ある、とも思う。理由なく居座られれば居心地も悪くなるだろう。
次から彼がここに現れなくなるのは、少し寂しい気もする。
(……なんて。まったく、俺は気でも狂ったのか)
らしくなさすぎて、自然と苦笑が洩れた。
人差し指で、微かに唇を撫でる。
ふむ、どうしようか。この俺を悩ませるだなんて、花京院くらいなものだ。ああ、らしくない。
(……そうだ、悩み)
「――では、お前に相談に乗ってもらう」
「…………ふぁい?」
思わず笑ってしまうくらいに、気の抜けた声だった。
「だから、お前にここで俺の相談に乗ってもらいたい。それなら話す理由になるだろう。――オリ。お前は今日から俺の相談役だ」
「……………………はい?」
――こうして、
偶々立ち寄って偶々見付けて偶々会話した古典準備室は、『生徒会長専用お悩み相談室』となった。
さて、そんなこんなで無理矢理こじつけるようにして与えた相談役だが、実際合切、相談という程のものもない。殆どただの世間話と化している。その内容は専ら、
「……――それで奴はこう言ったんだ。『そんな簡単な処理も期限内に出来ないなんて、小学生からやり直した方がいいんじゃないですか?』てな。その後はもう、大変だったさ。泣き付く会計をあやしたり、怯える書記を宥めたり。確かに期限を守れなかった会計が悪いが、それにしても、何故奴はあんなにもひねくれた言い方をするのだろうか。――花京院織色は」
「あ、はは、は。そッスね……」
天敵、好敵手ともいえる『花京院織色』のこと。
意識しているつもりはないのだが、自然と奴の話題へと移っているのだ。俺が隙あらばと観察しているからかも知れない。――粗探しともいうが。
「まあ、副会長に非はないんだし、しゃーなくない?」
ヘラヘラとした声に苦いものを含みながらオリが答えた。
「えっとさ、会長サマは副会長の事、嫌いなの?」
恐る恐る、といった様子のオリの問い掛けに、ドキリと心臓がなった。
「――いや、嫌ってなどいない」
「え、」
「むしろあいつの要領の良さには、感心を覚える」
嫌いなわけではないんだ。ただ――
「あいつは、何だって出来る。涼しい顔をして、どんな仕事も人一倍の成果を残して見せるんだ。俺は、そんなあいつの完璧さを高く評価している。――だからこそ、嫉妬してしまうんだ。あの何も映さない無機質なブルーに、『俺』という存在を刻み込みたい。認められたい」
悔しい。きっと、それだけ。
そんな、単純な話。
「すまない。俺があまりに情けない弱音や不満ばかりを語るから、誤解してしまったんだな。俺は、――花京院織色を嫌ってなどいない。むしろ、共に肩を並べられる信頼関係にありたいと思っている」
勿論、嫉妬はする。己にない冷静さ、秀逸さ、そういった全てに妬ましさを感じて憎らしくも思う。
けれど、それは俺が勝手に懐いている感情だ。隠し切れず態度に表れてしまう時もあるが、決して彼にぶつけて良いものではない。
純粋に、能力については評価しているのだ。……愛想や人付き合いなどに関してはまだまだ難有りだが。
「――、」
「オリ?」
「あ、や、えと、な、仲良かったんだ」
「いや、良くない。最悪だ。あいつは俺を見下している。俺の処理スピードが遅いから、俺の仕事にまで手を付けて、俺より先にそれをひょうひょうとした顔で終わらせるんだ。きっと内心、この程度も満足にこなせない男なのだと嘲笑っているのだろう。だからつい、俺も喧嘩腰になってしまうんだ。あいつが正しいのはわかっているんだがな」
これでも、無意識に当たってしまっている自覚はある。そんな未熟さも、悔しく思う。
俺も大概、器の小さな男だ。
「オリ?」
くっと握られた拳が微かに震えているのを見て、怪訝に眉を顰めた。
血管が浮かんでいる。力んでいる?
「あ、の、たぶん、その、……副会長も会長サマのこと、嫌ってないと、思うよ」
自信なさげに声がすぼんでいく。彼は、何を躊躇っているのだろう。
「だから、その……、――ちょっと、話してみたら?」
思わぬ提案だった。
確かに、そうだ。
彼を観察して、勝手に知ったつもりになっているが、俺がまともに関わろうとしない所為で実際の会話などは殆ど出来ていない。
一方的に知っていると、錯覚しているだけだ。
ただの慰めかも知れないが、オリの提案は、正しい気がした。
「……そう、だな。――明日、話し掛けてみる」
「――っ」
どこか驚いた様子のオリに、感謝も込めてそっと微笑んだ。
自分から意見しておいて通るとは思わなかったのか。本当に変な奴だな。
そして翌日。
「…………」
「…………」
――タイミングが掴めない。
柄にもなく緊張しているようで、朝から授業が身に入らなかった。今もそうだ。事務的に書類を処理してはいるが、内容など殆ど読んでいない。
その点、花京院は変わらずだ。俺のことなどそもそも眼中にないのだから当たり前だが、しかしどうにも悔しい。少しは奴の慌てる姿なんかも見てみたいものだ。
クシャリ。花京院の席から紙がシワ寄せる音がした。能面のような表情は相変わらずだが何やら苛ついている様子だ。
まったく、同じ能面でもオリの方がよっぽど豊かだ。奴の表情は動かぬ人形以上に読めない。
何か彼を不快にさせる出来事があったのか。あの花京院を苛つかせるなど、余程の命知らずと見た。
重々しい空気の中、『音』に後輩二人の肩がうさぎのように跳ねた。
「は、はなちゃん? えっと、機嫌悪い? 昨日のこと、まだ怒ってる?」
ビクビクとでかい図体を縮み込ませて果敢にも花京院へ声を掛ける会計。
ああ、なるほど。命知らずの馬鹿ならここにもいたな。
「もう怒ってなどいませんよ。それとも、貴方には私がいつまでも根に持つような人間に見えているのでしょうか」
「ひいッ! 滅相もゴザイマセン!!」
会計が妙な奇声を上げながらビックンと大袈裟に跳ねて飛び退いた。
おお、花京院の背後に阿修羅が見えたぞ。
「うええ、京ちゃんが怖いよう」
涙目で訴えるのは小柄で愛らしい書記。……まあ、愛らしいのは見た目だけだが。
「……カイチョー?」
「かいちょお?」
意を決して立ち上がった。
これは、……そう、そうだ。その不機嫌な態度で後輩達の意欲をこれ以上削がれない為の処置だ。仕方がないのだ。
……それに、俺個人のプライドがどれだけ傷付けられようが助かっているのは事実なのだから。
「……会長?」
「花京院」
花京院の耳に心地好い高すぎず低すぎない絶妙な声色が落とされる。
「――代われ」
「……はい?」
「だから、代われ」
ぶっきらぼうに言い捨てた。奴へと顔が向けられない。あの無機質なブルーがどんな色をしているのか、見るのが怖い。
「えっと、」
「今日はもう帰っていい。後は俺がする」
言うが否や、書き掛けだった書類を強引に取り上げた。
花京院は、呆然としていた。――あ、この顔は、幼いかもしれない。
「なにそれズルーイ! だったらオレのもやってよカイチョー!」
「煩せえ、黙れバ会計」
「アタッ!」
パコーンと、明るい茶の髪を丸めた書類で軽く叩き、花京院に声を掛けられる前に自身の席へと戻った。
別に、気遣ったとかそんなのじゃない。機嫌のよろしくない彼にこの場に居られ続けたら、 後輩二人が仕事に手が付かなくなるからだ。
それに、……そう、これは日頃の仕返しだ。少しは悔しがればいいのだ。
「……会長」
「あ?」
「――ありがとうございます」
ハッと、息を呑んだ。一瞬振り返ったその美貌は、雪が溶け花が慎ましやかに蕾を開くような、そんな、清純な美しさで微笑みを浮かべていた。
「いや、こちらこそ、……いつも助かっている。ありがとう」
視線を逸らしたまま、漸く売り言葉以外の言葉を紡いだ。
……礼を、言えた。
書類を見る為下げた首の下、密かに笑みをこぼす。
――ああ、やっと、
(……少し、近付けた、気がする)
((女王様と俺様がデレたッ!?))
