黄色い花が好きなのは私だから
「起立、姿勢、礼」
椅子を引く音が一斉に鳴った。
「「「おはようございます」」」
四十人分の声が教室に響く。
いつも通りの朝だった。
昨日と同じ教室、同じ席、同じ教師。
そして、何度繰り返したかも分からないお決まりの挨拶。
「では出席を取る。井上!」
「はい!」
教師が名簿を上から順に読み上げていく。
呼ばれるたび、短い返事が教室のあちこちから飛んだ。
やがて最後の一人まで確認を終えると、教師は満足そうに名簿を閉じた。
「Aクラス四十人、出席確認。素晴らしいことだ。今後も継続するように」
そこで話は終わるはずだった。
けれど教師は名簿を教卓に置き、俺たちを見渡した。
「そして本日、新たにこのクラスに生徒が加入することになった」
教室がわずかにざわつく。
「シトリくん。入りなさい」
「はい」
扉が開いた。
その瞬間、俺の呼吸が止まった。
一人の少女が教室へ入ってくる。
「あれってどっち?」
「NPCだろ」
「この学園に転入でNPCなんて、いつものことじゃん」
周囲ではそんな会話が交わされていた。
「貴様ら、私語は厳禁だ。シトリくん、自己紹介を」
「はい」
少女は黒板の前まで歩くと、こちらを向いた。
見覚えのある顔で。
聞き覚えのある声で。
「転入してきました、シトリです。どうぞよろしくお願いします」
心臓が嫌な音を立てた。
隣の席から、小声で話しかけられる。
「新しいNPCかぁ。次は何が起こるんだろうね、柄目」
「……なんでアイツが」
「ん?」
「いや……」
「あっ、知ってるNPCだった?」
「……人間の友達に似てるだけだ」
「じゃあ友達になるの?」
「いや。やめとく」
「ふーん」
横から顔を覗き込まれる。
「興味津々って感じだけど」
「……あまり思い出したくないんだ」
「そっか。なんかごめんな。」
俺は返事をしなかった。
黒板の前に立つ少女から目を逸らす。
死んだはずなんだ。
俺の目の前で。
名前も。
顔も。
声も。
全部同じだった。
けれど、あいつであるはずがない。
―――
結局、我慢できたのはその日の昼までだった。
一人で廊下を歩いているシトリを見つけて、俺は後ろから声をかけた。
「なぁ」
少女が振り返る。
「俺、柄目って言うんだけど」
「柄目くん?」
シトリは少し考えて、それから笑った。
「私はシトリっていうんだ。どうぞよろしくね」
「ははっ。よろしくな」
何を言ってるんだ、俺は。
そんなことは知っている。
シトリという名前も。
その笑い方も。
俺は全部知っている。
「ところで、突然変なこと言うんだけどさ」
「うん?」
喉がひどく乾いていた。
それでも、聞かずにはいられなかった。
「シトリさんは――俺のこと、知ってる?」
少女はきょとんとして俺を見る。
その表情すら、記憶の中にあった。
死んだ幼馴染と、同じ名前。
同じ顔。
そして、同じ笑顔だった。
―――
次の日、俺は市の住民記録を確認した。
NPCか、そうじゃないか。
それを確かめるだけなら簡単だった。
この街に存在するNPCには、共通する特徴がある。
苗字がない。
住民記録の閲覧手続きには時間がかかった。
面倒な書類も何枚も書かされた。
そんなことはどうでもよかった。
あり得ないと分かっている。
死んだ人間が帰ってくるわけがない。
それでも。
目の前で亡くなったあいつに、もう一度会えるのなら。
ほんの少しでも可能性があるのなら。
俺は確かめずにはいられなかった。
そして、住民記録に記されていた名前を見る。
シトリ 17歳
それだけだった。
苗字はない。
俺はしばらく、その文字を見つめていた。
彼女はNPCだ。
俺の幼馴染じゃない。
分かっていたはずなのに。
それを知った瞬間、胸の奥に小さな穴が開いた。
―――
「ねぇ、柄目くん」
ある日の放課後、シトリが俺の机までやってきた。
「私、お金を稼ぎたいの」
「なんだよ、いきなり」
俺は顔を上げる。
「お前の家、裕福なはずだろ」
「ううん」
シトリは首を横に振った。
「私はお金を稼いで、恩返ししたいんだ」
「……家族に?」
「多分。なんでか分からないけど」
息が詰まった。
あいつも、同じことを言っていた。
いつか病弱な自分を支えてくれた家族に恩を返したい。
お母さんに今までありがとうと伝えたい。
そして願わくば、これからも。
そんな、ありふれた夢だった。
「柄目くんに聞けば、なにか――」
「俺に話しかけるなよッ!」
思った以上に大きな声が出た。
シトリの肩が跳ねる。
教室に残っていた何人かが、こちらを振り返った。
