第2章《籠の女王》
滅びを覚悟した女王が目を覚ますと、彼女を討った灰の王は命を奪わず、生かしていた。敵国の民もまた彼の庇護のもとで新しい生活を営んでおり、戦は終わっても、心の中の戦は終わらない。
第一節 目覚め ― 灰の城にて
意識が浮上する。それは、深い水底から無理やり引き上げられるような、重く鈍い浮上だった。
最後に覚えているのは、灰の王の冷たい声と、瞼に触れた指先の温度。そして、すべてからの解放。
白い天蓋が、ぼやけた視界に映った。石壁は清潔で、窓からは静かで穏やかな光が差し込んでいる。湿った空気も、焦げた匂いもない。
「ここは……どこ……?」
声は渇いていた。手を上げ、自分の身体に触れる。蒼い衣はそのままだったが、煤と血はきれいに洗い流されていた。肌に傷はない。
起き上がり、窓辺に近づく。窓には格子がない。しかし、その開口部の遥か下には、城壁の堅牢な石畳が遠く見えた。ここは、逃げられない高さに築かれた、豪華な籠だった。
ノックの音とともに、一人の侍女が静かに入室した。彼女の制服は、蒼国のものとは異なり、無機質な灰色だった。
「ああ、お目覚めになられましたか。陛下が、目覚めをお喜びです。」
侍女の言葉に、全身の血が一瞬で冷えた。
陛下。それは、この城の主を指す。彼女を討ち、国を滅ぼした灰の王。
これは、死後の世界ではない。
剣による静かな終焉も許されなかった、敗者の、屈辱的な余命。
喉の奥から、乾いた問いが絞り出される。
「なぜ……まだ、生かされているの……?」
侍女はただ静かに微笑んだ。その微笑みは、この城の平和が、鉄壁の意志によって成り立っていることを物語っていた。
第二節 灰の王との再会
扉が開いた。
王は、戦場で纏っていた甲冑を脱ぎ、灰色の重い外套を纏っていた。その出で立ちは、威圧的でありながらも、以前よりも人間的な輪郭を持っていた。かつての戦場の覇気、すべてを焼き尽くすような熱は影を潜め、ただ静かに、彼女を見つめる視線だけが残る。
「目覚めたか。」
短く、感情のない声だった。
彼女は、身を起こし、その冷徹な王を真正面から見据えた。
「なぜ、殺さないのです?」
彼女の問いは、刃を交えることのできない、最後の抵抗だった。
王は一歩近づき、窓から差し込む光を背にして立つ。
「お前は俺に、国と人生を託した。ならば、俺はお前を守る。それが勝者の義務だ。」
その言葉は、まるで呪文のように、この部屋の空気を凍らせた。
女は、唇の端をわずかに吊り上げ、嘲笑するように答える。
「あなたの慈悲など、屈辱でしかありません。」
「慈悲ではない。責務だ。」
王の言葉には、冷たさと、奇妙なまでの誠実さが混じっていた。彼は、彼女を屈服させるためではなく、ただ自身の定めた不変のルールに従っているように見えた。
その責務の意味が、彼女には理解できない。それはあまりに強く、あまりに理不尽な重さを持っていた。理解できない感情が、女の胸に、かつての戦傷とは違う、小さな痛みを密かに生み出した。
第三節 静寂の日々
日が経つ。彼女の生活は、まるで透明な鳥籠の中の客人のようだった。食事は豪華で、図書館の使用も許可されていた。しかし、城壁の外に出ることは許されなかった。
ある午後、侍女が茶を淹れながら、静かに語り始めた。
「滅んだはずの**“蒼国”**の民は、今、この国の庇護のもとで暮らしております。」
彼女の手が止まる。茶器の音が、不自然なほど大きく響いた。
「陛下のご命令で、復讐も略奪も固く禁じられております。すべての財産、土地は保証され、彼らはこの地で、新しい生活を営んでいるのです。」
女は驚愕した。彼女が覚悟していたのは、敗戦後の略奪、飢餓、そして民の奴隷化だった。それが、戦後の常だったのだから。