その日、とある生徒会室内では、ふわふわと満足気に花を飛ばす二人と訳も分からず戦慄する二人に、空気が分かれたそうな。
「――というわけで、遅くなった」
「それはイイコトしたねえ。会長サマ」
現在、生徒会活動を終了した放課後。例の古典準備室で今日も俺達は落ち合っていた。
話題は勿論、『花京院織色』についてだ。
「まあ、あいつにとっては余計な世話だったかも知れないが」
「そんなことないよ。絶対喜んでるって! なんたってあの会長サマが気を遣ってくれたんだから」
パタパタと、仮面があろうともわかる、声色に喜を持たせたオリがはしゃぐ。
やはり同じ能面でもこちらの方が余程わかりやすい。
「そ、そうか……」
じわじわとむず痒いような、気恥ずかしいような、なんとも言えない感覚が沸き上がった。
本心はわからないけれど、――彼は、喜んでくれただろうか。
「……あいつ、」
「えっ!? あ、はいっ! うん!」
何か考え事でもしていたのか。オリの肩が大袈裟に跳ねた。
本当に、見ていて飽きない奴だ。
「あいつ、――笑ったんだ」
「え?」
「俺に向かって、『ありがとう』て。凄く綺麗に」
柔らかな、笑みだった。人間らしい、表情だった。
失礼な話、花京院には人としての感情が一部欠落しているのではないかと思っていた。――良くも悪くも、美しすぎるから。
だから、安心した。ああ、彼も、“生きているのだ”と――
「あんな顔、出来るんだな。――また、見たい」
花の綻ぶ瞬間のような、まさに優美で感動を誘うそれに、身勝手な欲が溢れ出てくる。
微笑みではなく、屈託なく笑ったらどうなるのだろう。どんな泣き顔をするのだろう。気を抜いた時はどんな表情を、
愛しいものを見るとき、その目は、どんな色を見せるのだろう――
つらつらとくだらない事を考えていると、ふと違和感に気付いた。
オリの手の甲が異常に赤い気がする。よくよく思い返して見れば、彼は先程から手を庇っていたような節がある。怪我をしているのか?
「おい。お前、手、」
「……会長も」
「オリ?」
「――会長も、笑ってよ」
それは、あまりに小さな懇願。
緊張からだろうか。声が掠れていた。注目していた手は硬く握られ、どちらとも言えない唾の飲み込む音がはっきりと聞き取れた。
「……オリ? どうした?」
「えっ、あ、いや、ご、ごめん! やっぱなし! 今のなし!」
パタパタと手を振ってから、次にそれを自身へ風を送るように扇がせているオリ。仮面越しだと風など受けられないのではないだろうか。
分かりやすい動揺の姿に、なんとも言えない庇護欲が涌き出た。
やんわりと忙しない手を掴む。
……そうだな。感謝とは、とても大切なものだ。今回のことで改めて実感した。
だから、忘れてはならないな。しっかりと、言葉にしなければ。
――“彼”への、感謝の気持ちを。
「か、会長?」
「……オリ」
彼の視界を開く穴はあまりに小さすぎて、此方からはその奥は見えない。けれども、そこに、オリがいることを信じて。
「――いつも、ありがとう。感謝している」
雰囲気から伝わるオリの呆然とした様子に、
その時俺は初めて、『他人』へ屈託のない笑顔を溢した。
以来、オリ提案の元『副会長と親交を深めよう作戦』は次々と実行される事となったのだが、これがまたどうにもこうにも失敗する。
素直に。思った事を言葉に。と努めているつもりなのだが、羞恥が先走って喉元で詰まらせてしまうのだ。
『大丈夫か?』『代わろうか?』『疲れていないか?』
掛けたい言葉はいくらでも浮かび上がるのに、舌の上で転がるだけで声帯が拾おうとしない。
これは、書記がたまに自身へ告白してきた生徒への不満としてこぼしている、『ヘタレ』というやつなのだろうか。……情けない。
「かいちょお? なーんか悩みごとお?」
「あ? ああ、書記か。急になんだ」
「こーんな顔してずーっと機嫌悪そうにしてるからあー」
寮を出てすぐ。 処理未遂だった書類を取りに行こうと生徒会室へ向かう途中、世話のかかる後輩二人のうちの一人、生徒会書記と出会した。
こんな朝早くに役員仲間と顔を合わせるのは初めてだ。生徒会活動は放課後が基本なのだから。
こーんな、と口にしながら目一杯眉間に皺を寄せる天使のような童顔に、胡乱な目でじろりと見下げた。なるほど。馬鹿にしていやがる。
「んな人相悪い顔してねぇよ」
「してたよお! かいちょおのファンも真っ青になって逃げちゃうくらいこわぁい顔してたー」
「…………そんなにか?」
「そんなに☆」
ケラケラと笑いながら外見天使、中身悪魔の後輩が後を付いてくる。こいつも生徒会室に用があるのか。
どうでもいいが、その完全に平仮名発音な『かいちょお』呼びはなんとかならないものか。
「……かいちょおさあ、最近京ちゃんと仲良いよねえ」
「あれが仲良く見えるのなら、お前の目は節穴だな」
「ええ~。前よりは会話できてるじゃーん。かいちょおがんばってるんだなあーて、ぼく微笑ましく見守ってるんだよ☆」
「後輩が生意気言ってんじゃねえ」
「あいたっ!」
きゅるんっとウインクを飛ばしてくる小生意気な書記に、容赦なく拳骨を落とした。
「わーんっ! パワハラだー! かいちょおサイテー! 京ちゃんはもっと優しいのにいー!」
「あ? 花京院が? なに夢見てんだ」
「えー? 京ちゃんは優しいよー?」
「だからなに夢見、 」
「――会長、気付いてないの?」
それは、普段の甘さや誤魔化しを全てなくした声で。
「京ちゃんは優しいよ。きっと、生徒会の誰よりも優しくて繊細な人だよ。本当は会長だってわかってる筈だよ。ぼく達よりも、一年も多く一緒にいるんだから」
書記の大きなうさぎのような瞳が問い掛けている。――否、責めている。“何故、お前が知らないのだ”。と。
(……そういえば)
「……お前ら、あんだけ花京院に叱られてても、花京院のこと嫌わないよな」
それどころか、二人して絶大な信頼を置いているのがわかる。有り体にいえば、なついている。……きっと、同じ先輩である俺よりも。
それも、俺と花京院の能力の差から……?
