ママ
執筆中長編の第一章
何かに揺られていた僕は、ぐうぐうと寝ていたのですが、いつの間にか誰もいない山の中にいました。空を見上げると満月がまぶしいくらいに輝いていて、灰色の雲がうっすらと、広く空にかかっていました。そこで僕は外に出されました。僕を外に連れ出したのは、ひとりの大人です。暗闇の中にある彼の面影はいつにも増して大きく映って、とても恐ろしく感じました。
僕を外に放り出すと、彼は乗っていた車に戻ると、車は赤と橙の光を点灯させながら、元きた道を引き返していきました。僕はその明かりが小さくなっていくのを、ただぼうっと眺めていました。
暗い山奥で、僕は独りになってしまいました。山は怖く、近くで川の流れる音がざあざあと聞こえると、僕の理性は川の音に飲み込まれてしまいそうになりました。途端に、すさまじい恐怖に襲われて、頭がおかしくなりそうでした。
独りで歩くしかありませんでした。そのまま、どれくらい山の中を歩いたでしょうか。いつの間にか僕は眠っていたようですが、ひんやりとした空気に包まれるのを感じて、目覚めました。
もうすっかり朝日が昇り、苔のむした綺麗な山の景色があたりに広がっており、相変わらず川のざあざあと流れる音が近くで聞こえました。ああ、夢ではなかったのだと思いました。
僕は、棄てられました。
悲しみや怒りといった感情はありませんでした。棄てられたという事実だけは認識できましたが、実感が湧いてきません。それよりも、山奥で生きる術を考えなければいけないと思いました。人間とは、途轍もなく辛かったり、理解を超えるような出来事が起こってしまうと、それに対して何も感じなくなるようにできているかもしれません。今の僕は、恐ろしいくらいに冷静を極めていました。
そんな僕の目の前に、まっしろな毛皮に覆われた、大きな身体の、猫のような生き物が現れたのは、そのときでした。
その白猫は苔のむした岩の上に座っていて、寝起きの僕をじっと見つめていました。目があったとき、僕は食われるかもしれないという恐怖を抱きましたが、同時に、胸が安らぐような心地もしました。独りぼっちの僕にとっては、それが例え人間でなくても、傍にいてくれる存在があるだけで、かすかに安心できてしまいました。
もうひとつ不思議なことがありました。なんと、僕にはその猫の声が聞こえました。
「可哀想な坊や、俺と一緒に森で暮らすか?」
「あなたは何者ですか」
「この山の神のひとりだよ、可哀想な坊や、どうだい、これでも食べるか?」
そうして大きな猫は、まるで僕に食べなさいとでも言うように、口に咥えていた草を僕の目の前に置きました。途端に、空腹を思い出したように腹が鳴り、我慢できずに僕は草を食べました。とても不味かったけれども、少し腹の足しになりました。
「お前は、どこから来たのだ」
「僕にも分かりません。ただひとつ分かることは、どうやら僕は棄てられたようです」
すると猫は「付いてこい」とでも言うように背中を向けて、こちらを振り向きながら、ゆっくりと森の奥に歩いて行くのです。僕はそれに付いて森の奥に行きました。
「ついて来いということですか?」
「可哀想な坊や、お前を見捨てる訳にはいかない」
白猫は言いました。そうして不思議なことに、僕はしばらく、この白猫と森で共生することになりました。
猫は、僕に沢山のことを教えてくれました。食べられる草、食べてはいけない草、虫の獲り方、水の飲み方、川の在りか、ひとつひとつ丁寧に教えてくれたので、たくさん真似をして覚えていきました。
森での生活は、日の出とともに起きて、日が沈むと、虫や動物の声を聴きながら寝ました。家は森の奥にある。大きな樹のふもとにあって、太い根っこが僕たちを雨風から守ってくれました。森の中には危ないことも多くて、特に蛇や、鳥なんかの敵に出会うと、戦って自分の身を守らなければいけませんでした。いちど黒い、大きな蛇に住処を襲われたことがありましたが、猫が戦って、僕を守ってくれました。それでも、一番危険なのは冬なのだと猫は言いました。冬になると森の一面が雪で覆われ、とても寒く、過酷な生活をしなくてはならないと言いました。そうなると、生きていくだけでも大変なのだと猫は言います。
「冬は、いつ来るの?」
「まだ来ないよ。次の冬までは随分と時間がある。それよりも、次は夏がやってくる」
