紫苑の春
小さな菫が咲いていたので、春音はそれを摘み取った。野原は春真っ盛りだ。嬉しい雲雀の鳴き声もする。春音は日向で暖まりながら、遮断機の近くに腰を下ろしていた。
早く来ないかな。
次の電車に乗っているかな。
春音の胸には一つの想いがあった。ーー山吹兄ちゃん。
春音は中学生になった。ーー約束、大切な約束があるのだ。
春音が山吹兄ちゃんこと、山吹貴と出会ったのは、藤棚のある北山公園でのことだった。山吹貴は首からカメラをさげ、まだ灰色の枝だけの藤棚の周りをうろちょろしていた。春は少し先だった。当時十歳の春音は北山公園によく散歩に来ていた。何もない藤棚を見つめる青年を不思議に思って、じっと見ていた。すると、青年はカメラを構えてシャッターを切っているようだった。何してるのこの人?と春音は思った。枝を見ているのかな? 何のために……。
「こんにちは」
突然青年が挨拶してきた。春音はギョッとして、
「こ、こんに、ちは」としどろもどろに挨拶した。
「不思議に思ったかな? こんな何もない枝見てどうすんだって」
「いえ……はい……」
その通りなのだが、今までじっと見ていたことを認めるようで落ち着かない。青年の声は低く、冬の空に似合っていた。
「実はね、クイズ大会を開くんだ」
「へっ?」
春音は思いがけない言葉を聞いた気がした。青年は笑った。
「撮った写真を見せて、これは何でしょう?ってゲームをするんだよ」
「そ、そうなんですか」
それをなぜ私に言うのか、いまいち飲み込めなかったが、黙っていた。
「それで……」
青年は続けた。
「クイズに正解した人は、次の出題者になるんだ」
春音はぼんやりと回想する。その後、青年は山吹貴と名乗った。年齢は十六歳。春音からすれば、立派な大人だった。山吹貴はその日からよく北山公園にやってきた。何度か顔を合わせるうちに警戒心は消え、春音は山吹貴の撮った写真を見せてもらうことを楽しみにしていた。
「これはシーパラダイスで撮ったシャチ……これは、横浜中華街」
山吹貴は決してクイズを出さなかった。クイズを出して正解したら、春音が次の出題者になってしまう。それを避けたためだろうか。山吹貴は厳密にルールを守った。
「これはこの間登った鷹取山……紅葉が綺麗で……」
「ねえ、山吹兄ちゃん」
「ん? どうした春音ちゃん」
「この前撮った藤の枝の写真。クイズ大会で見せたの?」
山吹貴はちょっと顔を曇らせた。
「誰も当たらなかったよ。というわけで、クイズ大会は終わった」
その言い方に、何か釈然としないものを春音は捉えた。
「……終わらせたかったの?」
山吹貴はびっくりしたような表情を束の間見せた。
「……春音ちゃんって、結構鋭いね」
「なんかそんな感じだったよ」
「うーん……。まあ、高校生だって、春音ちゃんが思うほど大人じゃないからさ」
別にそんなこと言ってないのに、と春音は思う。大人だと思っているのは確かだけど。
「山吹兄ちゃん、クイズしよう」
春音は思わず言った。すると、山吹貴は首を振った。
「駄目だよ。これは小学生には参加できない競技なんだから」
「えー!? 何で?」
「色々ややこしくなるんだよ」
「じゃあ何歳だったらいいの?」
「せめて中学生になってから」
「じゃあ約束して! 中学生になったらクイズ大会開いてね!」
春音は意気込んで言った。この頃には、クイズ大会がとても個人的なもので、何か公に賞がもらえるわけではないことを春音は知っていた。山吹貴は困ったように笑った。
小学生にも不良は立派にいた。派手なことはできないが、校庭の遊具を絵の具でベタベタにするくらいやる子はいた。その絵の具がなぜか春音のものだったことを除いては、看過できる日常だった。
「どうしてこんなことしたの?」
担任の岡崎先生は女の先生で、若く、経験もなかった。それに、物事を見た目通りに受け取るところがあった。
「私じゃない……」
「この絵の具、山崎さんのものでしょう? 校庭に捨ててあったんだよ。何で?」