(――本当に?)
「そりゃそうだよお。ぼくたち、京ちゃんだぁーい好きだもん☆」
ふわふわと書記の甘い蜂蜜色の髪が揺れた。
「ね。かいちょお。ちゃんと、見なきゃだめだよ? 偏見なんてないって思ってても、結局色眼鏡って本人の気付かないうちに掛けちゃってるものだから。真っ白な状態で見なきゃ」
くるくる。小悪魔な天使が笑う。
「でもまあ、一生懸命京ちゃんを知ろうとしてるかいちょおの健気さに免じてひとつだけヒントをあげる! ――この後、裏庭の畑園、行ってみるといいよ。面白いものが見られるから」
裏庭。生徒の介入など殆んどないそこに何があるというのか。畑なんて特に、数年前に侵入した悪戯な生徒によって壊され、そのまま放置されているというのに。
「ここまで言ってもわかんないなら、……かいちょおのその目、節穴かもねん☆」
「……生意気だ」
「あうっ」
書類を纏め、生徒会室を出る前に無人の室内を眺めた。
書記の姿はない。気紛れ気儘な彼は、カタカタとメモリーカード内にデータを拾うと、良い笑顔と「がんばるんばっ☆」という謎のエールだけ残して先に教室へと向かってしまった。相変わらず自由な奴だ。
(……ああ、そういえば会計の奴、ちゃんと書類仕上げてんのか?)
書記よりも自由奔放な茶髪の馬鹿を思い出して、会計専用デスクの上を確認した。
まったく、これで資料すらなかったらまた花京院の雷が落ちて……
(……ん?)
書類の一枚一枚に、日付と簡易な説明の書かれた付箋が貼り付けられているのを発見した。花京院の字だ。
さすが、神経質な彼らしい。他人の書類にまで自分が見易いようこんな細工を、……いや、待て。あの花京院にこんな物は必要ないだろう。彼はしっかりとファイリングしメモを残す上、あの頭脳の事だ。付箋なんてしなくても内容はほぼ全て記憶している筈。これはむしろ、
(……会計の、為?)
慌てて書記の机の上も覗いてみた。
「あった……!」
付箋。花京院の文字。そこには、細かな指示と提出期限、それからデータファイルの指定サイズの出し方などが書かれていた。
……確か、前に書記はファイルデータが思うように縮小できなくて悩んでいた筈。
(……全部、あいつらの為)
神経質? 何を言っているんだ俺は。――これは、”気遣い“じゃないか!
何とも言えない気持ちになる。彼等が花京院になつく気持ちが、少しだけわかった。
(……そうだ。裏庭)
チラリと時間を確認する。朝礼までまだ時間はある。
迷いはなかった。
誰かの、声がした。この裏庭は基本許可なしでは一般生徒は入れないようになっている。教師だろうか。
不信感のままに覗いた先、そこには。
(花、京院……?)
鮮やかな癖のない黒髪。真っ直ぐ直線を描くように立つ姿勢。スラリとした細身な体形。一瞬伺えた横顔は、確かに有能で冷静沈着な副会長様そのもの。
しかし。しかしだ。姿は間違いなくそれであるのに、思わず疑って掛かってしまったのには訳があった。
「ふーふふんふふーん、ふふんふーん」
「…………」
花京院は鼻唄を歌っていた。あの、花京院が。
それも、これは子供から老人まで幅広く知られている国民的アニメ、トラえもんの主題歌ではなかっただろうか。
花京院、アニメとか見るのか。あの、花京院が、アニメを。……あの、花京院が。
あまりの衝撃に、声を掛けることも忘れて機嫌良さげな後ろ姿を凝視した。
「んっふふん、んっふふん、ふふふふふーん」
……非常に楽しそうである。
ちなみに何故俺がトラえもんを知っているのかというと、年の離れた妹が好きだからだ。決して俺がアニメオタクなわけではない。
その後も、“俺の知らない”花京院らしき人物(いや、花京院で間違いないのだが、どうしても信じられない)は心底楽しそうに不可解な行動へと続いた。
(はっ!?)
鼻唄と共に、彼が慣れた手付きでベンチに置かれていた籠から取り出したのは、シャベル。そしてそのまま、真新しい物のように見える土へそれを突き刺したではないか。
足元には苗のような物が。ザクッザクッ。適度に土を分けて苗を埋めていく。
待て。待て待て待て。これはなんだ。この光景はなんなのだ。本当にあれは花京院か?
