第73話 第9章 探求 第3節 日本の本州に初めて入ってきたガンマ株
【アリシアの初報320日目】
日本国内で開催されていた「脳天気祭り」は、時間と共に収束していった。正式なルートよりもSNSなどで発信される現場からの情報は、誤報も多いが速度とフィルターがかかっていないフレッシュさを高く保っていた。
ヨハネスブルグの公的クリニックや、すでに複数の医療機関においてベータ株ワクチン接種者の発熱患者が発見されており、現場で特に叫ばれている事実は、発症から重症化がとても早い点であり、ほとんどすべての症例で24時間以内の重篤化が認められている。そして現状で重篤化以降24時間以内で4割近い患者が亡くなっているという部分だった。
【アリシアの初報323日目】
出国禁止ではないものの、帰国時に厳しい隔離政策が取られていたため、日本人の海外渡航は、従来のわずか3%未満にまで落ち込んでいた。前回の感染症拡大時には、本来であれば世界中の旅客機の約4割が常に空を飛んでいるはずなのに、すべての旅客機が地上待機となった。その結果、駐機スペースが世界的に不足し、さらに収益の大半を失った航空会社は、かつてない経営危機に陥った。しかし今回は、早期の段階から国土交通省が旅客機の借り上げを行い、国内外の輸出入の輸送リソースとして再活用する対応をとっていた。そのため、旅客機が遊休資産にならずに済み、航空業界への影響も最小限に抑えられていた。
当然旅客機である為、航空貨物機の3割から4割程度の荷物しか運べないが、それでも航空各社は工夫を凝らし、客室乗務員や陸上係員を作業着でその飛行機に乗せて、現地で段ボールなどを手運びで座席や廊下に並べていき、収納量を貨物機の半分くらいまで増やす便もあった。
感染拡大真っただ中の海外に出かけても、どこにも出かけられるわけではないし、ほとんどの便では荷積み荷下ろしと燃料補給が終わると、すぐに現地を飛び立つスケジュールだったため、引っ越し業者のアルバイトのようだという話もよく聞かれた。
JALにしてもANAにしても、これらの様々ないつもとの違いを嫌い、休職を選択する職員も一定数居たようだが、何事も楽しんでやろうという良い意味での好奇心は、以前の感染症拡大時と比べて生き生きと仕事を楽しんでいるように見えた。
南半球に場所を移し、前日、南アフリカのケープタウン国際空港から、バイオテック社製のMORS-Bワクチンを日本に運ぶ予定であったANA(全日空)のボーイング787-9が、ワクチンを積み込んだ後、同じ南アフリカのヨハネスブルグ国際空港に移動して待機をしていた。
数時間後、南アフリカの健康省の職員が、30センチ角程度の発泡スチロール製クーラーボックスを積み込んだ。その箱は客製最後尾の椅子に、安全ベルトでしっかり固定された。
この飛行機は今、ベータ株のワクチンとガンマ株のウイルスが共存している不思議な空間だった。
16時間後には、ドライアイスが満タンに詰め込まれたクーラーボックスに収納された「ガンマ株ウイルス」が初めて日本国内に上陸し、東京都武蔵村山で厳重なケースから取り出された。
夕方の国立感染症研究所村山庁舎は静かで、空調の音とゲノム解析用、次世代シーケンサー「ノバシーク6000」のウォームアップ音が微かに響いている。太陽が沈んで暗くなった窓に、室内の照明が明るく写り込んでいる。
宇宙服にしては軽装程度の、感染防護服と電動呼吸装置を身に着けた小曲博士は、同じ格好をした二人に向かって穏やかな声で言った。
「はい、では始めましょう。安堂先生、サンプル搬送時の温度記録、確認されましたか?」
東京大学医学研究所から、国立感染症研究所MRNAワクチン設計部に出向してきた安堂助教授が端末のテキストを確認しながら頷いた。
「はい、搬出から到着まで連続記録あり。全行程でマイナス80度以下を維持しています。問題ありません」
「よかった。それではラボ日誌への記録を。桐谷さん、機材側のチェックをお願いします」
製薬会社から出向してきている桐谷シーケンス技術者は、モニターに目を走らせながらいった。
「ノバシーク6000、キャリブレーション済み。フローセルはSPタイプ、ランタイムは24時間設定、フルゲノムモードで入れています。バッファ補充も完了です」
小曲博士は軽く深呼吸をした。
「ありがとうございます。今回、国家プロジェクトの初解析ですから、フルカバレッジで行きましょう。遺伝子全域を網羅して、ワクチン設計の基礎データにします」
安堂助教授が確かめる。
「ちなみに、ラン結果の主導記録はどちらに入力していきますか?研究所サーバか、アリシア経由での厚生労働省サーバか?」
桐谷技術者が腰に手を置いて話す。
「アリシアになれていないですけれど、リアルタイムってのも役所にとって魅力ですよね。村山庁舎のサーバ自体がどんなシステムなのか知らないので、厚労省に預けた方が安全じゃないですかね?」
小曲博士はうなずいた。
「そうですね。私もまだアリシアには慣れていないですけれど、自動要約機能などの評価も大変高いので、アリシア経由でいきましょう。バックアップはボールペンとノートということで」
安藤助教授は笑いながら言った。
「了解しました」
桐谷技術者がノバシークの画面を見ながら言った。
「ところで、シーケンサーの操作パネル、うちの本社ラボとはUIが違うんですよね。ここの初期設定、誰かカスタマイズしましたか?」
安藤助教授が苦笑した。
「たぶん、厚労省の技官チームがプリセットしたんじゃないですかね。私の大学のセットアップより、少し……官庁向け?色気のない仕様になってますね」
小曲博士も笑みを浮かべた。
「東大ラボより色気が無いですか……なるほど……私も正直、このボタンを毎回確認してしまうんですよ。桐谷さん、もし良ければ使いやすいように整えていただいて構いません」
桐谷技術者は表情をやわらげた。
「了解です。解析が落ち着いたら一度、ユーザープロファイルを整理しておきます」




