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第十話「影」

「おぬしら、儂を相手にする前にその桐箱を何とかした方がよいかもしれんぞ」

 嗄れ声に冴兵司とお鬼怒は揃って灰色の天空を振り仰いだ。

「その箱はもうおぬしらのものではなくなったからのぉ・・・・・・くっくっくっ」

 配下の夜鬼達を一匹残らず消された状況下でも何処か愉しんでるような下卑た笑い声が冴兵司をさらに激昂させ、

「んだぁとお・・・・・・」

 頭上を仰ぎ見たこめかみに青筋が走った、その時だった。

「――冴兵司っ!!」

 隣のお鬼怒の声に尋常ならぬものを感じた冴兵司が桐箱へ視線を飛ばした。両眼の網膜が結んだ像に脳の認識が一瞬遅れたが、次第にその柳葉のような鋭い両眼が大きく剥かれていく。そして、口元からはぎりぎりと歯ぎしりの音が洩れた。

 視線の先に映っていたもの――そこにあるはずの桐箱はいつの間にか黒い煙のようなものに丸ごと包み込まれていたのだ。

 目を凝らすとそれは蓋の下から溢れるように噴き出し続け、徐々にその大きさを膨らませてゆく。その輪郭は生ある物の如く怪しく波立たせ、空気中に四散することなく箱に纏わり続けた。その様子はまるで膨張し続ける黒い雲そのものだ。

「おい、何を仕掛けやがった、糞爺ぃ・・・・・・」

 お鬼怒でさえ凍りつく程の凄愴な眼差しを見えない敵に浴びせようとする冴兵司の声に、

「じきに分かる」

 舌舐めずりの音すら聞こえてきそうな残忍暴虐さを滲ませながら受け流すと、

「ほれ、最後の仕上げじゃ」

 そう告げた老人の声に従うように、一軒家並みに巨大化した黒い紗幕の向こう側でさらに別の影が蠢いていた。

 そして次の瞬間、黒い煙塊を突き破って八本のねじ曲がった黒い筋が生えだした。その尖端は小さな鉤型を成して、まるで足場を探すように宙を藻掻きながら下向させ、やがて大地に食い込ませた。同時に煙が放出を止めると、その奇怪な姿を露わにした。

 そこに箱の面影は微塵もなかった。代わりに現れたのは――丸く膨らんだ醜悪な腹部、頭胸部から生えた四対の禍々しい歩脚、左右に鎌状の狭角が飛び出た口、その真上で不気味に輝く二つの紅い光点――それはまさしく、

「蜘蛛・・・・・・」

 お鬼怒の視線の先に映る巨大なそれは煙塊よりも更に濃い黒色に彩られた蜘蛛そのものであった。その血のような双眸が地上にいる二人を獲物と認識したのか絶対逃すまいと睥睨していた。すると、

 がしゃり!

 突然、冴兵司の袖口から一本の太い鎖がずるりと降りてきた。しかも、その端には槍穂のような鋭利な刃が装着されていた。大人の男でさえ両手で持ち上げるのがやっとなくらいの重量感だ。

 すると、冴兵司はそれを片手で軽く振り上げるや否や、ぶんぶんと大きな円を描くように回転させ始めた。

 そして次の瞬間、唸る円が白い一閃となって蜘蛛の頭を一気に貫いた。ずぼっ!と見た目に反して軟らかい貫通音を発した瞬間、それは奥深く沈み込んでいった。

 手応えを確認した冴兵司は鎖を腕に巻き付けながら一気に手繰り寄せようとする。

 次の瞬間、冴兵司の表情に動揺の波が渡った――びくともしない。

「な、なんだ?・・・・・・こいつは・・・・・・」

 熊でもいざとなれば絞め殺せそうな冴兵司の豪腕、その手の甲から腕にかけて葉脈のように血管が盛り上がって一気に筋肉が隆起した。だが、そこから繰り出された人間離れした力は完全に無効と化し、引っ張るどころかずるずると逆に引きずられているではないか。その眼は驚愕に剝かれ、野性味溢れる顔立ちが驚きと屈辱の色に染まる。

