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第二話「闇」

 四ツ(午後十時)少し前ーー柳橋の夜を月の光がほのかに照らしていた頃、片瀬は佐伯との待ち合わせ場所である船宿を目指して一人黙々と歩いていた。

 時折吹く夜風は肌寒さと共に、先ほどから片瀬にしか感知出来ない異形の気配を乗せて、六尺(約一八〇センチ)近い鍛えられた全身をなぞってゆく。

 ーーまた、か

 いつもの“あれ”だと片瀬はすぐに看破した。それは一見いつもの見慣れた夜でありながら、その夜気のさらに奥の彼方から感じずにいられない、まるで射抜かれているような視線。

 ずっしりと重く、全身を舐めるように這いずられる、その不快感は常人には耐えられず、すぐにその場を後にするだろう。

 たとえ、耐えられる者がいたとしても、やがて意識ごと飲み込まれていくかもしれない。その先に待つのは深淵なる闇のはずだ。

 だが、それは片瀬以外の場合である。片瀬にとってはそうではなかった。

 この世から決して絶えることのない、有るか無きかの僅かなざわめきすら遠ざかった深奥なる暗黒。その、自らの息を呑む音すら響くような静謐さは決して嫌いではなかった。

 たまに深更の夜に出歩くと必ず感じる、この姿の見えない何者かの視線と気配は、隠密廻りになってから始まった。

 だから、昼間に突然襲った脳内の怪音と時折目にする瞬間的な幻視現象も含め、これらは全て隠密廻りという職務故だと、半ば強引に自らに言い聞かせていた。

 怒りや恨みの矛先を向けられて至極当然、何時何処で命を狙われても決して不思議ではない。それは隠密廻りになった時から既に承知していた。だからこそ、諦めではないが割り切って考えるようにしてきたのだ。そこに何者かの意図や存在を見出そうとする気持ちはこれまでは何故か湧かなかった。

 だが一方で、これまでに幾多数多の幻怪無比な難事件に接してきた時と同様、己の精神の奥底でうち震えるような愉悦を覚える、魔性の如き異なる自分の存在にも薄々気付いていた。

 昼間、勝手に右腕を内側から操ったものだ。

 ーーもしかしたら、得体の知れないものは俺自身の中に巣くってる、もう一人の俺なのかもしれん・・・・・・そいつが中から外側の俺をずっと覗き込んで・・・・・・否、そんなわけはないな

 心のなかで半ば自嘲気味に零した時、ふと昼間の勝吉の言葉が脳裡をよぎった。


(“昏夜”に変なことを口にしたら化け物が出て来やすぜ)


 ーー化け物、か。それなら、とっとと姿を見せてほしいものだが

 そういえば、と片瀬はこの時ある事を思い出した。一連の連続焼殺事件のそれぞれの現場周辺で事件当時、何人かの町人が奇怪な人影らしきものを目撃していたのだ。

 はっきりとした人相や風体は誰一人として見た者はいなかったものの、ある興味深い一点のみ目撃者全員の一致を得ていた。その中である町人は言葉を震わせながら、こう口にしたーー「あれは、間違いなく“鬼”だ」と。

 目撃者全員の目に唯一はっきりと視認出来たのは、その人影の頭から天に挑まんと真っ直ぐに生えた、まぎれもない二本の角だったのだ。

 この事を知った片瀬は当初、半信半疑だった。だが、その後過去の似た事件や未解決の事例に関する調書、それらに繋がる様々な文献資料等多岐に渡り調べていくうちに片瀬はある事実に辿り着いた。

 こういう妖怪怨霊といった、いわゆる「物の怪」と呼ばれる類いの目撃例にはある共通点が存在していたのだ。すなわち、“火の玉”とも云われる怪火の存在についてもほぼ同時に目撃・報告されている事だ。

 そのなかで全国に事例のある怪火の一種で、天火てんびというものがある。

 ある資料によると「これによって家を焼かれた者や死者が多数いる」とあり、「昔、やりたい放題を繰り返していた非情な代官の屋敷で火の気のないはずの場所から突然火が出て全焼、自身も焼死し、これまでに蓄えた金銀、財宝、衣類があっという間に煙となって消えた。この火災の際、天から火の玉が降ってくるのが目撃された」と記されている。

 非常な代官を懲らしめる教訓としての意味合いが強いが、これは恐らくたまたま悪業の称号を与えられたような人間に起きた怪異にそのような解釈が後から付け加えられたのだろう。

 こうして、今改めて思い出してみると、今回の一連の事件が天火のような怪火現象によるものかはともかく、その鬼と覚しき存在の方がむしろ事件の鍵を握っているのではないかと徐々に思い始めた。

 昼間、佐伯の前ではあえて人外の存在による事件の関与に否定も肯定もしなかった。だが、内心では今までの事件とは一線を画した何かが背後に蠢いているような気がしてならなかったのだ。

 そして、片瀬のなかではもうひとつの推測が生まれた。すなわち、これら一連の事件の背後に蠢く不定形の闇と、自らの身に起きている幾つかの不可解な現象はひょっとしたら、根っこの部分で繋がっているのではないだろうかーーふと、そんな漠然とした予感がしたのだ。

 特にこれといった明確な根拠はないが、隠密廻りとしての勘が片瀬自身のなかで何かを囁いているのだ。そして、この勘こそ、片瀬が今日まで命を長らえてきた証拠であり、隠密廻りとして支えてきた源であるのだ。だが、それはよくない兆候にこそ真に発揮してきた。

 正直、同心としての矜持など最初からない。隠された真実を知りたい、それだけだ。

 しかし、もし、この一連の事件に秘められた真実を明らかにすることが出来た時、果たして自分は自らの確固たる存在を維持していられるのだろうかと、不安がよぎった。これまでとは大きく異なる変化を余儀なくされるのではないだろうか。

 ーーいったい誰に?・・・・・・何のために?