僕は一体、どれだけの期間を猫と一緒に過ごしたことでしょう。たぶん、かなり長いあいだ一緒にいたような気がします。猫は、「人間臭くなくなった」と言ってくれたので、少し嬉しかったです。
しかし、白猫との生活も、夏が来る寸前で終わってしまいました。
ある雨の日のことでした。じめじめとした蒸し暑さが鬱陶しい一日に、猫は突然に姿を消しました。理由は分かりませんが、数日経っても、猫は帰ってきませんでした。
そうして、また独りぼっちになってしまいましたが、猫が色々なことを教えてくれたので、僕はその教えを守って生きることができました。しかし森が騒がしくなり、人間たちがしきりに僕の住んでいる森に入ってくるようになったのは、このころでした。そんなことは今までありませんでした。
人間たちは森の奥深くに入り、僕の家の近くを歩いたりしていたので、いつか戦わなければいけないとも思いました。敵が来たら、戦って自分の身を守らなければならない、白猫が教えてくれたことです。
ある日、とうとう人間たちが束になって、僕の家までやって来ました。彼らは巨大な乗り物に乗って、僕の家を壊そうとしたので、僕は家を守るために戦うことにしました。
間近で見る人間たちはとても恐ろしかったですが、僕は勇気を出して、シャーと吠えたり、爪を引っかけたり、噛みついたり、殴りかかりました。しかし、僕にはあの猫のような爪や、歯もなければ、素早く動くこともできなかったので、失敗しました。
そうして人間たちは僕を囲んで、何やら袋のようなものを被せられ、とうとう動けなくなってしまいました。そして何かちくりと痛いものを感じると、僕は物凄い眠気に襲われて、意識を失ってしまいました。
それからしばらくは覚えていませんが、次に目覚めたとき、僕はまぶしい場所にいました。左も右も、上も下も、灰色の壁で塞がれているような、気味の悪い場所で、天井には刺すような眩しさの、白く光るものが張り巡らされていて、僕は思わず目を覆いたくなりました。
暴れ回ってみましたが、手足が固定されていたので観念しました。白い服を着た女の人が、僕が起きたことに気づいて声を張り上げました。僕は殺されるかもしれないと思いましたが、彼女は優しい顔を浮かべて、僕に話しかけてくれました。しかし人間とは長いあいだ話していなかったので、あまり上手に話すことができませんでした。女の人は、そのぎらぎらと光る白いものを『でんき』と呼んでいました。
女の人は僕にケガをさせるようなことはありませんでした。だから僕も、噛みついたり引っ掻いたりすることはやめました。しかし、あの猫がいなくなり、僕も森から離れた、別の場所に連れて来られたみたいでした。
女の人たちの言葉は、全部ではないけれども、分かるものもありました。その灰色の場所には、自分の姿が見える不思議な板のようなものがあって、そこで僕は、自分が人間の姿をしていることを確かめました。もちろん分かっていたことですが、改めて自分の姿を見ると、少し変だと思いました。僕は、すっかり山猫の生活に染まっていました。
女の人が優しい笑顔で、これは『かがみ』というものだと教えてくれました。
そのとき僕は、小さな服を着せられていて、脱ごうとしたのですが、女の人が「脱いではいけません」と言いました。動くのに邪魔だから脱ぎたかったのですが、人間の前でそれをするのは、あまりよくないことだと、また女の人が教えてくれました。
そのあと、僕は別の場所に連れていかれました。
ケガをさせられたりすることはありませんでしたが、そこにいた人間たちは、僕のことをじろじろと見ていたので、少し嫌でした。冷たい灰色のものに囲まれた、これも心地の悪い場所で、そこに背の低い女の人がいました。それからしばらく、僕はその灰色の家に住むことになりました。
灰色の家には、僕と同じくらいの身長の子どもたちが沢山いましたが、その人たちは僕のことを、あまり仲間だと思っていませんでした。僕はもう一度、かがみで自分の姿を見ました。その人たちと僕は、ほとんど同じ姿をしているのに、その人たちはまるで僕を人間じゃないもののように見てくるので、嫌でした。