俺の知る花京院は、土なんて触ればその場で直ぐ様菌消毒をするような、
(……いや、本人からそう聞いた訳ではない。これは、俺の偏見だ)
――『ちゃんと、見なきゃだめだよ? 偏見なんてないって思ってても、結局色眼鏡って本人の気付かないうちに掛けちゃってるものだから。』
書記の、甘ったるくも耳に痛い言葉が甦った。
「よーし、綺麗に咲けよー。そんでもって美味しくなれ!」
花京院の朗らかな声援に、思わず「ちょっと待て」と声を上げかけた。
まさか野菜を植えたのか!? 畑とは名ばかりで、そこは元々花壇の役割を果たしていたというのに!?
いや、待て。落ち着け。注目すべきはそこじゃない。花京院の敬語でない言葉が新鮮すぎて色々と思考が乱離している。
花京院から感じられる雰囲気は、普段とは真逆な、隙の有る、……はっきりと言ってしまえば、少々頭の足りていない間抜けそうなものだ。
ピンと張った糸のような彼が。とても信じられない。まるでオリのような軽やかさ。
書記が言っていたのは、“これ”なのか?
「あ、時間だ」
シャベルを戻して校舎へと――俺の隠れる扉へと向かってくる花京院に、慌てて廊下の先へと逃げた。
いや、わざわざ逃げる必要はないのだが、今、彼と顔を合わせる勇気は流石にない。確実に宇宙人でも見たかのような奇妙な表情をしてしまうだろう。
そうして、彼から死角になっている曲がり角から様子を覗き見ながら小さく息を吐いた。
なんというか、濃い、時間だった。
去り行く彼の背は完璧な『花京院』に戻っていて、狐にでもつままれたかのような気持ちになった。
(……放課後の活動で、聞いてみるか)
裏庭で何をしていたのか。土弄りが好きなのか。
偏見じゃない。俺の知らない花京院のことを、もっと知りたい。
――と、思っていた矢先。
「避けられた」
「あー……、うん」
生徒会活動後の放課後。夕陽を背に座るオリに、陰鬱とした声で告げた。
相談内容は、『花京院副会長に避けられている気がする』
……何だろうか、この虚無感は。
花京院、と呼び掛けても「今忙しいので後でお願いします」と驚異のタイピングスピードでキーボードを打ち込みながら雑に返答をされ、目が合えば嫌なものでも見たかのように瞬時にそらされ、書類を渡そうと近付けば身を固くされた。――思いっきり警戒されている。何故だ。
「俺は何かしてしまったのだろうか。それは、失敗も多いが、最近はそれなりに話せるようになったと思っていたんだがな」
落ち込む気持ちを隠すことなく声色に表して呟く。
駄目だ。想像以上にダメージを食らっている。
「や、えと、まあ、うん。……気ニシナクテイイト思ウヨ」
どこか呆れたようなオリの声。
「オリ?」
「あっ、えっと、ほんとに気にしないでいいと思うよ。きっと副会長には副会長の考えがあるんだろうし、たまたまタイミングが悪かっただけじゃない?」
「…………」
「それにさ、副会長って、そんな意味もなく人を嫌うような人じゃないじゃん? そりゃ、会計さんとか書記さんに辛辣なこと言ったりする事もあるけどさ、でもあれは愛情の裏返しというか、バカなペットの躾……」
「――やけに、庇うんだな」
「へっ?」
早口に花京院の擁護をするオリに、チリリと何かが燻った。
「えっと、」
「そんなに花京院が好きか? 知り合いなのか? 思えば、お前は最初からやたらあいつに詳しかったな」
「えっ、あの、会長?」
「俺は何も知らないのに、お前は知ってるんだな。一緒に仕事をしていてもどこか一線を引かれている俺よりも、ずっとずっと近い距離にいるんだな」
淡々と嫌味な言葉が口を付く。待て。落ち着け。こんなことを言いたい訳じゃないんだ。
スウ、と頭の中は冷静なのに、口だけが、俺の意思を無視してオリを攻撃する。
違う。そうじゃない。そうじゃないだろう。オリは何も悪くない。こんなもの、ただの八つ当たりだ。
どうして。止まらない。不快感。
オリが俺よりも花京院について詳しいことが気に食わない。いや、――オリが花京院を庇うことが、気に食わない――?
「か、いちょう、は、……会長は、――副会長が、好きなの?」
ストンッと。何かが、落ちた。足りない何かに、嵌まった。
……ああ、そうか。
そうか、俺は――――
「――ああ、好きだよ。俺は、花京院織色が、恋愛の意味で、……好きだ」
花京院が、好きなのか。
翌日の放課後。生徒会室を開いた先、そこに奇妙な光景が広がっていた。
「は、はなちゃん? ほんとに大丈……あ、」
「花京院、どうした」
ひどく痛そうな顔をして頭を押さえている花京院に、柔く肩を叩いた。
生徒会室内では特に冷静で、表情など滅多に動かさない花京院が、悩むように机に肘を着き、それをオロオロと会計が側で見ていたのだ。
あの花京院がこんなにも顔色に出すなど、尋常じゃない。相当体調が悪いのだろう。頭痛でも酷いのか?