 ぐおおおぉぉぉ

 鋼鉄の鬼気と共に渾身の力を放つが、逆らう岩の如き巨躯はゆっくりと着実に黒い蜘蛛へ近づいていく。

 この時、槍穂が刺さった頭部の一点から半透明の粘着液のようなものが分泌して、鎖を伝っているのを視認出来た者が果たしていただろうか。

 それはまるで意思あるものの動きを示しながら、驚異的な速さで線状に繋がった環の一つ一つを包み込みながら、やがて鎖を巻き付けた冴兵司の右腕をも覆っていった。冴兵司を引きずり込もうとする元凶はまさしくこれであった。

 苦痛に表情を歪ませた冴兵司の異変に気付いたお鬼怒が、

「――どうしたんだい!?」

 すると、顔は蜘蛛へ向いたまま視線をお鬼怒の方へ移動させた冴兵司が、

「み、右腕に力が入らねぇ・・・・・・こいつはしくじったな」

「悠長なこと言ってる場合かい!なんとかおし!」

「あいにく・・・・・・右腕はもう使い物にならねぇ」

 冴兵司の言葉を証明するかの如く、粘着液に包まれた鎖が、右腕が、徐々にどす黒く変色していった。

「その通りじゃ」

 一向に姿を見せない老人の声が再び二人の耳朶を打った。

「箱廻しにしては面白味があったが、この江戸と同じじゃ。やはり嘘が蔓延るものは底が知れるわ」

「何様のつもりだ、てめぇ・・・・・・」

 常人ならば眼を覆う程の殺気の波動を叩きつけながら冴兵司が呻く。すると、頭上から再び、

「お前達はこの吉原を守りたいのか、それともあるじの眠りを妨げないようにしたいのか、どっちじゃ?」

 思いも寄らない問いかけに一瞬眉をひそめた二人へ更に、

「確かにこの江戸は儂でさえ侵入した瞬間、おのずとこの口調になってしまう程によく出来ておる。しかし、それも一つ間違えば呆気なく崩れ堕ちる・・・・・・それは奴らと立ち位置は違えど、お前達にとっても不都合なこと。当然ながら崩壊を阻止するであろうよ――だが」

 ここで一旦、言葉を切ると、

「こんな、とうの昔に滅んだ哺乳類の真似事を繰り返して何の意味があるのか知らぬが、儂から観れば只の愚かの一言に尽きるわ!そもそも、お前達の主は何故に奴らと取引を交わしたのじゃ!?こんな夢を永遠に見させることぐらい儂には朝飯前、それが何を血迷うたか邪悪極まりない異界の化け物どもを選びおって・・・・・・それが儂には――」

 頭上から降り注がれる怒りの声がまだ終わらぬ間に、

「お鬼怒、このままだと埒があかねぇ・・・・・・お前のアレで斬ってくれ」

「簡単に言ってくれるね」

「あんな奴に食われちまうくらいならお前の方がまだマシだ」

「どういう意味さ」

「いいから。さっさとやれ」

「面倒くさい男」

 次の瞬間、お鬼怒の右手から紅い一閃が迸った。一際大きな鮮血の華が宙に開いた。





 同じ頃、大見世の妓楼〈朝日屋〉から遠く離れた此処――目抜き通りの仲之町を軸に大門側から見て右側奥にある京町一丁目。その通りに面した、とある中見世の入り口。その暖簾の奥から突然着流し姿の男が転がり出て来た。

 まるで突風に吹き飛ばされたような凄まじさで、男が「痛てて」と腰に手を当てながら起き上がろうとした次の瞬間、首根っこが背後からぐいっと持ち上げられた。男の背筋を冷たいものがつうと奔った。

「た、頼むよ、付き馬屋さん・・・・・・見逃してくれ、この通りだ」

 ゆっくりと背後を振り返りながら許しを請うが、

「与五郎、これで揚代あげだいの未払いは二度目だよな。この前は付き馬を寄越して親父に尻拭いさせたらしいが、今度は遊女おんなの首まで絞めるとは随分いい度胸してんじゃねぇか」

 与五郎と呼ばれた男を背後から吊し上げていたのは、独特の出で立ちに身を包んだ若者だった。紫色の羽織に黒の小袖という渋い着こなしを帯と鼻緒の赤が引き立てて、黄色の頭巾を襟巻きのように巻いていたその上には精悍な容貌が乗っていた。付き馬屋と呼ばれたその切れ長の眼から放つ冷たい光に脅えなが与五郎は、

