第五話「廓」
柳橋・河岸道沿いの廻船倉で繰り広げられた異形の死闘が終焉を迎えてから小半刻(約三十分)を過ぎた頃ーー遥か吉原のとある妓楼、その二階の座敷では二つの影が静かに向かい合っていた。座敷の奥に灯る行灯が赤い格子窓から外に浮かび上がらせたのだ。一人は長い煙管を手に一段高い台座に鎮座した花魁らしき女、もう一人はそれに向き合うように畳の上で平身低頭の姿勢を取った巨躯の男であった。外ではあちこちの見世から芸者の爪弾く三味線の音色と小唄が通りを渡っていく度に廓内をより一層色香で満たしていった。そんな中で、この妓楼の座敷だけは艶やかな雰囲気とは程遠い、まるで怖気を誘うような特殊な緊張感に包まれていた。
「ーー油断しました。まさか、奴がこうも早く姿を見せるとは・・・・・・」
巨躯が憎々しげに口を開いた。すると、
「案ずることはありません」
花魁はそう答えると、艶やかな紅を思わす唇は煙管を咥え、すかさず紫煙を漏らす。
「しかし・・・・・・はたして、あれで良かったのでしょうか?」
「あちら様もこの世界の霊的断層を崩そうと必死です。次は間違いなく本腰になってかかって来るでしょう。でも、今宵間近で目にされた通りならーー御屋形様は全てお見通しのはず」
「ではやはり、あの時・・・・・・」
思い当たる節に気付いたのか、巨躯の頭がわずかに持ち上がった。ではーーこの男は、片瀬が遭遇した奇怪な死闘の現場に居た、という意味なのか?
「その為に既に手は打ってあるのです。あとはあの御方次第」
そう告げてから、花魁はたばこ盆に載った火落としに煙管を軽く一回叩いて灰を落とすと、
「さ、此方も吉原の名に恥じぬようにそろそろお出迎えの準備をせねばーー仁助さん、直ちに会所と妓楼の旦那衆に伝令を」
「御意ーー仰せのままに」
その後間もなくして、廓内の全ての通りに備え付けられた誰哉行灯は、本来の灯りの色から普段滅多に目にすることのない、まるで夕刻の空を彩る血のような朱色へと変わっていた。同時に、この江戸の闇夜を照らす不夜城はそれまでとは何か一線を画すような、凍てつくような空気に包まれた。
一見、煌びやかな光と音色に彩られた、往来する者をこの世ならぬ別世界へと誘う江戸一番の歓楽街の姿に見えるが、それは吉原に夢を求めに訪れる者や一部の行商人の目にしか映らない。その裏に秘められた真の姿を知るのは、この廓内にいる一部の吉原者のみであった。果たして、その灯りの色が示す意味とは?そして、この吉原遊廓は一体誰を“お出迎え”するのか?
佐伯清八郎が片瀬の眼前で謎の惨殺を遂げた夜から数日後、片瀬と岡っ引きの勝吉は吉原の大門に向かって黙々と歩いていた。時は朝四ツ(午前十時)であった。早朝から降り続いている霧のような小雨が江戸一帯をぼうっと霞んで見せていた。傘を差した片瀬の今日の出で立ちは、いつもの着流し姿ではなく、普段はあまり着ない黒羽織に身を包み、帯に十手を挟んでいた。
佐伯が殺されたあの後、片瀬は駆けつけた捕り方から調べを受ける羽目になった。全てをありのまま話しても到底理解は得られないだろうと、多少事実を曲解させた上で事情を説明した。佐伯との待ち合わせであの近辺を歩いていた時にまず蕎麦屋の老人に襲われたこと。その最中にある大柄の男らしき影を目撃、後を追ったものの行方はようとして知れず、姿を見失った廻船倉の側で佐伯が既に倒れていたーーそう説明した。あの時目にしたのが実は巷を騒がしている鬼だったことや、佐伯が突然斬りつけてきたこと、その佐伯の口から発せられた謎の言動、そして宙から突然現れた新たな人影の存在については一切触れなかった。特に後者については一片の痕跡すら残っていない上に目撃者が一人もいないようではいくら説明したところで到底信じてもらえないのが関の山。只でさえ状況的に怪しまれても文句の言えない立場であるのに、ここでさらに事態をややこしくさせるような証言をすれば逆にこれからの探索に支障をきたすどころか、こちらの立場が危うくなる。事実、殺害された佐伯は元より、あの蕎麦屋の老人の屍体についてもあの後、検視役の与力による検めを受けたそうだが、やはり何も分からず終いだった。それどころか、老人の身体から孵化したように現れ、片瀬によって斬られた火の玉についてはいつの間にか現場から消滅していたのだ。事態が混迷化を極めるなか、いくら事実とは云え火に油を注ぐような真似はしたくない。片瀬にはまだまだやらねばならない事があるのだ。
