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第八話「牙」

(何だ、此奴らは――!?)

 すかさず刀の柄に右手をかけながら、その眼に三匹の青黒い獣を映す片瀬。

 まさに醜悪を具現化したような姿形は逐一その形状を波打つように微妙に変化させ、その長い顎の奥から放たれる咆吼はこの世に存在する全ての生物の発声器官では再現出来ないような、全身に怖気を奔らせる程の凄まじさであった。

 それよりも今の片瀬はまさに絶体絶命の状況であった。水位は胸を超えて首に達し、濁流の如く激しく渦巻く水流は身体の自由を、そして体温をも奪いつつあった。

(――ここまでか)

 あっという間に水面が顎にまで達した片瀬を黒い影がついに、無惨に覆った。そして鎌首をもたげた蛇の如き長舌が三つ、宙を抉り抜くように一直線に片瀬へと奔った。

 次の瞬間、その注射針のような尖端が片瀬の顔面を串刺しにして、嘔吐を催す程の凄惨さで宙と水面を瞬く間に真っ赤に染めた――

 おそらく、誰もがこう想像したはずだ。

 だが、片瀬との間に意外なものが三本の長舌の侵攻を遮っていたのだ。

 最期の悪あがきのように、とっさに水面から突き出した右腕。その手首の七色輝石の念珠がまたもや眩い白光に包まれたのだ。すると光は一気に膨張し、あっという間に薄闇の世界を呑み込んでいった。

 その直前――片瀬はまた、あの不可解な音を――「かちり」と何かを嵌め込んだような音が耳孔の奥で鳴り響くのを感じていたのだ。

(――また、か)

 眩い光に照らされた片瀬の陰影の濃い横顔。その口元に一瞬、あのいつもの悪い癖が浮かんだ。

 そんな片瀬まであと僅かの距離まで迫っていた長舌は、その強烈なまでの輝きによって侵攻を阻止された。しかも、その舌に連なる三つの本体もまた、完全に動きを封じられ浮遊状態に陥っていた。

 すると、今度は片瀬の身の回りで異変が起きた。

 それまで渦を描いていた水流が反時計回りに逆流し始め、同時に水面から蒸気のようなものが湧き上がってきたのだ。顎まで埋め尽くしていた水面はたちまち吸い込まれてゆくように下がっていき、あの大海原のような大量の水は嘘だったように一気に蒸発してしまった。

 やがて念珠の光が消えると同時に空中の獣たちは見えない呪縛を解かれたように地に降りた。

 が、次の瞬間――何かがぎゅん、と風の唸りと共に流れた。すかさず獣たちは弾かれたように地を蹴って後退した。

「生憎だが、おれはまだ楽になれないようだ」

 やや苦笑混じりに、片膝立ちの姿勢で呟く片瀬。その右手の先には横薙ぎにふるった状態で握られた一刀。そして、その刀身からはどす黒い液体が滴り落ちていた。

 ゆっくりと立ち上がりながら切尖を青眼の構えへ移動させると、片瀬の瞳は再び遥か前方で苦鳴を洩らす四足獣たちの姿を映した。

 その奇怪にねじ曲がったような禍々しい全身からは今まで以上の殺意と憎悪の炎が噴き上がっているが、首のあたりにはざっくりと一筋の朱い口が無惨に開き、そこから黒い血のようなものを滲ませては糸を引きながら滴らせていた。

 その上の流線形の頭部、長い顎の中では無数の鋭い歯が飢餓を訴えるようにがちがちと鳴らして、両側に填め込まれた朱い双眸の奥では狂気の光が爛々と燃えるように・・・・・・


 そう思いきや、実はそれが大きな間違いであることに、その場に出くわした者がいたとして果たしてどれだけの人間が気付いたか。


 ――否、一人だけ、いた。


 その僅かな変化を看破出来た片瀬が一言、


「――おまえ達、おれと前にも逢ったことがあるのか?」


 それは自らの記憶の奥底をくすぐるような、妙な問いかけであった。

 そして、そんな片瀬を前に三匹の魔性たちの双眸の奥に宿っていたのは狂気にあらず、なんと恐怖であった。

 しかも、それはただの恐怖ではなかった。

 身の危険に対する恐怖ではない。未知の脅威に対する恐怖でもない。

 不安や困惑、緊張、そして戦慄を内包した恐怖を超越した感情――それは紛う事なき畏怖そのものであったのだ。

 そして、長い顎の奥から漏れ聞こえてくる音は飽くなき飢えを充たそうと鳴らしてくる音ではなく、震撼のそれであったのだ。

 そのどちらも先ほどとは明らかに異なる、死の色に彩られながら・・・・・・

 

 ――何を畏れているのか!?


 ――何故、怖れているのか!?


