第六話「妖」
「旦那ぁ、今朝からずうっと、なんだか心此処にあらずって顔されて・・・・・・なんかあったんで?」
勝吉が今の雨模様に呼応したような片瀬の浮かぬ表情を覗き込みながら尋ねると、
「心此処にあらず、かーー勝吉、お前は自分のことをどう思ってる?」
「はぁ?」
「こうして息吸って、飯食って、働いて、夜に寝て・・・・・・そういう繰り返しが普通に当たり前なものだと思ったりするか?」
「・・・・・・旦那ぁ、大丈夫っすか?」
訳の分からない問いに怪訝そうな勝吉に、
「たしかに心は此処にあっても、果たしてそいつが本物かどうか・・・・・・あながち、お前の言うことは間違ってないかもしれんな」
てっきり、いつもの如く「気にするな」と返されると思っていたところへ、この予想外の答えーー勝吉は訝しげな表情になった。自嘲気味に言葉を零した片瀬はさらに、
「最近、俺自身が一体何者で何のために此処で今こうしているのか時折解らなくなるんだーー自らの足でしっかり歩いてきたはずなのに、ふと気付いたら全く知らない状況に陥ったような違和感に襲われて・・・・・・だが、同時に此処の何処かに引っかかる感じもあるんだ」
片瀬が胸の中心あたりを親指で軽く指すとさらに、
「酷い時には、周りの全てそのものさえ解らなくなってくることもある。もし、当たり前に考えてきたこと全てが実はそうじゃなかったとしたら・・・・・・否、俺は選んだ道を歩いたつもりになっていて、その実、全く別の方向を何者かの意志で歩かされているんじゃないかーーってな」
「旦那・・・・・あっしの知ってる片瀬蘭之介というお人は少なくとも、そんな孤独感に苛まれ過ぎて弱気を晒す御方ではありませんぜ。一体どうしちまったんです!?確かにこのところ、いろんな事が立て続けに襲って来て殊の外お疲れなんでしょうが、それにしたって・・・・・・」
突然、頭がおかしくなったのではと顔を曇らせる勝吉に、
「お前はいいな、気楽で」
「たしか、今日は挨拶回りだけですよね?なら、あっし一人で充分です。旦那は今日一日休んでくだせぇ。せめて今日くらいはゆっくりなさってーー」
心配する勝吉だが、これに片瀬は途端に鋭い眼差しで、
「ふざけたことを言うな。俺は疲れてなどおらん。そもそも、挨拶回りに同心の俺がいなくてどうする?」
「しかし・・・・・・」
「それに、ゆっくりしたいのはむしろ、勝吉ーーお前の方だろ?正確には、十手風吹かせて便宜を図ってやる見返りとか言って、な。違うか?」
「いやぁ、そいつは・・・・・・」
片瀬の鋭い指摘に、勝吉は思わず言葉を詰まらせた。
本来なら勝吉は片瀬と共に、今日から吉原面番所に着任した旨の報告を兼ねて、会所と妓楼主への挨拶に廻る予定になっている。だが、勝吉は片瀬の代わりとして一人でこなすつもりでいた。そして隙あらば、妓楼の座敷に上がり込んでお酌や料理のお相伴にあずかろうという腹づもりでいたのだが、そんなこちらの本心をいつの間にか片瀬に見事に見透かされていたようだ。
「あそこは江戸のなかにある異国とおんなじと思え。こっちが当たり前と思ってることでも、塀と堀の向こう側では全く違う意味を指してるかもしれんし、もしくは自らの命を危険に晒すことにもなりかねん。とにかく、吉原はこの世の当たり前が決してそうとは限らない、全く別の常識が支配する所だ。今までのやり方が全て通用すると端から決めつけんことだ」
そう告げた片瀬自身、吉原を訪れるのは初めてだ。だが、既に気付いていたのだーーこれからは自らの周りを取り巻く全てを疑え、見せかけの世界に惑わされるな、ということに。この世の理を超えた相手や現象に次々と襲われてきた片瀬だからこそ確信を得たのだ。そして、その胸の奥では同時に、いつもとは異なる妙な心臓の高鳴りを覚えていたのも事実だ。
だが、勝吉は片瀬の言葉に納得のいかない表情で、