「か、いちょう……」
「大丈夫か?」
熱はないかと前髪を掻き上げ、額を晒した。
ふむ、体温は平常だな。
「……っだ、い丈夫ですから」
やんわりと手を跳ね退けられる。
ああ、プライドの高い彼には、こんな風に人に心配されることは癪だったのかも知れない。失敗した。
いやでも、好意を持っている相手が気分を悪そうにしていて、心配しない人間はいないだろう? 仕方ない。当然の心理だ。
しかし、邪険に扱われたことに違いはない。三者の間を気まずい空気が流れていく。
「ごっめんなさ~い! ちょっと遅れちゃいましたあ! って、あれあれ? なあにー? この空気」
バーンッと勢いよく扉が開き、小さな蜂蜜色の頭がコテンッと横に倒れた。天真爛漫な書記殿の登場だ。
相変わらず空気の読めない奴だ。しかし今回ばかりは助かった。
「いや、なんでもない。ほら、さっさと仕事に入るぞ」
一瞬、花京院の頬に触れてから、何ともない顔で会長と彫り込まれた席札付きの専用机へと向かった。
我ながらわかりやすい行動だとは思う。しかし何故だろうか。昨日見た無邪気な花京院が思い浮かんで、むすっとした不機嫌そうな彼ですらどことなく可愛く見えてくるのだ。成程、恋は盲目とはこのことか。
ツイ、といつもならば探るように寄越していた視線を花京院へと送る。
取り敢えず、これ以上体調が悪化するようならば無理矢理にでも保健室へ放り込もう。どうせ自分からは行きやしないのだ。俺が、注意して見ておかなければ。
「……ふーん」
書記が悪戯を思い付いた子供のように嫌な笑みを浮かべた。……悪魔の笑みだ。あの腹黒め。
「かいちょおも成長したねえ。ふふふ、がーんば☆」
猛烈に殴りたくなった。
カタカタとキーボードを叩く音と書類を捲る紙の擦れる音だけが聞こえる。時刻は十八時だ。
一般生徒の最終下校時間は十九時となっているが、俺達生徒会は仕事量の多さから、校則上、二十二時までの在校が許されていた。全寮制ならではの特権だろう。
とはいっても、その日に終わらない仕事は寮へ持ち帰ってから処理することが多いので、特権を使用する機会は無いに等しいのだが。
流石にもうオリも帰ってしまっただろうか。
(そういえば、あいつ、なんでいつもあんな時間まで古典準備室にいるんだ)
生徒会活動後の密会なのだから、それなりに時間も遅いし不定期だ。まさか、俺を待っている、なんてことはないだろう。
本来ならば、発見したその日、詰問しなければならなかった内容だ。本当に、何故こんな妙な関係になってまで彼を繋ぎ止めようとしているのか。
(……今度、聞いてみるか)
ふと、中心の平机に三つのマグカップが置かれていることに気付いた。
白ベースに縁だけ黒いそれは俺のマグカップだ。中身はコーヒー。オレンジ色の飲み口へ向けて広くなっていくカップは会計の物。ミルクティーが入っている。微睡む猫のプリントがされ持ち手が尻尾になっているそれは書記の物で、中身は意外なことに日本茶。しかし、書記の好みであると知っている。――否、一人一人、好物の飲み物である。
花京院の机には綺麗な透明のカップがあり、ストレートの紅茶が淹れられていた。
そういえば、これまでもいつの間にか飲み物が置かれていたことが多々あったな。
今まで何も疑問に思っていなかったそれに、今さら違和感を持った。
書記と会計がマグカップに気付いた様子はない。今も真剣な表情で仕事に打ち込んでいる。
となれば、必然的に用意した人物は残り一人に特定できる。
けれど。まさか、彼が。
わざわざ一人一人の好みを把握して、それを押し付けるでもなくただそこに置いて。個人の好きな時に休憩ができるように。
(今までのも、彼が――?)
急に血が勢いよく巡った気がした。
他人など、興味ないと思っていた。冷たい表情の下、彼の関心を向ける先は完璧な処理能力だけなのだと。その他の人間なんて、足手纏いな存在でしかないのだと。
それがどうだ。後輩達へ向けて、甘やかすことなく、しかし自身の時間を削ってまで的確なアドバイスを残し、誰も目を向けない場所にまで心を砕き、こうして、押し付けではない気遣いを息をするように行う。
ああ。なんだ。彼は。
ぐずりと、何かが腹へ重くのし掛かった。苦しい。けれど、それ以上に、――愛しい。
(彼は、こんなにも、優しい人だったのか――)
そっと息を吐いた。
少しずつ、少しずつ、俺の知る花京院が崩れていく。 そして、また、俺の『知る』花京院が増える。
「少し、休憩しようか」
緊張が切れたように四つの目が俺へと向けられた。ただひとつ、寄越されないブルーを求めて、名を呼んだ。
「花京院も」
「え、」
「ありがとう。折角だ。一緒に休憩しよう」
呆然とした様子の花京院に、苦い笑みが浮かんだ。
確かに、今まで俺がこんなことで花京院に呼び掛けるなんて、なかったよな。
「い、いえ、まだノルマが終わっていませんので」
「でも、疲れているだろう? お前の体調も心配だ」
「は、」
化け物でも見たかのような表情で凝視する花京院に、俺が見ていなかった――見る気がなかっただけで、意外と表情豊かなのかもしれない、と新たな発見に苦くも胸を高鳴らせた。
「なんなら俺が代わろう。お前は優秀だが、根詰めるな」
キーボードから指の離れない花京院の肩を叩く。
花京院だって、人間なのだ。優しい、俺と同い年の、子供だ。
これまで頑張ってくれていた分、少しくらい贔屓目に見てもいいだろう?
「……うわーお。カイチョー、フルスロットルじゃん」
「わっかりやすいよねえ」
後輩二人がよくわからないぼやきを洩らした。
取り敢えず、何となくムカついたのではたいておいた。
「「パワハラ反対!!」」
「以前にも増して避けられた」
「……うん、知ってる」
生徒会活動後の放課後。十八時半を回ってしまい、さすがにもういないだろうと諦め半分に覗いた先、なんと彼は今日も狐面を付けてそこにいた。
「機嫌が悪いのか? オリ」
本来のものよりも少し低い声色に、彼の機嫌がよろしくない事を悟る。
「会長サマはさ、副会長のどこが好きなの? 前は、信頼を得たい、とかそんなんだったじゃん。どうして、恋に変わったの?」
打って変わって寂しげな声が響き、彼の仮面を奪い上げたくなった。
今、彼はどんな表情をしているのだろう。
「――お前のお陰で、あいつをよく見るようになった」
ゆっくりと、噛み締めるように語った。
「それで、気付いたんだ。あいつが、――とても優しい人間である事に。ただ、不器用なだけだった。俺は、仲良くなりたいなんて言っておきながら、表面しか見ていなかったんだ。……そんな、罪悪感もあったのかもしれない。目が離せなくなった。自然と追っていた。疲れた時には何も言わずとも全員分の飲み物を用意してくれていたり、それも、一人一人好みを把握して、礼の言葉なんて全く期待しないで、当たり前のように動いて。自身の能力の高さを鼻に掛ける事もない。誰も見ていなくとも、賛美の声がなくとも、あいつは自然に人を気遣えた。生徒会室がいつも綺麗だったのも、誰かが壊した裏庭の畑が美しく変わっていたのも、人知れず手を掛けていた花京院のお陰だった」
そして、そこに、本当の『花京院』がいた。
「あいつにとっては、全て『当たり前』の事だったんだろうな。それが俺には、澄ましているように見えたんだ。――最低だと、思ったよ。俺は、花京院に対して、なんて失礼な真似をしていたのだろう、と。……けれど、きっと奴は怒らない。俺が彼に対して、こんな感情を抱いていたと知っても、きっと、呆れた顔をして、『本当に馬鹿な人ですね。貴方は』なんて言って。それで小さく、笑ってくれる。――俺は、きっとその笑顔が、何よりも好きなんだ」
ありがとうと笑った。優しい笑みだった。
綺麗に咲けと笑った。無邪気な笑みだった。
花京院は、こんなにも人間らしい。
「……そっか。ははっ、こりゃ、副会長サマはとんだ幸せ者だね。こんな完璧超人に好かれてんだもん。……羨ましいなあ」
「オリ、」
「大丈夫だよ。たぶん、両想いだから。なんなら明日にでも告白してみなよ。それを受けてくれるかどうかはわかんないけど、副会長がアンタの事を好きなのは、確実だからさ。だから、――もう、相談室は、必要ないね」
急くように告げられた言葉に、ハッと目を見開いた。
「オリ!」
「もう僕、明日からここに来ないから。アンタなら、大丈夫だよ。――さようなら、会長サマ」
「オリっ!!」
避けられた腕。
何故。どうして。頭の中で幾つも幾つも激情が湧き上がる。今すぐにでも、言葉の意味を問いたい。問い詰めたい、のに。
俺は、廊下の先へと消えるその背を、――追えなかった。
「……あのさあ~、まぁたケンカしたのおー? お二人サン」
「違う」「違います」
「「…………」」
間髪入れない返答に、後輩組二人は微妙な顔をして見合わせた。うち、一人は苦笑いで、もう一人は涙目だ。
昨日から、頭が混乱して上手く回らない。授業も上の空だった。今もそうだ。花京院ともっと話したいと思うのに、そちらまで気を回せない。顔も見たことのないオリの後ろ姿ばかりが脳裏に貼り付いて離れない。
「おーい」
「…………」
「おーい、かあーいちょー」
「…………」
「かいちょお? 聞いてるうー? かーいーちょおー? ……チッ、おい起きろよ俺様装ったヘタレ」
聞いたことのないドスの聞いた声が吹き込まれ、反射的に顔を上げた。
だ、誰だ!? 今の声は!