 そして、眼前の片瀬に一体何を視たのか――








「――あらぁ?まさか、びびってんのかい?」

 黒の留袖に博多帯の芸者風の女は周囲を見渡しながら、隣の男――三味線を入れる桐の箱を肩に担いだ男に向かって薄笑いを浮かべながら言った。だが、その瞳には冷たい光が宿っていた。

「馬鹿言うな。あまりの嬉しさ、武者震いってやつだよ」

 そう告げた男――男臭い風貌と頬傷、そして岩を思わす体躯が印象的なその男もまた、隣の芸者と同様に威嚇するような眼差しを周囲に注ぎながら答えた。

「そうかい。ならいいけど――さて、どうしたもんかねぇ」

「あっという間だぜ・・・・・・それにしてもよ、こいつは見事に夜丞の幻術とそっくりだよな」

「馬鹿!感心してる場合かい」

 妓楼〈朝日屋〉の向かって右隣に建つ別の遊女屋、その店先に立つ屋根形の辻行灯の陰に潜んでいた廓芸者のお鬼怒と箱廻しの冴兵司。だが、その二人の周囲に突然白い霧が立ちこめたのはつい先ほど、そしてたちまちあたり一面を穢れのない乳白色で覆い満たしてしまったのだ。その霧の深さは一寸先すらも視認出来ないくらいで、方向感覚すら狂わせた。

「お鬼怒、微弱だが霊的断層にずれを感じたぞ」

「へぇ・・・・・・こいつはひょっとしたら大物のお出ましかね」

 そして、二人を急襲した異変は〈朝日屋〉の中とは大きく異なる様相を見せ始めた。

「あれは・・・・・・」

「あぁ――いよいよ、お出ましだ」

 二人の耳朶をある音が打った。


 さく、さく、さく、さく、さく、さく、さく・・・・・・


 白い霧の奥――方角的には〈朝日屋〉の方から、何かがゆっくりとこちらへ近づいてくる。しかも、微妙にずれて響く足音は一人や二人ではなく、それ以上の数だ。

 そして、地を踏む音の群れと同時にもう一つ別の音が。


 しゃん、しゃん、しゃん、しゃん、しゃん、しゃん、しゃん・・・・・・


 白い空間に妖しく木霊するそれは修験者が手にする錫杖、その先端の輪がぶつかり合う音色そのものであった。

 その霧の中から――まるで霧そのものが恐れおののくように自ら両脇に退いた奥深くから忽然と、人影の一団が蜃気楼の如く浮かび上がった。

 それはさながら、白一色に異を唱えながら侵食してゆく黒い染みのようだ。

 二人の視界のなかで姿を露わにした人影達――その数は軽く10を超えていた。全員、赤と黒の長衣に身を包み、手にはやはり黒い錫杖、そして顔のあたりは人形浄瑠璃の人形遣いを思わす黒い頭巾で覆っていた。その細い身体の線は若い女性を思わせたがはっきりと窺い知ることは出来ない。

 その黒頭巾の一団が2間(数メートル)程の距離をおいて歩みを止めた。だが、右手に握られた錫杖は歩みを止めても尚、先端の輪を鳴らしながら大地を穿つように叩き続けている。まるでそれは声なき恫喝のようだ。

 その不気味な様子を見つめながらお鬼怒が両耳を手で押さえながら、

「あぁーっ!ったく、煩いったらありゃしないね。此奴ら、何なんだい?」

 相手の意図が掴めず、やや苛立ち混じりに呟いたお鬼怒に冴兵司が、

「さぁな。見た感じ、話が通じる相手でもなさそうだし――力ずくで行くか?」

「わたしゃ構わないけど――」

 お鬼怒がそう答えかけた、まさにその時。

「そうはいかんのう」

 その場にはいない、明らかに老人と思われる嗄れ声が降ってきた。同時に、錫杖の音が一斉に止んだ。

「やっと、元締めのお出ましのようだね――とっとと姿をお見せ!」

 白い虚空に向かってお鬼怒が叫ぶと再び嗄れ声が、

「おまえ達のような卑賤な飼い犬如きにわざわざ姿を見せる程、わしは暇ではない」

「飼い犬とは・・・・・・言ってくれるね、爺さん」

 負けじと不敵な笑みを返しながら答えるお鬼怒に続いて冴兵司も、

「こっちも年寄りの相手をしてる暇はねえんだ。道を開けな」

「おまえ達には此処でしばらく、わしの可愛い侍女達の相手をしてもらおうかの」

 邪笑を想起させる卑しい声と喋り方に冴兵司が、

「・・・・・・なんだとぉ」

 冴兵司のこめかみに青筋が浮かんだ。

「あの見世の中では今、めったにお目にかかれぬ余興の真っ只中じゃ。それに、片方は確かおまえ達の仲間の一人だろ?わざわざ仲間の仕事を邪魔することもあるまい」

 すると今度はお鬼怒が、

「その、すっとこどっこいの唐変木とうへんぼくが暴走しちまってる以上、いつまでも指咥えて見てるわけにはいかないのさ。それに、このままだと都合が悪くなっちまうのはむしろそっちの方じゃないのかい?」