「でも、あっしらの仕事はそんな別世界の人間たちからも信頼を勝ち取らないと成り立たちゃしませんぜ。その信頼がなきゃ、お互いにいいものは手に入りゃしねぇんです。色を付けてなんぼ、袖の下があってこそじゃありませんか!いくら吉原が世間とずれがある場所とはいえ、潤してくれる金は使わなけりゃ何の意味がないし、生きられやしやせん。そうじゃありませんか、旦那!」
勝吉の指摘はまさにその通りで間違っていない。片瀬自身、袖の下ーーすなわち、賄賂を受け取ることに躊躇いはおろか、後ろめたさは一切無い。与える側も便宜を図ってもらう見返りだからこそ、ここで初めて相手に対する信用性が生まれ、頼りになる役人と同じ意味となる。又、時にはこちらから金を与えることで新たな信頼を得ることが出来る。それがなければ、咎人に関する情報や密告など仕入れることは極めて難しく、捕縛は叶わない。捕縛が遠退けば、それは江戸の平和と安寧を脅かすことに繋がる。確かに賄賂が悪いものという観念はないわけではなく、場合によっては身を滅ぼすもとにもなるのも事実である。だが、実情は半ば公然と認められている。清き河川の流れを維持させるには濁りもまた必要不可欠ーー矛盾しているが、御世が幸せになるためとして、贈る側も受け取る側も賄賂を卑しいものでなく、経済を循環させ治安を維持させる潤滑油、すなわち「生き金」として考えているのだ。しかし、片瀬は一言、
「“江戸にあって、江戸にあらず”ーーだぜ、勝吉」
「ーーえ?」
勝吉は何の事やら理解出来ずにいたが、含み笑いの如く唇の端を吊り上げた片瀬の視線が自分の肩越しへと注がれていることに気付くと、勝吉はそれを追うように再び大門の方へと振り返った。すると、徐々に目を大きくしながら、
「・・・・・・ありゃ、一体何者です?」
前方を指差す勝吉の視線の先ーー大門の前には、唐傘を差して二人の方を向いて立っている巨大な影が見てとれた。
巨大な影、それはまさしく鏡餅に手足を付けたような、人間離れのサイズと容姿を誇る奇異な男であった。
ずんぐりと太った巨体に長着と羽織を纏い、その上にはヒキガエルを思わす容貌。半ば瞼が閉じられたような眠たげな眼と、蝙蝠の如く尖った耳、大きな口からは時折長い舌先が鎌首をもたげる蛇の如く覗かせていた。そんな愚鈍で、どことなくユーモラスな姿形の男を射抜くように見つめる片瀬と、その気味の悪さに思わず背筋を走る冷たさを覚える勝吉。二人共、このような人間には今までお目にかかったことはなかったのだ。
「さあなーー会えば分かるだろう」
そう呟いた片瀬。もし、この場に佐伯がいたなら即座にその端正な口元に浮かぶ悪い癖に気付いていただろう。そうこうしているうちに二人がついに大門の前に辿り着くと眼前の肥満漢が、
「わたくし、四郎兵衛(吉原)会所の頭領を務めています、九代目四郎兵衛こと蝦蟇蔵と申しますーー片瀬様と勝吉親分でございますね」
大きな口から不似合いな程の白い歯を輝かせ、にこりと不気味に微笑む蝦蟇蔵。眼前の片瀬はこの時初めて、蝦蟇蔵が自分より頭ひとつ抜きん出た高さがあることにも気付いた。だが、その両目の奥に宿る光から常人には無い、根源的に異なる何かを視認することが出来る者が果たしてどれだけいるか。間違いなく、そのうちの一人であろう片瀬は蝦蟇蔵をじっと見据えながら、
「いかにもーーそれがし、南町奉行所より本日付けで吉原面番所詰めとなった片瀬蘭之介だ。こっちは岡っ引きの勝吉だ」
片瀬に促され、勝吉が軽く頭を下げると、
「よくぞ、此処吉原にお越しくださいました。早速でございますが、出来ますれば先ずはわたくしと共にこれから各見世の旦那衆にーー」
その言葉が言い終わらぬうちに、大門の奥から一人の男が血相を変えて蝦蟇蔵の元へ駆け込んで来た。
「蝦蟇蔵様!」
男は吉原会所の男衆(番方)の一人・竜三郎であった。
「どうした、竜?」
「〈朝日屋〉さんで旗本連中が暴れておりやして・・・・・・あっしらではどうにも」
どうやら旗本の一団がある妓楼で騒ぎを起こし、揉め事処理を担当する見世の廻し方、ついには楼主までが出て来て困りますと口上を述べるも恫喝され、止めに入った若い衆のなかには怪我人も出ているようだ。
「さすが吉原、朝っぱらから活気がいいな」
