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第四話「闘」

 佐伯の、馬を思わす面長の顔はさらに翳りを帯び、眼つきはまるで別人のような鋭さを放っていた。そして、全身からはぞっとするような冷たさが漂ってきた。同時に、月が再び雲間に隠れ、辺りを闇へと染めていく。

「八王子の商家で生を受け、定町廻りとして召し抱えられて五年。流行病はやりやまいで妻を早くに亡くしたが、それでも今日まで平凡と退屈の日々だった。その思い出や記憶が俺には何の疑いもない、当たり前のものだと信じてきたのが・・・・・それだけじゃない・・・・・・現在いまある平穏も、秩序も、人も町も、周りの物全てが真実を欺く為の虚妄きょもうだなんて、正直今でも信じたくないぞ・・・・・・だがーー」

 佐伯は元々、商家の出だった。それが同心株を買い取ったことから今の地位を得て、南町奉行所勤めとなったのだ。

 それが引け目となっているのか、普段はその薄ぼんやりな容貌とはっきりしない立ち振る舞いから昼行灯な印象を与えるが、実は鍛錬を欠かさない剣の腕は片瀬に負けず劣らずの上、常に一歩二歩先を見通している、かなりの切れ者だ。その為、捜査のやり方の食い違いから上役達には忌み嫌われているが、片瀬はそんな佐伯が決して嫌いではなかった。だが、今宵の佐伯には片瀬の知る真の素顔からは想像もつかぬ、静かに剣先をこちらに向けながらも内なる混乱に緊張と戦慄を隠しきれない、危うさのようなものが全身から噴き零れていた。白い刃光が小刻みに震えていたのが証拠だ。

「一体、何があったのでーー」

 その言葉が終わらぬうちに、佐伯が上段から仕掛けてきた。すかさず抜刀し、刀身に左手を添えて真っ向から受ける片瀬。佐伯が刃をぐいっと押し付けながら、

「よく聞け、片瀬蘭之介!ーーこの江戸は、否、この泰平の世は途方もない秘密をはらんでいるぞ!」

「ーー秘密?」

「今のお前に問うても詮無きことやもしれんが、それでもあえて問おうーーなにゆえ、我らはこの世に生きているのだ!?そして、この先何処へ向かうのだ!?そもそも、“奴ら”にとって我らは一体何なんだ!?」

「佐伯さん・・・・・・私には何の事やらーー」

「それを知ったところで今更我らの生き方が変わるわけでないが、それでも・・・・・・それでも、せめて教えてくれーー我らに存在する理由はあるのか!?」

 激しく拮抗し合う二つの刃に再び月光が降り注ぎ、その跳ね返す光が互いの顔に当たって揺らめいた。

 ーー斬る気、か・・・・・・

 先程までの幽鬼の如き冷たさが嘘のような狂気を宿した佐伯に片瀬は冷ややかに一瞥しながらも、その内に秘めた感情は驚きから興奮へと、再び冷たい炎が胸の中で燃え始めた。次の瞬間、佐伯の刃を下から上へくるっと押さえ込んだ。

「話が全く見えませんが、貴方がその気ならーーこちらも容赦しない」

 その刹那、二人は弾かれるように離れた。その隙を縫うように、佐伯の刃が首すじへと踊った。

 片瀬の太刀はそれを払い、間髪入れずに袈裟斬りへと奔った。仰け反るように佐伯が躱すや否や、夜気を薙ぐように斬撃を繰り返す。

 振って、斬り下ろし、巻き上げ、また突くーー白刃は互いに閃いて、月光を刷いて、太刀風を巻いた。

「その前に、こちらも教えて頂きたいーー佐伯さん、貴方は一連の殺しについて何を知っているんですか?“途方もない秘密”とやらと繋がりがあるんですか?“奴ら”とは下手人のことなんですか!?」

「そ、それはーー云えぬ」

 一瞬、佐伯の鬼気に乱れが生じた。

「何故です!?そのことを話す為に我々はこれから落ち合うはずだったのでは?」

「話したくても話せないのだ!言葉を放とうとしても途端に声が出なくなる。つまり、俺にはお前の問いに対して直接答えることが許されてないからだ。だが、その代わりに違う形でお前に全てを知らせることが出来ると聞かされた。それは私にしか出来ない役目とも、な・・・・・・その手段を知って、正直何度も迷った・・・・・・しかし、事此処に至って、“奴ら”の仇敵きゅうてきが勘づいたと知った以上、もはや迷ってる段階ではないと。かなりの荒療治だが、それしか方法がないとなーーだから、俺は腹を決めた」

「いったい誰に聞かされたのです?」

「我ら人には到底、太刀打ち出来ぬ存在ーー“奴ら”さ」

「だから、その“奴ら”とは何処の何者なんですか?」

「一人だけ、名乗ったーー〈這い寄る混沌〉とな」

 ーー〈這い寄る混沌〉?

