ヨジロウ
渋る楪を帰らせた後で紲は、おヤチに野暮用を頼むと、自分はある男を探すために家の中へと戻った。道すがら台所へ立ち寄り、鬼――もとい、鼬の居ぬ間にコーヒーの残ったフラスコをかっぱらう。
居間で、コーヒーメーカーからサーバーがないことを横目で確認しながら、飲みかけのコーヒーカップを回収し、仏壇の間から縁側へと抜けた。
「ようヨジロウ。来ちゃった」
声をかけると、湯飲みでコーヒーを飲んでいた銀髪の男が振り返った。
「その台詞を男子が口にすると、言い知れぬ怖気が走るな」
「俺の貴重な茶目っ気だぞ。喜べ」
紲はそう言って、苦笑しているヨジロウの隣にどっかと腰を下ろす。
「あの娘は帰らせたのかい」
「今しがたな。今はおヤチに、ちゃんと駅まで向かったか、尾行を頼んでいるよ」
「気になることでも?」
ヨジロウがすう、と、狐のように目を細めた。銀髪の優男という浮世離れした風貌に甚兵衛という出で立ちは、出会った当初も好々爺かぶれの胡散臭い野郎かと思ったが、なかなかどうして、自慢の足のみならず、頭の回転も速い男だった。
自分の知識にない観点からの意見を貰えることもあり、依頼を受けた時などには、彼の見解を訊きに来るのが恒例となっている。
「少しな。姉夫婦……ああ、婚約止まりなんだったか、まあいいや。そっちがどうやら怪異に憑かれているらしいんだが、依頼者である妹の方も、悪夢に悩まされているんだと」
「首無し男の?」
「うんにゃ。手招く和服の幽霊が、日に日に近づいてくるらしい」
「常世の香りは?」
「なかった、だから妙でな。もっとも、あいつはバカが付くほど真面目そうな奴だったから、参ってしまっているだけだとは思うが」
「ふむ。儂も現時点では、紲と同じ見解じゃな」
「だよなあ……」
フラスコからコーヒーを注ぎ、歯切れの悪い舌を湿らせた。
ヨジロウもちゃっかり湯飲みを差し出してきたため、注いでやる。彼は礼を言うと、懐に隠し持っていた箱を取り出した。隣町の天童市にある菓子店のものである。
「コーヒーにマカロンか、悪くねえ。やっぱり、居間のコーヒーメーカーを使ってたのはお前だったんだな」
「うむり。今朝方、亀岡文珠の義姫様から利根水を戴いてきたのでな」
「まーたパクって来たのか……」
「聞こえが悪いぞ、紲。ちゃんと参って下賜されたものだとも。本当だぞ? 義姫様の兄君は、かの『羽州の狐』。儂とは気も合うというものよ」
「ぜってえ嘘だあ」
威張って見せるヨジロウを満面の半笑いでいなし、紲はマカロンを齧った。
亀岡文珠は、山形県は高畠市に位置する大聖寺のことを指す。日本三文珠の一つに数えられ、文殊菩薩の御加護――つまり、学業成就の祈願で有名である。こにはもう一つの側面があり、最上義光の妹にして伊達政宗の生母である義姫が懐妊祈願に訪れたことでも知られていた。
ヨジロウが作っていたコーヒーは、大聖寺の裏手にある湧き水を使用したものらしい。
「斯様な生業に身を置いてなお、信じぬと申すか」
「別に文珠様の加護を否定しているわけじゃねえよ。テメエが湧き水をかっぱらってきた経緯の方を眉唾モノだっつってんの。持ち帰り禁止の札あったろ」
こういうところが胡散臭いのだ。
「だいたい、最上義光公は天童攻めの際、喜太郎とかいう稲荷の幻術で撃退されているだろうが。狐とは仲良くしたくねえはずだ」
そう吐き捨ててから紲は、含み笑いを浮かべるヨジロウからサーバーをひったくり、自分のカップにコーヒーを注いだ。飲んでみると、天然の湧き水というだけあってか、ボトル詰めされた天然水よりも味がすっきりしているように感じた。プラシーボではあろうが。
そうして酒を酌み交わすように、暮れなずむ春の日を眺めていると、ヨジロウがおもむろに口を開いた。
「動くのは明日か」
「うんにゃ、今夜から動こうと思っている」
「この時間からでは、東北の伊勢も杉沢比山も、ちと遅いぞ」
「今日は南陽でも遊佐でもなく、六日町で済ませるよ。今夜の用向きは尾花沢から最上にかけてだから、イザナミ様には悪いが、あっちまで行っていると夜が明けちまう」