いつか、その男の子たちが三人くらいで僕のことを指さして、嫌な笑い方をしたり、蹴ったり殴ったりしてきたので、僕は自分の身を守るために戦いました。すると、あの背の低い女の人が走ってきて、その男の子たちの仲間になって、僕のことを突き飛ばすのです。僕はまた自分の身を守らなくてはいけないと思って、その人の腕を噛みました。すると、その女の人から赤い血がどんどんと出てきて、女の人は大きな声を出したので、今度はもっとたくさんの人たちがやってきました。そして僕を抑え込んで、大声で何かを言っているのでした。
僕は、自分を守るためにたくさん戦いました。しかし、ここにいる人間たちは、それをやめなさいと言いました。
次の朝、僕はまた違う場所に連れて行かれました。そこには背の低い女の人も、子どもたちもいませんでした。薄暗くて、なんだか汚い場所で、大きくてこわい男の人が沢山いました。その人たちからは、たくさん殴られ、蹴られ、酷いことを言われました。酷いときは、お腹に力が入らなくなり、立てなくなるくらいまで僕は殴られました。
男の人は、僕のことを指さして、こんなやつうれないと言いましたが、それがどういう意味か、よく分かりませんでした。
男の人は毎日のように僕を殴ったりするので、いつか殺されるかもしれないと思ったけれど、殺されはしませんでした。ご飯もとてもまずく、住処も薄暗くて、小さな虫がいっぱい飛んでいるような場所でしたが、森にいたときにも虫がいたので、そこは気になりませんでした。
でも森の中とは違って、服を脱いで用を足したら、ひどく殴られました。立てなくなるまで殴られ、狭くて暗いところに入れられました。それは夜の森よりもずっと暗くて、恐ろしい場所でした。
僕は戦うことをやめました。その男の人たちが怖かったからです。
しかし、そんなとき、ある一人の女の人が住処にやってきました。このころになると、僕も沢山の人間を見てきましたから、昔よりも人間の違いが分かるようになってきました。その人は大人の女性で、面長で、手足が長くて、他の人間よりも骨ばった印象の美人でした。黒色の服を着て、男の人たちと何かを話をしている様子だったので、なんだか怖くなって、僕は奥のほうへ逃げました。
しばらく経ってから、女の人や男の人たちがぞろぞろと僕のもとにやってきて、何かを言っているようでした。そして女の人が掌を上にして、僕に手を差し出しました。少し怖かったけれど、僕は自分の手をのせました。すると女の人や優しそうに笑ってくれたので、とても安心しました。
「もう大丈夫」だと、女の人は言いました。
それから、僕は大きくて速い乗り物に乗せられて、またどこかに連れて行かれました。そこは今までの息が苦しくなるような場所とは違って、光があって、明るくて、安心できる場所でした。そして僕は、その女の人と二人で、そこに住むことになりました。
「今日からうちの子だからね」と、女の人が言いました。女の人は、あの猫みたいに優しい目をしていました。そして、「うちの子」だと言ってくれたことが、とても幸せで、だから僕は、この人と住めることがとても嬉しかったのです。
女の人は、ママという名前でした。白猫とお別れして、また独りぼっちになった僕を、ママは拾ってくれました。
白くて大きい雲が、空のてっぺんまでかかっていました、夏も、もうすぐ終わってしまうとママは言いました。
ママは優しい人でした。特に、ママの作ってくれるご飯が大好きでした。ママのご飯は不思議で、どうやったらこんなにおいしいものができるのだろうか、と思いました。
ママはたくさんの言葉を教えてくれました。中でも『てれび』がお気に入りで、『すいっち』を点けると、なんだか面白い絵がたくさん動くので、おかしくて笑ってしまうのでした。また『といれ』も教えてくれました。家の前にある茂みで用を足したとき、ママがたいへん怒った様子で、これからはここで用を足しなさいと教えてくれました。きっと、あの灰色の建物で男の人に怒られたのも、『といれ』で用を足さなかったからだと今になって気づきました。
それからは、ずっとここで用を足しています。でも、なかなか難しくて、トイレを汚すので、ママに怒られてばかりでした。
また、ママは僕を『がっこう』という場所に行かせると言いました。しかし、僕はそれが嫌でした。それでも、ママはがっこうには行かなきゃいけないんだと言いました。がっこうに行って、『べんきょう』ということをしなければいけない。そうしないと、人間の世界では生きてはいけないと教えてくれました。
