カエシテ
霊道の空気には温度がない。そんな中で感じる温度といえば人間自身の体温であるため、一般的に『生ぬるい空気』と表現されるホラーの空気感はこれが原因である。自分の体温と同じ温度の風呂に浸かっている感覚を想像すれば分かりやすいだろうか。
そこへ突然、背筋を這うように板状の氷が舐め回してくる感覚。くすぐったさなど皆無の、純然たる嫌悪感だけで構築された怖気が、紲を襲っていた。
『カエシテ……カエシテ……』
黒板に爪を立てたような気味の悪い声に、振り返る。
「やっべえ。帰す前に與次郎から、刃物になっている両腕の数を聞いておけば良かったぜ」
幽霊は女だった。おどろに乱れた髪は、しかしながら艶やかで、頭の後ろには簪らしきものの名残も窺える。虚ろな青白さの顔も、もう少し血色がよければ、どこか儚げな生き様を醸すようだ。さぞ生前は美しい女性だったに違いない。
付近に温泉宿が多いせいだろうか、その姿を表す名でもある女郎蜘蛛と混ざり合っているらしく、地面にかちかちと刺さっている鉈のような腕は、八本あった。
紲は嘆息した。最早これは脚なんじゃないかと。
「幽霊どころか、物怪に片足突っ込んでんじゃねえか。どうなってんだその腕。八手に武器を携えた弁財天じゃねえんだからよ」
『カエシテ……カエシテ……』
「そう思えば、その声も妙音に聞こえてきたな。はっはっは」
『カエシテ……カエシテ……』
「悪いな。あんたの腕は、現世を探したところでもう無えんだ。諦めろ」
じわじわと、前足の鉈を首筋へ寄せてくる蜘蛛女。しかし紲は気に留めず、その背後を一瞥して、腰を沈めた。
後足の鉈が、振り上げられている。
直後、空気を薙ぐ音の僅か一端を認識するが速いか、楪の細い体をタックルの勢いで掬い上げた。楪の戸惑う声を鉈の風圧が切り裂く。
山道というものはすこぶる歩きづらいが、斜面の具合と土の抵抗にさえ気を配っていれば走るには容易い。紲は楪の体を適当な木陰へと放り投げ、手近な木の根に足を引っかけるように踏ん張り、方向の転換を図った。
女郎蜘蛛の霊は、進行を妨げる木を薙ぎ倒しながら突き進んできている。
『彼女』がこれほど暴れた痕跡さえ、明日には見当たらなくなるだろう。正確には、ごくゆっくりと、長い時間をかけて痕跡が現れる。しかしそれは、現世が時を経るうちに堆積する土や樹々の自然治癒能力によって誤魔化されるため、人間が視認できるレベルで観測されることはない。
常世の時間の流れは、現世と比べて遅々としたものなのだ。だからこそ、何百年も前の落ち武者だの何だのといった輩が発狂もせずに蔓延るのである。
「ったく、現実世界に影響しないからって、好き放題してくれるじゃねえか!」
袖で冷や汗を拭い、紲は笑みで己を鼓舞した。
真正面から蜘蛛女へと向かって駆ける。
ミシンのように切っ先を打ち鳴らす刃のタップダンスを掻い潜り、じゅくじゅくと腐敗している腹の下を抜けた。間合いを計り、足を止める。このまま奴がこちらを狙ってくるならば、その振り返りざまを討つ。楪を目がけていくのなら、このまま背後から断つ。
刀の鯉口を切り、わずかに覗かせた刃で指を切った紲は、右目に血を染み込ませた。
一度死んでいる体と、神に仕える一族の血が、交わり、死という形に同化する。紲が生まれた里の一族『オナカマ』は、女系が力を持つ。ただ血を引くだけに過ぎない男の自分では、ここまでの手札を揃えてようやく端にかかることができた。
目を閉じ、心を澄ませる。
「帰命し奉る、揺るぎなき不動の守護者よ――」
振り返り、両の親指をかけ、伸ばした人差し指を合わせる印を結ぶ。
「破魔伏魔の憤怒を賜したまえ。『ノウマク・サンマンダ・バザラダン・センダ・マカロシャダ・ソワタヤ・ウンタラ・カン・マン』!」
首無し男を斬った時の略式よりも長い、中咒の真言を唱えた紲は、こちらへゆったりと巡らせてきた首を迎えるように右手を閃かせた。
斬撃の軌跡には不動明王の憤怒が迸り、そのゆらめきに撫でられただけで、蜘蛛女の巨体は灼熱の苦痛にのたうちまわった。
