山刀伐峠の怪
国道13号を北へとバイクを飛ばし、県道28号線へと下りる。もうそろそろ春も暮れるというのに、この辺りにはちらほらと雪の名残があった。ヘッドライトに照らされた桜の白と、雪の白とが、絶妙なコントラストで路肩を彩っている。
山形の春は遅く、短い。昨夜足湯から眺めた、天童市は舞鶴山で行われる人間将棋も、毎年四月末に開催されるというのに、桜の見頃と重なるくらいだ。幼い頃は、卒業式にも入学式にも間に合わない桜になど存在意義があるのかと、内心馬鹿にしていたが、里の師匠から『その分鮮烈に咲く、命の姿なのだ』と教えられてから、成程そういうものかとも思うようになった。
温泉地で有名な銀山へと続く道は曲がらずに、道なりへ。このまま行けば、赤倉というまた別の温泉地に行きつき、依頼された事故現場のある国道47号線は目と鼻の先となる。
山間の畑道は、存外整備が行き届いていた。
紲はアクセルを緩め、反対側の山の斜面に目を光らせながら走った。時刻は二十時半。少し手前で見かけた小学校も閉鎖となっているような過疎地域のため、この時間ともなれば、他の車とは滅多にすれ違わなかった。舗装されているとはいえ道も狭く、トラックの類は大きな国道を走っているのだろう。
ジャケットの袖から入ってくる風は、いやに温く、べたついたように感じる。
民家も見かけなくなって心細くなってきた頃、山刀伐峠の入り口が見えてきた。
ここだけが現実だとでもいうように、随分と開けた場所だ。
子宝杉という観光名所を地元ではデートスポットと謳いたいようで、大々的な立て看板と、十数台は停めることができそうな駐車場がある。登山道へ続く道は花壇が設けられ、手植えの花が彩っている。あまり世話をされているようには見えないが、束の間の休息には丁度いい。
当然誰もいない駐車場を独占した紲は、リアボックスから水筒を取り出してコーヒー休憩を挟むことにした。家を出る前にヨジロウから分けてもらった、利根水蒸留の逸品である。
「それにしても暗っれえなあ、おい」
申し訳程度の外灯では頼りにならず、バイクのヘッドライトで看板を照らす。
観光マップがあった。ここから真っ直ぐ峠道を行ったところと、子宝杉を経由する長くくねった登山道の向こう端が合流する辺りが、ちょうど最上町との境らしい。今回はあくまで整備された28号線のみを通過する予定ではあるが、収穫がなければ、日を改めてこちらを探索する必要があるだろうか。
ライトをロービームに戻して、もう一度コーヒーを口にしたところで、目の前の道をタクシーが通って行った。客は乗っていないようだ。赤倉温泉辺りで客を下したのだろうか。
「こんな時間に、ご苦労さんなこって」
疲れた顔の運転手を見送り、紲はバイクに跨った。
変わり映えのしない景色に飽きてきた頃、山刀伐トンネルが見えてきた。
灯りのないじめっとした闇が口を開いている。周囲に視線を逃そうにも、道の両側は藪の中。辛うじて光を求めれば、それはトンネルに入る手前にぽつんと設置された電話ボックスという罠が待っている。
「(異常ナシ、と……)」
紲は視線を引き付けられるがままに電話ボックスを見つめていたが、肩透かしだった。こういうところでは、『電話をしている白い服の女』という口伝種の一匹でもいそうなものだが。
トンネルの中でも辺りの空気に神経を集中させたが、特におぞましい何かを感じることはなかった。鶴岡市の旧加茂坂や旧油戸、東根市の旧関山といったトンネルたちと比べれば、ただ仄暗い雰囲気があるだけで無害だろう。それ故に現在でも使われている、とも考えられるが。
ここまで来ると、ヨジロウの話していた『両腕が刃物の幽霊』とやらも杞憂に終わりそうだ。
少しばかり気を緩め、鼻歌交じりにトンネルを抜け、赤倉温泉へ向かう道と満沢温泉への道との三叉路に差し掛かったところに、今夜の目的地があった。
山神社である。鬱蒼とした夜の山にあっても目に飛び込んでくる、真っ赤な鳥居。こうした『意識せずとも目に入ってしまう』ものというのは、善かれ悪しかれ異質なものだ。興味を抱いて足を止めたが最後、まるでこちらを導くように山中へと延びる足場に、吸い込まれそうな錯覚を覚える。