「で、出来心なんだよ、な?・・・・・・頼むよ、こんとおりだ」

「やかましい」

 恫喝するや否や、始末屋は与五郎の猿に似た顔を覗き込むように、

「てめぇのやってきた事全て親父や妹の目見て話せるか、はぁン?てめぇの人生だからどう生きようがこちとら構わねぇがな、大棚の看板背負ってきた親父の背中をずっと追ってたのがこんな無様な姿をさらしてるのが俺には分からねぇんだよ」

 放蕩息子やどら息子と呼ばれるそのほとんどは裕福な商家の若旦那だ。逃げようとした与五郎もその一人だった。以前から吉原に入り浸ってはさんざん道楽をして、結果家の金を湯水のように使ってきた。だが、ついに親父の逆鱗に触れ、これ以上吉原での道楽にうつつを抜かすようなら勘当だと言い渡された。このままだと身代を食いつぶされるのが必定と踏んだからだ。

 だが、与五郎は「上等だ!」と捨て台詞を残して家を飛び出した。その足で恋仲の遊女のところに転がり込んだが所詮は道ならぬ道、金の切れ目が縁の切れ目と体よく追い払われる羽目になり、与五郎はカッとなって遊女の首を絞めて見世から逃げようとした。

 だが、突然部屋の外から見知らぬ男が飛び込んで来た。それがこの付き馬屋だった。

 登楼する以前から与五郎を知っていた見世の若い衆の一人が踏み倒す危険性を考えて楼主に相談していたのだ。すると、その楼主に呼ばれた付き馬屋は事情を聞き、本来なら無銭あるいは勘定不足が発生した後に依頼を請け客から遊興費を取り立てるところを以前この楼主に世話になった経緯から今回このような形で特別に請け負ったのだ。そして、万が一に備えて部屋の外で待機していた付き馬屋はやがて中から漏れ聞こえた遊女の苦鳴に気付いて乗り込んだのだ。

「・・・・・・お前らには分からねえのさ。商人の家に長男として生まれた俺の気持ちなんかな。跡を取らせるのは妹の方に決まってたんだよ。それで店で働く番頭の中から俺より出来のいい奴を婿に迎え、跡を取らせるつもりなのさ。じゃあ長男はどうなるかって? ・・・・・・結局、端から継がせる気はなかったのさ。店に迷惑が掛からない程度に遊ぶ金を与え、自由にさせたかったんだろ。だから、俺は――」

 その言葉が終わらぬうちに与五郎の胸ぐらががっと掴まれるや否や、

「お前の言う通りだ。全く分からねぇな。世間様の風当たりが強いのはお前だけじゃねぇ。吉原の女はな、うだつのあがらねぇお前なんかより何倍も悲惨な境遇に墜ちてんだよ。それでもな、哀れむことを止めて必死に人生切り開いているんだ。そういう女を虐げる奴は誰であろうとこの蓮次が許さねぇ。そう思え、腐れ野郎」

 付き馬屋=蓮次の言葉に与五郎の目が大きく驚愕に剥かれていく。

「・・・・・・蓮次?・・・・・・あ、あんた、もしかして・・・・・・“憑き魔の蓮次”か!?」

 それを聞いた蓮次は軽く舌打ちするや、

「どいつもこいつも、人を化け物呼ばわりしやがって・・・・・・“憑き魔”じゃねぇ!“付き馬屋”だ!!」

 その時であった。

 突然、周囲から全ての光が消えた。まさに暗黒の如き広大な空間に堕とされたような錯覚が蓮次を襲った。そして、異変はそれだけに留まらなかった。

 眼前にいた与五郎の汗にまみれた脅えきった顔が一転、怖気を誘う醜悪な顔に変わっていたのだ。

「!!」

 突然の変貌に一瞬言葉を失う蓮次。耳は鋭く尖り、口は大きく裂け、そこから覗く犬歯は黄色く、両眼はやや吊り目になりながらもどす黒く染まっていた。地獄の悪鬼とはこんな顔をしてるだろうと想起させる凄まじさだ。

 その耳まで避けた口が動いた。


(そういう貴様はどうなんだ?)

 それは声ならぬ声で直接蓮次の脳に響いてきた。


「誰だ、お前は!?」


(この世の全てに違和感と倦怠感を強めながらも、それでも素直に認めようとしない。それどころか己自身からも目を背けているのは何処の何奴だ!?)