その甲斐あってか、番所での調べもなんとか無事に終えた片瀬は明け方近くにようやく八丁堀の役宅へと戻った。それから四日後の昨日、片瀬は突然、江戸町奉行の榊原主計頭昌成(さかきばら かずえのかみ まさなり)からお呼びがかかった。隠密廻り同心は町奉行直属、つまり榊原は片瀬の上司である。早速、奉行所に出向き、奥の役宅へと向かった。
「大儀であった」
座敷に通されて間もなく、襖を開いて現れた榊原に、
「お呼びにございましょうか、榊原様」
「ふむ・・・・・・」
榊原は上座に座るとすぐに胸元から白い書面らしきものを取り出した。それを目にした瞬間、片瀬は何かに気付いたかのように即座に低頭の姿勢を取った。それはまさしくお上からの上意書であった。
そして、榊原の口から重々しく告げられた内容に呼応したかの如く、障子の向こうから庭園内の四阿近くの池から鯉が跳ねる水音が耳朶を打った。
「え・・・・・・私が吉原面番所の専任に、ですか?」
本来なら上意を伝えられた者は即座に「お受け致します」と応えるのだが、片瀬は思わず驚きの反応を発した。四日前の、佐伯の死ぬ間際に放った「吉原へ行け」という言葉が脳内を過ぎった。
「実はな、あの佐伯が亡くなる直前に幕閣のさる御方からお口添えを頂いて、お主を面番として吉原に送り込めるようにしていたようだ」
「佐伯殿が・・・・・・」
「わしも正直、驚いている。お主も知っての通り、面番所詰めは北と南それぞれの隠密廻りが交代制を取ってきた。それを急遽廃止して、このような形でお役目を受けることなど滅多にない。しかも、佐伯にそのような伝手があったとは・・・・・・だが、どんな形であれ、これは紛れもなくお上直々の命だ。謹んで受けよ、片瀬蘭之介」
「は!ーー片瀬蘭之介、謹んでお受け致します」
「それとなーー佐伯から手紙を預かっておる」
そう言いながら榊原が胸元から抜き取った白い紙包みを片瀬は受け取ると、すぐに目を通した。そこには連続焼死事件の被害者の身元と、吉原に出向いていた日時等が詳細に書き記されていた。日時はばらばらだが、それは確かに全員が死ぬ前に吉原のある妓楼に出入りしていた記録であった。なかには素性を偽った上で登楼客として出入りしていた者もいたようだ。自分でさえも掴めなかったこの事実を、佐伯はいつ、どのように?
「お主に探索を命じておる一連の不可解な火付け殺し、どうやら殺された者全員が吉原と繋がりがあったようだ」
「では、佐伯殿はそれを知って私を面番にーー」
「やはり、お主にも話していなかったか・・・・・・」
佐伯の不可解な最期を遂げた数日前の事件の真相について、片瀬は榊原にも実は一切告げていなかったのだ。はっきりとした理由はなく、ただ片瀬自身の勘がそれを止めていたからだ。もし、あの時、断末魔の佐伯の口から吉原の名を聞かされていなかったら今の自分はもっと驚きを隠せない意外な反応を見せていただろうなと、片瀬は一瞬思った。
「あの男はいつも何かをはぐらかすような振る舞いを見せながら、陰では地道に足を稼いで捜査に当たっていた。その佐伯が最期に命を賭けて掴んだ、隠密廻りのお主でさえ知り得なかった唯一の手掛かりだ。おそらく身の危険を察知した瞬間から万が一に備えて・・・・・・否、むしろ最初から全てをお主に託すつもりでいたのかもしれん。まこと、惜しい男を亡くしたものだ」
「だとしても、何故佐伯殿は私に・・・・・・」
「単に、お主が隠密廻りであるという理由だけではない、と?」
「いえ、そういうわけではーー」