「(……なんてな。単に整備されているだけだっつーの)」
きちんと鳥居があることに、一先ず胸を撫で下ろす。これだけでも結界の機能が保証されているようなものだからだ。たとえ山の中で放置されて久しい社だとしても、鳥居がきちんとしていればまず問題はないといえる。
不浄が溜まる原因となるのは、鳥居が倒壊していたり、神社の中に仏教の墓石があるなどという異質物を抱えていることが殆どで、日本という国はなかなかどうして、神仏混淆という思想の中にあって尚、不思議とそういった祀り方の区別はきちんとしてきていた。
少し先にある小さな公民館のところへとバイクを停め、軽く伸びをした紲は、スリープモードに切り替えようとしたスマホの画面が目に入って、顔を顰めた。
「げぇ。ここ、一刎なんて名前なのかよ……」
地図アプリの現在地として表示されていたのは、一刎公民館。まったく『目に入ってしまう』ものというのはタチが悪い。
「まあ山刀伐峠っつーくらいだから? 最上側から入ってきた旅人が、山を抜ける前にこの辺りで休むことで藪を一刎ねする気力が湧いてくる、なんて理由だったらありがてえんだけどな」
刀を腰に提げながら願望を独り言で誤魔化して、少しだけ空しくなる。
元々この峠がナタギリあるいはナタガリと呼ばれる由縁は、別段物騒なものではない。この辺りの農民が使っていたという編み帽子の名であり、その形と峠の稜線が似ていることからとされている。だが、そこにわざわざ『山刀伐』という字を当てていることや『一刎』という地名があることには、別の理由があるだろう。
鳥居をくぐったところで、全身に静電気のような痛みが走った。
慣れてはいることだが、だからといって平気という訳でもない。
「ったく、別に何にもしねえって。用があるのはバケモノだけだっつううの。はいはい、六根清浄、六根清浄」
唱えると、やがて痺れは薄れてきた。
紲は故あって、その身に仏教由来の力と、神道由来の力を有している。そのおかげで、怪異が魑魅魍魎によるものだろうが邪神荒魂の類だろうが対応することができるのだが、いかんせん、そうした体質になると、何れの結界からも『テメエ何処のシマの者だ、見ねえ顔だな』と警戒されるようになってしまった。
神社の中に墓があれば異物となるように。寺の中に十字架があれば異物となるように。どちらかの場所では、もう一方の力が原因で、紲自身が不浄のモノとなってしまう。
大抵は敵意などないことを示せば一時的な逗留を赦してもらえるのだが、いかなる場所でも怪異と相対するためとはいえ、この身に異教を宿したのは拙かっただろうかと、この瞬間だけはいつも思う。
しばらく進むと、案内札があった。
この山神社の祭神として祀られている神の名は『大山祇神』と記されている。
「……なっ、オオヤマツミだと?」
当たりが外れた。辛うじて電波の残る中、スマホのブラウザを立ち上げて検索を図る。県の神社庁によると、この辺りにはいくつか山神社があり、そのいずれも大山祇神を祭神としていることが判った。
オオヤマツミとは、イザナギとイザナミの子である。一般的にも有名なコノハナサクヤの父に当たる神で、その名の由来は『大いなる山の神』。つまり『オオヤマツミノカミ』だった。
「バカな、いや、有り得ねえってことはねえし、むしろ願ったりなんだが……」
家を出る時に調べたものでは、カナヤマヒコが祭神であることを確認しているはずだった。
検索履歴から山神社の情報を引っ張り出す。
そこで、気が付いた。
「ちっ、成程。カナヤマヒコは銀山ってわけかい」
検索で行きついたものは、尾花沢市にある銀山を守護する山神社の方だったようだ。こちらには先のオオヤマツミが娘・コノハナサクヤも同時に祀られている。
「じゃあ、何か。天孫降臨の火中出産をやり遂げたサクヤヒメに、ハーリーティー由来の鬼子母神まであるのか、あそこは。すげえな」
日本の宗教文化は本当に恐れ入る。一体、どこでバランスを取っているのか分からない。明治政府が神仏判然令を出していなければ、今頃混沌とした地になっていたことだろう。
「さて、一先ず山刀伐峠側にブサイクな女神様が坐しませぬことは相分かった。つまりヤマノケは妖怪の類っつーことで、真言で良さそうだが……まあ、せっかくだ。もう少し奥まで――」