「んもー、いつまでぼーっとしてんのお? もう活動時間終わっちゃったよおー?」
「……書記?」
「なぁに?」
ぷくっと頬を膨らませ幼げに不満を溢す愛らしい童顔。
今のは、こいつなのか。やっぱりこいつ悪魔なんじゃないだろうか。
「それより! 活動時間終わったって! バ会計も京ちゃんも帰っちゃったよお」
ふと時計を見れば短針は十七時を過ぎていた。皆、早いうちに切り上げたらしい。
俺も適当に処理を済ませ書記と別れると、戸締りをしてから正面口へと向かった。
「あれ、カイチョーじゃーん」
「なんだ先に帰ったんじゃなかったのか」
振り返ったのは、相変わらず締まりのない顔をしている明るい茶髪。会計だ。
「んー、ちょっとはなちゃんとお話しようと思って」
ジクリと不快感が湧き上がった。そういえば、こいつも花京院によくなついている。……落ち着け。嫉妬は醜いぞ。
「カイチョーはこのまま帰んの?」
「あ? ああ」
「――校舎、行かないの?」
思わず、足を停めた。
「最近、通いづめだったじゃん」
「そ、れは」
「別にカイチョーが何処で何しようが誰に会おうがオレはどーでもいいけどさあ、ちゃんと色々整理してからはなちゃんに話し掛けたら~?」
緩慢に俺へ視線を流しながら、人工的な緑の瞳が挑発的に三日月を画く。
「でないと、織色先輩はオレが貰うよ?」
―― 一瞬。返答を躊躇ってしまった。
精悍な顔付き。笑みを消した彼は、こんなにも真っ直ぐな目をしていたのか。
「わー、こわいこわい。そんな睨まないでよー。怖くてボクチャン泣いちゃうー」
「ッ会計!!」
ヘラヘラと茶化す会計に唸るように怒声を掛けた。
「はーいはい。これ以上よけーなことはいいませーん。じゃねん。おつかれカイチョー」
気は済んだとばかりに俺へ背を向ける会計に、停めた足が動かない。帰る方向は一緒だというのに、奴の背を、追えない。
(――っクソ!)
――目指すは、古典準備室。
結論からして、やはりオリはいなかった。けれど、その結果に、どこか納得していた。
なんとなく、なんとなくだけれど、彼は、一度己から放った言葉を曲げない。そんな頑固な所があるのだと思う。彼のことなど、そう多くは知らないけれど。
「……オリ」
無の空間に、ひたすら部屋主ではないのに圧倒的存在感を放っていた彼の名を溢す。
「オリ、いないのか」
いる訳がない。彼にとっては、俺などその程度の存在だったのだから。
「オリ……」
埃っぽい室内を見渡して。洩れる声は、母を捜す迷い子のように情けない。
――刹那。
「……?」
タタッと何かが駆けていく音がした。まだ校舎内に誰かが残っていたのか。
一般生徒は十九時が最終下校時間ではあるものの、無意味に残ることは好まれていない。注意、しなければ。
ただ会長としての意識だけが俺を動かしていた。そして、目が捉えたその背は。
(……花京、院……?)
確かに、後ろ姿は花京院のものだ。裏庭で見た、彼だけれど俺の知る彼ではない、奇妙な姿。
頭ではわかっているのに、スルリと溢れた名は別のものだった。
「――オリ?」
「かーいちょっ! ね、ちょっとお話しよお?」
「……書記」
放課後に無人の古典準備室で溜め息を吐くようになってから一週間以上が経った。その間、花京院との空気は気まずくなるばかり。
会話をしようとは思うし、彼を気に掛けたい気持ちはある。純粋に花京院に関わりたい。しかし、花京院を見るたび「もう来ない」と告げたオリの後ろ姿が浮かんで、言葉がつまってしまうのだ。
花京院とオリは違うというのに。彼等は、別の人間だというのに。
(――本当に?)
