第九話「蠢」
灰色の曇天が未だ重く沈んだ昼見世間近の吉原――その表通りに構える大見世・中見世・小見世の妓楼。規模や格はそれぞれの見世によって差があるなかで、一際強烈な存在感を示す一軒の妓楼がある。
一般的に建築物には、古来より築き上げられ、繰り返し使用されてきた建築技法や装飾意匠というものが存在する。その根本には時代を越えてもほとんど変わらない特徴的な原型があり、同時にそれぞれの文化の世界観や死生観を映し出してきた。
だが、その妓楼は違う。
それらのほとんどが全くと言っていいほど皆無なのだ。むしろ、その建築様式はこの世の規則性そのものと大きくかけ離れていたのだ。
二階建てで間口十三間(約24m)、奥行き二十二間(約40m)とかなり広々とした作りは他の大見世と同じながらも、何処か螺旋とも歪みとも表現出来ない幾何学的な意匠。平衡感覚、大きさの認識、色彩に対する視覚的印象等、それら全てを意図的に狂わせる造り。すなわち、ちょっとでも視点の位置や角度をずらしただけで、まるで万華鏡のようにそれまでの外観を全く異にしてしまうのだ。しかも、同時に複数の人間が観測してもその姿形は必ずしも同一とは限らないのだ。
この妖異な現象に慣れている常連客ならまだしも、それ以外の登楼する客がこの妓楼を前にすると、ある者は隣の見世の人間をつかまえては「いつの間に見世の前にあんな高い石段みたいなものを造ったんだ!?」と意味不明なことを口にしながら困惑し、又ある者は会所に駆け込んでは「あれはどんな絡繰りなんだ!?」とか「知らない間に見世が消えた」などと混乱し騒ぎ立てる始末である。当初は会所も客の混乱を考えて妓楼へ話し合いを申し込んだが特にこれといった客に対する被害もなく、むしろ大見世としての高い評判が相乗効果を生み、結果的に“吉原七不思議”として逆に人を呼び込むまでになってしまった為そのまま今に至っている。
そんな幻妖極まりない妓楼の裏口の方から一人の花魁が姿を現した。
華やかな俎板帯を垂らして重い打掛の裾をたくし上げた「掛け端折り(かけばしょり)」、花の刺繍が施された三枚歯下駄を履いた目にも鮮やかな後ろ姿は、遥か頭上を覆う曇天の切れ間から奇跡的に陽光がこちらに差しめぐむまでに輝きを放っていた。この場で目撃した者がいたなら、それだけでたちまち魅了されるだろう。そして――幸運な者がひとりだけ、いた。その花魁の背後から錆を含んだ声が突然、呼び止めたのだ。
「お一人でどちらへ行かれますか?」
意味深な言葉に対してゆっくり振り返ると、眼前に巨大な壁を思わす大男が立っていた。その身の丈は優に六尺(2m)を越し、肩幅や胸板もそれに相応しいだけの厚みを誇示してた。まるで感情の一切を排したような無機質的な雰囲気を纏い、面長で広くせり出した額、その下に窪んだ二つの昏き瞳――それはまさに、背筋に冷たい何かを奔らせるような不気味な容貌。その独特の雰囲気と相まって、まるで睥睨されているような威圧感は初見に限らず相手に恐怖感すら与えた。だが、その花魁は見知ってる間柄か、振り返るや否や、ややバツが悪そうな表情を浮かべた。すると大男が、
「もしや、お狐様――でございますか?」
その細い目は僅かながら行き先に心当たりがあることを物語っていた。すると、
「じっと出来ない性格は昔から治りんせんみたいです」
振り返った花魁――天工の業による緻密な細工もかくやと思われる美しさが妖しく花弁を開かせている。性別年齢問わず見た者を恍惚の渦に呑み込ませ、恥じて隠れることを強いられるその美貌は神とも魔性とも判別しがたい程である。
その美貌へ大男はゆっくりと、
「今一度、教えてくださいませ。此処での貴女様をわたくしは何とお呼びすれば宜しいのでしょうか?」
静かに、重々しく問いかけた。
そして――しばしの沈黙の後に花魁は、
「――わっちは、貴方が番頭を勤めている妓楼〈現夢屋〉の呼出昼三、花魁美雪でござんす」
花魁――美雪は眼前に立つ大男の目をじっと見つめながら答えた。冷たいまでの眼差しで。
「やはり、愚問でございましたな。御無礼の段、お許しくださいませ。でもこの仁助、そのお言葉を聞いて安心致しました」
大男――仁助がこう告げると、
「昔と同じ事がまた繰り返されるのでありんすね・・・・・・外なる我らに相応しい戦いが――否、もう既に始まってるのかもしれんせん」
そう言いながら美雪の眼差しは遥か遠く――過ぎ去った過去へと向けられていた。だが、それはその言葉の意味が為さぬ程の、まさに永遠の混沌そのものであった。そこで彼らは一体何と対立し、そして一体どんな戦いを繰り広げていたのだろうか。そんな二人の姿が一瞬、陰った。まるで何かを暗示するかの如く。