「……忙しかったかな。ごめんね」
「忙しいとかじゃない」
止めればいいのに。
分かっているのに。
口から出た言葉は止まらなかった。
「お前のこと、初めて会った時から嫌いなんだ」
シトリは少しだけ黙った。
それから、困ったように笑う。
「……そっか」
怒りもしなかった。
泣きもしなかった。
ただ少し寂しそうに笑った。
「私は君のこと嫌いじゃないから、なんで嫌いなのか、気が向いたら教えてね」
「……意味が分かんねえよ。俺が悪いのに……
クソ。」
本当に意味が分からなかった。
同じ顔で。
同じ声で。
同じ夢まで語るくせに。
どうしてお前は、あいつじゃないんだ。
―――
それからしばらく、俺たちはほとんど話さなかった。
シトリも約束を守って、俺に話しかけてこなかった。
それでいいはずだった。
その方がいいと思っていた。
なのに、教室の向こうで誰かと笑っている声を聞くたび、俺は無意識に顔を上げた。
そのたびに腹が立った。
自分に。
―――
一年目の文化祭。
俺たちのクラスは喫茶店をやることになった。
放課後、教室に残って飾り付けをしていると、窓際から小さな悲鳴が聞こえた。
「うわっ」
見ると、シトリが床に座り込んでいた。
その周りには無惨に散らばった色紙と、潰れた造花。
「……何やってんだ、お前」
「あ」
シトリがこちらを見る。
「柄目くん」
「それ、花束か?」
「の予定だったもの」
「壊滅してんじゃねえか」
「難しいんだよ、これ」
「貸せ」
「え?」
気付いた時には、手を伸ばしていた。
昔、あいつの見舞いに何度も花を持っていった。
そのたび花屋で包み方を眺めていたせいか、妙なところだけ覚えていた。
「ここ束ねて、外側を少し開けんだよ」
「へぇ」
「あと色が多すぎる。お前、センスねえな」
「ひどい」
「赤、青、黄色、紫、白って、ガキの落書きじゃねえんだから」
「全部綺麗だったから……」
「欲張るな」
二人で床に座り込んで花を束ねた。
しばらくして、どうにか花束らしいものが完成する。
シトリはそれを持ち上げ、目を輝かせた。
「綺麗」
その顔を見て、俺は動けなくなった。
あいつも花が好きだった。
けれど。
「ねえ、柄目くん」
「……なんだよ」
「私、黄色が一番好きかも」
「黄色?」
「うん。なんか元気出るから」
知らなかった。
あいつが好きだったのは白い花だった。
それとも、俺が気付けなかっただけなのか。
「そっか、知らなかった。」
それだけ答えた。
その日初めて。
シトリの中に、俺の知らないものを見つけた。
―――
文化祭が終わった日の帰り。
校門を出ると、後ろから声がした。
「柄目くん」
振り返る。
シトリが立っていた。
「……何だよ」
「話しかけちゃ駄目だった?」
そう言われて、思い出した。
俺が言ったのだ。
話しかけるな、と。
「……もういいよ」
「本当?」
「ああ」
シトリが嬉しそうに笑った。
「じゃあ、一緒に帰っていい?」
「勝手にしろ」
「やった」
「うるせえ」
それが最初だった。
―――
「なぁ、NPCって知ってるか?」
二人で帰るようになって、どれくらい経った頃だったか。
「うん。ゲームの商人さんとかだよね」
「そういうやつ」
夕暮れの道を歩きながら、俺は尋ねた。
「あれに魂はあると思うか?」
「?」
シトリが首を傾げる。
俺は自分で聞いておきながら、馬鹿らしくなって笑った。
「あはは。あるわけないよな」
「魂って必要かな」
「……どういうことだ?」
シトリは少し空を見上げた。
「魂があるかないかなんて、どうせ分からないよ」
淡々とした声だった。
「死んだら天国とか地獄とか、煉獄とか。天秤に乗せられて鰐に食べられるとか。いろんな話があるけど」
「うん」
「全部、作り話だと思うな。私は」
「ははっ。教会の人たちが聞いてたら殺されちまうぞ」
「そうかも」
シトリは笑った。
そして、しばらく考えてから続けた。
「私はね、見たことがないものより、一緒に過ごしてどう感じたかの方が大切だと思う」
「……」
「何を覚えているか。どんな服だったか。どんな笑顔だったか。何を食べたか。どんなさよならだったか」
シトリはこちらを向いた。
「自分が何かを感じてるのに、そこに魂があるかないか分からなければ、それって全部無意味なの?」
答えられなかった。
俺はずっと、そこにこだわっていた。
こいつは人間なのか。
NPCなのか。
魂があるのか。
あいつなのか。
偽物なのか。
けれど、そんなことを確かめて何になる。
「……そうだな」
俺は呟いた。
「大事なのは、一緒に過ごしたかどうか……なのかもな」