信じ難い現実が、城の外で繰り広げられている。
遠くから、子どもの笑い声が聞こえた。それは城の庭園からではなく、遠方の畑で遊ぶ声のようだった。平和で、無邪気な音色。
それが、彼女の胸をかえって強く締めつけた。
「私の国は、滅んだのではなかった……けれど、それを護っているのは敵の王……。」
その事実は、彼女自身の敗北を、より深く、より複雑なものに変えていた。
第四節 「なぜ殺さない」再び
雨の夜だった。
灰の城の石壁を叩く雨音は、兵士の行進のように響いた。静寂と孤独に耐えられず、彼女は自室の壁を叩き、ついには訪れた王の前で、感情を爆発させた。
「私はあなたの敵でした! あなたの剣で、私の家族も、民も、国も滅びた! それでもなお、生かすのですか!?」
声は震え、瞳には怒りと屈辱の涙が滲んでいた。
王は、その激しい感情の波を、冷たい岩のように受け止めた。彼は目を伏せ、低く、しかし、重厚な力を持つ声で答えた。
「死は、あまりに容易い。お前は敗北を知り、俺は勝利の重さを背負った。」
彼は顔を上げた。その眼差しは、彼女の絶望を映す鏡のようだった。
「ならば、生きることこそが、我らの罰だ。」
その言葉は、すべての抵抗を打ち砕いた。彼女は膝をつき、声を殺して涙を流した。生かされたことへの屈辱が、いつの間にか、彼と同じ重荷を背負わされたことへの、深い悲しみに変わっていた。
リュザードは背を向け、静かに去っていった。その黒衣の後ろ姿は、勝者としての威厳ではなく、彼女と同じ罪を、あるいは、彼女以上の孤独を抱えた者のように見えた。
第五節 名を問う夜
数日後の夜。
雨は止み、空には月明かりが昇っていた。リュザードは、書物を届けるため、再び彼女の部屋を訪れた。
彼は窓辺に立ち、月明かりが彼の白い髪を、夜空の冷たい銀のように照らした。
「……名を、聞いていなかった。」
突拍子もない言葉に、彼女は戸惑った。
「名?」
「あの戦場で、お前を“蒼の女王”としか呼ばなかった。」
「それで十分でしょう。私は敗者です。」
「いや。国を失ってなお立っていたその姿に、名を知りたくなった。」
それは、王から王へという関係ではなく、一個の人間が、もう一人の人間に求める、純粋な問いかけだった。
彼女はわずかに微笑んだ。それは、久しぶりに浮かべた、真実の微笑みだった。
「あなたのような人が、それを聞くのですね。」
「ああ。」
「――なら、教えましょう。」
彼女は息を吸い、静かに自分の名を告げた。
「リアナ。」
王は、その名を反芻するように、深く、静かに繰り返した。
「……リアナ。」
名前を呼ぶその声は、夜の帳の中に優しく溶けていった。
「あなたの名は?」
「リュザード。」
「灰の王、リュザード。」
互いの名を呼び合うその夜、初めて、二人の間の張り詰めた沈黙が、安らぎにも似たものに変わった。
第六節 余韻 ― 胸の痛み
扉を閉めたあと、廊下に立ったリュザードは、自らの胸に手を当て、小さく呟いた。
「名を呼ぶだけで、なぜ胸が痛むのだ。」
それは、勝利の充足とも、敗北の痛みとも違う、未知の感情だった。
リアナは、窓辺で夜空を見上げた。月は雲間に隠れていたが、夜明けは近い。
「この痛みが、生きているという証なら……もう少しだけ、息をしてみよう。」
彼女は、自分の中に残された、小さな生の火を、初めて受け入れた。
雲が晴れ、夜明けの光が、灰色の城の堅牢な石壁を包み始めた。
かつて敵国だった者たちが、今は同じ空の下で働き、生きている。
リュザードとリアナもまた、その朝の中で、互いの名を、そして、敗北の後の生を静かに息をしていた。




