閾
最初に、ビールの匂いがした。
「"おい、お前、生きてるのか?"」
その言葉は、英語だった。
重たいまぶたを開くと、まずビール瓶が見えた。
それから、少し筋肉質なゴツゴツした手と腕が見えた。
ハッと目を見開くと、そこにはビール瓶を手にした赤ら顔の少年がいた。
瓶の中身は半分まで減っている。
「あれ……」
起き上がり、周囲を見渡すと、どうやら駅のホームの椅子で眠っていたようだ。
見慣れない駅だった。
少し古めかしいデザインをしていて埃っぽく、今にも天井に扇風機が付いているタイプの茶色い電車が停車してきそうだ。
しかし、実際に停車していたのは、ややアメリカンテイストで現代的な、「普通の電車」だった。
「どこ、ここ……」
目の前の少年は一旦無視し、椅子から立ち上がると、ホームを見回し、歩いてみる。
するとすぐに、駅の名前の看板が見つかった。
「閾……?」
一発で自分の行動圏内にそんな駅があるはずないと分かる珍妙な駅名に首をひねる。
「ポラリス!」
少年がそう叫んだのが聞こえた。
すると、電車から一人の男が出てきた。
男は、こちらを見て一度ぴたりと足を止め、息を吐くと、少年の所へ歩いて来た。
少年はこちらを指差しながら、男に英語で問いかけた。
「"彼は俺たちと同じか?それとも別のものか?"」
男は、顔をしかめて、こう言った。
「"『彼』だと? 『あれ』をそう呼んだのか?"」
そう言われて、ふと自分の手を見ると、そこには見慣れない、赤ら顔の少年のものとそっくりなごつごつした手があった。
ゆっくりと、おそるおそる、看板を縁取る銀に視線を移す。
「な、なんで!?」
そこに映っていたのは、少年とそっくりな姿をした自分だった。
服装、体格、顔、そういえば声も……全てが彼と瓜二つに見える。
そうして狼狽えている間に、少年が男に言った。
「"俺にはあれらの仲間っていうより、ちょっと特殊な初心者に見える"」
男が気だるげに答える。
「"だから連れていけというのか?"」
「"彼をたった一人この出口の無い駅に置いていくのかよ?"」
「!」
どうやらこの駅には何かヤバい要素……少なくとも餓死の危険性がある事、そして少年が自分を庇ってくれているらしい事が分かり、とりあえず少年の方へ迷い犬のような顔をしながら慎重に歩み寄ってみた。
「"おい……こっち来たぞ……"」
「"来たらいいじゃないか! 電車の中より安全な場所は無い! ほらおいでおいで!"」
促されるまま歩み寄って行き、拙い英語で会話を試みる。
「は、はろ〜……あいむほらーすとりーまー……あいうぃるごーとぅーきさらぎすてーしょん、ばっと、あいむびかみんぐすとれいきっど……」
すると二人は、少しの間ポカンとしていた。
「ジャパニーズ!?」
「"配信者だってよ、リミナルに無理やり入ってこうなったんだろう。やっぱり初心者だ、連れて行こう"」
男が少年を見てから、やはり疑り深い視線をこちらへ向ける。
「"そうだな酔っ払い小僧、そうしようとも。もし車内でこれが暴れたらお前のせいだ"」
「"保証するさ"」
「さ、さんきゅー! さんきゅー! あ、あいふぉあごっととぅーせいまいねーむ! まいねーむいず◼️◼️◼️◼️!」
「……」
「"良い名前だ"」
と、何故か苦笑いしながら先を行く二人の後に続き、薄暗いホームから明るい電車内に一歩、踏み入った。
「……?」
その瞬間、今まさに名乗ったはずの自分の名前が、頭の中からぷつんと消えた。
いや、消えたのは名前だけじゃない、なんというか……。
「さあ、迷える心霊配信者よ。ようこそ、我らがリミナルメトロへ」
その時、英語で話していたはずの男の言葉が、はっきりと意味の分かる声として聞き取れた。
「心霊……配信者……?」
身に覚えのない呼ばれ方に首を傾げると、二人がふふんと鼻を鳴らす。
「やっぱり忘れるみたいだ」
「あの……?」
そこで男が前に進み出てくる。
その瞬間、車窓に映る自分の姿が、立体ドミノのように波打ち、少年の姿から男の姿に変わったのを見た。
構わず男はつらつらと話し始めた。