がっこうには、行かなければ生きていけないと言うので、僕はがっこうが、てっきり水を飲んだり、ご飯を食べたりする場所だと思っていました。しかし、実は机の上に座ったり、他の人間たちと会う場所だったので、どうしてここに行かなければいけないのか、本当によく分かりませんでした。だから僕は行かないと言ったのですが、ママにそう言うと、僕をたくさん怒りました。どうしてあんなに怒るのでしょうか。がっこうという場所に行かなくたって、僕は生きていけます。
それ以外にも、ご飯は毎日三回も作ってくれましたし、お風呂にも入れてくれました。僕はご飯を作ったり、お風呂に入ったりできないのですが、全部ママがやってくれました。また僕が眠れなくて、ママに寝れないよと言うと、ママは絵本を持って来て、僕が寝るまで読み聞かせてくれました。
ママは、僕のために沢山のことをしました。そんなママのことが大好きでした。
しかし、しばらく経つと僕たちの生活に変化が起こりました。まず、ご飯の回数が減りました。三回あったご飯が二回か、一回になりました。また、お風呂に入れてもらえるのも二日に一回になったり、三日に一回になることもありました。
ママは、いつも朝になると家を出て、夕方くらいに帰ってきます。しかし、このころは朝も夕方も、ママはとても疲れた顔をしていて、たまに怒って帰ってきていました。
そうして、今までみたいに僕が「ママ、寝れないよ」なんて言っても、ママは聞いてくれなくなりました。どうして聞いてくれないのかと思って、僕は「寝れないってば」と、ママを起こしに行くと、ママは「うるさい、さっさと寝ろ」と、いつもとは全然違う、低くて怖い声で僕にそう言いました。それ以外のところでも、ママの僕に対する態度は、目に見えて変わっているのでした。
ある日、僕はとうとうママに殴られてしまいました。あれほど優しかったママなのに、どうしてでしょうか、あの灰色の建物にいた怖い人たちと同じことを、するようになってしまいました。そうして、僕はママがどんどん怖くなっていきました。
ある日、一度もご飯を作ってくれないときがありました。そのとき、とてもお腹が空いたので、自分で『れいぞうこ』を開けて色々なものを食べてしまったのですが、それを見つけたママはとても怒りました。「ふざけんじゃねえよ!」と大きな声で叫ぶと、僕の顔を殴りました。頭がじんとして、痛くて泣きましたが、ママは「この程度で泣くな」と冷たい声で言うと、そのまま僕の身体を掴んで、家の外に放り出してしまいました。
僕はママを怒らせないように頑張りました。ママを怒らせないように、いつも家の端でじっとするようになりました。それでもママは怒ってばかりで、僕はよく殴られてしまいました。このまま言うことを聞かないと、もっと酷いことをされると思ったので、僕はあれほど嫌だった学校に行くと言いました。そうすればママは喜んでくれると思ったのです。しかし、ママは低い声で「あっそう」と、それしか言いませんでした。
僕は、学校に行くことになりました。
学校はやっぱり変な場所でした。みんな机の上に座って、大人の人から何かを教わっているのですが、それは食べ物のこととか、そういうものではなく、もっと難しいものでした。僕はあまり乗り気ではありませんでしたが、しかし言葉を教わることだけは好きだったので、もっと沢山の言葉を教えてほしいと思いました。なぜなら、言葉を教われば、みんなの話していることがもっと分かると思うからです。僕は山に住んでいたので、人間の言葉が分からない部分が少しありました。
しかし、僕はみんながいる教室とは、別の場所に追いやられてしまいました。そこは他の子どもたちとは、ちょっと違う子どもたちがいる場所とのことでした。
そこには大人が二人いて、『せんせえ』という人たちでした。せんせえは優しくて好きでした。僕が気になっていた言葉のことも、せんせえは何でも教えてくれました。言葉には、ひらかなとカタカナが五十個あるのだと、せんせえは言いました。でも、ひらかなの書かれた表を見ると、ひらかなか四十八個しかなかったので、おかしいと思いました。それをせんせえに言うと、「そこに気づくなんて、偉いね」と言ってくれました。