「よしんば、先方が再びそれを望んで来たのであれば、この吉原はただ迎え撃つのみ。所詮、この星との契約など当てにならなかったということです」
「それだけではありんせん。近頃は世間も吉原に対して鵜の目鷹の目になりつつありんす」
美雪が微かに表情を曇らせながら言葉を零した。
確かに最近の江戸では閉塞感が蔓延し、そこから不安や怒りが増大しつつある。“一寸先は闇”の厭世観からこの世を憂い始める人々のなかには虚構に価値観を見出そうと、ある者はこの吉原へ足を運び、又ある者は刹那主義に傾倒してゆく。やがて、それは「憂き世」「浮世」という言葉を生み、遊女や市井の男女を描いた江戸絵がやがて「浮世絵」へと変わっていく。これもまた現夢を形にする術であり、庶民から求められたのは現実を忘れさせ文字通り浮き浮きするような二次元の世界だったのだ。
だが、一方でそういった虚構に引きずられてゆくことを堕落と称して異を唱え反発する人々もいた。それ故に虚構の最たる遊廓、すなわち吉原に対して危険視する者たちまで現れているらしい。
そんななかで突然、江戸を不安に陥れる一連の奇怪な連続火付け殺しが発生したのだ。そのあまりにも非現実的な殺人方法と殺された人間の無差別的なやり方に江戸中がさらに憤りと恐怖を煽られてるなかで、ついに吉原との関わりを噂する者が出始めたのだ。おそらくは「奇怪」という印象から短絡的に虚構の代表格たる吉原と面白おかしく結びつけたのだろう。今のところはその噂そのものも大した根拠がない程度だが、このままでは「噂が噂を呼ぶ」と言われるように変質化されて、更には瓦版によって半ば歪められた形で庶民の間に拡散されていかないとも限らない。そうなった時、世間の関心はそれが真実かどうかということよりも、その中身がどれだけ感情の矛先を向けられるかだ。所詮、この世の真実など蚊帳の外なのだ。その事は花魁であり、吉原に生きる美雪にとっては当たり前の認識だ。
だがもし、今回の事件の根幹に決して表沙汰には出来ない、世間を揺るがしかねない秘められた事実が存在するとしたら。その真実にもし、この吉原が大きく絡んでいるとしたら・・・・・・
人の口に戸は立てられない。そう分かっていたが、そんな事は出来ることなら永遠に訪れてほしくなかった。だが、この先それが何時、何がきっかけでするするとほどかれないとも限らない。そうなれば、事は吉原だけに留まらない。江戸、否、世間そのものを根底から覆す羽目になるかもしれない。それに対して美雪は一抹の不安を抱いたのだ。
「確かにこの情勢は我々にとっては芳しくないでしょう。ですが、それでも我々は吉原を含めたこの幻夢郷を消滅させるわけにはまいりません」
「仁助さん・・・・・・」
「はい」
「わっちは御屋形様とは違いんす。既に手を打ってあるとはいえ、正直今回ばかりは結果がどう転ぶのか皆目見当がつかないのでありんす」
そう言った美雪を仁助はある眼差しで見つめ、
「どうされましたか?いつもの貴女様とは思えません・・・・・・さすがの“千の貌”もここへ来てお疲れでございますか?」
仁助がそう訪ねると、美雪は軽く笑みを浮かべ、
「そう口にして簡単にけりが付くのであれば、いかほどでも声に出してあげんすよ」
そう告げると、美雪は再び前方へ向き直った。そして通りへと踏み出そうとした瞬間、お待ち下さい、と仁助の言葉がかかった。
「何でありんしょうか?」
「花魁美雪は吉原一と謳われる名妓であり、吉原の象徴そのもの。それ故に此処吉原の全ての者が貴女様に憧れ、羨望の眼差しを送りながら日々この苦界を死に物狂いで生きております。それが全て仮想の産物であろうとも、そのことはどうかお忘れにならぬよう伏してお願い申し上げます」
仁助が頭を下げながらそう言うと美雪は背中を向けたまま、
「申すに及ばず。それを忘れたら花魁を張ってはいられんせん」
そう言い放つと、ゆっくりと通りの方へ歩き出した。
(くれぐれも御身大切に)
そう心の中で呟きながら美雪の後ろ姿を目で追う仁助。最高位の花魁としての気品と美に溢れ、吉原一の傾城としての強さを兼ね備えた隙のない様子だが、その内に秘められたものが一体何か、それを熟知しているのはこの場にいた巨躯の番頭を含めたごく限られた者たちであった。
三枚歯下駄の音がゆっくりと鳴り響きながら遠ざかってゆく。まさに、この吉原で始まる熾烈な戦いの幕開けを告げるかの如く。
美雪は一体何処へ向かったのか。その目的とは。そして、“お狐様”とは一体?
