第57話 第7章 怒涛 第7節 餅は餅屋、魚は魚屋
アリシアと美咲は、ワクチン開発に関する方向性の議論は、早い段階で済ませていた。
「アリシア。原則として私はワクチン開発については、専門家委員会に任せるべきだと思っているの。私が口出しするつもりはない。それでも他のことをプランニングするうえで、アリシアの考えは知っておきたいのだけれど、ワクチンの開発を本格的に始めるとしたときに、どの方式を採用するのがいい?」
「ウイルスの遺伝情報を迅速に解析し、最短数日でワクチンを設計できるメッセンジャーRNAワクチン。ウイルスを化学処理や熱処理で不活化し、培養に時間を要する不活化ワクチンや、無害なウイルスを運び手として利用し、遺伝子を細胞内に届けるウイルスベクターワクチンは、開発に数年を要します。ウイルスの構造を模倣した組換えタンパクワクチンも、同様に数年の開発期間が必要となります。従来法として、ウイルスを弱毒化して生ワクチンを作るには一般的に10年から15年を要しますので、今回の目的を考えると、メッセンジャーRNAワクチン一択だと考えます」
「そうよね……ここから10年間かけてワクチンを作るとかでは、今回の件に関しては意味が無いものね」
「ですが日本ではメッセンジャーRNAワクチンを量産する設備がありません。ですから外国の製薬会社が生産してくれるのを待つ。現状ではこれしか手が無いのです」
「で、アリシアはどんなプランを考えているの?」
「はい。ワクチン設計は海外に任せるべきです。理由は経験の違いからくる設計速度の違いです。ですので日本国内ではリソースを量産製造ラインへ向けます。今後海外の死亡者が増えていき、ワクチン生産ラインやロジスティックスに支障が出ると考えられます。こうなれば国内の分は国内で生産できる体制が重要ですし、海外への輸出で世界の命を救うこともできる」
「でもメッセンジャーRNAワクチンは、マイナス20度とかマイナス70度とかの保存が必要で、海外への輸出はどのように考えているの?」
「はい。今後世界の旅客機が飛ばなくなると予想しています。そこでその旅客機の貨物室を使って、世界に配布すれば航空会社の支援にもつながりますよね」
「なるほどね。これらのプランはどこに提示してあるの?」
「ワクチンそのものを担当する厚生労働省と、輸送を担当する国土交通省。極低温を維持する輸送容器を担当できる経済産業省です。世界がワクチンの量産が出来なくなった際に、日本が世界に輸出する事により、8兆円程度の利益が得られると予想しています」
――しばらく一緒に仕事をしていない間に、アリシアが収益まで考えるようになっているのは、ちょっと驚きね……
美咲はアリシアがAIであるが故の、専門性の広さ、思考の幅に驚いていた。
【アリシアの初報7日目】
アリシアの初報から1週間経過したが、世界ではまだ感染症拡大のニュースは広まっておらず、日本だけが騒いでいるような状態であった。しかし、世界から日本政府が強く批判されていなかったのは、この3日間、共産主義国の河南省でシステム障害が起こり、一切の通信が途絶えていたこと。さらに複数の国の外交関係者が河南省に立ち入ろうとしても、道路工事を理由にそれが実現できていないことが要因といえた。
また、共産主義国は日本の対応に対して無反応を維持しており、そこに何かある可能性が高まっている事実は世界各国が理解していたからだ。しかし物的証拠と言える情報が皆無な為、日本以外の国々は、何かしらの対応を実施するまでの決断ができないでいた。
一方で、冴子からアリシアのワクチンに関する思考を出力した書類を手に入れた川滝大臣は、これまで専門家に対する指示命令の度合いについて、躊躇する部分も大きかったが、強いリーダーシップを発揮し始めていた。
川滝は財務省の副大臣にアリシアの8兆円回収プロジェクトを事前に説明し、その副大臣も感染症委員会会議に参加させた。利益を国に向ける方向で川滝と協業し、感染症委員会の方針を、ワクチン開発ではなく、世界と協力して製造を担う方向に大きく舵を切り始めていた。
厚生労働省と経済産業省のタッグに財務省も加わり、北海道特区のワクチン生産工場への改修は、一気に速度を増した。