「とにかく、殺された者全員が吉原に出入りしていたという共通点があるからには、おそらくそれを狙ってのこと。もしかすると、下手人も吉原に直接関わりのある者かもしれん。分かっていると思うが、吉原には一晩で金一千両が落ちるとも言われる程、日夜江戸中の男達が集まってくる官許唯一の遊里。それ故に神君家康公の時代より御公儀とは裏表いろいろな繋がりがある場所だ。だが、その一方で外界と隔てた造りと独自の掟が支配する特殊な環境から以前より奇怪な噂には事欠かない妖異渦巻く所とも聞いている。その意味において、吉原の実体については我らも未だに掴めていない。それに、あそこも奉行所の支配下とはいえ実際にその力が及ぶのは大門まで、そこから先は遊女達や妓楼の男衆が何をしようとこちらはなかなか口出し出来ぬ。くれぐれも心してかかれ」
「ーー心得ました」
その翌日ーーつまり今日、片瀬と勝吉は吉原面番所詰めとして常駐することになり、こうして一路、吉原へと向かっていたのだ。
佐伯が死んだ現場から近い柳橋の船宿から猪牙船で神田川をくだって隅田川へ入り、そのまま川をさかのぼり山谷堀の入り口・今戸橋で降りる。そこから三ノ輪まで続く日本堤と呼ばれる土手を徒歩で向かい、「見返り柳」ーー吉原の登楼客が名残惜しそうに廓を振り返りながら現実世界へと戻る意味ーーと呼ばれる吉原のシンボルとも云える柳の前を過ぎ、衣紋坂を下るとやがて、ゆるいS字カーブを描いた五十間道に入る。道に沿って並ぶ編笠茶屋を横目に進むと、その先にようやく見えてきたのが吉原遊廓の出入り口・大門、又の名を外界(現実)を捨て去った者がくぐる「極楽門」である。
「旦那、やっと見えてきましたぜ」
頭に笠を被って桐油合羽を着込んでいる勝吉が、視線の先にある堅牢な両扉の冠木門を指差した。その門を入ってすぐにあるのが、吉原面番所であった。
吉原面番所ーー通称「面番所」。大門をくぐってすぐの、向かって左側に位置する。その大門の脇にはもう一つ、面番所と通りを挟んで向かい合う形で常に吉原の出入りを監視している場所がある。それが向かって右側にある「吉原会所」こと四郎兵衛会所。言わば吉原の秩序維持の為に設けられた自警団であり、廓内の治安を護っている。この門の脇では番方と呼ばれる男達が常に通行人を監視チェックし、特に遊女の「足抜」ーーすなわち、脱走に目を光らせている。それに対して、面番所は北町・南町それぞれの奉行所から隠密廻り同心と岡っ引きが交代で常駐し、お尋ね者や怪しい者が出入りするのを見張るなど事件事故の警備や取り締まりにあたっていた。名目上、吉原は町奉行所の支配下となっているが、実際には廓内の自治は吉原会所が全権を握っている。
今回の面番所詰めへの移動に際して、これまでの北と南の交代制を廃止し専任として片瀬を配したのはその裏に一連の連続火付け殺しとの繋がりを探る、もう一つの使命も帯びていたからだ。だが、それは身を挺して片瀬を護り死んだ佐伯によって、既に準備されていたことだった。
ふと、片瀬は右手首に填めていた七色輝石の念珠を見つめた。あの晩、頭上から突然襲いかかってきた人影ーー人型に切り抜いたような闇の存在から護るように、この念珠はいきなり何の前触れもなく眩い光球を放って周囲を白光の世界に呑み込んだ。そして、光の消滅後に残されたのは片瀬を庇う形で背後からいつの間にか斬られていた挙げ句に、血煙を噴き上げながら分断された瞬間に火に包まれていった佐伯の無惨な死のみだった。あの僅かな瞬間の記憶は未だに思い出せないままである。あの時、一体何が起きていたのか。佐伯は誰に斬られたのか。あの宙から降ってきた人型の闇は何者なのか。そもそも、何故、自分がこうして今、生きていなければならないのか。何故、自分でなければならないのか・・・・・・
お上からの厳命は間違いないものの、佐伯が伝手を使ってまで自分を此処吉原へ送り込もうとしたのには、何か別の理由があるのではないか。昨日、榊原様に思わず正直な思いを洩らそうとし、でも結局口にすることが出来なかったのはこれであった。佐伯の最期の言葉が再び蘇ってきた。
(吉原三千に邪悪なる炎立つ時、全ては眼醒めて消えるーーか。一体、私に何をさせたいんだ、佐伯さん・・・・・・)
「どうしたんです、旦那?」
少し先を行っていた勝吉が歩みを止め、やや心配そうに片瀬の方を振り返っていた。
「ーーい、いや、何でもない」
「佐伯の旦那の為にも、必ず下手人を捕まえましょうぜーーね、旦那」
「あぁ・・・・・・そうだな」
片瀬は微かでも疑念と寂寥を声に乗せぬように、だが曖昧な表情で返した。