「江戸三座の大芝居よりも遥かに面白いというのに・・・・・・それが分からん痴れ者はさっさと別の世界へ始末するしかないのう」
再び降りかかる老人の声に対して、
「旧神のくせによく喋りやがる――上等だぜ、糞爺ィ」
うんざり気味に言いながら、組んだ手指の関節を威嚇するように鳴らす冴兵司。その行く手に立ちはだかる黒い異形達の群れに対して凄惨な光を湛えた眼差しで見つめながら、
「こんなところで手の内を晒す気はさらさらねぇが――」
何かを押さえつけるような低い声で告げる冴兵司。その全身にいつしか異質なものが纏わり始めた。岩の如き鍛えられた躯から流れ出る鬼気だ。そして、
「浮き世の見納めにこの冴兵司の箱廻し、ようく見やがれ」
そう言い放つ冴兵司の右足が軽く後方へ引かれるや否や、その爪先はなんと、足元へ降ろしていた箱――お鬼怒の三味線を収めていると思われる桐箱を思い切り蹴り上げたのだ。下駄の先が触れた瞬間、桐箱は放物線を描きつつ一気に宙高く舞った。
目が無い無貌の夜鬼達も代わりにその全身を目であるかのように四方八方を見ることができる故、一斉に空を仰ぐように宙の一点へ向いた。
その視線の先――霧を抉り抜くように跳んできた桐箱はちょうど群れの真ん中辺りへ落下した。桐箱が地面を抉ったと同時に周囲にいた夜鬼達が跳びのいた。まるで隕石が落下したかのような、足底を突き上げる衝撃が波紋のように拡がり、同時に土埃が視界をさらに濁らせた。
間髪容れずに後退した夜鬼達だが、やがて衝撃が収まると再びゆっくりと警戒しながら箱の落下地点へと近付いていく。次第に前方の霧の奥から何かを震わす音が耳朶を打った。
すると彼らの前に、自ら震動させながら地中から抜け出そうとしている桐箱の異様な光景が出現した。
そして桐箱が完全に地中から抜け出た途端、どすん!と大地を揺らしながら横たわった。同時に、二方掛け(つづら掛け)で箱を縛っていた平たい真田紐がひとりでに解けた。
その奇怪な様子に夜鬼達も一瞬躊躇したが、そのなかの一体がすぐさま戦意を取り戻すとゆっくりと前に進みながら近づいた。そして、眼前にまで迫った桐箱の蓋へ右手を伸ばしてゆく。
だが、ここでもし可能だったなら、彼らは一瞬でも注意を向けるべきだったかもしれない――前方でこちらをじっと見据える屈強な男の口元に刻まれた酷薄な笑みに。その冷たい笑いが何を示唆するのか。
だが、時既に遅し。鉤爪を生やした手指が蓋に掛かろうとした時、今度は蓋がひとりでにゆっくりと持ち上がったのだ。
そして、黒い隙間が僅かに顔を覗かせたと思った次の瞬間――右手が突然、その隙間へ吸い込まれていったのだ。
「!?」
吸い込まれた本人のみならず、眼前で起きた突然の異変に後方で注視していた残りの夜鬼達も完全に虚を衝かれた。
そんな彼らの視線の先では――
ずるずるずるずる・・・・・・
ずるずるずるずる・・・・・・
右手から肩、首、上半身と、一体の夜鬼が為す術もないまま箱の内側へ引き摺り込まれてゆく。その様はまるで蛇の口腔へ呑みこまれていく小動物のようだ。残りの下半身も必死の抵抗を見せていたが、藻掻いていた両足や尻尾がやがておとなしくなると箱の奥へ嚥下されていった。
自分達よりも遙かに小さい桐箱に丸ごと吸い込まれた身方の奇怪な末路。だが、それを目の当たりにした夜鬼達のどす黒い憎悪は更に膨れ上がり始めた。すると、一帯に嫌な音が響き渡った。
ばりばりばり