皮肉たらたらに呟いた勝吉に竜三郎が凄まじい眼つきでねめつけた。すると、剣呑な雰囲気に気付いた蝦蟇蔵は竜三郎にそっと肩に手を置くと苦笑いを浮かべながら、
「いやはや、お着きになられて早々にこんな様をお二方にお見せする羽目になろうとは情けないかぎりでーー分かった。今行く」
駆けつけた竜三郎に返事をした蝦蟇蔵に、
「構わんさーー手を貸そうか?」
片瀬が半ば面白そうな表情を刻みながら声をかけると、
「いえいえ、これくらい私どもで片を付けさせて頂かねば吉原会所の名折れでございます。わたくしの代わりにこの竜三郎が御案内致しますので、お二方はどうぞお構いなくーー」
「悪いが一緒に同行させてもらおう」
「ーーえ?」
半ば瞼の閉じていた目が蛙の如く丸くなった蝦蟇蔵、そして同じく驚きの表情を刻んだ勝吉に片瀬は、
「いや、決してそちらを侮ってるわけじゃないのだ。ただ、着いて早々とはいえ、さすがにそれがしの務めとして黙って見過ごすってわけには、な。だが今はあいにく此処は未知の国も同然、どうしたってそちらの助けが必要だ。それに、此処のことを一つでも多く知るには些細な揉め事でも首突っ込んで場数をこなしてゆくのが一番手っ取り早いだろうし、意外とそういうところに真実を掴める裾って奴が隠れてるものだからな。元より、こちらもいろいろと調べなければならん事もある。そういうわけで、妓楼へ御挨拶に伺うのは後回しにさせてくれーー構わんな、勝吉?」
「へ、へい・・・・・・」
挨拶廻りという名の吉原見物を決め込んでいた勝吉にとっては正直面白くない気分だったが、片瀬の命には逆らえない。
「分かりました。お二方がそう仰るのでしたらーー早速、御面倒をお掛けしますが宜しくお願い致します。では、こちらへーー」
蝦蟇蔵がそう告げると、竜三郎と共に大門をくぐり、片瀬らを連れて一路〈朝日屋〉へと向かった。
そんな彼らの後ろ姿を大門脇から覗くように見つめる芸者らしき女と(三味線の入っている)桐の箱を肩に担いだ男がいた。
「ーー意外と早いお着きだったね。それにしても、片瀬蘭之介ーーなかなかのいい男じゃないかい」
黒の紋付の裾引きの衣裳にちらりと覗く緋縮緬の襦袢、柳に締めた博多帯の印象的な妖しい美貌を刷いた女が片瀬の後ろ姿を好もしげに見つめていると、
「お前なら一晩相手するくらい造作もねぇことだろ、お鬼怒」
男臭い顔立ちと頬傷が印象的な、がっしりとした体躯の箱廻しの男が薄笑いを浮かべた。すると、芸者ーーお鬼怒は不興気に、
「馬鹿をお言いでないよ、冴兵司。これでもあたしゃ御座敷を盛り上げる廓芸者、粋と芸は売っても色は売らないよ」
「冗談だよーーそんなことより、これからどうする?」
「どうするも何も、あの方から次の指示があるまではうちらは動けない。それまでの間はあちらさんのお手並み拝見というところかね。それに、あの様子ならまだ自覚するには時間がかかりそうだし」
「その前に外の敵が動き出さないとも限らんぞ」
「その時はその時だよ。いずれにしても、これで此処も少しは面白くなってくるというものーーところで、あいつは何してんだい?」
「あぁ、奴なら今ーー」
大門をくぐった片瀬の視界に入ってきたのは、正面中央から奥へと真っ直ぐに一本のびた「仲之町」と呼ばれる目抜き通りであった。続いて、左脇に建つ火の見櫓付きの瓦屋根の二階家が片瀬の目に飛び込んできた。間口が三間半で奥行きが五間、看板には「新吉原面番所」の文字が踊っていた。今日から常駐することになる場所だ。
では、と反対側の(通りを挟んだ)右手に視線を移す。視界に入ってきた建物が四郎兵衛会所ーー吉原会所だ。まさに目と鼻の先というわけだ。
吉原の敷地面積は二万六百七十坪(約六万八千二百十一平方メートル)。周囲を塀、そして通称「おはぐろどぶ」と呼ばれる堀で囲まれ、一廓に複数の遊女屋(妓楼)を集めた江戸唯一の幕府公認の遊里。そして、浮き世の極楽として常に闇夜を照らし続けている不夜城である。
