視線
僕は昔からそういう体質らしく、普通の人には見えないモノを見てしまうことが、時々ありました。
肝試しに行った帰りの車で、後部座席にいないはずの何かがひとり増えていたり。曰くありげの友達のマンションへ行くと、部屋の片隅にぼうっと黒い影が佇んでいたり。
でも、ほとんどは無害なんです。特に彼らが僕たちに何かをするわけではない。ただ、ぼそぼそと何かを喋っていたり、ただ、凝っと見つめているだけだったり。
勿論、そこにいるだけでも薄気味の悪い存在なので、どことなく気分が落ち着かないことは多々あります。それを害悪だと言ってしまったら、おそらく彼らは害悪でしかないのでしょう。
話を戻します。
先日、僕は仕事の関係で引越しをしました。不動産ではベッドタウンとして紹介されていても、都内まで電車を使って一時間半かかるのは、お世辞にも便利とは言えないような土地でした。
しかし問題はそれだけでなく、こちら側の変化なのか、それとも土地柄の問題なのかはわからないのですが、前よりも良く視るようになりました。
駅からの帰り道に大きなお寺さんがあるのですが、その前を通りかかった時に、曲がり角の先から、とーん、とんとんとん……とーん、とんとんとん……と誰かがボール遊びをしているような音が聞こえました。
しかし、僕の方も慣れたもので、咄嗟にそれが、この世のものではない何かが鳴らしている音だということに気付きました。
曲がり角を通り過ぎる際に、その音がする方向へ目をやると、小学生くらいの男の子が寺の塀にサッカーボールを当てて遊んでいました。
勿論、男の子はこちら側の人間ではないので、その様子がおかしいことにもすぐ気付きました。
男の子が右足でボールを蹴っているのはいいのですが、その右足は膝から下が、まるで濡れたタオルをぶら下げただけのように、だらりと力なく垂れ下がっていたのです。
僕がその場を去ろうとしたが早いか、それがこちらを向きました。
その表情には瞳なんて立派なものはなく、その双眸は地獄の底まで繋がっているのかと思う程に禍々しい真っ暗闇の穴が空いているだけでした。
しかし僕には、その穴が決して無とは思えませんでした。何故なら、そこには確かに彼の意思、思念のようなものを感じ取られたのも事実であったからです。
きっと、男の子が普通の人間であれば、その目を見て、見られているという自覚は決して持たなかったでしょう。
見るという行為は、その目に代替する何かと、そこに介在する意思が存在すれば、相手に視線として伝わるものなのだということを知りました。
ですが、僕の視線に纏わる話はこれだけではありません。
休みの日にスーパーへ行った帰り道のことです。まだ夕間暮れといえど、元々人通りの少ない通りでしたので、うら寂しさが辺りに漂っていました。
ぼうっと下を向いて歩いていると、ふと、正面から誰かが歩いてきていることに気付きました。
近所の人だったら会釈でもしようかと顔を上げた所で、僕は自分の行動を後悔しました。
一瞬、視界に映ったそれは、喪服を着た、一見、葬式帰りかと思える女性であることがわかりました。
ですがその女性には、彼女を人間と認識するために必要なものが決定的に欠けていたのです。
ええ、彼女には首から上のパーツが存在していませんでした。
身の危険を感じる程ではありませんが、犇々と伝わる禍々しい思念を直視したくなくて、僕は視線を逸しながら彼女とすれ違いました。
背中越しに女の気配が遠ざかっていくのを感じて、安堵のため息を吐いたのも束の間。
確かに気配は遠ざかっていくのですが、背中に妙な視線のようなものがちくちくと突き刺さる感覚がするのです。
それがあの女のものだという確信も持っていました。
ですが、視線を感じるためには、そこに介在する思念だけではなく、何かしらこちら側が目と認識することが可能な、所謂媒体となるものが必要となるはずです。
でもあの女には首から上がありませんでした。首がないということは目もない。目がなくても、視線を感じる程に彼女の想いが強いのでしょうか。
その理由を確かめたくて、肩越しに彼女の方を覗いてしまったあの日ほど、僕は自分の浅はかさを後悔した瞬間は今までになかったでしょう。
女はすれ違った時のまま、後ろ姿で遠ざかっていました。
しかし、女には確かに目があったのです。
肩越しに覗いた僕の視線が、女の目と合うと、彼女はケラケラと嗤いました。
その後ろへだらりと折れた逆さまの顔が、ケラケラと。