 その名を胸のなかで復唱した瞬間、心臓がひとつ、どん!と一際大きく鳴った。

 遠くから、また犬の遠吠えが聞こえてきた。

 そして、三度目の太刀同士の絶叫が夜気を震わせた、まさにその時ーー

「!?」

 入り口に背を向けながら佐伯の刃と交じ合わせていた片瀬の頭上に、突如新たな気配が生まれた。

 片瀬の感覚では遥か頭上から突然姿を現し、しかも眼前の佐伯とは比べものにならない程の殺気を放射しながら、こちらへと降下してくるーー研ぎ澄ました全身の神経がそう感知していた。先程、目撃した鬼とは明らかに異なる別の存在だ。

 ーー一体、何奴だ!?

 つば迫り合いの拮抗状態で振り返ることが不可能な片瀬には極めて不利な状況。不意打ちか、畜生め、と片瀬が罵る。

 佐伯もこの気配の出現に気付いていたが、月光の所為で小柄と分かる輪郭以外はまるで闇そのもののように黒く塗り潰され、その容姿も人相も全く分からない。そんな佐伯は何故か動ずることなく、片瀬に向かって、 

「何を迷ってる!敵のお出ましだぞーー早く出て来い、片瀬っ!」

「ーーどういう意味ですか!?」

 さらに意味不明な問い掛けに眉を寄せる片瀬に、

「お前に云ってるのではない!こちらを覗き見している、もう一人のお前にだ!」

 片瀬のなかでますます混乱が渦巻いてゆく。もう一人の自分へ「早く出て来い」だと!?

 そうこうしている内に、人型の闇が片瀬の頭頂に迫った。その右手が突然、朱色の揺らめきに縁取られたーー炎だ。

 ーーまずい!

 禍々しい殺意と共に近付く熱波に片瀬が焦りの色を滲ます。そして、人型の闇が右手を眼下の片瀬に向かって不可視の直線を引いた、まさにその時ーー

 片瀬の眼前で突然、眩い光球が生まれた。右手首に填めていた七色輝石の腕輪数珠ーー念珠が目も眩む程の白い光を放ち始めたのだ。

 同時に、耳孔の奥でまた、あの不可解な音ーー「かちり」と一回、何かを嵌め込んだように鳴り響いた。

 その刹那ーー光は一気に膨張し、片瀬のみならず佐伯、そして人型の闇をも呑み込んだ。周囲一帯は音と色彩を失い、世界が白い光に包まれた。同時に片瀬の意識は急速に薄れていった。






 気が付いた時には、既に周囲は元の闇色を取り戻していた。

 ーー一体・・・・・・何が起こった・・・・・・?

 その時、消え入るような断末魔の声で自分の名を呼ぶ声を耳にした。同時に、仰向けに倒れていた片瀬はこの時ようやく、我が身に掛かる重みに気付いた。はっと気付いたように視線を下へ向けると、佐伯が自分に覆い被さるように倒れていた。

「佐伯さん!!」

 片瀬は慌てて半身を起き上がらせると佐伯を抱き起こした。その時、片瀬は佐伯の背中を見つめ愕然となった。首つけ根あたりから右肺上葉あたりにかけて朱い斬線が刻まれていた。いつの間に?否、誰が・・・・・・あの人型の闇の仕業か?

「か・・・・・・かた・・・・・・せ・・・・・・」

「しっかりしてください!いったい、誰にーーもしや、先ほどの・・・・・・?」

 あの不気味な人型の闇は何処にもいなかった。

「それより・・・・・・無事か?・・・・・・」

「はいーー佐伯さん、ひょっとして下手人はあ奴のことでは?」

「・・・・・・だから、申したであろう・・・・・・俺の口からは何も答えられんと・・・・・・だが、案ずるな・・・・・・奴は逃げたが・・・・・・これでよいのだ・・・・・・よいか、片瀬・・・・・・お前はこれから吉原へ・・・・・・吉原へ行け・・・・・・」

「ーー吉原!?」

「既に手筈は整って・・・・・・いる・・・・・・全てを知りたければ・・・・・・行くのだ・・・・・・吉原へーー」

 その瞬間、佐伯は片瀬を突き飛ばすや否や、渾身の力で起き上がるとゆっくり後退り始めた。

「佐伯さん・・・・・・」

「吉原三千に・・・・・・邪悪なるほむら立つ時・・・・・・全ては眼醒め、消えてしまう・・・・・・後は頼んだぞ・・・・・・」

 ふらふらになりながらも言葉を放つ佐伯。やがて、その口がぱくぱくと動かすのみとなった時、突然佐伯の首すじから刻み付けられた斬線から上がずるり、と左側へ滑り落ちた。

「!!」

 眼を剥いた片瀬の前で二つに分断された佐伯の身体は次の瞬間、ほぼ同時に炎に包まれた。闇夜の下、朱色の熱風が片瀬の容貌に凄惨さを刷いていく。その眼には紛れもない怒りが込められていた。

 ーー吉原三千に邪悪なる炎立つ時、全ては眼醒めて消える・・・・・・

 片瀬は胸のなかで佐伯の最期の言葉を呟いた。

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