第35話 第5章 伏流 第3節 気づかいや優しさは時に存在意義を脅かす
「3か月生理が来ていない……忙しいからとか……そういうことではないレベル」
美咲は病院のトイレで呟いた。
トイレから出た美咲は、アリシアのスマートウィッチが使えなくなったため、久しぶりに引っ張り出した腕時計で時間を確認した。その足で彼女は「産婦人科」の外来に向かった。
外来受付に行くと、美咲は受付にいた看護師に向かって言った。
「放射線科の安田ですが、3か月生理が来ないので相談したくて来ました」
少し唖然とした表情を浮かべた看護師は、すぐに中に入って医師につないだ。美咲は2分後には診察室の中に座っており、目の前には産婦人科の坂上という男性の専門医が座っていた。
「安田先生。特に産婦人科は、自分が勤務する病院で診察を受けるのは珍しいですが……」
「忙しいので通院移動時間ゼロの方が重要です」
「……わかりました。よろしくお願いします。それでは……診察台にお座りください」
美咲にとって産婦人科医は産婦人科医でしかなく、医師の性別や同僚であるか否かなど、どうでも良いことだった。
下半身の衣服を脱いだ美咲は、産婦人科特有の診察台に座った。
看護師が上からバスタオルをかけて、坂上は美咲の膣に、ジェルが塗られた経腟エコーのプローブを挿入した。上に着ていた衣服もお腹の上までめくりあげて、腹部からも別のエコープローブを使って、美咲の子宮内の様子を確認した。
「安田先生。妊娠されています。画像を見る限りでは『おめでとうございます』と一般の患者様にはお伝えする状態です」
カーテンを開けると、服装を整えた美咲の目から涙が流れていて、坂上は少し驚いた。その表情を見た美咲は、涙の理由を伝えるべきと判断して坂上に言った。
「嬉しいだけです。問題は何もありません。中々できなかったので、難しいのかな?と思っていたのですが。大好きな夫との子供が出来たので、嬉しいだけです」
美咲はまさに聖母のような笑顔で言った。
言葉使いもキツく、カンファレンスの時なども、強くぶつかって来ることがある美咲の涙と笑顔を見て、なぜだか坂上の目も充血した。
一時的とはいえ使えなくなったアリシア経由で連絡が出来ない為、美咲は通常のSNSメッセージで悠太にテキストを送った。
「妊娠しました」
なんとなく順序的に、産婦人科医以外は、先にこの事実を伝えるのは悠太であるべきだと、変なこだわりを感じた美咲は、まだ放射線診断科の医長などには言わず、いつものように仕事をこなしてやや遅めに仕事を終えた。
美咲は帰り道、これまで気にも留めなかった赤ちゃん用の小さな靴下や哺乳瓶に目を奪われた。
くすっと笑った美咲は独り言を言った。「……冗談みたい。私が……お母さんになるだなんて」
マンションに到着すると、すでに部屋に明かりが灯っていた。いつも以上の安心感を感じて自分の玄関を開けると、悠太が駆け足で美咲のそばまで来て、美咲を無言で抱きしめた。
「ありがとう、ごめんね」
美咲は悠太を突き放して言った。
「ごめんって何?」
「美咲ちゃんのキャリアが……」
普段は悠太にも涙などみせない美咲が、ブワっと涙を流した。
「なんでそうなる?私がどれだけ悠太君を好きなのかわかっている?今この瞬間の私は、幸せしかないよ?大好きな悠太君との間に子供ができた。いったいどこの誰を見て、ごめんなんて言葉が出てくるの?」
美咲は悠太の胸を叩きながら言った。
悠太は困り果てた表情と、後悔の表情をまぜこぜにした顔で言った。
「……それこそゴメン。純粋に嬉しい、ありがとう」
今度は美咲から悠太を抱きしめて言った。
「そう。それで良い」
そのあと二人は、フライパンで焼くために、涙型ではなく円形の悠太が作ったナンと、いつもより辛さが圧倒的に少ないダルカレーを食べながら、今後の仕事や生活の事について話し合った。
悠太はアリシアの厚労省独占契約に向け、厚労省のデータベースサーバへの引っ越しの為に忙しく動いていた。
取り急ぎの話し合いの結果で決まった事は、今夜中に美咲が電話で幸太郎に妊娠の事実を伝えること。週末に、二人で美咲の実家に行って報告を行う。明日美咲は自身が所属する放射線科の医長に伝えて、残業を減らしたり、その後の産休の準備を進める。
エリシオン社は外資という事もあり、男性にも育児休暇を積極的にとるような働きかけがあるため、悠太は出産後の育児休暇をフルで取る。それまでも準備などはできるだけ一緒に行う事などが決められた。
「こうなってくると、アリシアのプロジェクトが大きくなってくれたのがありがたかったね。僕が育児休暇を取ったとしても、チームが大きくなっているから、滞りなくアリシアの進化は進む」
「そうね。私も産休や育児休暇があって現場から離れるから、戻った時にはアリシアが現場復帰している状態でしょうしね」
二人の生活も、今までの雑なふるまいをできるだけ少なくしていき、丁寧に美咲の負担を減らすことを忘れずに過ごそうと確認しあった。
美咲は幸太郎に電話をして、妊娠の事実を伝えた。幸太郎は泣き出して喜んだ。




