第87話 第10章 覚悟 第7節 世界を救った北海道を、消しておきたい理由
【アリシアの初報367日目】
日本時間の午前4時。共産主義国は世界に向けて記者会見を行った。会見場はいつもの北京にある共産主義国の外交部記者会見室で行われた。
カメラの前にはリン報道官が大変険しい顔をして立っていた。
「過去の歴史において、我々人民に対して虐殺を行い、多くのアジア諸国で悪逆を尽くした日本が、また自分たちの過ちに気付かずに過ちを犯そうとしている。我々は、日本が善意で行動していると信じたい。だが、それが信じるに値する内容であるかどうかは、科学で判断されなければならない。現在、我々が把握している『プロテオブロック』なる物質は、人類の遺伝子防御機構に未知の作用をもたらす可能性がある。この薬を世界の人々が飲んでしまえば、数年後には遺伝子伝達エラーの積み重ねで、人々は人間とは呼べない生物になり果ててしまう。これは、MORSウイルス以上に危険な未来を招く。自国を過信して勝手に『神の薬』を配り始めた行為は、科学的暴走であり、未承認生物剤のテロ的拡散だ。よって我が国は人類を守るために通告する。この違法な物質の拡散が実行されるのであれば、その中心である日本の製造拠点である北海道を、全人類の未来を守るため、限定的軍事行動で封鎖、無力化する。北海道に対して核ミサイル攻撃を実行する。世界よ、考えてほしい。誰が世界を混乱に陥れたのか。誰が沈黙のうちに世界秩序を壊したのか。我々の決断は、防衛である。破壊ではない」
世界中が震撼した。日本国内も経験したことのないパニック状態となった。
共産主義国の記者会見からわずか20分後。世界はまだその衝撃から立ち直っていない。しかし、時間は残されていなかった。
緊急通信衛星網を経由し、各国首脳専用の暗号化通信プラットフォームが起動された。この会議に国連は関与しない。
世界の命運を決めるのは、いまこの瞬間この場に集まった26の国家元首だけだった。
日本の首相官邸、大会議室ではカメラの前に総理大臣が座り、カメラが映していない席には多くの閣僚が座っていた。世界各国ともに同じような状態であった。
プロジェクタースクリーンには各国首脳の姿が並ぶ。
アメリカ大統領は、胸元のネクタイを緩め、険しい表情で開口した。
「まず確認しておくが、スイスに配られた薬のデータ分析について、我々も完了している。共産主義国の会見は、妄言であると断定したうえで話をさせてもらう。残された時間は少ない。我々の衛星監視によれば、共産主義国はすでに東北部のミサイル基地で発射準備に入った。ターゲットは……日本、北海道。予定時刻は……あと1時間37分だ」
その場に沈黙が落ちた。
ドイツ首相が画面越しに震える声で問いかける。
「なぜ、いきなり核ミサイルなのですか?なぜそこなのですか?なぜ北海道を……?」
アメリカ大統領は低い静かな声で言った。
「……1989年、天安門広場に戦車が突入した時、我々は『まさか』と思った。だが、彼らはやった。国家の体面のために、学生たちの命を踏み潰した。その構造は今も変わっていない。天安門事件と同じなのさ。北海道にあるのは、日本政府が建設した『MORSウイルス感染症の対策拠点基地』だ。今回のウイルス無効化薬を、実際にどこで作ったのかは知らないが、彼らに取って見れば北海道がランドマークだったということだろう」
「つまり脅しではないと?」
ドイツ首相の言葉に応えたのはイギリス首相だった。
「現在の国家主席は、あの時のトップと同じように、全く逆といえる国内統治に綻びを抱えている。経済は低迷し、地方は不満を抱え、支持基盤は劣化していたのが天安門事件の時。今は共産主義国のなかの会社が、金銭的な力を持った。政府よりも強大な力を。再度『自由』を求める流れが生まれるのは必至だ。そして彼自身も、そのことを理解している」
イギリス首相が葉巻に火をつけながら言った。
「憲法が改正され、国家主席として無期限の統治が可能となった今、彼が一番恐れているのは……失脚だ」
フランス首相は食い気味に言った。
「だが、なぜ核で脅す?なぜ世界を敵に回す?」
アメリカ大統領は一瞬目を閉じ、続ける。