それから、ひらかなとカタカナを教えてもらうのは楽しくて、僕は進んで学校に行くようになりました。家にいてもママと一緒なので、学校にいるほうが楽でした。僕が行く教室という場所には、僕のほかにも子どもが五人いました。一緒に遊んで、走り回ることが、とても楽しかったです。
でも、いちど僕がおもちゃの取り合いになったとき、僕は自分のものを取られて嫌だったので、その子どもを殴りました。すると、せんせえはとても困った顔をして、僕を怒ったので、今度はせんせえを殴りました。こうすれば言うことを聞いてくれる。ママが僕にそうするので同じことをしたのですが、僕はなぜか沢山怒られました。ママと同じことをしただけだと言うと、今度は殴った子どもの親が出てきて、ママを呼べと怒って言いました。そのときママは、とても疲れた顔をして学校に来てくれました。
このころ、もっと言葉が分かるようになってきたので、僕はせんせえたちのひそひそ話をよく聞きました。しかし、あまり聞きたくない話を聞いてしまいました。
せんせえたちが言うのは、僕は「じょうしきがない」らしいのです。なぜなら、僕は捨てられた子どもで、山猫に育てられた子どもだから、とせんせえたちは言うのです。そんなことを言われているなんて思いませんでしたから、心が痛みました。それから僕は、自分が棄てられた子どもであること、山猫に育てられたことを、他の誰かに知られはしないかと、ひどく恐れるようになりました。
気づけば夏も終わり、少しずつ肌寒い季節になっていました。
ある日、男の子が五人くらいの集団になって、僕の悪口を言ったことがありました。僕が言葉をうまく話せないことを馬鹿にしてきたので、腹が立って、全員殴りました。すると、なぜか子どもたちは僕を悪者扱いして、せんせえたちも僕を怒りました。おかしいのです。悪いのは、僕を馬鹿にしてきた男の子たちです。
森の中とは違って、人間の住んでいる場所は安全で、ケガをさせられることも、蛇や虫といった危ない敵もいませんが、こういうおかしなことが起こるので、少し居心地の悪い場所でした。それでも、あの猫はどこかへ行ってしまったし、僕も森に戻れないので、ここに住むしかありません。
帰宅すると、ママにも酷く怒られてしまいました。
ママはやっぱり酷く疲れている様子で、「これ以上、迷惑をかけるな!」「あんたを拾った私がばかだった」「もう、あんたなんか嫌い!」と、たくさん酷いことを言って、僕はぎゅっと胸が苦しくなりました。
ママはお酒が好きでしたが、僕は嫌いでした。今日もママは、右手に酒の缶を持って、リビングでずっと飲んでいました。お酒を飲むとママは僕を殴ったり蹴ったりしてくるので、僕は怖くて、ママがお酒を飲んでいるときは、ずっと家の奥のほうにいました。
ママは最初、僕に『ふうた』という名前をつけてくれました。
これは、僕は風みたいにとても速く走ることができたからでした。ママがくれた名前は好きでした。でも、このころになると家でも、学校でも、『ふうた』と呼んでもらえることはなくなりました。代わりに、ママは僕を『おまえ』と呼ぶようになりました。
雪は降り出しました。肌に触れると冷たくて、少しちくちくしました。
学校に通い始めてから、しばらく経ちました。
このころ、僕は何か気に入らないことがあっても、誰かを殴ることをやめなければいけないと頑張っていました。そのおかげで、先生たちの態度もちょっとずつ優しくなっている気がしました。
それでも僕を馬鹿にしてくる子どもがいました。それは僕がいちど喧嘩した、あの五人組の男の子の集団で、その中の浜口というやつでした。彼は、うまく言葉を話せない僕の真似をしたり、四つん這いにになって「にゃあ」と言って、僕をからかいました。それは僕が山猫に育てられたことを馬鹿にしているのだと、すぐに分かりました。
「お前は人間じゃない、化物だ」とも言われました。たくさん酷いことを言われたけれど、僕は殴るのを我慢しました。しかし我慢できずに、いちど殴りかかって怪我をしたこともありました。幸い、それが先生に知られることはありませんでした。
僕が殴るのをやめようと思った理由は、そのころ僕と同じ教室にいる、ひとりの女の子がいたからでした。
女の子は九歳で、僕も九歳だったので、同い年でした。大きな丸い目をした、小さくて可愛い女の子なのですが、他の子どもたちとは少し違う、独特な雰囲気をまとっていました。それは昔、灰色の建物の隅に咲いていた牡丹の花のようだと思いました。