岡崎先生は苦虫を噛み潰したような表情で言った。
「誰か……誰かが私の絵の具を……」
「ねえ!!」
岡崎先生が突然大声を出したので春音は目を見開いた。
「何で人のせいにするの!? 一言もうやりませんって言えば済む話なんだよ!?」
春音は思わず顔が引き攣り、少しして涙がポロポロ溢れ出た。それを見ていた岡崎先生はため息をついた。
「ホントめんどくさい」
ぼそっと放った一言が、春音の耳から離れなかった。
その出来事を、春音はしばらく消化できずにいた。人に相談することも、意固地な年頃の春音は考えなかった。だけど、どうしてか山吹貴は気づいた。
「最近元気ないね」
「……うん」
「学校で何かあったんだね」
「別に……」
山吹貴は微笑んだ。
「春音ちゃん、ちょっと北山公園から出ない? いや、誘拐とか騒がれては困るから、春音ちゃんの意思を尊重……つまり、春音ちゃんがいいなら、駅に行ってみない?」
「駅?」
「最寄りの宍戸駅……最寄りって、最も近い駅ってことね。僕は宍戸駅からここに歩いて来てるんだ」
「駅で何をするの?」
「実は、今写真展がやってるんだよ。それも、変わった写真ばっかりなんだ」
春音は頷いた。ここにこうして二人でいても、思い出されるのは岡崎先生の放った矢のような一言ばかりだったから。二人は徒歩で十分ほど移動した。
「小学生に十分ってキツイかな」
「別に平気」
山吹貴はニコニコしていた。それで、春音も何だか楽しくなったきた。
宍戸駅は小さな駅だった。春音は初めてきたので緊張していた。駅に入ってすぐのところに大きなホワイトボードが四つあって、だけど、見ている人は誰もいなかった。
春音は一番近くの写真を見た。『イルカ水道』と題名が書かれていた。どこかの公園の風景に、青い大きなイルカ像があり、そのイルカの口から水が出ていた。
「これ、何?」
「イルカ水道だよ。書いてあるじゃん」
山吹貴はニコニコしていたが、その言い方がなぜか春音の気に障った。何でも決めつける岡崎先生のような、大人に対する拒否感を感じたのかもしれなかった。春音は少しブスっとして、次の写真を見た。『ナマコスリッパ』という題名で、毛玉の浮き出た灰色のスリッパが写っていた。いよいよ、何だこれ、と春音は思った。
「これ、何」
「ナマコスリッパだよ!」
山吹貴は腹を抱えて笑った。時々、この人変なの、と感じてはいたが、何その笑いのツボ、と春音は少し醒めた目で山吹貴を見た。
「でも、不思議とそう見えないかな? 僕、この写真展を見てると元気になるんだ。くだらないから、そこがいいんだ」
「……別に面白くない」
山吹貴は「そっかあ……駄目か」と呟き、その後ふと、こう言った。
「僕の彼女も、全然面白くないって言ってたな」
その夜は、できるだけテレビをずっと見るようにしたが、毎週見ている冒険のアニメは全く頭に入らなかった。ついでに岡崎先生が占めていた脳内はすっかり他のことに上書きされてしまった。
「僕の彼女」
山吹貴の一言。春音と出会ったのが去年の冬。そして一年が経った。その間に、この手の話が出ないのはむしろ不思議だったと言うべきか。山吹貴は隠していたのだ。それが偶然か意図的かはわからないが。春音は気を抜くとそのことを考えてしまって、何も手につかない。彼女。彼女……。好き、ということだよね、その女の人が……
その女の人は、きっと大人なんだろう、ということまではわかった。それ以上のことは想像したくないし、できなかった。ただ、大切なものをなくした気持ちになった。
それでも山吹貴を探しに北山公園に来てしまう。春音はカメラをさげて歩く青年に手を挙げて走り寄る。青年は撮り溜めた写真を説明しながら見せてくれる。観光地を撮った写真。夜景に紅葉。湖に渓谷。山吹貴はいろんな場所に行っている。一人で行っていると思っていたけど、最近、そうじゃないとわかるようになって、それが苦しい。
