第94話 第11章 再起 第6節 お風呂上りに世界が崩れた
悠太は冷めてしまったトーストを口に運んだ。
「もうグチャグチャで頭の中が整理できないや。なんでこないだまでの、ウイルスとの戦いにやっと目途が立ったのに、今度は人間同士が殺し合うんだろう……」
美咲が驚いた顔で言った。
「やだ、悠太君。初めから人間同士の殺し合いよ?」
悠太は残念そうな、悲しそうな表情を浮かべた。
【アリシアの初報372日目】
世界が混とんを極める中、翔子とお風呂に入っていた美咲を悠太が呼んだ。
「美咲ちゃん、冴子さんが緊急だって電話」
美咲は堂々と全裸のままでドアを開けて、悠太にウインクして見せた。濡れた手を払って、悠太からスマホを受け取った。
「なんですか?今お風呂なんで10分後ではダメですか?」
「ダメなのよ。すぐにアリシアデバイスを付けてアリシアから報告を聞いて」
電話を切った美咲は悠太を見た。
「もう二人とも洗い終わって、温まっていただけだから、最後拭いてくれる?」
「うん、任せて」
「ほら、はやく」
美咲は手を横に広げて、悠太が拭きやすいような体勢を整えていた。
「え?美咲ちゃんも?もう、しょうがないなぁ……」
翔子がげらげら笑いながら見ている中で、悠太は美咲の身体の水のしずくを優しく拭きとった。
美咲は頭にバスタオルを巻いて、シルク製のモスグリーンのキャミソールとショートパンツを履いた。
「アリシア、冴子さんから大至急、報告を受けるように言われたんだけれど」
「はい、美咲。数時間前にNSSが察知した情報を基に、私がアセスメントを行っていました。結論から言うのは難しいですが、R0は50、致死率90%の変異種です。感染から発症まで3時間、発症から重症化までさらに3時間。今までのMORSウイルスとはRBDの配列が全く異なり、ACE2受容体への結合親和性が根本的に変わっています。エピトープも大きく変形し、免疫系が対応できる標的が失われている状態です。今までのワクチンが誘導した抗体は、全く異なるターゲットを追うだけで、何の意味も持ちません。プロテオブロックも同じです。効果がありません。簡単に言えば、新しい最悪のウイルスが発見されました」
美咲は言葉を失っていた。
大きな笑い声と共に、裸で逃げる翔子を追いかけて、バスタオルを持った悠太が走ってきた。
翔子は呆然とした表情を浮かべた美咲の前で、ピタッと止まると小さな手を美咲の膝の上に乗せた。
「だいじょうぶよ。だれだとおもっているの?」
美咲はとてもとても大きな声で泣き始めた。子供のように両腕をブランと下げ、顔を天井に向けて、大きな大きな声で泣き続けた。
あまりの出来事に、悠太は身体が固まり動けなくなった。声も出せなくなっていた。
翔子だけが冷静に、美咲に語りかけ続けていた。
「だいじょうぶよ。だれだとおもっているの?だいじょうぶよ」何度も何度も語りかけていた。
美咲の泣き声と、冷静に美咲を励まし続ける翔子の声が響く部屋の中を、学校の授業の終了を告げるような音が鳴った。
ピンポーン
呼び出しチャイムで我に戻って泣くのをやめた美咲。真剣な眼差しの笑顔で美咲を見つめる翔子。美咲は翔子を抱きしめた。
悠太はバスタオルを抱えたままで、室内モニターのボタンを押す。
画面には真理雄が映っており、焼き小籠包の包みを片手にカメラの前に持ち上げていた。
「……美咲ちゃん、真理雄だ」
美咲は泣いて赤くなった鼻のままで二度頷いた。
もう一度チャイムが鳴り、悠太が玄関まで出て行った。
悠太の後ろについてダイニングにたどり着いた真理雄が言った。
「美人だけれど、親友の妻な美咲ちゃんが、キャミソール姿でセクシーとも言えるが、頭にバスタオルを巻いて、大阪のおばちゃんとも言える様子であることを、どう評価したらよい?」
真理雄は美咲と悠太の顔を代わる代わる見た。
美咲はそのままの格好で、無言のまま真理雄に右手で「そこに座れ」と合図を送った。真理雄は指示されたダイニングの美咲と向かいの席に座った。
悠太にとって特別な親友である真理雄。悠太は真理雄に小さい声で「わかんないけどトラブル」と伝えて、裸の翔子にパジャマを着させるために、脱衣所に二人で戻った。
真理雄はデスクの上に、焼き小籠包を置いた。
「僕たちの思い出の品。だよね?美咲ちゃんに大事な話があったんだ。できれば悠太君には聞かせたくない」
美咲は真理雄を見た。
「悠太君に秘密を持たないから。私」
「知っている。でもそうしたいんだ」
「私のこと、好きにでもなった?」
「ふふふ。違う」
「余命宣告でも出た?」
「それに近いかも」
美咲はビックリした顔をして、自分の言葉を呪った。