僕は色々あって、普通の授業には参加できないようなのですが、そういう子どもたちが、この教室には何人かいます。その女の子もまた、普通の授業には参加できない子どもの一人でした。
その子は、絵を描くことが得意でした。クレパスを持つと、普通の人たちとは違う、真剣な目つきになって、日が暮れるまでずっと絵を描いていて、ときには教室の壁や、机にも絵を描いていて、先生に怒られるような人でした。彼女の描く絵はとてもカラフルでした。校舎の絵を描いても、僕が見ている校舎と彼女の描く校舎はまるで別物で、彼女は赤や青、黄色のクレパスも使って校舎を描いていました。おかしいと思ったけれども、彼女は「これが私の見ている景色なの」だと言いました。
風変わりな彼女の横顔は、とても綺麗でした。
なんど先生に注意されても、彼女は机や椅子に絵を描くことをやめませんでした。どうしてやめないんだろうかと気になったので、また彼女の顔をもっと間近で見てみたいと思ったので、僕はいよいよ訊いてみました。
「どうして、壁や机に絵を描いてしまうの?」
すると、彼女はいっさい顔を動かすことなく、僕に訊きました。
「どうして、誰かを殴ったりするの?」
「だって、殴らないと言うことを聞いてくれないから」
「でも、殴られたら痛いでしょう?」
「それはそうだけど、でも言うことを聞いてほしいから、そうするしかない」
「痛いことを誰かにしちゃだめだよ」
彼女は、ぐさりと言いました。
「誰かを殴ったり、むやみやたらに怒ったりするのは、言葉を使うことを諦めた人たちがやることだから」
彼女は九歳のわりに、大人みたいに難しいことを言う人でした。僕は彼女の言っていることの意味があまり分かりませんでしたが、どうしてか、僕とちょっと似ていると思いました。
「でも、僕は言葉をうまく使えない」
「知っているよ。だってあなた、親に棄てられて、山猫に育てられたんでしょう?」
「どうして知っているの?」
「先生が教えてくれた」
僕が猫と一緒に森で住んでいたことを知ると、彼女はきっと僕を嫌いになると思いました。それでも、彼女はそんな素振りをいっさい見せなかったので、安心しました。
「言葉がない世界にいたんだよね。いいよね、言葉がなくて」
「どうしてそう思うの?」
「言葉は、誰かを幸せにできるけれど、誰かを傷つけることもできるから」
そのとき彼女は、まるであの猫のような眼差しをしていました。森の湖の底みたいな、エメラルドグリーンとシアン色の絵具を混ぜたような、綺麗な色の瞳。もちろん、そういう風に見えただけで、本当の女の子の瞳は黒かったのですが。
「ところで、どうして君は壁や机に絵を描いてしまうんだ?」
「描きたくなったから、だよ」
「変なの」
言うと、彼女は笑いました。
「言ってくれるね、でもありがとう」
「ありがとうって、どうして?」
「わたし、誰も友達がいなかったから。みんな私のことを変な人だと思って、近寄ってこない。だから、あなたが話しかけてくれたこと、本当に嬉しかった。わたし、独りじゃないんだって思えたから」
彼女が静かな声でそう言ったとき、僕は胸の奥で、心臓がどくんと鳴るのを感じました。彼女は口角をあげて、上品な笑顔を見せながら、僕に訊きました。
「ところで、あなたの名前は?」
僕は、どぎまぎしながら答えました。
「お前って言われることが最近多いけれど、本当は風太って名前だよ」
「風太、ね」
すると、女の子は顔をぴくりとも動かさないで、答えました。
「私はね、立花葵っていうの」
それから、僕は彼女のことで頭がいっぱいになりました。
家に帰った後、ママとお話してみようと思いました。
ママは最近ずっと怒っていて、僕は毎日びくびくしながら生活していました。いつもの僕なら、ママと話そうなんて思いません。きっと僕が何を言っても、「黙れ」と言われて、酷い時は殴られてしまうので、じっとしている方がいいのです。
しかし、葵ちゃんが言いました。誰かを殴ったり、むやみやたらに怒ったりするのは、言葉を使うことを諦めた人たちがやることだと。きっと、ママは言葉を使うことを諦めている人なのです。そして僕もまた、言葉を使うことを諦めていたのだと思います。
