第59話 第7章 怒涛 第9節 人間って確証バイアスや承認欲求の泥沼が好きよね
【アリシアの初報17日目】
自宅に戻った美咲は、事の顛末を悠太に話した。美咲にとって、さらに3年間も「医療現場」から離れることは不安だった。しかし一方で、翔子が小学校に入るまでは家族との時間を優先できる。そう考えると、悪くない話でもあった。
「でも美咲ちゃん。そもそも美咲ちゃんの立場というか、何を期待して厚労省は美咲ちゃんを呼び込もうとしているのか、それについての確認はしておくべきではないかな?」
「ははは。それもそうよね。勝手に今のままアリシアと色々な事を相談しながら、プランを立てるイメージを持ってしまっていたわ。怖いわね。確証バイアスがかかっていたことに、気が付きもしなかったなんて」
美咲はイヤホンを耳にかけてアリシアに話しかけた。
「アリシア。今日厚生労働省への出向を求められたのだけれど、あなたは何か知っている?」
「美咲。厚生労働省は、私を医療や行政のアシスタントとして活用するだけでなく、より適切な判断を行うために、人間の視点を補完する存在として、あなたを配置しようと考えているようです。私はデータを解析し、情報を抽出し、推奨を提示することができます。しかし、どの情報を優先し、何を重要視すべきかの判断には、人間の視点が必要です。例えば、今回の新型ウイルスの情報を私があなたに通知したのも、日本の安全確保のためではなく、未知のウイルスに対する対応方法が設定されていないためでした。美咲が私と対話し、私の分析結果を評価し、気づくべきことを示すことで、より精度の高い対応が可能になります。そうした役割を担う存在として、厚生労働省はあなたを求めているのではないでしょうか」
「なるほどね。でもそれであれば『私』でなくても問題ないわよね?むしろ医師である私よりも、感染症や入国管理を専門とする人の方が、今の状況からすればマッチしていると思うのだけれど」
「そういう側面があるのは確かですが、私を作った美咲との間で交わされた会話は膨大です。私は美咲からの質問や問い掛けに対して、美咲と交わした会話を再読み込みをして返答をしています。つまり美咲がこういう場面でこの言葉を使う時の意味、意義、意図などについての解釈正解率が高いのです。その逆も同じで、美咲は私の言葉に対する解釈正解率が高いのです。振り返るデータが多い分、反応速度という点ではデメリットとなりますが、言葉の相互理解という点では、美咲がその役を担ってくれるのであれば、とてもありがたいと言えるでしょう」
「ハハハ。アリシアがありがたいと思ってくれるなんて、なんだか不思議だわ」
美咲はゆっくりと悠太と翔子を見た。
数秒考え、うなずきながらアリシアと悠太と翔子に言った。
「わかったわ。この家族はアリシアがいなければ存在していない可能性が高いの。だって、悠太君と出会えたのは、アリシアの存在が必須要素だったのだから。そんなアリシアの望みであるならば、それを私が叶えるのは正しい事。私は今回の出向の話を受けることにする」
翔子が悠太に聞いた。
「おかあさんはどうなるの?」
「翔子が小学校に行くくらいまで、今のように家で仕事をする事になったよ」
翔子は満足げにほほ笑んだ。
【アリシアの初報18日目】
美咲は翌日、院長に電話をして出向の話を受け入れる旨を伝えた。育児休暇中であったはずが、未知のウィルスのせいで、実質、毎日在宅勤務状態になっている。結果として美咲自身の生活スタイルは今と変わらないことを踏まえて、即日応慶大学での育児休暇を終了した。
【アリシアの初報19日目】
出向開始日は翌日となったため、朝の通勤ラッシュ時間をさけた午前中、美咲は厚生労働省がある合同庁舎へ「任命書」を受け取りに出かけた。
厚労省でのアリシアを支える部門である、医療情報連携室の責任者である時田室長が迎え入れてくれた。
「はじめてお目にかかります。こんなドタバタの中でお会いすることになるとは思いませんでしたが」
「はじめまして。安田美咲です。私は医者であり、それ以外のことは自分でも驚くほど無知で世間知らずです。ご迷惑もおかけするかもしれませんし、口のきき方も失礼があるかもしれませんが」
「旦那様の悠太さんとはよく話させていただいています。悠太さん曰く美咲さんはアリシアの母であり姉妹だと伺っています。私の方こそよろしくお願いします」
「ところで私は時田さんの部下ということになるのですか?」
「え?ハハハ。悠太さんから最短距離で切り込んでくる女性だと聞いていましたが。なるほどわかりました。そうですね、形としてはそのようになります。厚生労働省医療情報連携室に属するパンデミック調整官という肩書になりますからね」
「……パンデミック調整官……ますます自分の仕事がわからなくなる肩書です」
「私からでは説明の言葉選びに気を遣うのですが、川滝大臣が強い希望をもって実現した人事であり、肩書名です」
「なるほど。時田さんとしては、具体的にはどのような事を私に期待しているのですか?」
「今のままで結構です。アリシアと様々な情報交換を行い、我々と共有していただく。ですが今後世界パンデミックが起こった時には、おそらく専門外の情報のやり取りが必要になると思います。これら専門外のことであったとしても、アリシアとの会話で解決への道を探していただきたいですね」
「どんなイメージでお話しされていますか?例えば?」
「そうですね……密入国や防衛……私にとっても専門外も甚だしいですが、現状でアリシアは厚生労働省以外の全ての省庁とのプラットフォームになっています。美咲先生は厚労省に属するというより、アリシアに属すると考えると、アリシアが危惧するすべての守備範囲に思考を巡らせることになってしまいますが」
「わかりました。人間にできることであれば、私にもどうにかなるでしょう。頑張ってみますね」
任命書を受け取り事務手続きを終えた美咲は、寒いくらいに空調が効いた大きなスペースに案内された。そこにはアリシアの本体があり、美咲はエリシオン社から引っ越しを終えたアリシアに初めて会った。
「ずいぶん寒い所で仕事をしているのね」
美咲がアリシアに語り掛けると、返事をするようにいくつかのLEDが光った。




