第6章「静寂の証(しじまのあかし)」
◆第1節 王の傍の部屋
リアナの私室は、正式な文書の手続きを経て、王の執務室に隣接する最も便利な一室へと移された。形式上の理由は「補佐・文官連絡の便宜」のため。だが、その便宜がどれほどの“建前”であるかを、宮廷の誰もが理解していた。
日中、分厚い扉の向こうからは、ふたりの声が聞こえてくる。政務の相談、文書の確認、そして、ごく稀に、短く抑えられた笑い声。
それだけで、重苦しかった宮廷の空気は、奇妙な安堵に包まれていた。
廊下の隅で控える側近たちが、顔を見合わせ、小声で囁き合う。
「……あの方がいらしてから、陛下の眉が和らがれた。」
老文官は、深く頷き、静かに応じた。
「まこと。あれほど孤高であった王を、人に戻したのは、あの女かもしれぬな。」
誰も表立ってそれを言葉にはしない。それは、王の権威と、リアナの命がけの忠義を、同時に傷つけることになるからだ。けれど、誰もがそれを肌で感じ、見えない糸で結ばれた二人の距離を、静かに受け入れ始めていた。
◆第2節 宮廷のざわめきと沈黙
かつてリアナを遠ざけるよう進言していた貴族たちは、今、沈黙していた。“命を賭して王を庇った女”の忠義を否定することは、彼ら自身の立場と誇りを失うことに他ならない。
むしろ、政務は円滑になった。リアナは、かつての自国の民の声を取り入れ、的確な助言を与える。政は安定し、それは市井の評判にまで届いていた。
宮廷の外でも、噂は静かに広がっていた。
市井の声は言った。「陛下は、戦の王ではなく、人の心を知る王になられた」と。
市民の老婆は、頷きながら付け加える。「あのお方のおかげじゃろうて。」
表には出ない、沈黙の波紋。宮廷の中には、一つの合意が静かに生まれていた。
――あの二人を引き離してはならない。それは、この国の平和と安定を脅かす行為となる。
◆第3節 小さな夜の会話
深夜。リュザードが執務を終え、手を休める。隣室の灯は、まだ消えていない。
彼は立ち上がり、扉を軽くノックした。
「こんな時刻まで、働きすぎだ。」
扉の向こうから、疲労の色はあるものの、澄んだ声が返る。
「あなたが無理をするから、帳尻を合わせているだけです。」
静かな冗談。そこには、もう、王と臣の間の不必要な遠慮はなかった。互いの生活のリズムを知り尽くした、家族のような気安さ。
リュザードは、室内に入り、リアナの机に手を伸ばし、彼女が握っていたペンをそっと取った。
「もういい、あとは俺がやる。」
リアナは目を丸くする。
「王がそんなことをしてどうするんですか。」
彼は、ペンをそっと机に置いた。
「王ではない時ぐらい、そうしていたい。」
その言葉に、リアナの心が少し震える。この人の、厳格な仮面の下に隠された弱さを、私だけが知っている。その特権的な距離が、彼女の胸を温めた。
◆第4節 沈黙の証
日が変わっても、ふたりの関係は、公的な言葉で語られることはなかった。
けれど、ふとした瞬間に、その距離は言葉にならない物語を紡ぎ出す。
彼女が整理した書類を差し出すとき、指がわずかに触れる。短い沈黙が生まれる。
リュザードは、差し出された書類ではなく、リアナの顔を見つめる。
「……もう慣れたと思っていたが、どうにも落ち着かんな。」
「それは、私のせいですか?」
「お前以外の誰のせいでもない。」
淡い空気が、静かに流れる。扉の外で警護する衛兵たちは、この沈黙と気配が何であるかを理解し、視線をそらす。
**「見なかったこと」**にするために。それが、彼らが王とリアナに払う、新しい形の敬意だった。
◆第5節 臣の覚悟
王国評議の日。二人の関係に、再び公の場で楔が打ち込まれようとした。
貴族の一人が、空気を読まずに進言する。
「元女王を王の傍に置くは異例。王に近づきすぎる女、国を惑わせるとの噂もございます。」
その言葉に、リアナは、迷わず一歩前に出た。
「陛下のお傍に仕えるのは、職務であり、誇りです。」
彼女の瞳はまっすぐだった。
「陛下の視る未来を、私も共に見たい。たとえそれが、王を支える臣としての道だとしても……それが、臣リアナのすべてです。」
リュザードは口を開かなかった。ただ、玉座の上で、その揺るぎない姿を、静かに見つめる。
彼の沈黙が、答えだった。彼の信頼は、すべての言葉よりも重く、その場にいた誰もが、これ以上議論する余地がないことを理解した。
◆第6節 終章:王の手の温もり
夜。
政務を終えたリュザードは、自室へ向かう廊下で立ち止まる。リアナの部屋の前。
彼は扉をノックし、そっと声をかけた。
「……少しだけ、話をしてもいいか。」
「ええ、陛下。」
室内には灯が一つ。窓から差す月光が、部屋の半分を冷たい銀色に染める。ふたりは、灯と月光の境界線で向き合った。
「王であることに、時々息が詰まる。」
リュザードは、自らの重い責務を、初めて言葉にした。
「だからこそ、私は隣にいるんです。」
リアナは、静かに答えた。
リュザードが手を伸ばす。彼の、剣と政務で硬くなった掌が、リアナの、傷痕の残る手に触れる。
ただ、それだけ。言葉も、抱擁もない。
けれど、その手の温もりこそが、すべての言葉に勝る、ふたりの間で交わされた、最も確かな誓いだった。
◆章ラストメッセージ
王が人に戻る夜。 臣が女に戻る夜。 その沈黙こそが、ふたりの“証”となった。




