第102話 第12章 春雷 第4節 やり直して紡ぎだした幸せの先
桜のつぼみがほころび始めた春の朝。入学式のためだけに買ったともいえる「一張羅」を着た翔子は、玄関の姿見の前でくるくると回りながら「どう?かわいい?」と、少し照れくさそうに聞いてきた。
美咲は腕を組んでニンマリとした笑顔を見せた。
「当たり前でしょ?誰と誰の子だと思っているの?」
翔子も両手を腰に当てて言った。
「それもそうよね。おとうさんとおかあさんのこどもなんだものね」
悠太は、うなずく代わりにスマホのカメラのシャッターを何度も切ることしかできなかった。
「かわいいってレベルじゃないな……」と、悠太が目を細めて言うと、翔子は満面の笑みで背筋をぴんと伸ばした。
美咲はこの日、病院の午前シフトを休みにしていた。いつもよりフォーマルなスーツを着た自分を見て、翔子が「おかあさんもかっこいい」と言ってくれたのが、密かに嬉しかった。
あの混乱と恐怖の只中にあった日々が嘘のように、今では日本の街は明るく、桜が満開となり、人々の表情にもゆとりが戻っていた。
黒田病院での午前の勤務は、放射線画像の診断だけでなく、若手医師や技師たちへのアドバイスや教育の機会にもなっていた。アリシアの支援もあり、膨大な画像データの解析も無理なくこなせたため、午後は自宅に戻って家事や翔子との時間にあてることができた。
悠太は、厚労省のサーバールームに詰める日々が増えていたが、週に一度は在宅勤務を取り入れていた。その日は翔子の送り迎えをしたり、3人で夕食を作ったりと、家族の時間を大切に過ごしていた。ときには翔子の「おとうさん、おかえり!」という声が玄関先まで響く日もあり、そのたびに悠太は「ああ、生きててよかった」とつぶやいた。
アリシアは政府の枠組みに組み込まれつつも、まだテスト段階ではあるが、スマートウォッチのデータから個人の医療支援や教育にも使われるようになったり、すでに出回っていた「お薬手帳アプリ」の横連携を行う機能も実装済みで、日本の暮らしに自然に溶け込んでいった。
翔子の小学校でも、授業の一部でパソコンでAIを使うシーンがあるようで、翔子はAIとアリシアは同義だと認識しているらしく、家では「アリシアせんせい」と呼んでいた。
「この世界が、あと何年平和でいられるか分からない。でも、少なくとも今のこの時間は、本物よね」
そう美咲がつぶやいたとき、悠太は隣で静かにうなずいた。翔子がランドセルを開けて「きょうね、クラスでカレーのにおいのはなしなったの」と話し出す声が、夕暮れに溶けていった。
いつものような朝、いつものように三人で朝食を食べて、今日は一足先に悠太が出発した。
美咲と翔子は同時に家を出て、翔子は友人と登校する。
美咲は翔子と友人の後姿を見送った後で、足早に駅に向かう。片瀬江ノ島駅まで1時間少しの道のりだ。
9時半ころには、黒田病院のレントゲンやCT、MRIなどの検査機器が集中している、2階にある検査ブロックと呼ばれる場所にある「解析室」という部屋で、データ解析を始めている。
窓の外には境川が見える。2階なので建物の隙間から海がところどころに見える。
11時過ぎになり、いつものようにパソコンの画面とにらめっこをしていると、救急車ではなく、パトカーのサイレン音が病院に向かって来て、病院前で止まった。交通事故などの際には、救急車の後にパトカーが来る事も珍しい事ではないが、サイレンを鳴らしたままはあまりない。
窓の外に目をやると、不意にスマホの呼び出し音が鳴った。スマホの画面には「佐藤冴子」という表示。
「もしもし。どうしました?」美咲は少しだけ嫌な予感を感じながら、シンプルな対応をした。
「美咲ちゃん。国外脅威対象勢力があなたたちを狙っている。いま警察が向かっている。これは私の指示による保護。悪いけれど指示に従って警察に保護されて」
美咲は珍しくかなり強い口調で言った。
「悠太君は?翔子は?」
「悠太君は厚労省サーバールームで既に保護済み。翔子ちゃんの小学校にも、美咲ちゃんと同じように警察がサイレン鳴らして向かって保護済みよ。悪いけどなりふり構っていられない」
「そこはいいです。なりふりとか。でも、ありがとう」
「私の仕事だから……ちょっと待って(冴ちゃん!警察から小学校でターゲットを乗せたパトカーが、武装集団に襲撃を受けたと報告。ターゲットロスト!ターゲットロスト!)……美咲ちゃん、ゴメン。翔子ちゃんを乗せたパトカーが襲われた。翔子ちゃんがさらわれた」
立ち上がっていた美咲の顔は真っ青になり、スマホを持つ手は悪ふざけでもしているかのように大きく震え出し、膝が抜けて尻もちをつくように椅子の上に崩れ落ちた。
上巻 ~完~ 次巻へ続く