第一話「怪」
天に唾を吐きたくなるような、鉛色に染め上げられた世界が江戸八百八町を暗く、そして重く圧していた。
何かを覆い隠すかの如くーー
何かの目をそらすかの如くーー
そんな、雲の上の雷神様が今にも稲妻を落としそうな、すっきりしない昼九ツ(正午)の空の下、此処日本橋川にかかる常盤橋の橋台の一角は大勢の野次馬に取り囲まれていた。
「ひでぇな、こいつは・・・・・・」
草むらに横たえた筵の端を朱い房の十手で捲り上げると、そこから鼻孔を突き刺す異臭が漂ってきた。生前の面影を認めることも叶わぬ凄絶な変貌ぶりに、黒紋付の羽織に黄八丈の着流しの男ーー馬に似た面長の同心は、これで十人目になる黒焦げた亡骸に対する疑念と、その下手人に対する怒りをその特徴のある容貌に浮かばせていた。
「これでついに十人目、ですかーー佐伯さん」
佐伯と呼ばれた同心ーー南町奉行所・定町廻り同心の佐伯清八郎の背後から突然、錆を含んだ若い男の声がかかった。
「おう、片瀬か。さすが、嗅ぎ付けるのが早いな。今日は非番か?」
背後からの声に動じることもなく、あくまで視線は眼前の焼死体に注いだまま、佐伯は友の如く真後ろに立つ男ーー紺の着流し姿の若者に小声で応えた。
「隠密廻りに非番なんてありませんよ」
そう告げながら、片瀬と呼ばれた若い男は佐伯の肩越しから筵の下へ視線を向けながら、
「今朝、嫌な夢で起こされましたんで、もしかしたらと思いましたらそこへちょうど勝吉が来まして・・・・・・」
すると、佐伯は隣にいた小柄な男に、
「余計な真似しやがって。いつから、俺から片瀬に鞍替えしたんだ、てめぇは」
「よしてくだせぇよ、佐伯様。あっしはただ片瀬の旦那も同じ下手人を追ってると聞いてたもんですから・・・・・・」
岡っ引きの勝吉がばつが悪そうな顔で答えると、佐伯は再び片瀬に、
「今までに殺られた仏さんは皆、身分も住んでる場所もばらばら。それぞれに直接の繋がりは一切なし。全員、ある時突然、身体の何処からか火が点いて、瞬く間に火だるまになって死んじまってる。そんな不気味で無惨な手口の殺し、お前は人の仕業と思えるか?」
苦々しく呟きながら、佐伯はゆっくりと立ち上がった。
「ほう、すると佐伯さんの見立てでは一連の事件の下手人は人ではないと?」
佐伯の背後に立つ若者ーー南町奉行所・隠密廻り同心の片瀬蘭之介は、その口元に一瞬だけ薄い笑みを浮かべた。
「・・・・・・そんなに嬉しいか、片瀬。だが、前にも言ったが、その癖は人前で見せるな。ただでさえ、事件の所為で奉行所への風当たりが強くなってんだ。誤解を招くような振る舞いは控えろ」
佐伯だからこそ感じ取れた、片瀬の声に含まれた僅かな抑揚ーー難事件、殊に怪奇極まりない事件であればある程、この男の心の奥底から湧き上がる狂的な興奮と探究心が、片瀬の隠密廻りとしての腕を支えていることを佐伯は昔からよく知っていた。時々、背筋を冷たいものがつうっと滑り落ちてゆく感覚を幾度も味わったことがあるからだ。
端正な容貌でありながら、何処か野性味を帯び、だが時折少年のような純な部分も滲ませる。色の浅黒い精悍なきりりとした顔立ちに澄んだ黒瞳。刀身の如く、すらっと伸びた鼻梁。そして朱唇からこぼれる白いきらめき。武家も町人も関係なく、世の女全てがその精神を虚ろにさせてしまう魔性のような存在感がよっぽど人に非ず、と佐伯は常々心の中で感じていた。
今、この江戸を大きく揺るがし騒然とさせている連続無差別焼殺事件は、ひと月程前に始まった。
深川の材木問屋・相馬屋徳兵衛が五ツ半(夜九時)を過ぎた頃に突然火に包まれ謎の焼死を遂げて以降、神田鍛冶町の鍛冶師・定吉は七ツ(午後四時)に、奥州一帯を荒らし廻り最近になって江戸に隠れていた凶盗“首切りの金次”は八ツ(午前二時)の深更に、柳橋の仕出し料理屋の仲居・おみつは四ツ(夜十時)に・・・・・・その他、町医者、からくり師、呉服屋、貸本屋、髪結と続き、そして今日になり、ついに十人目の犠牲者である日本橋の小間物屋・能登屋の主である久兵衛が真っ昼間に怪異な人体発火によって焼き殺されてしまったのである。