「その逆じゃ」

「逆!?」

 思わず揃って声を上げたことに一瞬驚いてお互いに視線を交わす二人に、

傍目八目おかめはちもくと云う言葉を知らぬのか?咫尺しせきを弁ぜぬ闇であろうが、傍からの眺めに徹した方が敵の手の内がはっきりと見えてくる――今のわしにはな、吉原のまだるっこしやり方よりもあの若造の方が遥かに面白いし、むしろ好都合というわけじゃ。それに――」

 ここで一旦言葉を切ると、

「あの片瀬蘭之介という同心が只の食わせ者でないことはわしやおまえ達以外の連中もお見通しの筈じゃ。奴が此処に着いて早々、こうしてあちこちから煩い蠅がたかってきよったのが何よりの証拠。ならば、それを利用して事を如何に有利に運ぶように仕掛けるかはごく当然のことじゃ」

 それを聞いてお鬼怒は、

「ふーん、それがあの寝ぼけ眼を無理矢理にでも起こさせる理由かい。もっともらしいことを言ってるようだけど、要は敵同士をけしかけて自分は安全なところから高みの見物って意味だろ?ほんと、人ってのは老いれば老いる程、ろくな事しか考えないんだね」

「その、ろくな事の行き着いた果てがこの江戸というくだらぬ仮想世界そのものではないのか?」

 この老人の言葉に二人の眼に一瞬、鋭い光を浮かんだ。

「そこに住む人間やその中に紛れてのさばる、おまえ達や吉原の魔性ども――どれも全て嘘偽りの泥で塗り固めた、実にろくでもないまがい物。何が“浮世絵の如き極彩色の世界”じゃ!いくら精妙巧緻せいみょうこうちに創られていようが、所詮は現世うつつに背を向けた、どこぞの愚かものが寝返りを打ちながら見ている夢まぼろし!――違うか!?」

 それまでとは一転して激しい怒気を孕んだ、虚空からの老人の声。それに呼応するように突然、別の何かが二人の耳孔をつんざいた。

 それもまた、先ほどの嗄れ声のように天から降ってきた。否――地の底から噴き上がってきた、と云うべきか。

 まるでそれは赤子の激しい鳴き声を大音量で、しかも逆再生させたような身の毛がよだつものだった。

 そして、その不気味な声は更なる異変を呼び起こした。

「・・・・・・何か、おっぱじめやがったぞ」

 そう呟いた冴兵司の視線の先――

 白い世界に屹立する黒頭巾の一団。その長衣の下から突如、耳を塞ぎたくなるような不快な音が布地の下から上がり、白い空間を震わせたのだ。

 それは何かが捻れ、折れ曲がり、引き千切れる、嫌悪感極まりない音。

 その音が漏れる度に頭巾達の細い身体は大きくのけ反るように痙攣し、その長衣の上が波打ちながら変形してゆくのが見てとれた。

 次第にその長衣は内側での異常に耐えきれずにびりびりと破れて千切れてゆく。

 その下から露わになったのは意外にも、生唾を呑む程の絶妙な曲線を描いた、透き通るような白さとしなやかさに包まれた女の裸体。そして、剥がれた頭巾の後ろから現れたのは全員、尼僧のように髪を全て剃っていたが、女にしては比較的整った目鼻立ちの容貌だった。

 先ほどまでの不気味な怪音と痙攣が嘘のように静寂が辺り一帯を包んだ。だが、それも束の間――


 背中の皮膚を突き破り、そこからゆっくりと立ち上がりながら拡がってゆく二つの巨大な影。それは紛れもない、猛禽類を思わす黒い翼だった。

 それに引き摺られてゆくように、今度は腰の下あたりから長い尻尾が鞭のようにしなりながら現れた。異形化はさらに加速し、腕は長く伸び、徐々に全身の肌は一気にどす黒く変色してゆく。

 そして、顔の部分も同様に黒く染まりながら変貌を遂げてゆく――眼球がだらりと視神経ごと零れ落ち、鼻も唇も次第に泥の如く溶け崩れてゆく。耳は大きく尖り、頭頂あたりからは牛のような二本の角が生えだした。

 そこに出現したのは、顔を構成する全てが削ぎ落とされた、黒い肌の“のっぺらぼう”だった。その異形の姿を見て、

「けっ、此奴ら“夜鬼”だったか――ってことは、てめぇは・・・・・・」

 ここでようやく何かを憶い出したか、冴兵司が苦々しい表情で吐き捨てるように呟くと、隣のお鬼怒も溜息をつくや否や鬱陶しそうに、

「なるほどね・・・・・・あんただったんだ。どうりで、頭のいかれた老いぼれにしちゃ妙だと思ったよ。考えてみれば、こんな色気のない連中を可愛がってるのはこの世で独りしかいないさね――冴兵司、こいつは話をするだけ無駄だね」

「――そうだな」

 そう答えながら、冴兵司は肩に担いでた桐の箱を降ろすと首を捻ったり、両手指の骨を鳴らし始めた。




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