どれほど逃げ回ろうとも、既に朽ち果て、腐敗した身である。全身から漏れる爛れた妖気がガスのように引火し、たちまち蜘蛛女は火だるまとなった。
不動明王はヒンドゥー教におけるシヴァ神と同一視される明王の一尊。シヴァの第三の目は全ての欲望を焼いて灰にするといわれている。
宇宙さえ焼き尽くすという炎に耐えかねた蜘蛛女は、たまらず飛び上がった。
紲は月を隠した巨体に舌打ちする。人間ごときが拝借した炎では、さしもの仏の御力とはいえ、その怨念を灰にし尽くすことはできなかったらしい。
蜘蛛女は死臭を振りまきながら、全ての足の鉈を振りかぶり、周囲の木々を削るように落下してきた。脚を大きく開いたその姿は、空から獲物目がけて舌なめずりをする捕食者のようでもあり、獲物に舌なめずりをさせるためにゆっくり腰を下ろしてみせる遊女のようでもあり。
「……成程。そういう口伝種か。貴女は」
だが、解ったところで、すべきことに変わりはない。
「悪いな、俺は生きてるんだ。死者に足を引っ張られたくはないんだよ」
一切の躊躇なく、紲は天へ掲げるように倶利伽羅剣を薙いだ。
こちらの体を穿つ寸前まで迫った刃が、ほろほろと解ける。
灰が頬を撫でて、再び差し込んだ月の光に溶けていく。
紲は慈愛の手を拍つでもなく、怒りを手向けるでもなく、ただ木々の隙間から覗く月のように、ただ静かに、女郎の最期を看取っていた。
異形が去ると、闇の底に溜まっていた淀みが薄くなった。
不浄の気で溢れそうだった肺へと、緑や土、風や最上川の香りが流れ込む。咽返るような歓喜に胸を撫で下ろしている紲の背後では、楪がひどく咳き込んでいた。
「こほっ、こほっ……ひぃ、何ですか。お化けがいなくなったのに、息が、苦しひです……」
「安心しろ。生きている証だ。あの世のモノを吐きこの世のモノを取り込もうと、肉体が空気を貪ってるんだよ。大自然の中だと、けっこうクるだろ?」
「なんでそんなに嬉しそうなんですかぁ」
「そりゃあ、生きて戻れたからな」
そう言って、紲はポケットからハンカチを出し、楪に差し出した。いつの時点でのものなのか、彼女の顔は、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっていた。
紲は、飯の熱さに悶えることを幸福だとのたまう言葉が大嫌いだった。火傷をしない程度の適温で美味しく食すことこそ幸福であり、作り手への礼儀なのではないかと。しかし、今のように生を貪るような胸の痛みなら、あながち悪くもないと感じていた。
袖が触れた程度の仲とはいえ、このバカも助けることができたのだ。明日の寝覚めにも支障はないだろう。
「さて、帰るぞ」
振り返れば、山神社の小さな社殿は、思ったより近いところにあった。霊道をかなり走っていた感覚だったが、『両腕が刃物の幽霊』は随分と力を付けていたらしい。さすがは、土地の指定までされた土着の口伝種である。
藪を蹴り抜くように圧し折りながら突き進むと、やがて、與次郎が薙ぎ払った藪の痕跡があるところへと行きついた。つまり、ここから霊道に迷い込んだということ。
「喜べ、ここからは安全圏だ。もっとも、神社の境内はもう少し先だから、油断はできないが」
「それは、喜んでいいのでしょうか……?」
「ああ。『霊道』という言葉は聞いたことがあるだろう。あのバケモノは屠ったが、霊道ってのは、俺たち人間でいう道路と同じで、常にそこに通っているんだよ。その一区画に、あのバケモノから招かれてしまった、というわけだな」
まさか、これほど神社に近い場所で霊道をこじ開けることができるとは思わなかったが。
「それでは、霊道がある限り、まだお化けが出てくる可能性があるってことなんですか?」
「つっても安心しろ。道からは逸れているから、大々的に引き込まれることはない。ただ、この世とあの世という狭間にあるのは網戸みたいなもんでな。時折、穴をすり抜けてコバエみたいなのが沸いちまうんだよ」