「それで、これは……ああ、これはね、わかる? この花……って、あっ! 今の無しね! クイズじゃないから!」
春音は頬を膨らませた。
「それ、まだ続くの? 意味あるの?」
それを聞いた山吹貴は困り顔で、「いや……」と呟く。
「ごめん、つい、癖で」
そう言った後、山吹貴は思案顔をした。そして、ポツポツ話し始めた。まるで急に打ち明けたくなったみたいだった。
「僕の付き合った人はミサさんっていうんだけど……」
春音はじっと聞いていた。ついにこの時が来た。大丈夫、もう痛くはない、痛くはない、と耐えながら。
「この、二人だけのクイズ大会が始まったのはちょうど春音ちゃんに会う一年前くらいかな。ミサさんが僕に言ったんだ。二人でクイズを出し合おうって。一人がクイズを出す。もう一人はそれに答える。正解だったら、今度は答えた方が出題者になる。これは前も少し言ったよね」
春音は頷いた。
「最初は他愛もないクイズだったんだ。本当に純粋にクイズだった。この写真の白黒の鳥は何? ハクセキレイ。じゃあ次は私の番ね。ヘミングウェイの『老人と海』で、老人が戦うのは何? 僕は一生懸命調べた。巨大カジキだ。正解。じゃあ僕の番……そんなふうに」
春音はまた頷く。
「でも、だんだん僕はミサさんのやりたいことがわかってきたんだ。ある日、ミサさんは僕に出題した。『貴がこの世で一番大切にしている女性はだーれ?』僕はその時、正直ゾッとしたんだ。ミサさんのことは好きだった。でも、改めて問われるとわからなくなった。僕は一応答えた。『ミサさん』って。すると、ミサさんは笑った。『正解』……」
「その日を境に、ミサさんのクイズは捻くれたものになってしまった。『貴が明日一緒に横浜中華街に行きたい人はだーれ?』『横浜中華街の占い屋で結婚相性を見てもらいたい人はだーれ?』それには、僕は『ミサさん』と無難に答えた。だけど、だんだん、どうしてもわからない問題を出すようになった。『貴と私の子供は何人生まれる?』そこで『わからないから止めよう』と言えればよかったんだ。でも、僕はミサさんが怖くて、ヒントをせがんでお調子者のように振る舞って、何とか答えて……一年経って、僕は決心した。藤はミサさんが好きな花だけど……わざと何だかわからない木の枝の状態の写真を撮って、ミサさんに見せようって。それが何か答えられなかったら、正解者は無しで、クイズは終わり。僕たちの関係も終わりにしようって」
「……何で藤を選んだの?」
春音は山吹貴が期待している質問をした。
清々しい春の風が、実際に吹いたかどうかはわからない。でも、春音は確かに感じていた。
「藤の花には『恋に酔う』って花言葉があるんだ」
春音はその場でくるりと回った。山吹貴は目をパチパチさせた。
「どうしたの?」
「別に……! 山吹兄ちゃん。私、来年中学生になるよ。約束あったでしょ?」
「中学生になったらクイズ大会を開いてもいいって約束だったけど、この通り、僕はトラウマで……トラウマっていうのはね、嫌な気持ちがずっと思い返されて苦しいって意味で……」
「違う! クイズはお終い。その代わり……えっと、私が中学生になったらね……」
春音は下を向いて、徐々に顔を上げていく。まだまだ山吹貴は大きくて遠い存在だ。だけど……。
「……こ、今度は、私を綺麗な場所に連れて行って。北山公園より、山吹兄ちゃんの写真の中の景色の方が綺麗だから」
山吹貴はまた困惑したようだった。春音もわかっていた。まさか小学生が、高校生を好きになるなんてマセすぎているし、高校生がそれを受けたら犯罪級になる。だけど、山吹貴も断れない。春音の真っ直ぐさに、ただ打たれているのだ。迂遠な質問をする大人とは違うまっさらな女の子。
春音はこの春中学生になった。山吹貴との会話を反芻しながら、山吹貴が乗る電車が、宍戸駅に来るのを今か今かと待ち構えている。電車がホームに滑り込むのが見えたら、急いで走っていくのだ。駅で待つだけなんてつまらない。どこまでも一緒に走っていきたい、とそう思って。