 今回に限らず、与力や同心は事件に漂う怪異そのものに対して口が重いのが常である。下手に触れようものなら、それはある意味こちらの負けを意味するようなものだからだ。

 ある同心の一人が以前こう言ったーー「我々がそれを口にしたら、おしまいですよ」と。

 そんななかで昼間の佐伯はこれまでとは違っていた。あの時一瞬、何かを口にしようとして躊躇った。明らかに事件に関して何かを知ってるようだ。果たして、佐伯の言いかけた事とは何なのか?それも、もう間もなくはっきりすることだが、それでも片瀬には嫌な胸騒ぎがしてならなかった。

 そんな一抹の不安が怜悧で端正な容貌を掠めた片瀬の視界に突如、その不安を払拭せんとある救世主が飛び込んで来た。同時に片瀬の耳孔の中にも入り込む。

 それは耳朶をなぶる夜風と共に、「ちりんちりん」と鳴った。

 片瀬が音の鳴る方へ視線を向けると、その先には市松模様の屋根が付いた屋台があり、そこに吊された風鈴が見て取れた。行灯に書かれた「二八」の文字で分かった。蕎麦の振り売りーー夜に売り歩くことから、江戸では夜鷹蕎麦と呼んでいる。街娼の呼び名でもある「夜鷹」が出る頃に流していることからそう呼ばれていた。

 約束の刻限までにはまだ少し余裕がある。それよりも、今日はろくに口には何も入れておらず胃の中が空っぽだった所為か、片瀬は迷わずにゆっくりと屋台見世へと近づいた。

 最近は事件の影響で火の使用に対しては町全体が神経質になっているが、片瀬は特に気にしていなかった。

 荷台を挟んだ向こう側で背を向けてしゃがんでいた、枯れ枝のような身体の主人らしき老人に、

「おい親父、一杯くれ」と告げた。すると、

「・・・・・・旦那、悪いんですが・・・・・・蕎麦はもう・・・・・・終わっちまいまして・・・・・・」

 こちらに背を向けたまま、しかもたどたどしい口調でどこか不自然さが否めない。片瀬の目が一瞬、細まった。同時に腰の鞘へ左手親指を掛けるや否や、ゆっくりと鯉口を切った。

「ほう、そいつは残念だな」

 悟られぬように平静を装いつつ、ぎりぎりまで相手の出方を見ながら片瀬が答えると、

「・・・・・・今日、あるところから出前を頼まれまして・・・・・・うちは外番かつぎもやっておりやすんで・・・・・・」

 外番とは出前持ちのことで、客の方が蕎麦屋に直接出向き注文することになっている。又、出前注文は十数人以上の大口注文が普通であり、吉原遊廓などを除いて使いが出せるようなところで大名、旗本屋敷、寺院、大店などが主な顧客であった。

「どこに出前に行ってきたんだ?」

「・・・・・・吉原にある・・・・・・〈現夢屋〉でございます・・・・・・」

 〈現夢屋〉とは吉原で最も有名で人気のある高級妓楼である。片瀬も名前だけは耳にしたことがあった。

「届け終わって、見世をあとにしようとした時・・・・・・たまたま、あの花魁をみかけて・・・・・・そりゃあ、もう噂以上のべっぴんで・・・・・・こんな老いぼれのあっしも、すっかり心を奪われちまいました・・・・・・」

 それまで抑揚のない口調だったのに、余程その花魁の美貌が老人の心の琴線に触れたのか、一瞬うわずったように聞こえた。

 たしかに「花魁」は、吉原にいる遊女達の頂点に君臨する格の高い存在。まさに男たちのあこがれ。武家のお姫様にも劣らぬ才色兼備で、まさに江戸の理想の恋人。美しさのみならず教養、品格を自ら徹底的に磨き上げた花魁に老若男女問わず目にした者全てが虜になるのも無理はないだろう。だがーー

「・・・・・・それから、大門を抜けて帰ろうとしたら突然、誰かに肩を叩かれまして・・・・・・それで振り返ったら急に目の前が真っ暗になっちまって・・・・・気付いたら、不思議なことにあっしはいつの間にか此処に座っておりやした・・・・・・」

「気味の悪い話だな。その、あんたの肩を叩いた奴の顔は見てねぇのか?」

「・・・・・・へぇ、それがまったく・・・・・・でも、その代わりに一つだけ、思い出したことがございます・・・・・・」

「何だ、そいつは」

「・・・・・・その肩を叩いた奴にいつの間にか頼まれていたことがございまして・・・・・・今夜、此処で・・・・・・ある御方をお待ちするように頼まれたんでございます・・・・・・」

「ほう。で、待ち人とは逢えたのか?」

「・・・・・・へぇ、おかげさまで・・・・・・今、目の前に」

 その瞬間、片瀬の視界が突然朱色に染まるや否や、夜気を震わす轟音と共に全身を熱風が叩いた。

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