「そいつが人であろうがなかろうが、この事件そのものの化けの皮を剥いでやるーーそれだけですよ」
その言葉を言い終えた直後、突然空気が凝結したような違和感が片瀬を襲いーー次の瞬間、耳孔の奥で「かちり」と不気味な音が鳴った。何かが外れたような、もしくは嵌め込まれたような。
(・・・・・・また、か・・・・・・)
片瀬は右手でこめかみ辺りを押さえながら、軽く舌打ちした。
最近、昼夜を問わず時折このような原因不明の変調が片瀬の身に起こっていた。医者にも診てもらったが、やはり原因を特定するまでには至らなかった。
「大丈夫ですか、旦那?顔色が悪いですぜ」
勝吉が心配そうに片瀬の顔を覗きこみながら声をかける。
「あぁ、気にするな」
疲れているのだろうかと当初はさして苦にもならなかったが、この妙な感覚は日を追うごとに片瀬にとって今まで見たこともないような、だが同時に心が吸い込まれていくような神秘的な光景を瞬間的に目にするまでになっていった。
広大な、だが深くどす黒い闇。
そのあちこちに浮かぶ無数の細かな輝き。
その奥の闇の、さらに奥の中心から何かが迫り出してくる。
ゆっくりと、身をくねらせるように。蠕動しながら、こちらに向かって近づいて来る“何か”・・・・・・
その正体が露わになる寸前に決まって視界は一瞬にして現実の色と形を取り戻してしまうのだった。そして、同時に片瀬の精神の中で何かがもぞりと、まるで寝返りをうつような不思議な感覚に見舞われるのだ。
その得体の知れない何かーーその一部がまさに今、一本の白い光のように突然体内を駆け巡り始めたのを感じた。
そして、その光と化した「何か」が片瀬の右手の指先へと向かってゆく。やがて、右手が見えない力に操られるように、ゆっくりと動き始めた。自らの意思に反して。
しゃがみ込みながら、その右手はゆっくりと前の方へ。筵の下に隠された焼け焦げた亡骸へと伸ばしてゆく。あともう少しで触れようかというところで、右手の動きはぴたりと停止した。
「触れるな」
片瀬の右手を止めさせた佐伯のこの時の声には、何故か今まで聞いたことがないような、寂寞にも似た、だが強い拒絶も込められた重いものを強く感じずにいられなかった。
「あ、いや・・・・・・私も隠密廻りとして事件を追っている故、少しでも手がかりになりそうなものを見つけなければ・・・・・・」
「手がかり、か・・・・・・それならば、他にある」
佐伯が意味ありげにぽつりとこぼした。
「え?」
片瀬のみならず、隣の勝吉さえも驚きの顔を刻んだ。
「いや・・・・・・此処ではよそう。片瀬、今夜は空いてるか?」
「えぇ、大丈夫ですが」
「よし。じゃ、四ツ(午後十時)に柳橋の船宿で落ち合おう。そこで教えてやるーー勝吉、何をぼうっとしてやがる。さっさと運べ!」
そう告げると、佐伯は検めを終えた死体を番所に運ぶように指示をすると、そそくさとその場をあとにした。
「へい・・・・・・それにしても何だったんすかね、今のは?佐伯様にしては様子がおかしいというか・・・・・・」
勝吉が佐伯の姿を目で追いながら片瀬に話しかけてきたが、
「さぁな。いずれにしても、今夜判ることだろう」
「くれぐれもお気をつけくだせぇ、旦那」
「はん?何のことだ」
「知らねえんすか?“昏夜”に変なことを口にしたら化け物が出て来やすぜ」
「化け物か・・・・・・お目にかかりたいもんだな、一度くらいは」
そう呟きながら、片瀬も佐伯の後ろ姿を目で追っていた。
この奇怪な連続焼殺事件について片瀬自身も御奉行から直々の調査の命を受けて動いていた。だが、依然として下手人の目星はつかず、手がかりすら掴めていないのが現状であった。そんななかで上司の先ほどの不審な言動・・・・・・今宵は何かが大きく動くかもしれないと、片瀬は悟った。
それにしても、さっきのあの時ーー片瀬の右手を内側から操り動かしたものは何だったのか。