火星年代記
人類が火星に降り立ってから百数年。火星に生まれ、火星で育ったヒューマンが幾世代かを重ね、地球人類とは別の進化を遂げていた。
それを進化と言っていいのか、体の色素が薄れ、片目は虹彩の色と視力を失い、目の前に立つ相手の表情さえ読み取り難く、それゆえに、人々は表情を必要としなくなっていた。
もう幾世代か経れば、言葉を忘れ、聴力を失い、両目共に視力を失うかもしれない。その魅力的なオッドアイは、進化の過渡期の副産物で、神の実験の終了と共に、永遠に失われてしまうかもしれない。
「∧∝)∩♯《∠†」
誰かが呟いた気がした。
「∬⊿〈∋♭§∠」
いや、頭の中に直接響いてくる。
長い長い沈黙の後、最初のそれが出現した。
自分の思考ではない脳の揺らぎ。誰かが語りかけてくる。
「一緒に行こう」
そう言っているように思えた。
「どうやって?」
何も見えない。何も聞こえない。これがそういう状態なんだという認識もない。
「私の言う通りにして」
--テレパシー理論の確立。
そう書かれた展示室の中には、その歴史と出現までの過程、何体かの人体標本が並んでいた。
体の色素が薄れ、オッドアイを持つ人体。完全に色が抜け、両目ともガラス玉のような標本。展示箇所の最後には、一握りの灰が撒かれていた。
地球から定期的に火星を訪れ、進化の途上の火星人を何体か回収する。ついに、テレパシーの痕跡をキャッチした後、大規模な観測団を送り込んでみると、火星人は跡形もなく姿を消していた。
火星での拠点としていたターミナルには、ただ灰が降り積もっていた。