このまま言葉を使わないままだったら、僕とママの関係は、いつまで経ってもこのままだと思いました。それは、嫌でした。ママは僕の命の恩人です。だから、ママの気持ちにしっかり向き合いたいと思いました。それに、もしママとお話ができたら、葵ちゃんに報告したいと思いました。
「ママ、あのね」
しかし、頑張ってママに話しかけてみたものの、ママはとても怒ったような顔をしました。ママぼろぼろの下着を着たまま、お酒を飲んでいたのですが、途端に手に持っていた缶ビールを叩きつけて、大声で「うるせえ!」と言いました。
「ママ、あの」
「うるせえんだよ! クソ野郎、あんたのせいで!」
このとき、僕は言葉の勉強をしていたので、ママが僕に酷いことを言っていることも分かりました。酷いことを言われると、胸がぎゅっと締め付けられるような気持ちになります。心が重くて、ひりひりすると思えば、両目から勝手に、ぼろぼろと涙が溢れてきました。傷つくって、こういうことなんだと思いました。
「なに勝手に泣いてんだよ! 泣きたいのはこっちだよ!」
ママは、空っぽになった缶ビールを僕に投げつけて言いました。それが恐ろしくて、身体中が震えて、僕はとうとう声をあげて泣き出してしまいました。
ママは、ひどい親になってしまいました。初めのころの優しかったママの面影は、もうどこにもありませんでした。僕は、何度もママに傷つけられてばかりです。それでも、この家に初めて来た時のママの顔が脳裏に浮かぶと、どうしてもママのことを嫌いになれませんでした。あのとき、独りぼっちだった僕を拾ってくれたママのこと、僕に風太という名前をくれたママのこと、おいしいご飯を作ってくれたママのことを、嫌いになれるはずがありません。
「どうして、僕を拾ってくれたの?」
ママと話さなければいけないと思って、必死に喉を絞り、細い声でそう言いました。
ママが僕を拾ってくれたときの、あの優しい顔の理由。だんだんと怒りっぽくなって、僕を殴ったり、蹴ったり、暴言を浴びせるようになった理由。ママの気持ちの理由を、ぜんぶ理解してあげたいという一心で、頑張りました。
しかしママは、まるで僕を嘲笑うみたいに目を開いて、鼻を鳴らしました。それは僕が知っている優しいママとは、まるで別人の顔をしていました。そうして化け物に憑かれたみたいにママは、酷くやつれた顔をして、やはり言葉の暴力を振るうのでした。
「なんでお前を引き取ったのかって言ったね。そんなもん、私だって、あんたを引き取ったことを猛烈に後悔している。あんたのこと可哀想だなんて、思わなければよかった! こっちは仕事で疲れているっていうのに、あんたの面倒に手が焼けるし、なのにお前は私に迷惑かけてばっかで、家の手伝いのひとつもしてくれない! 彼氏には、あんたのことでもめ事になって振られた。私の人生、あんたのせいで滅茶苦茶なんだよ!」
ぱりんと、灰皿が割れる音が間近でしました。
「返せよ、私の人生返せ!」
涙が止まりませんでした。するとママは、もっと怒った顔になって、「泣くんじゃねえ!」と言って、今度は椅子を投げつけてきました。椅子は僕の身体には当たりませんでしたが、壁に当たって凄い音を出しました。壁の外側が破れて、中の木柱が見えるほどに椅子がめり込んでいました。僕は怖くて、その場でうずくまってしまいました。
助けて、誰か、助けて。
でも僕を助けてくれる人なんて、きっと誰もいません。
どうせ、僕は捨てられた子どもです。ママだって、本当の親ではありません。そんな僕のことですから、助けてくれる人なんてきっといません。どうせ、僕は独りぼっちです。
ママは、こいつと一緒に私も死ぬと言い出しました。そのとき、ママの怒った顔を見ていると、ママが幸せじゃないのは、僕のせいなのかもしれないと思いました。椅子を投げるということは、きっと僕はママのことを怒らせてしまって、ママとの約束をなにか破ってしまったのかもしれません。もしそうなら僕は悪い子です。
だから、ごめんなさいと言いました。
何回も、大きな声で「ごめんなさい」と言いました。でもママは怒った顔のままで、もう一つ椅子を投げてきたり、ガラスのコップを投げつけました。びりびりと、凄い音を立ててコップは割れて、それは僕の足にも刺さって、真っ赤な血が、小川のように身体から流れ出しました。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