くちゃくちゃくちゃ
あまりの不快さに耳を塞ぎたくなるようなその響きは、さながら口いっぱいに頬張った肉を骨ごと噛み砕き、貪るように咀嚼する音そのものだった。そして、それは眼前に横たわる一個の桐箱から間違いなく漏れていた。この時、その桐箱を遮るように白帯のような濃霧が流れていった。そこから水に溶けてゆく絵具の如く、視界を塞ぐべく更に拡がってゆく。
――おかしい。
元々はこの霧自体、戦いが有利に運ぶように自分達の影を滲ませ、そして乳色に溶け込ませる為にあえて焚いたものだ。それが今、完全にこちらからの制御が不能に陥ってる。しかも、逆にこちらに対して目隠し――すなわち牙を剝けてきた。これは明らかに何らかの力で敵に利用されてる以外に考えられない。
さらに「おかしい」といえば・・・・・・
この時、自分たちの身に妙な異感を覚えた。痺れか冷気のようなものが表皮から筋肉そして骨の中へと浸透してくるような感じで、徐々に自由が利かなくなってきているのだ。視界を遮る白い世界と全身を襲う麻痺――それは偶然にも、すぐ傍にある妓楼〈朝日屋〉の中での奇怪な状況とほぼ酷似していた。だが、ここから先は全く異なる様相を見せ始めた。
突然、びゅっ!と風が唸った。
傍を長く太い影が駆け抜けた。猛烈な速さと風圧が夜鬼の肌を叩いたと同時に、何かを一気に抉り抜く鈍い斬音が鳴り響いた。それに呼応するように、乳白色の世界に異を唱えるかの如く赤い霧があちこちで空間を染め上げた。たちまち周囲から紛れもない混乱と動揺の気配が伝わってきた。
そんな中、別の夜鬼の一体が翼を何とか羽ばたかせて異音のした方へと宙を舞った。やがて霧を巻いて降下した先に見えてきたのはなんと、一際大きい血溜まりだった。その場にもいたはずの仲間の姿は一つもなかったが、おそらく生きてはいまい。その量の多さから敵の接近に気付くことなく一撃で斃されたのだろう。だが、死体は一体何処へ?
――その時だった。凝集した闇と冷気を察知した。極めて近い。全身の血が一気に凍る。そして、致命的な間違いを既に冒してしまったことに今、気付いた。捕捉すべき敵にいつの間にか裏をとられていたことに。
自分の背後に潜む凄愴なる殺気の塊。鋭い鉤爪が心臓に食い込まれるような絶対的な確信がこの夜鬼に死を覚悟させた。
そして、全身を蝕む痺れに抗うようにゆっくりと背後を振り返った夜鬼の眼前――そこには、まるで鎌首をもたげた蛇の如き影が霧の向こうで蠢いていた。まるで殺戮の快感に打ち震えるように。
次の瞬間、鞭を思わす先端が突如振り上がるや否や、びゅっ!と空気を灼いて走り――肉の裂かれる音が木魂した。血潮が虚空に躍り、同時に大地を真っ赤に濡らしてゆく。
急速に意識が薄れながらも、この夜鬼は最期にようやく自分達を襲った敵の正体を知った。
霧で見え隠れする前方で複数の夜鬼達が頭上高く浮遊していた。だが、それは背中の翼で飛翔している意味ではなかった。翼の生えた黒い身体は全て、大人の腕が何本も束ねられたような太い縄のようなものに腹部を貫通されていたのだ。そして、今自分を貫いている異形の触手もまた――
そのぬめぬめとした濃緑色の表面には葉脈のような管が幾筋も走り、その中を血液が流れているのが見て取れた。触手が上下に蠕動運動を繰り返すと、団子状に刺し貫かれた数体の夜鬼が死の断末魔の如く痙攣した。
それにしても、この異形の存在は一体何処から現れたのか?
