第65話 第8章 原因 第5節 現実を事実と認識し真実も現実との相違を修正するべき日
【アリシアの初報57日目】
ジュネーブ「WHO本部」記者会見室
室内の空調設定とは別の機序の結果として、記者たちの背中には軽く汗が滲んでいた。
この会見の意義や目的について、誰もがわかっていたし、恐れていた。その言葉が発せられることによって、元々そこにあった現実を、事実だと認めねばならなくなることを。
カメラのフラッシュが断続的に光る中、世界保健機関(WHO)の事務局長、タリク・エルマディ博士が静かにカメラの前に立った。中東出身で、柔和な笑みをたたえることで知られる人物だったが、今日の表情には微笑みのかけらもない。
「皆様、本日はお集まりいただき、誠にありがとうございます」
英語、フランス語、スペイン語、アラビア語、ロシア語、同時通訳が各ブースで続きを世界に伝える準備は終わっている。
タリク事務局長は、手元の原稿に目を落とした後、まっすぐ前を見た。
「本日、世界保健機関(WHO)は、現在世界中で拡大している新たな感染症について、『国際的に深刻な公衆衛生上の緊急事態(PHEIC)』を宣言し、あわせてこれが『世界的パンデミック』に該当すると公式に認定いたします」
会場が静まり返る。記者たちの指が忙しく仕事を始めて、フラッシュの閃光で会見場は純白に包まれた。存在するのであれば、それはまさに神々の裁きの部屋のようだった。
「現時点で、世界全体の感染者数はおよそ5000万人。そして残念ながら、確認されている死者数は100万人に達しました。このウイルスは、極めて高い感染力を持ち、潜伏期間中にも感染が拡がるという特徴を備えており、各国の医療システムを著しく圧迫しています」
タリク事務局長は少し呼吸を整えた。
「我々は、これまで得られたゲノム情報と臨床データに基づき、世界各国と連携し、対応を進めていますが、現時点では感染源の特定が困難であるため、このウイルスに対する最終的な正式名称の決定には時間を要する見込みです」
ざわめきが走る。タリク事務局長は、眉間にしわを寄せ続きを述べた。
「つきましては、WHOとして、今後の議論と記録の統一を目的に、当該ウイルスに対し、『Medical-Originated Respiratory Syndrome(医療起源呼吸器症候群)』、暫定的に『MORS』という呼称を使用することといたします」
記者の手がいくつも上がり、指名されるのを待てないように声が上がる。
「博士、このMORSはSARSやMERSと同系統のウイルスと考えるべきでしょうか?」
「MORSの名前は、特定の国や地域を暗示しているという批判も出る可能性があるのでは?」
「なぜ医療起源という名前が付いているのですか?どういう狙いですか?」
タリク事務局長はそれらを制止するように、ゆっくりと首を横に振った。
「誰もがこの危機において『責任の所在』ではなく、『命を守ること』に集中するべき現実があります。MORSという呼称は、いかなる国や人種、宗教を指すものでもありません。医療起源という名前については、現段階においてあまりに不明な点が多く、医療機関からの第一報があった以外に、このウィルスの出生等の流れを見つけられていないからです」
テレビを見ていた美咲は、小さな声で言った。
「……とうとう『名前』がついた……」
向かいの席で仕事をしている悠太も、テレビを見ながら言った。
「色々な政治力で、地名は付けられず苦肉の策だったのかね……医療起源呼吸器症候群だなんて」
「アリシア。MORSって、確かラテン語で『死』だったわよね……」
「美咲の記憶は正しいです。WHOに狙いがあったとは思えませんが、皮肉ですね」
悠太は軽い深呼吸をして、肩のコリをほぐすような動きをして言った。
「なんだかこれは、世界中の人々がこの現実と向き合うしかなくなったことを意味している気がするよ。逆中二病みたいに、実はそんなウィルスなんてないんだ、誰かの、どこかの組織の陰謀なんだと思い込みたかった人達も、いよいよ向き合っていかなければならない状態に追い込まれた感じがする」
ニュース速報のテロップが、世界中のあらゆる言語で流れ始める。
「WHO、MORSウイルスによるパンデミックを宣言。感染者5000万人、死者100万人に到達」
美咲はつぶやいた。
「そうね。世界は戦う相手の「名」を手に入れた。そしてそれは、まだ始まりに過ぎないってことも、再認識するべきね」
美咲は深く息をはいた。