片瀬たちの眼前に広がる仲之町の両側には、高級妓楼にあがる登楼客を必ず通さなければならない「引手茶屋」が軒を並べている。客はこの引手茶屋にあがり、妓楼に遊女を呼びにいかせる場合もあれば、遊女が先に引手茶屋までやって来て店先で客を待つこともある。いずれにせよ、そこはまさに廓としての象徴的な魅力を凝集した一角である。
吉原の街並みはその「仲之町」を中心に碁盤の目のような通りで構成されており、一つ目の交差点の両側は向かって左側が江戸町一丁目で右側が江戸町二丁目、次の中央の交差点では左側は揚屋町で右側が角町、三番目の角が京町一丁目と二丁目、そして仲之町の突き当たりにあたる所が水戸尻と呼ばれている。そして、妓楼以外にも八百屋や花屋、畳屋、銭湯などの一般商店や菓子屋、蕎麦屋といった食料品を扱う店も数多く軒を並べていた。
そんな吉原にある妓楼は大きく、大見世・中見世・小見世に分けられ、又、東西端にある切見世と呼ばれる最下級の遊女屋がある。つまり、通りから離れるほど妓楼の規模が小さくなるが、その値段は比例して安価になっている。建物はどれも木造の二~三階建てであり、通りに面する部分には赤い格子窓が設置されている。そして夜見世を迎える頃になれば、開かれた二階の一室からは酒宴の賑わいと三味線のお囃子が風に乗って流れてくる。同時に、通りを飾る江戸市中を先取りした樹木がさらに別世界のように華麗に演出する。
だが、そんな煌びやかな装飾に包まれる江戸の華とも云うべきこの場所の何処かで、底知れぬ深淵を覗かせる獣の顎の如く、息を殺しながら潜むどす黒い何かを片瀬は今、この瞬間から既に感じずにはいられなかった。肌を突き刺すくらいにひしひしと。
もしかしたら江戸のみならず、この世の根底そのものを揺るがしかねない、計り知れない「何か」・・・・・
(ーーこの江戸は、否、この泰平の世は途方もない秘密を孕んでいるぞ!)
数日前に佐伯が片瀬に遺した言葉が脳裡を過ぎった。
昼見世を目前に控えた今の時間帯、吉原ではどこの妓楼にとっても昼見世の準備も兼ねながらも、一日のなかでひと息つけられる貴重なひと時だと片瀬は聞いていた。実際、こうして蝦蟇蔵と竜三郎の後に続いて通りを歩む片瀬の目にもその光景はすぐに視認出来た。見世の軒先で掃除をしている若い衆、その前を行き交う行商人らしき人々。そして、遊女達もまたーー廓の中にある湯屋で朝風呂、そして髪を結う者。馴染みの客に文を書く者。吉原へ行商として訪れる小間物屋や呉服屋の相手をする者ーーそれぞれが、許された僅かな時間を気ままに過ごしているはずだ。そんな吉原の女たちの生活時間を邪魔するかの如く、直参旗本の連中が好き勝手に暴れている。大方、幕府非公認の遊里〈岡場所〉である深川あたりで散々遊び尽くした挙げ句、取り締まりが厳しくなった為に此処吉原へ流れてきたんだろう。
ーーさて、少しは愉しませてくれるかな
片瀬の口元にまたいつもの悪い癖が浮かんだ。
大見世の妓楼〈朝日屋〉でも他の妓楼と同じく、本来ならば今の時間帯は座敷の掃除や花生け等の登楼客をもてなす昼見世の準備に追われているはずだが、今日は不運に見舞われた。
お抱えの遊女の一人・糸里が二階部屋でひとり身支度をしていた時、階下の方から男たちの怒号が聞こえた。すかさず剣呑な雰囲気を感じ取った糸里は部屋を出ると、階下を覗き込むようにゆっくりと目の前の階段へと近づき、腰を落として向こうから気付かれないようにそうっと覗き込んだ。
その視界に飛び込んできた光景ーーそれは、三人の旗本らしき男たちと、楼主と廻し方の男が若い衆の一人を後手に庇いながら対峙している一触即発の現場だった。どうやら、若い衆は怪我を負わされてるようだ。
「こちらは一人一両ずつで計三両ーーこれで不服と申すのか、貴様ら!」
着流し姿に刀も落とし差しにした、浪人崩れを装った旗本衆の中心にあたる男が怒気を孕んだ声を挙げると、
「先ほどから申し上げております通り、たった三両で手前どもの女郎全員を総揚げ、しかもまだ昼見世を迎えていない今から座敷を用意しろと仰るのはあまりにもご無体な話でございます。どうか、お引き取りくださいませ」
