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第三話「炎」

 炎に呑み込まれる寸前、片瀬は手にしていた提灯を投げ捨てるや否や、脱兎の如く後方へと飛び退すさった。同時にたもとから瑠璃色の小さな硝子玉=びぃどろ玉を数個掴み出すと、炎の奥に向けて一気に放った。

 老人との間を遮るように突如噴き上がった紅蓮の炎は一瞬にして屋台を覆い尽くした。おそらく片瀬以外ならば、逃げる余裕すら与えられずに炙られ灼かれているはずだ。

 やり過ごしたのは片瀬だからこそ成し得た神業。その生死を分ける僅かな一瞬での本能的な反射神経と瞬発力、まこと恐るべし。

「実に分かりやすいが・・・・・・そうこなくては、な」

 片膝立ちの着地した姿勢から、酷薄な笑みを浮かべながらゆっくりと立ち上がった片瀬。その視線は、まっすぐに前方ーーばちばちと黒煙を上げ真っ赤に燃え崩れていく屋台を退けながら、ゆっくりとこちらに近付く人型の炎へ注がれていた。つぶてのように飛ばした先ほどのびぃどろ玉は、身体のあちこちにめり込んだままになっていたが、そのほとんどが炎に溶け崩れつつあった。

 片瀬はこのびぃどろ玉を袖が絡まない為の「袂落とし」として常に袂に忍ばせているが、小石と変わらぬ重さから今のように武器として投擲することもある。だが、残念ながら今回はその効果を発揮出来なかった。

 しかし、片瀬のなかではこの時を待っていたかの如く、刺激に飢えたもう一人の自分が今、興奮に熱い血をたぎらせている。

 ーー勝吉、お前の言う通りになったぞ。だが・・・・・・

 その一方で、片瀬のなかで未だ自問自答が繰り返された。今、眼前に迫るのは火に包まれながらもゆっくりと地を闊歩する人間。着物はとっくに燃えてしまい裸状態だが、そこからは溢れんばかりの殺気が漲っていた。

 こいつは人じゃないーー普通ならまず、そう思う。だが、そんな存在を前に、驚くどころか旨酒に酔いしれたかの如き興奮にうち震える己はいったい何なのか。その興奮も次第に歓喜にも近い感情へと塗り替えてゆくではないか。

 ーーもしや、自分は前にもこんな輩を目にしたことが・・・・・・否、そんなはずはない。じゃあ、この何とも云えぬ懐かしさは一体・・・・・・?

 そんな片瀬の内なる混乱など知る由もなく、火だるま状態になりながらも尚もゆっくりと迫りくる蕎麦屋の老人。両手を前方に掲げ、その五指は今にも掴みかからんと獣の如く曲げられ、真紅に濡れた双眸は夜目にも分かる程に爛々と光っていた。

 とにかく、今はこいつを何とかせねば。混乱を打ち消しながら、片瀬は身体をやや左に向けつつ半身にすると同時に右手を下から支えるように太刀の柄を軽く握り抜刀した。左足をやや後方へひきつつ、剣先を相手の喉元に定め、月光を弾くように青眼に構えると、

其処許そこもとが一体何者かは知らぬが、一連の殺しに関わりがあるとみたーー神妙に致せ。さもなくば、この場にて処断する」

 ここは柳橋。深川の岡場所や吉原通いの猪牙船ちょきぶね、両国の納涼船などの拠点であり、すぐ近くには船宿ばかりでなく多くの料理屋も軒を連ねている。それに深川から芸者もたくさん流れて花街としても賑わいがある。この炎と黒煙で騒ぎになるのも時間の問題だろうし、今、町火消しや奉行所の捕り方が駆け付けるといろいろと面倒だ。今は何よりもまず佐伯とこれから逢わねばならないのだ。ここは早いところ決着をつけねば・・・・・・

 その時であった。

 ぼこっ!ぼこぼこぼこぼこっ!!

 突然、老人を覆う炎の輪郭が大きく歪み始めた。老人の全身のあちこちが瘤状に隆起し、瞬く間に大きく膨れ上がったのだ。

 片瀬の目には、それはさながら巨大な葡萄の実のように見えたので一瞬不気味さを通り越してユーモラスにさえ見えた。

 そんななかで片瀬はある音を聞き逃さなかった。眼前の老人の口から微かに漏れ聞こえてくる言葉、だがそれは初めて耳にする意味不明なものであった。

「・・・・・・ふんぐるい、むぐるうなふ・・・・・・くとぅぐあ、んがあぐあな、ふるたぐん・・・・・・いあ、くとぅぐあ・・・・・・ふんぐるい・・・・・・」

 ーー異国の言葉・・・・・・それとも何かの呪文か?