「かいちょおも京ちゃんも、最近ずーっと悩んでるねえ」
書記と共に、綺麗に土の耕された畑を眺める。
「……これ、花京院が整えていたんだな」
「そおだよお」
「飲み物も、花京院が淹れてくれていたんだな」
「そうそう、いっつもタイミング良いよねえ」
「花京院は、優しいんだな」
「うん、京ちゃんは優しいよお」
「……こんなにも、優しかったんだな」
「……うん、優しいよ」
サア、と木々が揺れて、昼休みを楽しむ生徒達の喧騒が遠退いた。
「会長は、京ちゃんが好きなんだね」
「……ああ」
「優しくって、本当はちょっと抜けてて、かわいくって、とっても頑張り屋さんな京ちゃんが、大好きなんだね」
「ああ」
「でも、仕事に厳しい、責任感の強い京ちゃんも、好きなんだね」
「ああ、好きだよ」
クスクスと、心底嬉しそうに、生意気だけれど心の機微には人一倍敏感な後輩が笑う。
「やーっと気付いてくれて嬉しいなあ。かわいい京ちゃんの姿にも、自分の気持ちにも」
そっと瞳を閉じる。浮かぶのは、「コミュニケーションを取れ」とアドバイスをくれた狐面。
「――花京院のことを、教えてくれた奴がいるんだ」
「へーえ」
「変な奴だった。面を付けて、表情なんて見えないのに、感情のわかりやすい奴だった。あいつに言われたアドバイスは、不思議と試してみようと思えた」
「うん」
「あいつのおかげで、花京院に話し掛ける勇気が出た。勿論、お前のヒントもあるが」
「んふふ」
「けれど、オリが、――オリがいたから、ここまで辿り着けた」
へらへらふにゃふにゃと、真面目なんて言葉からは程遠いような、のんびりマイペースなアドバイザー。
けれどそれが、心地好かった。茜の空間に、焦がれた。
何故だろうか。まったく、真逆なのに。ちっとも、結び付かないのに。
――オリと花京院が、重なる。
「会長は、その人が気になるんだねえ」
「ああ」
「でも、京ちゃんが好きなんだねえ」
「ああ。好きだ。俺は、花京院が好きだ」
「ふふ。大好き、だよねえ」
「そうだな。大好きだ」
「うわー、のろけだぁ」
不思議と、書記と話していると素直に言葉が出た。
それはきっと、彼にからかう気持ちがないから。本当に、嬉しいのだと伝えてくれているから。
「――でも、わからないんだ」
「えー? 自分の気持ちが、てことおー? さっきあんだけ散々のろけといてえー?」
「いや、花京院が好きなのは確かだ。けれど、……あいつを探しているのも、確かなんだ」
呆れるでもなく、軽蔑するでもなく。隣に座る幼げな彼は困ったように笑った。
「うーん、そりゃ複雑だねえー」
「悪いとは、思っている。だが、こんなはっきりしない状態で、告白なんてしたくない。花京院にも、あいつにも失礼だろう」
花京院とオリ。真逆なのに、どこか重ねて見てしまう二人。
それは、俺の優柔不断な感情からくる願望故なのだろうか。
二人が、同じ人間ならばよかったのに。と――
(俺は、オリが好きなのだろうか。花京院が、好きなのだろうか。……あるいは、)
「……どちらが好きかわからない今、花京院を好きだとは、言えない」
「――ッ」
「えっ、京ちゃん!?」
「はっ!? 花京院!?」
突然の足音に真っ先に反応したのは書記。ここ最近何度も見てきた後ろ姿が駆け去っていくのが見えた。
聞かれていた、のか。いや、まずいことはない。ただ、俺の気持ちが知られてしまった。それだけだ。
けれど。
「花京院!」
「京ちゃん!!」
反射的に、意外と足の速い彼を追い掛けた。土の付いた革靴によって、濁った甲高い音を立てるリノリウム。
「ッ来るな!!」
冷静な花京院織色が、すべての仮面を取っ払って拒絶した。
――仮面。そうだ。やはり彼の姿は、仮面なのだ。
階段へと差し掛かる。上へ下へと繰り広げた逃走劇。今は三階だ。
花京院の目が前を向いていない。頻りに振り返り怯えている。足元を、見ていない。
「――ッ止まれ花京院!!!」
「――え、」
消える右足。傾く重心。投げ出された体躯。
咄嗟に伸ばした腕は無情にも宙を切って、馬鹿げた悲劇の三流ドラマみたいな、そんな悲鳴が耳の奥にこだまする。
「――――ッ!!!」
……咄嗟に叫んだそれは、
――誰の名前?
ダンッ。大きな音がして、ざわめく周囲が静寂に包まれた。息を殺し、新たな音を探すような。痛い、沈黙。
「花京院ッ!」
ぐったりと目を開かない花京院に、サア、と血の気が引いた。
どこだ。どこを打ち付けた。頭か。背か。
「うそ……っ、京、ちゃ……ぼっ、ぼく、保健の先生呼んでくる!」
「待て! 行った方が早い!」
駆け出そうとする蒼白の書記を制して、意識のない彼へと出来うる限り負担がないように抱き上げた。
本来ならば、頭を打っている可能性のある怪我人を動かすことは適当ではないのだろう。そう習っている。
けれど、保健室はここからまったく正反対の位置にある。呼んで、帰って。往復するタイムロスを考えれば、運んでしまった方が余程いい。
抱き上げた際、後頭部に異常がないか軽く見てみた。血もコブもない。きっと、大丈夫。
極力頭を動かさぬよう支えながら走り出す。
ああ、廊下を走るなんて生徒会長失格だ。今更、そんな戯れ言が浮かんで可笑しくなった。
「木間先生!」
礼儀も何もかもを無視して扉を蹴り開けた。
「は、え!? 焔くん!?」
「急患です。花京院が階段から落ちて倒れました」
大きな音を立てた扉にビクリと跳ねてボールペンを落とした救護教諭、木間は、しかしその一言に瞬時に顔付きを医師のものへと変えると、ぐったりと俺へ身体を預ける花京院を見た。
「取り敢えずベッドへと寝かせて。落ちた時はどんな状態だった? 頭は」
「どこかを強く打ち付けて、大きな音がしました。頭かどうかはわかりません」
努めて冷静に答えながらも、自身の手先が異様に冷たくなっていくのを感じた。緊張と不安が鬩ぎ合い、目眩がしそうだ。
花京院が楽に呼吸できるよう、ブレザーの前を開け、ネクタイを緩め、首に近いシャツのボタンを数個外した。こんな時でも、露になる肌の白さ、首の細さに自然と目がいってしまうのだから男とは心底嫌な生き物だ。
そのまま、手首のボタンも窮屈だろうと外した時。覗いたケロイドに、ドクリと胸がなった。
否、ケロイドというほど大袈裟なものでもない。あと数日すれば消えるような、そんな些細な火傷跡だ。
けれど、それは。あの日垣間見た、『彼』と同じ傷痕。
――ああ、やはり。
