第100話 第12章 春雷 第2節 未来を知っていたペプチド
「今回の治療薬プロテオブロックは、共通構造に基づく設計により、既知および未知の変異株にも対応可能な中和能力を備えています。つまり、MORSウイルスに限らず、類似したスパイク構造を持つ複数のウイルス系統に対しても幅広い抑制効果を期待できます。さらに、パンデミック・レディネス・プログラムの一環として、各国の防疫機関と協力し、事前供給体制を整えています。すでに出荷は始まっており、全世界190カ国に向けて経口薬の輸送体制が稼働中です」
「すでに出荷済み」 という言葉に、会場の空気は凍り付いた。
最前列に座っていた BBCの記者が思わず立ち上がった。
「ちょ、ちょっと待ってください、事務局長!つまり、次の変異株が発生する『前』 に、万能ウイルス無効化薬とやらを世界に送ってしまう……ということですか?」
事務局長は、うっすらと笑みを浮かべて答えた。
「Yes.その通りです。変異株どころか次のウイルス襲来の前にと言い換える事すらできます」
会場の空気が完全に変わった。記者たちの独り言が会場に漏れ出す。
「……完全に頭がイカれたな。WHOが科学を捨てて、占いでも始めたのか?」
「発生してもいない変異株やウイルスに対する対応薬を送る?そんなバカな話があるか?」
「これは……神が作ったあらゆる病原体から人間の身体を守る奇跡なのでは?」
事務局長は、さらに言葉を続けた。
「皆様の懸念は理解しています。しかし、これこそが最も効果的な予防策なのです」
一人の記者が、立ち上がって質問した。
「事務局長……もし、プロテオブロックと言う薬が無効だった場合どうなるのですか?」
事務局長は、微笑みながら会場を離れた。
【アリシアの初報365日目】
スイス、ローザンヌ感染症研究所で、発症から24時間という、異常に短いタイミングで重篤化した患者から、変異種デルタ株が発見されたと発表があった。
同時にWHOから配布されていた『万能ウイルス無効化薬』を服用したところ、重症化を抑え込んでいったとの事だった。スイスでは、このワクチンを医療関係者を含め、先行して服用を開始しているとの発表であった。
【アリシアの初報367日目】
「とりあえず、共産主義国もプロテオブロックを確かめたところ、間違いなくデルタ株封じをされたから、世界一路構構想の公表は見送りってところかな」
夕方を迎えたOpsルームで、コーヒーを飲みながら、真理雄が独り言をつぶやいていた。
「真理雄」
「うわぁ!!!」
音もなく真理雄の後ろに近づいて、突然声をかけた冴子の行動に、真理雄は驚いて大声を出した。
「真理雄が危惧していた『世界一路構想』とやらが事実であったとするならば、共産主義国はWHOの茶番劇で、挫折といえる状態になったわね。WHOの事務局長にバカやってもらって、世界への公開情報として、デルタ株を抑え込める薬の存在をばらまいた。共産主義国は例のプロテオブロックを手に入れて、自分たちが持っているデルタ株に当ててみたら、ピッタリマッチした薬であることを確認しちゃった。まさに『バカを最後までやったから道理が引っ込んだ作戦』だったっけ?」
「違います。『バカもやり切れば木に登れる』作戦です」
「……どうでも良いわよ」
冴子は笑いながら部屋から出た。
【アリシアの初報367日目】
北京、党中央軍事委員会地下会議室。薄暗い照明の下、円卓を囲む高官たちの顔は青ざめ、緊張が張り詰めていた。
国家主席が、低く抑えた声で切り出した。
「なぜWHOが『プロテオブロック』などという訳の分からないものを発表したのか?結果として発表に耐えうる、つまり実際にデルタ株を抑え込める薬だった。世界に出ていないウイルスに対して、事前的にだと?誰か一人くらい説明できるものがいるのだろうな?」
沈黙する室内。外務部長が咳払いし、恐る恐る発言した。
「WHO事務局長のいう『プロテオブロック』なるものは、我々の情報網にも一切引っかかりませんでした。事前予測など不可能のはず……ウイルスを設計し、事前にデルタ株まで変異させサンプルを保持していた我々だけが、デルタ株を抑え込むことが可能だったはずです。やはり我々の情報が漏洩したとしか……」
情報部長が慌てて否定する。
「あり得ません。延安の研究所は厳重に管理され、スパイの侵入は確認されていません。だが……昔から研究していたなどと、WHOの対応は我々のスケジュールを知っていたかのように、先手を打ってくる形になった。我々の計画を先読みしていた以外……何がある?」
会議室がざわつき始める。「裏切り者か?」「スパイがいるのか?」と囁きが飛び交う。
外務部長が冷静に言った。
「しかし、ですな。WHOに我々の行動の全てが流れていたのならば、なぜアルファ株の時点で対応しなかった?対応できることをなぜ隠していた?ガンマ株の時も使えたはずだ。なぜデルタ株で急に動いた?」
国家主席がテーブルの上で両手を組んだ。
「いいか諸君。いま世界は弱っている。世界の人口は3割近くが減ったからだ。工業も運輸も軍隊も、あらゆる生産年齢人口も3割減少したが、再度生産年齢人口が回復するまで20年はかかる。あらゆる技術で補填するにしても、我々には5年間の猶予があるともいえる。諸君、3年間で今回『何があったのか』を突き止めろ。3年の期間で何もできない様な血は、我々には不必要な血だ。諸君もその家族も親戚も、そんな血は不必要なんだ。私の言いたいことが理解できるな?何があったのかを突き止めた後は、世界一路構想の再開だ。遅くても5年後に、地球上は世界一路構想が実現されるていることが、我々の絶対的な使命だ」
会議参加者は、額から脂汗を流していた。