何とか穏便に騒動を収めようと楼主がそう告げたが、対する旗本の男は額に青筋を浮かべながら、
「なんだとぉ!?我らが直参旗本と知って、そのような無礼を口にするか!」
総揚げとは、全ての廓芸者や遊女を集めて飲めや歌えのどんちゃん騒ぎをすることである。つまり、この旗本たちは三両で〈朝日屋〉の花魁から振袖新造たち全員を指名、それに対して見世側が要求に応えずにいたのだ。ちなみに、遊女一人あたりの揚代は、例えば最高級の遊女ーー新造付きの呼出昼三の揚代なら一両一分で、現在の約十万円(一両=約八万)に相当する。これとは別に酒等の飲食代や引手茶屋の紹介料、廓芸者代、幇間代、そしていわゆるチップ代などを加えれば、最低でも総額十両から二十両はかかる。このことから分かる通り、たった三両で一つの妓楼での総揚げなど全く有り得ない話である。吉原を訪れる客には、大名やその留守居役などの高禄武士・豪商・裕福な若旦那等の粋な格好で惜しみなく金を使う「上客」「通人」と呼ばれ大歓迎される客と、逆に吉原の粋な遊び方を知らない不粋野暮な「浅黄裏」と呼ばれ軽蔑される客に分かれる。その意味ではこの旗本一団も間違いなく後者の部類、吉原にとっては招かれざる客という奴だ。
「御武家様、そもそも格上の花魁は張を通しておりません。とにかく茶屋を通して頂かねば・・・・・これでは強請りたかりと同じでございます」
廻し方が真っ直ぐに旗本の男たちを睨みつけながら言い放った。
「貴様らーー」
男の全身から鬼気が膨れ上がった。怒りの沸点を迎え腰の刀の鯉口を切った、まさにその時、
「お待ちくださいませ」
その声は旗本衆の背後、見世の戸口あたりから聞こえた。
「なんだ、貴様は?」
旗本の声に引きずられるように振り返った一同の視線の先に立っていたのは、役者の如き整った美貌ながら、その右目は黒布の眼帯で覆い隠し異様な雰囲気を醸す、細縞柄の結城袖の着流しに身を包んだ若い男。一瞬、妙に冷たい風が一同の間を通り過ぎた。
「へい、あっしは夜丞と申します。御武家様、廓内での刃傷沙汰は御法度でございます。それに、どうぞ御覧くださいませーー店の外にはほぅら、あの通り、他のお客衆が大勢お集まりになっております。まずは刃をお収めくださいませ」
夜丞の指摘通り、見世の外には騒ぎを聞きつけて集まった朝帰りの客や近所の妓楼からやってきた遊女、行商人達が遠巻きで見ていた。
「いいや、この斎藤玄馬を強請りたかり呼ばわりした以上、ただで済まんぞ」
それを聞いた夜丞はやれやれと洩らすと、
「確かに総揚げで豪遊もたまにはよござんしょう。ぱぁーっと遊び、それを糧にして明日からまた汗を流す。そして男を磨きつつ、稼いだ金は再び世間様へと返す。このような粋なこと、まさに男の甲斐性で夢そのもの、実に羨ましいかぎりでございます。ですが、御武家様ーー」
夜丞はここで一旦言葉を切ると、
「吉原は神君様お墨付きの夢の如き異世界、至極のひと時を求めて登楼されるお客様に対して誰であろうと一切分け隔ては致しませんが、そいつは此処での決まり事を守って頂いた上での話。“火事と喧嘩は江戸の華”なんて言葉がございますが吉原では御法度、そいつを承知の上での不粋は真似は我ら廓者三千を敵に廻すことを意味いたしますーーただの火傷だけでは済みませんぜ」
その目はまさに、この吉原の地で勝手な真似はさせんと静かに、そして冷たく告げていた。
「夜丞と申したな・・・・・貴様、只者ではないな。何処の者だ?」
目の奥に禍々しい光を宿しながら男ーー玄馬が訊くと、
「こいつは申し遅れました。あっしは此処吉原で〈獄丁〉をやっている者でございます。以後、お見知りおきをーー」
と、夜丞が答えた。冷たい笑みを刻みながら。
そして、夜丞の口から零れた〈獄丁〉ーーその名が響いた瞬間、周り全てが突然凍りついた。見世のなかの空気、その場にいた全員、そして見世の外に集まった大勢の野次馬全員までもが。まるで、この世からそこだけ切り抜かれ、冥府と化したように。