「うん、大丈夫だね。幸い、打ち付けたのは背中だけだったみたいだ。けれど一応、念の為に病院の手配はしておくね。ご家族の意志も伺わなきゃいけないから明日になってしまうかも知れないけれど。ちょっとここで花京院くん看ててくれる? ……あ、あと、今回はよかったものの、頭怪我した可能性のある人を動かしちゃ駄目だよ。焔くん」
ケータイを片手に、しっかりと釘を刺してから保健室を出る木間。こんな時、わざわざ家族の意向を聞かねば動けない家系はつくづく面倒だ。
「京ちゃん……」
ぐずぐずと鼻を鳴らしながら書記が花京院を見つめる。
目を閉じていると、本当に、精巧な人形のようだ。――仮面を、被ったかのような。
「書記、ここで花京院を看ていろ」
「えっ、会長は?」
「少し、調べたいことがある」
そのまま、眠る花京院を任せて教室へと向かった。
もう来ないと言ったオリ。彼は、一度も能面を外すことはなかった。去り際の、最後まで。
ならば。
「……やっぱり」
教室まで取りに来た花京院の学生鞄。開かれたままになっていたそれの、底の方に、――狐面は隠されていた。
鞄を取って、また保健室へと戻る。
――やはり、花京院が、オリなのだ。
「――どこか、痛むのか」
保健室へと戻ると、花京院は目を覚ましていた。
手の甲を額に当て、まるで光を拒絶しているような花京院に、そっとその手を払ってみる。遮られる青が、勿体無いと思ったのだ。
書記の姿はない。側についていろと言ったのに。あの悪魔め。
「か、いちょう……」
ゆらゆらと開くブルーに、どうしようもなく気持ちが湧き上がった。
――愛しい。
「心配した。目の前で階段から落ちるんだ。目を開かないお前に、生きた心地がしなかった」
そっと髪を撫でる。『彼』と同じ、鮮やかな黒髪。
「やめっ、」
「――オリ」
「――!」
「オリ、という少年を、知っているな」
ひとつの動揺も逃がさぬよう、清廉な青を一心に見つめた。
「オリに、伝えてほしい。――今日も、あの場所で待っている。と。今日でなくてもいい。明日も、明後日も、ずっと待っている」
花京院の体調次第だ。いくらだって待てる。
これまで、無人の古典準備室に何度も足を運んできたのだ。今更、それがどれだけ増えようと大差無い。なにより、
――もう、逃がす気はないのだから。
「それだけだ。今日の活動は来なくていい。安静にしていろ。……またな」
「かいちょ……っ!」
伸びた手を避けて扉へと向かう。
なあ、花京院。――オリ。俺は、少しだけ、拗ねているんだ。だから。
少しくらい、意地悪、させてくれ。
放課後。無人の廊下を歩いて、音のない扉に手を掛けて。いつもならば、ここに『誰もいない室内』が追加されていた。――けれど、今日は違う。
「――オリ」
求めていた、彼がいる。
「おひさしぶり、だね。会長サマ」
茜が満たす世界。仮面の向こう側。たった一枚隔てただけで、彼が遠く感じた。
「……オリ」
「副会長から伝言を聞いた時はびっくりしたよ。まーだ僕の事待ってたんだ、て。僕、もうここには来ないって言ったでしょ?」
「オリ」
「大体さあ、見てる感じ君ら全然上手くいかないし。これはもう、端から相性が合わなかったって諦めるしかなくない?」
「オリ」
「だからさ、」
「オリ、――――好きだ」
「は……?」
ポカンと。仮面があるのにわかりやすい、呆然とした声。けれど、その仮面の向こう側が、想像付かない。
『花京院』は今、どんな表情をしている?
「気付くのが遅くなった。すまない。……好きだ、オリ」
「は、え、」
「好きだ。君が、欲しい」
「――ッ」
動揺する彼へ距離を詰めて、ゆっくりと、逃げられぬよう手首を掴んだ。
「な、に、」
「こんなにもわかりやすかったのにな。本当に、俺の目は節穴だ」
「なに、言ってんの」
「好きだよ。……もう、逃がしてやれないくらい」
そっと狐面に隠れない輪郭を撫でた。
「なっ、アンタは副会長が……! ――っ!?」
唇を、塞いだ。
実際塞げた訳ではない。一センチにも満たない障害が、そこにはある。冷たい、感触。
けれど、これ以上、彼から『自分』を殺す言葉は聞きたくなかった。
「……もう、いいだろう?」
「は、」
「なあ、――花京院」
バッと、力一杯に腕を振り払われた。
「なんっ、そっ、」
「俺は花京院が好きだ。けれど、――オリ。お前が頭を離れない事も事実だった」
「……ッ」
「自分で自分がわからなくなったよ。こんなにも惚れやすい性格だったのか、てな。けれど、お前らの事を考えている時、気付いたんだ。――『花京院織色』と『オリ』が、とてもよく似ている事に」
花京院の無邪気な姿がオリと重なって。オリの去る姿が花京院と重なって。
当然だ。彼等は同じ人間なのだから。
「よくよく聞けば声も似ている。背格好も同じだ。何故気付かなかったのか、不思議なくらいだ。――なにより、」
スルリと、『そこ』を撫でた。
「同じ傷が、花京院の手にもあった」
すれ違いは、もう終わりにしよう。同じ人間を探して騙し合うなんて、悲劇どころか喜劇にすらならない。仮面を被った舞台は閉幕だ。
俺の求める人は、ここにいるのだから。
「もう、いいだろう。オリ。仮面は、――必要ない」
ゆっくりと、後頭部で結ばれていた紐をほどく。
カラン。足元から奏でられた、とてもとても軽い音。
きっと、それは、――『オリ』の世界が壊れる音。
「……やっぱり、綺麗な色だな。――織色」
澄んだブルーから何者にも汚されない純真な雫が零れていく。
花京院の涙を流す姿。けれど、もうそこに違和感はない。――これが、『花京院』なのだから。
「泣くな、織色」
「……なにナチュラルに呼び捨てしてんのさ」
皮肉げに。悪戯げに。本当の花京院が笑う。オリが笑う。
「オリ、相談だ。花京院織色に告白したいんだが、どんな言葉を送れば、あいつは喜ぶと思う?」
「……ばぁか」
可愛くて優しくてマイペースで、そして仕事や後輩には少し厳しい所のある俺専用の相談役。
紫が迫る茜色。
二人だけの世界に重なる影に、仮面はもう、存在しない。
仮面に愛を
(仮面があるから、あなたに出会えた)
というわけで、以下がでしたでしょうか。
『仮面にキスを』の会長視点。
学生らしい不器用さ、というのも中々好きです。
※頭を打った人を揺らしたり動かしたりするのは本当に危険なので、絶対にこんな対処の仕方しないでください。これはあくまでもフィクションです。