それはなんと、あの桐箱の蓋の下――ついさっき、夜鬼の一体を吸い込んだばかりの隙間へと続いていたのだ。しかも、触手は一本だけではなかった。同じように桐箱から吐き出された触手は数本あり、その全てが夜鬼達を串刺しにしていたのだ。
「――そろそろ、かい?」
後ろで黙っていたお鬼怒が訪ねると、
「そう焦るな――ほら、よ」
前方を見つめている冴兵司が顎を少ししゃくるように指しながら静かにそう告げた時、白い膜に覆われた一帯に何らかの異変が生じて始めていた。
お鬼怒が目を凝らすと、まるで虫食い穴のようにあちこちで霧が消失し始めたのが視認出来た。穴と穴同士が繋がり、やがて一際大きい穴へと拡がってゆく。すると、穴の向こう側から内部の状況が徐々に見えてきた。
この時、夜鬼達が相対する桐箱から立ち上る瘴気のようなものをこの悪条件のなかで視認出来た者が果たしていたのだろうか。
それは先ほど冴兵司の躯から放出された鬼気そのものだった。蹴り上げられる直前に間近でそれを浴びせられた桐箱はそのまま吸い込んだ状態で夜鬼達と対峙していたのだ。そして、気付かれないように箱から外気へ放出され始めると辺り一帯の白色の分子を押し退けるように一気に拡散、夜鬼達を麻痺させると同時に霧の流れを操り、ついには侵蝕していった。つまり、無造作に見えた先ほどの蹴りは最初から落下位置と速度、そして起動するまでの時間を全て計算に入れた上での一閃であったのだ。
結果、形成されていったのは一人の箱廻しが放つ無色透明の鬼気圏。だが、空気が凍りつくようなそれは圏内にいる夜鬼達の全身を冷たく、そして炎の如く確実に叩きつけた。
やがて、世界が完全に元の色と形を取り戻し始めた。そして、霧と入れ替わって視界に飛び込んできたのは凄惨且つ妖異な光景であった。
地上のあちこちに無惨な血の海が酸鼻な香りを放ちながら出現したのだ。だが、そこに夜鬼の死骸はひとつも見当たらなかった。あれだけの布陣が短時間の間に脆くも崩れ去った現実に老人の声は、
「ほう・・・・・・箱廻しにしては変わった箱だのお。中に魔物でも飼っておるのかな」
箱廻し――お鬼怒のような芸者の供をして桐箱に入れた三味線などを担ぐ箱屋を差す他にもう一つ、舞台に模した箱を首に吊して大鼓や小鼓で囃しながら人形を操る傀儡師を差す場合もある。中には木偶=木彫りの人形をてんびん棒に吊り下げ家々を渡り歩いて人形芝居を披露したりする者もいる。だが、眼前で繰り広げられた奇怪幻妖な業もまた箱廻しと呼ぶならば、それは同じ呼び名ながらも全く異なる、他とは一線を画す人外の術としか言いようがなかった。そして、あの箱の中に潜むのは童を夢中にさせ楽しませる人形にあらず、目にしたら最期、二度と生きて帰れない魔性の何かであった。
「さぁね。ただ、この男が箱を廻すって云うのはそこらの門付芸人の子供騙しとは訳が違うのだけは確かさ。それ以前に、あたしたちの相手に夜鬼なんざ役不足もいいところ。悪いけど此処から消えてもらうのはあんたの方だよ、ノーデンス」
眼前の光景に満足したのか、お鬼怒はにやりと笑みを浮かべながら何処にいるとも知れない老人へ声高に告げた。だが、
「ただの箱屋ではないというわけか。だが、所詮は酒宴の座敷芸以下。その程度でこのわしを引き摺り出そうなど片腹痛いわ」
仰け反るように哄笑を放つ老人の容貌を想起させる天からの卑しき声に、
「なんだとぉ・・・・・・」
冴兵司の全身からどす黒いまでの怒気が膨れ上がった。