「なんだとぉ・・・・・・」

 蓮次のこめかみに青筋が浮かび上がる。


(真の己を見るのがそんなに怖いか?――いい加減、己を解放しろ。衝き上げてくる感情に抗うな。そうすれば、この世という皮殻に覆われ、江戸という見た目だけの装飾で誤魔化し続けてきた真実が浮かび上がってくる。そこで初めて全てが理解出来る。何が狂っていて、何が間違っているのか。寝ぼけ眼の貴様もいっぺんに眼が醒めるはずだ)


「黙って聞いてりゃ、訳の分からねぇ事をべらべらと!」

 怒気を孕んだ蓮次が与五郎の胸ぐらを更に強く上方へ掴み上げた。

「――付き馬屋!もういい、やめろ!」

 自分を呼ぶ声が蓮次の意識を一瞬に現実へ引き戻した。気付くと肩を揺すられる感覚が付き馬屋を襲った。

 眼をしばたたくと眼前に顎をこちらに突き出しながら苦しみ藻掻く与五郎の顔があった。そこに先ほどまでのおぞましい人外の面影は微塵もなかった。胸ぐらを掴み上げられたまま、身長の差と力の差で与五郎は爪先立ちに近い状態になっていたのだ。我に返った蓮次が手を離した瞬間、与五郎は垂直に地面に座り込んだ。半ば気道を絞められていた所為で肺が空気を求めて激しく咳き込んだ。

 ようやく蓮次が傍らに立つ複数の気配に振り返った。見世の中から現れた三人の若い衆達がそこにいた。その中の一人が、

「後はこっちに任せてくれ」

 番頭の男がそう告げると、両脇にいた二人が座り込んだ与五郎を再び立ち上がらせるや否や、見世の奥へ連れて行った。番頭が与五郎の後ろ姿を見つめながら、

「――どうしたんだい?あんたらしくもねぇ」

「すまねぇ――で、女の方は?」

 首を絞められた遊女のことを尋ねると、

「無事だ」

「そうかい。じゃ、後は頼むぜ」

「あぁ。恩に着る」

 番頭が頭を下げた。すると蓮次が、

「ところで・・・・・・あの辺りは何があるんだ?」

 番頭が頭を上げると、蓮次がある方向へ視線を飛ばしていた。その先を目で辿った番頭が、

「たしか、あそこは〈朝日屋〉だったな。そういえば今朝、会所の男衆が何人か〈朝日屋〉に入っていくところを見かけたが――どうかしたのか?」

 振り返った番頭が、蓮次の視線が〈朝日屋〉の方へ不可視の直線を注いだまま微動だにしないことに気付いた。その表情には神妙というより、やや凄惨さを刷いてるようにも感じた。その蓮次から、

「妙なこと訊くが、あんた、霧以外に何か別のものが今見えるかい?」

「ん?――どういう意味だ?」

 眉を寄せる番頭に蓮次は、

「――いや、もういい。今のは忘れてくれ。悪かったな」

 不釣り合いな程に凛々しいその顔に何か諦めにも似た、乾いた感情を一瞬浮かべた蓮次。だが、すかさず誤魔化すように片手を軽く上げると、番頭に背を向けて歩き出した。その後ろ姿を番頭の訝しげに眼を細めた表情が見つめていた。

 そんな蓮次の耳孔の奥で、先ほどの化け物に変貌した与五郎の声が蘇ってきた。

 日に日に強めてくる、妙な違和感。そして時折視界に飛び込んでくる、非合理な現象。悪夢を覗いてるような、歪で奇怪なそれらが自分にしか見えないと知ったのはちょっと前だが、それがまるでこちらに何かを強く促しているように感じ始めたのはつい最近の事だ。だから、今ではどんなに不可思議なものを目にしても驚かなくなってしまった。

 それでも、先ほどのような、直接こちらに言葉を伝えてきたのは今回が初めてだったし、あの与五郎の変貌は内心驚いた。

 だが・・・・・・寝ぼけ眼がいっぺんに醒めるって?――一体どういう意味だ。訳分からねぇことを抜かしやがって。訳が分からねぇといえば、今さっき霧の向こうでぼんやりと蠢いていた、あの真っ黒い巨大な影は一体何なんだ。あれはどう見ても――

「――蜘蛛?・・・・・・まさか、な。でかすぎるだろ」




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