ポケットにスマホを仕舞いながら、境内の奥まで突っ切ろうとしたときだった。
森の中から、女性の悲鳴が聞こえた。
耳をそばだてる。無駄にこだまが響くせいで正確な位置は把握できないが、方向はこの先で間違いないらしい。
「おいおい嫌だぜ? バケモノも、こんな時間に山に入る脳内花畑助けんのも!」
ブサイクでも心の澄んだ女のほうが一億倍マシだ。紲は走り出しながら毒づき、ジャケットの懐から霊符を取り出す。
「六根清浄以下略! 来い、『那珂與次郎』!」
『はっは。お早い呼び出しじゃないか、紲』
光り輝くつむじ風とともに姿を現した相棒が、ほくそ笑むように牙を出した。
「奥の方で悲鳴が聞こえた。頼むヨジロウ、疾く駆けてくれ」
背に跨り首を撫でると、彼はコンと鳴いて、風を払った。
整えられた境内から外れれば、そこはただの森でしかない。藪こぎは與次郎に任せ、紲は周囲に視線を走らせた。
辺りの気配の色が、仄暗いものに変わってきたのを感じる。地面に沈むような闇の底が、山の中で方向感覚を狂わせる。それには與次郎も気が付いたらしく、首をもたげて鳴いた。
與次郎が放つもの以外の風が感じられないのに、包み込んでくるような生臭さが鼻を突く。霊道の外の景色を見ることはできるが、わずかなタイムラグがあるかのように、歪んで見えた。
よく、霊を目撃したとか、霊に襲われたとかいう話を聞くが、当事者たち以外の第三者がその現場を遠目にでも目撃したというような話を聞かないのは、この空間のせいである。奴らは得物を仕留める際、必ず自分たちのテリトリーに引き込む。それが、ぽんと湧き出てきて野獣のように暴れまわる物怪たちとの大きな違いだ。
『霊道に入ったな。儂は引いた方が良いかな。昨夜のように血を吐きたくはなかろ?』
「人命救助が優先だ。ドンパチのことはそっから考えりゃいいさ――いたぞ!」
指をさすと、與次郎は風向きを変えた。
山の中の道なき道で、何かから逃れるように、腰を抜かした状態で後ろ向きに這っている女性の姿を目がけて、木々の間を縫っていく。
女性に迫っている異形は、木々の隙間を埋めてしまう程の大きさがあった。
異形が振り上げた何かに目を凝らすと、一瞬、それは月明かりに鈍く濡れた。
「ちっ、『両腕が刃物の幽霊』か!」
與次郎を間に突っ込ませて女性を庇う。
稲荷の神風に巻き上げられた草木の勢いが治まっていくにつれ、血生臭い嫌な臭いがはっきりと押し寄せて来た。もう、すぐそこに異形がいるのだ。ゴミ処理場の投棄ゲートに一日中立っていろと言われるほうがマシな程だろう。
紲は舌打ちをした。與次郎の存在は心強いが、幽霊をどうにかするためには神道の力では効果が薄い。しかも、どちらか片方でさえ身体に負担がかかるというのに、神道と仏道の力の同時運用は命が蝕まれるリスクがある。
與次郎の背から降りた紲は、土煙を睨んだまま、背後の女性に声をかけた。
「おいアンタ、俺の後ろから動くなよ? 下手に逃げ回られると、テメエまで殺しかねないからな」
「ひいっ、殺されるのは嫌ですぅ!?」
與次郎を常世の道へと帰したところで、ふと、背後の女声に違和感を抱き、眉を顰める。店の有線放送で流れていた曲に聞き覚えがあったときのような、はっきりしない心当たりにも似た、もどかしい感覚。
まさかと思って振り返ると、声の主は楪だった。
「な――っ」
制服ではない長袖長ズボンにキャップという出で立ちと、胸元で固く握りしめた懐中電灯が怪談話の名人か何かのように下から照らしているところを見れば、意図して入山したことは明らかだろう。
「ったく、どうしてここに来た! 俺と鉢合わせなければ死んでいたところだぞ! そうでなくとも、素人が山に入りでもすれば、熊や猪に襲われるのがオチだ!」
胸倉を掴む勢いで詰め寄っても、楪の口はパクパクと開閉を繰り返すばかりで、声が届いている様子はない。
「おい、何か言ったらどうなんだ!」
「う……しろ、に」
恐怖に滲む瞳が、肩越しに何かを捉えている。
彼女の瞳越しに、胡乱に血走った双眸の残光を見てしまった紲は、ぞわり、と背筋が震えるのを感じた。