第58話 第7章 怒涛 第8節 支流で起こった強い流れが集まるとそれは怒涛となる
【アリシアの初報16日目】
アリシアはイギリス、サフォーク州のイプスウィッチ病院から、肺炎に関する情報照会が頻繁に実施されていることを把握した。これは当然美咲や、その他中央官庁と共有されていた。
外務省からイギリスに対しての問い合わせには、悪性の肺炎が発見されたことは認めるものの、現状では未知のウィルスが原因であることは確定しておらず、現在その調査を継続しているとの返答だった。
それと同時に、外務省からの共産主義国に対する度重なる問い合わせを行っていたが、それに対しては無反応を貫いていた。また、外務大臣が幾度となく、共産主義国大使を呼び出しても、システム障害が起こっていることと、河南省の緊急集中道路工事を繰り返すだけであった。
【アリシアの初報17日目】
イギリス政府は世界に向けて記者会見を行い、現在わかっている事実の発表がなされた。
最初に肺炎を発症したのは、サフォーク州のフェリクストウ港を管轄する「港湾管理」を行う会社で「水先案内人」を務める46歳の男性。この男性は、共産主義国発の「グローブ号」に一時乗船し、水先案内を行った。その7日後に、咳や発熱の症状が出て、クリニックの診断を受けた。この際は風邪と診断されたが、それから2日後に状態が悪化し、大病院であるイプスウィッチ病院に搬送された。
緊急入院となり、この患者から採取した血液などから現在調査を行っているが、イギリス政府の判断により、本日よりフェリクストウ港の貨物船受け入れは、一時的に中止するとの発表がなされた。
その数時間後、イギリス政府は未知のウィルスが原因であることを突き止め、WHOに対して報告を行ったことを発表した。
ちょうど同じころ日本では、産後の育児休暇中だった美咲に、応慶大学病院の院長から話したいことがあると呼び出しがかかった。
考えてみると、翔子が生まれるちょっと前から、3年弱の間電車に乗って出かけることをしていなかった。スマホのスイカ残高を確認したり、電車に乗る手順を頭に浮かべながら元住吉駅まで歩いている美咲の頭には、ずいぶん前にインターネット動画サイトで見た、若い頃の「吉幾三」が歌っていた「おら東京さいぐだ」が流れていた。
「……こういうところ、私は無意識に失礼な人間なのかしら」美咲は小さな声で呟いた。
応慶大学病院に到着した美咲は、本来自分が所属している「放射線科」に寄って、久しぶりに同僚に挨拶をした。美咲が知らない新任の医師もいたため、時間が確実に過ぎている事をひしひしと感じていた。
コンコン 美咲は院長室のドアをノックしてドアを開けた。
「おお、久しぶりですね、安田先生。母子ともにお元気ですか?」
「ご無沙汰しております。娘と過ごす時間をしっかり頂いて、心から感謝しております」
「なにもなにも。決められたルールを適用しているだけだよ。人口数減少のこの国に必要なのは、新しい国民なんだから」
院長は笑顔で美咲を面談ソファーに案内した。
「本日はどのようなご用件でしょうか?」
美咲は美咲らしく、早速本題に切り込んだ。
「うん、そうだね。さて、あと数か月で育児休暇も終了になるんだけれど、安田先生は予定通り応慶大学に戻ってくれるつもりでいると認識してよろしいですかね?」
院長は両手を組んで話し始めた。
「もちろんそのつもりです。娘の保育園や幼稚園の見学もしながら、復職の準備は進めています」
「うんうん、それは結構です。実際問題として、復職後は娘さんと離れて過ごす事になりますが、心配とかありませんか?」
「……院長。お話の意図が見えないのですが?」
美咲は院長の目をのぞき込んだ。
「ああ、これは失礼しました。では本題に入りますね。実はまあ、アリシア独自導入の時もそうでしたけれど、この医療の世界もいろいろな政治力が働いている訳ですがね。なかなか強い力で、安田先生の力を借りたいと言う人がいましてね。実質的に安田先生が、応慶大学病院にこれからも在籍してくれる意思があるのであれば、断れない状況です」
「え?どこか他の病院に異動という事ですか?」
美咲は想定外の話の流れに少々驚いた。
「いえ、他の病院ではないです。厚生労働省へ3年程度の出向という形になります」
美咲はすぐに状況を飲み込むように、前かがみになっていた体勢を戻した。
「ああ……新型ウィルスとアリシア絡みですね?」
「そういう事です。私の力ではね、断る事が出来ない流れです。ですが登庁ではなく在宅勤務としてという部分は、頑張って納得させたのですが……安田先生はどうしますか?」
美咲は一度家族と相談したい旨を院長に伝えて、院長室を後にした。