シトリは嬉しそうに笑った。
そして。
「あのね、柄目くんずっと聞いてみたかったんだ。」
「なんだよ」
「私は誰なの?」
足が止まった。
何を言えばいいのか。
―――
▶︎ お前はお前だよ。
▶︎ お前はアイツだった。
▶︎ さあな。
―――
どれも違う気がした。
だから俺は、俺なりの答えを返した。
「それを俺が答えたら、お前はお前じゃなくなる」
シトリは目を丸くした。
やがて、いつものように笑う。
「そっかー。ありがとう、柄目くん」
「……お前」
ずっと抱いていた疑問が、急に形を持った。
「ひょっとして、分かってるのか?」
「うん」
あまりにもあっさりとシトリは頷いた。
「だって柄目くん、私のこと嫌いって言ってたのに、ずっと懐かしそうな顔で面倒見てくれるんだもん」
「……」
「妹とかもいないのにさ」
「お前……認知したら消えるんじゃないのか?」
この世界のNPCには、ルールがある。
自分が何者なのか。
この世界が何なのか。
知ってはいけないことがある。
「さぁ」
シトリは笑う。
「私が『イベント』だからじゃない?」
「イベント……」
「簡単に消えたらまずいから、少しロックが緩いのかも?」
「いつ気付いたんだ?」
「一年の文化祭の準備の時」
「そんな前から?」
「図書室とかに、私たちの本あるでしょ?」
「お前たちは、あの一角に近寄らないはずだろ」
「うん。だからきっと、私の『イベント』は少し特別なんだろうね」
あまりに普通に話すものだから、俺の方が混乱していた。
自分がNPCだと知っている。
自分が誰かを模して作られた存在だということも、おそらく知っている。
それでもこいつは笑っていた。
「……怖くないのか?」
「何が?」
「自分が作り物だってことが」
シトリはしばらく考えた。
「ちょっと怖かったよ」
そして笑った。
「でも、向日葵の花が好きなのは私だから」
俺は思わずシトリを見る。
「……覚えてたのか」
「もちろん」
あの日作った、酷く不格好な花束。
俺の知らなかった、シトリの好きな色。
「それで十分かなって」
その言葉に、何も返せなかった。
「……お前は今、何がしたいんだ?」
シトリは少し考えた。
「やりたいことはあるの」
「なんだ?」
「でも、私が一番やりたいことはね」
校舎を見上げる。
「君たちと最後まで、この学園生活を送って終わりたいな」
その言葉だけは、ひどく人間らしく聞こえた。
―――
三年目。
卒業を目前にした夜だった。
「柄目くんは本当に優しいね」
唐突にシトリが言った。
「違うだろ」
俺はすぐに否定した。
「俺はお前を見れてない」
「……」
「俺はずっと影を見てるんだ。あいつはもういないのに、ずっとあいつの影を見てる」
三年間。
俺はこいつに何かをしてやるたび、その向こう側に死んだ幼馴染を見ていた。
あいつにできなかったことを、こいつにしているだけだったのかもしれない。
それでもシトリは笑った。
「でも、何かをしてくれているのは私に対してでしょう?」
「……」
「たとえそれが誰かのためだったとしても、私は嬉しいよ」
「俺はお前を――」
言葉が止まる。
違う。
そこだけは間違えてはいけない。
「いや。俺は、あいつが好きだったんだ」
初めて口にした。
ずっと言えなかった言葉だった。
「だから勉強してさ。知らねえかもしれねえけど、俺、勉強大嫌いなんだぜ?」
「知ってるよ」
「知ってんのかよ」
「三年間一緒にいるんだから」
「……そうだったな」
二人で笑った。
「頑固な柄目くんがそこまでするなんて、きっと大好きだったんでしょうね」
「ああ」
今度は、否定しなかった。
「大好きだった」
口にしてみれば、驚くほど簡単な言葉だった。
「俺はアイツが好きなのに、お前はそれを自分のことみたいに笑ってやがる」
「だって嬉しいから」
「変なやつ」
「よく言われる」
それがおかしくて。
懐かしくて。
それでも、どこか違っていて。
どうしようもなく愛おしかった。
しばらく二人とも何も言わなかった。
やがてシトリが静かに口を開く。
「きっとイベントは終わりますね」
分かっていた。
分かっていたから、聞きたくなかった。
「……消えちまうのかよ」
「きっと」
シトリは穏やかだった。
「柄目くんも分かってるでしょ?」
「ああ」
三年間、考えないようにしていた。
「最初、俺はお前と関わりたくなかったんだ」
「うん」
「こうなると思ったから」
別れが来る。
また失う。
だから最初から近づかなければいいと思っていた。
なのに。
「……寂しいぜ、シトリ」