「権力を維持するには戦争状態が最も有効だ。平時には、統治の正統性が問われる。だが、戦時にはトップが変わる余裕などない」
イギリス首相は大きく吸った葉巻の煙を吐き出した。
「彼が地球統一を掲げたのは、勝つためじゃない。長引かせるためだ。世界を敵と味方に分断し、その対立の構造が続く限り、自分は指導者でいられる」
アメリカ大統領。
「彼らがワクチンで世界を救い、多くの味方を作るという筋書きを、日本が変えてしまったからだ」
ドイツ首相は重い口調で発言した。
「つまり……日本はウイルス無効化薬をばら撒いたのではなく、彼の脚本を破壊したと?」
短くうなずいたアメリカ大統領。
「ああ。彼が舞台の中心に立ち続けるためには、誰かに火をつけねばならなかった。その火は、北海道に向けられたんだ」
イギリス首相が低く言った。
「我々は、今ここで答えを出さねばならない。すでに22か国が共産主義国の世界一路構想に署名した。もし日本が旅客機を引き返せば、他の国々も追随する可能性がある。全人類が膝をつく。それが現実になる」
日本の首相は沈黙していた。だが、ついに小さく息を吐き、重々しく語り始めた。
「私は……旅客機を一時、帰還させる案を検討している。北京との対話の道を模索したい。核攻撃を宣言された今……これは選択肢がない選択だ」
その瞬間、アメリカ大統領が拳を握り、怒声を発した。
「あなたは何を言っているんだ!日本が引き返せば、それは降伏と同義だ。敵に膝をつけば、他国も次々と従う。それが世界の連鎖になる!」
イタリア首相が叫ぶ。
「落ち着け、頼む!話し合いの余地はまだあるはずだ!」
その時、アメリカ大統領の手元の端末が光る。CIAからの報告を、彼は画面から一度視線をそらし読み上げた。
「共産主義国南部の地下シェルターから追加の移動式発射装置が確認された。最大射程1万2千km。アメリカ本土も射程に入る」
会議の空気が一変した。
フランス大統領が、抑えた声で語りかける。
「我々は、選ばなければならない。国民をウイルスで失うのか、核で失うのか……それとも、共産主義国の属国として生きるのか」
ロシア大統領が初めて口を開いた。
「我々は常に自国の利益を最優先に考える。だが今この瞬間、地球上に安全な場所は存在しない。たとえ中立を保っても、次の標的にされる可能性がある」
韓国大統領が言った。
「日本が引き返せば、我々も求められることになる。我が国の領空は、すでにウイルス無効化薬運搬ルートになっている。……中立など、もはや幻想に過ぎない」
南アフリカの大統領は、静かに呟いた。
「すでに我が国にもデルタ株は入り始めている。1週間持たないだろう。だが、それでも、属国になることは受け入れられない」
イギリス首相が、冷静に、しかし静かな怒りを帯びて言う。
「この問題に対し、日本にはもはや関与する余地はない。我々、アメリカとイギリスは、連合国として独自に決断を下す。これは第二次大戦以来の共同作戦になる」
彼は続けてアメリカ大統領に語り掛けた。
「時は来た。共産主義国の軍事的暴走を止める」
アメリカ大統領はうなずき、カメラを真正面から見つめた。
「今回のプロテオブロックは、感染前に飲んでおく必要がある。データがあれば1週間で、アメリカ国内の複数の製薬製造ラインを動かせるだろう。しかし48時間で死亡するウイルスだと考えれば、場合によって間に合わない。つまり日本が薬を渡さないというのであれば、アメリカ人が死ぬことを容認することになる。各国首脳に告ぐ。日本がウイルス無効化薬を引き返すのであれば、日本は我々にとっての敵になる。我々の敵と交わる者は、いずれ我々の敵となる」
ウクライナ大統領が唸るように言った。
「それは……脅しなのか?制裁だけではなく、軍事的報復も含むというのか?」
「Yes」とアメリカ大統領。「我々は世界の秩序を守る義務がある。そして自国民を守る義務もある。攻撃するしかない」
その瞬間、CIAの報告が再度更新された内容をアメリカ大統領が読み上げた。
「共産主義国軍、南シナ海にて長距離弾道ミサイル潜水艦の出航を確認。太平洋ルート、ハワイ周辺に向かう可能性」
会議の空気が、爆発寸前まで膨れ上がった。