「うるせえ!」
「ごめんなさい、ごめんなさい!」
「黙れ!」
がつんと、頭を殴られた感触がしました。そのまま床に横たわると、ガラスの破片がまたちくちく刺さって、僕の身体をえぐりました。
「ごめんなさい、ごめんなさい!」
今度は、お腹を蹴られました。お母さんはずっと怒ったままだから、何度も蹴られました。お腹を抱えて守るけれども、どんどん力が入らなくなって、うずくまることしかできなくなりました。
「ごめんなさい、ごめんなさい!」
次第に叫ぶ体力もなくなっていきました。ママは酷い言葉とともに、それでも僕を蹴り続けました。死ね、お前なんかいなくなれ、さっさとくたばれと言われました。ママはずっと僕のことを、お前と呼びました。風太と呼んでくれることは、とうとう一度もありませんでした
手足の先に力が入らなくなって、ああ、ママは、本当に僕のことを殺してしまうのだと思いました。それでも、僕はママのことが嫌いではありません。嫌いになれるはずがありません。きっといつか、昔みたいな優しいママに戻ってくれる。あの怖い男の人たちの場所にいたとき、ママに出会えていなかったら、きっと僕はあそこで、今もたくさん怒られたり、殴られたり、蹴られたりしながら、びくびくして生きていたと思います。だから、ママが優しい笑顔であそこから僕を連れ出してくれたことが、本当に嬉しかったのです。
僕は独りじゃないって、ママに出会えて、心の底から思えたのです。
だから、ママ、ごめんなさい。
ママのことをたくさん怒らせてしまって、本当にごめんなさい。きっと僕がいけなかったのです。もっと、ママの言うように利口に生きて、たくさん家の手伝いをして、そうして、ママにたくさん笑ってほしかった。僕はママに甘えてばかりだったけれど、僕も頑張ってママを支えて、そうやって一緒に幸せになりたかった。今からでもそうします。お利口になります。だからママ、本当にごめんなさい、もう怒るのはやめてください。僕を蹴るのを辞めてください。酷いことを言わないでください。そうして昔みたいに、天使のように優しい顔で、ずっと笑っていてください。
あの優しい声で、僕のことを風太と呼んでください。
そのとき、玄関のチャイムがぴんぽんと音を立てました。
気違いみたいに暴れまわっていたママでしたが、途端に動きを止めて、ぴくりとも動かなくなりました。僕は薄っすらと目を開けました。リビングはぐちゃぐちゃで、ママの投げた酒瓶や缶がそこらじゅうに散らかっていて、ガラスや、テレビの画面も割れてしまっていました。そして、ママはまるで何かを怖がるような目つきで、骨ばった顔をゆっくりと上げて、重い足取りで玄関の方へ歩いていきました。
僕はリビングの隅でじっとしていましたが、ママが扉を開ける音が聞こえました。「けいさつです」と、男の人の声が聞こえました。すると、青い服を着た、大きな身体の男の人が二人、部屋に入ってきました。
男の人たちは僕のことを見ると、もう大丈夫だと声をかけてくれました。そして、僕の足にささったガラスを抜いて、僕の周りに散らかったガラスの破片も、ひとつ残らず綺麗に掃除して、すぐに救急車を呼んでくれました。
男の人が「大丈夫か」としきりに心配しながら、僕を抱きかかえてくれました。それはママが僕をさわるときよりも、ずっと優しい手つきで、ママに抱っこされたときはそうならなかったのに、どうしてか、涙が溢れ出てきました。
「ごめんなさい」
僕が言うと。男の人たちは「君は悪くない」と言いました。そして僕の頭を、優しくぽんぽんしてくれました。
「もう大丈夫だ、俺たちが君を守ってやる」
そう言って、男の人たちはきらりと笑って、間もなくやってきた救急車に乗せられて、僕はどこかへ運ばれました。それからしばらく、僕は大きな白い建物の中に住むように言われました。ママはどうなったのかと、近くにいた白衣の女の人に訊いたら、「ママは遠い所へ行ってしまうから、もう会えない」と言われました。
あの猫も、ママも、一体どこへ行ってしまうと言うのでしょうか。
少し経って、また家が変わることになりました。女の人が、「新しい家に行くんだよ」と言ってくれました。女の人は、新しい家は立花さんのおうちだと言いました。それは、僕の友達の、葵ちゃんの家でした。
窓の外を見ると、外は一面の雪で覆い尽くされていました。
(続)