シトリが目を見開いた。
「あ」
そして少しだけ、嬉しそうに笑った。
「これは……私を惜しんでくれた?」
「ああ」
もう迷わなかった。
「この三年間、一緒に過ごしたのはお前だ」
シトリは俺をじっと見つめていた。
「たとえ、あなたの愛した人の偽物でも?」
「ああ」
「神様の悪戯で作られた人形でも?」
「さあな」
俺は笑った。
「意識があるかどうかなんて、お前にしか分かんねえよ」
魂なんて見えない。
人間だって、本当に心があるのかなんて他人には証明できない。
「あるんなら、お前だけが知ってればいいだろ」
「……」
「ありがとな、シトリ」
俺はこいつを見た。
白い花が好きだった少女じゃない。
黄色い花を見て笑った少女を。
三年間を一緒に過ごした、一人の少女を。
「お前は俺の親友だ」
シトリはしばらく何も言わなかった。
それから、小さく笑った。
「ありがとう、結月」
その名前で呼ばれた瞬間、胸の奥が痛んだ。
「ずっと秘密にしてたことがあるんだ」
「なんだよ」
「私ね、最初に見た時から、あなたのこと好きだったの」
「……は?」
シトリはいたずらが成功した子供みたいに笑っている。
「だからきっとね」
ほんの一瞬だけ。
俺の知っている、あいつと同じ顔をした。
「糸取も、あなたのこと大好きだったと思う」
そして続ける。
「もちろん、私も」
返事をする暇はなかった。
シトリは最後まで笑っていた。
「じゃあね、結月」
それが彼女の最後の言葉だった。
「私たちの、大好きな人。」
彼女の笑顔に照れ臭くなり、目をぎゅっと閉じる。
そっと、頬に触れる指の感触を感じ
そして目を開けた時、
彼女はもうそこにはいなかった。
―――
次の日。
シトリは学校に来なかった。
誰も不思議には思っていなかった。
教師は名前すら呼ばない。
まるで最初から、そんな生徒はいなかったかのように。
放課後、俺はシトリの家へ向かった。
扉を開けても、誰もいない。
家具もない。
服もない。
写真もない。
三年間そこで誰かが暮らしていた痕跡は、綺麗さっぱり消えていた。
ただ、二つだけ。
シトリが三年間働いて貯め続けた通帳。
そして。
文化祭の日。
不器用に作って、最後には「綺麗」と笑った、あの花束。
色褪せているはずなのに。
黄色い花だけが、妙に鮮やかに見えた。
通帳を開く。
なぜか持ち主が、俺に書き換えられていた。
「……ふっ」
最後まで。
本当に最後まで。
「最後までやりきれよ、馬鹿」
返事はない。
俺は誰もいない部屋の中で、一人笑った。
「お前たちのやり残し、俺が片付けといてやるよ」
一人分じゃない。
死んだあいつと。
三年間を生きたあいつ。
二人分だ。
「ま、今に始まったことじゃないしな」
通帳を閉じる。
部屋を出る前に、もう一度振り返った。
何もない。
本当に、何もない。
「……こっちの片付けは要らなかったな」
綺麗すぎる部屋が、ほんの少しだけ寂しく見えた。
―――
翌日。
ある家の郵便受けに、一通の封筒が届いていた。
差出人の欄には、読み方の同じ二人の名前。
そして玄関先には、二つの花束が置かれていた。
一つは、白。
もう一つは、黄色。
風が吹く。
二つの花束が、隣り合って小さく揺れた。
―――
暗転。
どこからともなく、拍手の音が響く。
ぱち。
ぱち。
ぱち。
誰もいないはずの客席から。
やがて舞台の中央に、一人の男が現れた。
兎傘はいつもの笑顔で、存在しない観客へ向かって一礼する。
「今回の長編、楽しんでいただけたかな?」
芝居がかった仕草で両腕を広げる。
「それでは本日はここまで。おっと――」
何かに気付いたように、兎傘が振り返った。
「最後に、何か言いたいことがあるかな?」
暗闇の向こうから声がした。
「きっとあなたは、悪趣味な人だと思う」
兎傘は否定しなかった。
「そうかもね」
「でも」
声は続く。
「私たちは、それで救われたの」
わずかな沈黙。
そして。
「だから――ありがとう、神様」
兎傘の笑顔が、一瞬だけ止まった。
「……」
ほんの一瞬。
何かを言おうとして。
やめた。
やがて彼は再び観客へ向き直る。
いつもの司会者の顔に戻っていた。
「……視聴者の皆様、失礼しました」
深々と一礼する。
「それでは――」
幕が下りていく。
最後に見えた兎傘の顔が、笑っていたのかどうか。
それだけは、誰にも分からなかった。
「またお会いしましょう。」
それではみなさん。
「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ!」