「君への歓迎の意として、なんでも正直に説明しよう。まずはこの電車についての説明が要るね。この電車は君や僕らのようにこの地下鉄へ迷い込んだ人々を拾って安全な駅まで運ぶ為のもの……だと僕は思ってる。というのも、この電車には元々ちゃんとした車掌ともっとたくさんの乗客がいたんだが、乗客の一人にイカれたのがいて、車掌と数人の乗客を切り殺したり刺し殺したりしてしまったんだ。でも、そのイカれた奴はイカれてない時はとても頼りになる奴だからやっつける訳にはいかなくてね、一番後ろの車両で監禁生活を送ってもらっている。それと、車掌がいた頃、僕らが最初に乗車した頃から、まさに今の君のように名前を失った乗客に星の名前が与えられるというルールがあったので、車掌の遺志を継いで君にも星の名前をつけようと思う。ここまで大丈夫かい?」
「は、はい」
今こうして自分に関する情報が全く分からなくなっている時点で、多分、この電車の役割は彼が思っているような避難先的なものなんかではないんじゃないかな、と思いながら、ひとまず静かに続く言葉を聞く。
「とは言え星の名前ならなんでもとは行かないだろう、射手座シグマとか嫌だよね? それに早い者勝ちでもある。そこで、すでに埋まっている名前の数々を紹介するよ。まずはこの僕、ポラリスだ、よろしく」
男……ポラリスが、うやうやしく頭を下げる。
「それから君をこの電車に招き入れた勇気ある彼は、レグルスだ」
「よろしくな! 我が初の後輩よ!」
赤ら顔の少年が空になったビール瓶を掲げた。
「次に、そこに座ってる二人組、彼がアルトゥーロで彼女がベガだ」
「ごきげんよう〜」
「ひぇっ」
ベガと呼ばれた彼女は、ウミシダのような、海洋系とも植物系とも言い難い、肉の葉っぱのようなものをたくさんつけた触手をスカートのように大量に生やしていて、葉っぱを波打たせながらひらひらと数本の触手を振っていた。
その服装はカラフルながら上品な色合いをしていて、ピエロの格好に見える。
「脅すな脅すなちゃんと手の方を振れェ道化ェ」
その隣で諌める彼、アルトゥーロは、西洋剣を帯びている以外は何の変哲もないワイシャツ姿の青年だった。
彼はこちらへ申し訳なさそうに目礼し、ベガの持ち上がった数本の触手をはたき落としていく。
「心外ですわ王子様、第一印象にインパクトは大事ですのよ」
「……小さい頃に海辺でベガを拾ってから長いこと飼ってるんだって」
と、ポラリスが捕捉する。
「え?」
「さて次は彼女、カペラだよ」
ポラリスが指した先に座っている少女は、コスプレをしていた。
何のキャラという訳でもない、多分オリジナルキャラクターの、中華風と洋風と現代風があまり絶妙とは言えないバランスで混じった格好をした彼女は、こちらをチラッと見ると、得意げにフン、と鼻を鳴らした。
「新たなる落星よ、共に天へと還る道を切り拓いてゆこう」
「乗車する前からあんな感じの奴なんだ」
「……なるほど」
「最後に、例の車掌とかを殺したイカれた奴がリゲルっていうんだ。これで全員。それで、君はどの星の名前がいいかな?」
困ったな、と思いつつ、少し考える。
スピカ、ミラ、シリウス、デネブ……空いている名前は数多くある。
過去の乗客のものまでカウントしたらキリがないからなのか、死者が出たらこの電車の名前を奪う機能が見境なく火を噴くのか、「リゲル事件」の犠牲者の名前は出されなかった。
とは言え死者の名前と被るのはなんか嫌だ……。
ぐるぐると思考を巡らせる。
しかしすぐに、世界一有名な星の名前が頭に浮かんだ。
「太陽……に、します」
「太陽!? なるほど! 今の君に良く似合ってるね!」
そうして、ぷつんと消えた名前の空白の上に、「太陽」という星の名が上書きされた。
太陽
日本人。
何故か目の前にいる相手の姿になる怪物(?)になってしまっている。
ビビりで言動が基本的に情けない。
その特性上、姿がコロコロ変わる。
心霊系配信者になろうとしていて、きさらぎ駅を目指していたはずだった。
大バズりを目指す過程で2、3ヶ国語を中途半端に齧ってる。