「コバエ……では、あまり怖くないお化けさんなんですね」
「そうでもないぞ。奴らに大きさなんて関係ねえ。花子さんとかやべえからな? 一人でもやばいが、ありゃ最早『トイレの花子さんズ』だ。狭い屋内でわらわらと追いかけてくるんだから、怖いのなんのって」
「なっ……どうして貴方は、そういう脅かすようなイジワルばかり言うんですかあ!」
ぽかぽかと背中にじゃれてくる拳を受けながら、紲はしたり顔で笑った。自ら危険に足を踏み入れたのだ、このくらいは当然の報いと思って反省してもらわねば困る。
しかし実際問題、こうした『コバエ』こそが人間にとって最大の脅威になり得る。もし、ヤマノケも幽霊や妖怪の類であるならば、楪の姉・紫に憑りついたそれも、コバエのように穴から漏れて来たモノなのだ。
あの世の空間に引き込んで呪い殺すだけならば、人間にとっては「神隠しに遭った」「死体となって発見された」という不可思議な現象として諦めも付くが、霊道から逸れ、この世で取り憑いてきたともなれば、憑かれた人間は死ぬに死ねず、周囲の人々も、おぞましく狂う様をまざまざと見せつけられてしまう事態に発展する。
「あの、さっきのお化けは、ヤマノケではないんですよね」
「残念ながらな」
「綺麗な女の人でした。どうしてあのような怖ろしい姿になってしまったんでしょう」
「銀山、赤倉、満沢……どこかは興味もねえが、大方、昔この辺りを仕切っていた女郎だろうさ。山賊に襲われぬよう、あるいは遊女を逃がさないために、峠に入ることを制限する口伝を創った。『山刀伐峠を通れば、山賊から腕を切り落とされ、犯された果てに殺された女が、無き腕を、自分を傷つけた刃に変えて、復讐しようと彷徨っている』といったところか。だが死後、いつしか口伝そのものとして黄泉返ってしまった。それがあいつの正体だ」
「そんな。可哀そうに……」
「よくある話だよ。『夜にお菓子を食べるとお化けに食べられちゃうぞ』とか言うだろ。ああいうのが積もると、本当に出てきてしまうんだよ。口は災いの門、ってな」
ふと、ついてくる足音が途切れた。
楪の方を見れば、彼女はじっと唇を引き結んで、何かを堪えるように小さく震えていた。
「私、夕方に漆山さんが『ヤマノケ』と仰ったのを聞いて、タクシーでここまで来たんです」
抜かった。紲は星空を仰いだ。登山口の駐車場から見かけたタクシーは、彼女が乗ってきたものだったのか。
「ネットに載っていました。ヤマノケについて。これも、漆山さんの言う、口伝のお化けなんですよね?」
「ああ、そう考えている」
「お姉ちゃんは……無事、なんでしょうか……」
しゃくりあげる声を、そっと頭を撫でて宥める。
紲は、楪自身に怪異の影響が見られないから安心して帰れと言ったことを悔いた。両親が亡くなり、姉と婚約者が行方不明。彼女は実質的に、天涯孤独となっているのだ。
心細いに決まっているだろう。
何かに縋りたいのに、どこにも取っ掛かりのない深淵の辛さは、紲も痛い程に知っていた。
ちょうど、楪と同じ年の頃だったか。
あれから五年。月日が経つのはあっという間だった。
小さな手を取り、並んで境内を抜ける。
「お前、住み込みで雇ってくれと言っていたな。あの話、引き受けよう」
「ふぇっ……?」
「俺の他に誰かを雇うつもりなんてなかったから、契約書は少し待ってもらうことになるが」
「ええと、あの、お邪魔では?」
「雇って欲しいのか、欲しくないのか、どっちなんだ」
顔を顰めると、楪は慌てたように手を振った。
「だって。誰も雇うつもりがないってことは、あの人は奥さんなんでしょう? そんなところに私がいては、その……」
「あの人? ああ、おヤチのことか。家族ではあるが妻じゃあないし、第一、人間じゃねえぞ」
「えっ、うえええええっ!?」
彼女の驚いた顔に、紲もまた、少し驚いた。さっきまで大泣きしそうだったと思えばこれだ。
「まあ、その辺りは帰ってから改めて紹介するさ」
公民館まで戻った紲は、リアボックスから予備のヘルメットを取り出して楪に放り投げた。