 夜の闇に溶けていく謎の言葉。同時に瘤の一つ一つがついに人の頭程にまで膨張した次の瞬間ーー瘤が破裂した。びしゃっと、嫌な音と共に飛沫が地面に降り注いだ。片瀬が足下近くにまで飛び散った血を見つめた。それは怖気を誘う程にどす黒かった。

 その視線が再び炎の老人の方へと戻り、破裂の元凶を視認した片瀬は、

「な、なんだ・・・・・・あれは」

 その目は徐々に驚愕に剥かれていった。

 瘤の中から孵化したように現れたのは、球状の炎を形成する西瓜くらいの大きさの物体ーーまさに火の玉であった。

 次々と宙に浮かんだ燃えさかる物体は計十個。老人の首を押し退けるように肥大した瘤から最後の一個が誕生し巣立った瞬間、老人の全身を覆っていた火は突然消滅し、骨まで見える程に無惨な変貌を遂げた身体は垂直に崩れ落ちていった。

 そして、その炎球の群れは何かに弾かれたように闇の中を奔った。片瀬を取り囲むようにぐるぐると旋回する動きは、まるで地上にいる小動物をいつ、どこから襲いかかるか思案中の鷹のようであった。

 ーーまさか、これが一連の殺しの・・・・・いや、違う!

 片瀬の勘がすぐに否定した。やはり、この怪火は一連の事件の下手人でない。昼間の事件現場で佐伯の肩越しから屍体を覗き見した限りだが、黒焦げた以外にあんなひどい損傷は見当たらなかったのだ。むしろ、どんな方法かは知らないが、これは明らかに老人の体内にこいつらを潜り込ませた上で俺を狙って待ち伏せしていたのだ。だとすると、それを仕掛けたのが真の下手人・・・・・・だが、そいつは何故俺を?

 それも束の間、炎球達は突然その動きを停止させるや否や、そこから一気に真ん中にいる片瀬へと迫った。

 前後左右から火の群れが片瀬に襲いかかった瞬間、片瀬は刀身を背負い込むように背後へ廻し、剣先を地面に突き立て大きく反り返った。

 交わしてやり過ごした直後、すかさず渾身の力で起き上がるとそのまま膝をついた姿勢で近くにいた二つの炎球を真っ向斬り。地に落ちた炎球は二、三度痙攣に似た動きを見せ、やがて消滅した。

 続けて片瀬は地を蹴るや否や、前転斬りの一閃でさらに三つを斬断。

 残り、五つーーそのうち、受け身を取って立ち上がった片瀬の背後から再び襲いかかった二つの炎球。その寸前、片瀬は背後へと返す刀で斬り上げ、まとめて両断した。

 その片瀬の遙か頭上から、残りの三つが一気に降下してきた。気付いた時にはもう眼と鼻の先だったーー間に合わない!

 その時だった。片瀬の視界に、夜の闇の中からこちらへと向かってくる一筋の白い光条が入ってきた。

 まるで鞭のような、しなる動きを見せながら宙を迸ったその光は、片瀬にあと一歩まで迫った炎球三つを横から次々と貫き、串刺しにしていったのだ。最後の三つもやがて消滅すると、その光条は再び元の軌跡を辿りながら闇の奥へと吸い込まれていく。視線を走らせる片瀬。

 同時に月が雲間から銀盆の如く顔を覗かせた瞬間、天空から片瀬に告げたのは遙か視線の先ーー廻船倉とおぼしき倉庫の陰に潜んでいた戦慄の黒影。よく眼を凝らすと、そのなりは筋骨隆々たる巨躯を思わせ、その頭頂辺りからは紛れもない二つの尖ったものが生えていた。

 ーーあれはまさか・・・・・・噂の鬼か!?

 一連の焼殺事件の現場付近で目撃され、その度に草紙屋が発行した瓦版によって好奇心旺盛な江戸の人々をさらに震え上がらせた存在。

 その奇怪な影が片瀬の視線に気付いたか、倉庫の向こう側へと姿を消した。

 ーーならば・・・・・・佐伯さんには悪いが今夜、一気に片を付けるか

 片瀬の口元にあの冷たい笑みが浮かんだ。佐伯以外にこの男の生来の癖を知る者が今この場にいたら、またかと呆れていたかもしれない。

 元来た通りの方からやがて、複数の入り乱れる声と足音が聞こえてきた。どこだ?おい、こっちだ!と叫び交わす声が近づいて来る。

 片瀬はすかさず刀を血振りし鞘に納めると、履いていた雪駄を脱ぐや否や、脱兎の如く地を蹴った。目指すは異形の影が消えた倉庫の奥だ。

 だが、片瀬がその倉庫と倉庫の間の細長い空間へ辿り着いた時にはその姿は何処にも見当たらなかった。通りと思われた先は行き止まりだったからだ。

 ーー消えた・・・・・・一体何処に?

 遠くから犬の遠吠えが聞こえてきた。

 その時、片瀬は背後に人の気配を感じ、入り口の方へと振り返った。

 そこに浮かび上がった人影は、先程の鬼とは違った。

 顔が隠れる深編み笠に着流し姿、腰には一本落とし差しの浪人ふうの男。その深編み笠に手をかけると、男はゆっくりと持ち上げた。その下から、

「どうやら、敵はもうこちらに気付いたようだな・・・・・・もはや、一刻の猶予もないかーー片瀬、今一度刀を抜け」

 深編み笠を外した男の容貌を見た途端、思わず息を呑んだ片瀬。

「佐伯・・・・・・さん?どうして、此処に・・・・・・」

 その眼に映ったのはまさしく、ゆっくりと抜いた刀の剣先でこちらに不可視の直線を引いた、南町奉行所・定町廻り同心の佐伯清八郎であった。


 再び、もうひとつの知られざる闇が江戸の夜の帳を重く、そして禍々しく縁取り始めていた。

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