紲には、案件に対して動き始める際、験を担ぐために行っている習慣があった。山形の県南、南陽市にある熊野信仰の神社へと参ることである。
熊野信仰とは、世界的に珍しい日本固有の『神仏混淆』形式の信仰の一つだ。イザナミとイザナギという『神』を祀りながら、性質は観音、薬師、阿弥陀らの『仏』であるという。
紲の故郷も、熊野信仰の一端を汲む信仰があった。
「それで、今回はどのような」
ひょいとマカロンをつまみあげながら、ヨジロウが真剣な目をした。
「ヤマノケだ。何か思い当たることはないか」
「ヤマノケとな。ネットのオカルト掲示板で有名だという、アレか」
「ああ。女に憑りついて、性の快楽を貪るけったいなバケモノだよ。ったく面倒なことに、とうとう『口伝種』はネットからも生まれるようになったらしい。母なる海とはよく言ったものだが、電子のソレまで含めなくともいいだろうに」
「あの手合いは苦手じゃ。人の口から口へ伝わるうちに与太話が変化していく故、どうにも対策が練りづらい。最近では、怪異三日話を聞かざれば、などという言葉もあるくらいよ」
「神様も三国志読んでんのかよ。本当俗っぽいな」
マカロンを頬張りながら笑ったせいで、欠片が喉に絡みそうだった。
咽るのを堪えて、コーヒーを啜る。
「本当に土着している伝奇なら、そうそう変わったりしないもんだが……奴らの場合、そもそもが『ぼくのかんがえたさいきょうのおばけ』から生まれてる存在だからな。ほら、花子さんの時なんてヤバかったろ。噂ごとに微妙に異なる個体が全国に散ってるから、本気出したら全員が襲いかかってくるとか、あん時はマジで死ぬかと思ったぜ」
「懐かしいのう。『NHK』だったか」
「今でも、たまにお茶会に出くわしたりすると肝が冷えるぜ」
紲とヨジロウは、二人して勝手口の方にあるトイレを見やった。
今でこそ、紲とそれに近しい存在に対しては害のない存在となっているが、あの可愛らしい見た目に反して、脅威の程は凄まじい。トップクラスに有名な怪談の面目躍如である。
「して、ヤマノケは何処に? 宮城の田代峠だと思っていたが、先ほど紲は、尾花沢と言っておったか」
「被害者は庄内から国道47号線経由で帰ってきて、最上で事故に遭ったらしくてな。その辺りでヤマノケといえば?」
「ふむ……山刀伐峠か。鳴子から尿前を経由して山形へ来れば、ちょうどその辺りに行き着くか。なるほど言われてみれば、大元の話は田代峠だが、それとは別に、取り憑かれた娘が呪縛を脱した方の話があったのう。確か、出産の痛みでヤマノケが逃げ出したのだったか」
「ああ、俺はそっちの話が山刀伐峠周りだと睨んでる。ただ、山狩りなんかダルいだけだからな。もう少し場所を絞りたい」
ヨジロウが、少しの間腕を組んでから、言った。
「……もし、ヤマノケという字が『山ノ怪』であったらどうだろう」
彼がしなやかな指で宙に書いて見せた字に、紲は顔を顰める。
「うっわあ。聞いておいてなんだが、そいつは笑えねえな。口伝種ってだけでも厄介なのに、ヤマツカミの性質を持っている可能性とか、考えたくねえ」
「けれど、筋は通るぞ。新潟の見附には性神として山の神が祀られているし、最上にも塞の神として男女神が祀られておる。山の神は女性であることが多く、信仰によっては醜女であるとも云われておるしな」
「テメエより美しい女に憑いて、テメエ自身では味わうことのできなかった性の快楽を求めている、っつーことか?」
「然り。問題があるとするならば、山の神を女神とする起源は、それこそイザナミノミコトとされていることだがの」
「いや、それはあくまで起源だ。不動明王とシヴァ神が別であるように、各々で祀っているものが違えば、それに準ずる。だからこそ、男神の山ツ神だっているんだからな」
追加のコーヒーを注いでくれたヨジロウに礼を言って、再び思考の渦に潜る。
山ツ神の性質をもち、醜く、尾花沢から最上にかけて祀られている土着の神。
「その線……ありそうだな」
「心当たりが?」
「ああいや、その神の美醜なんて調べたことも聞いたこともねえが、ゲロから生まれた男女つがいの神がいる」
「こら、紲。甘味とはいえ、食事中ぞ」
「ああ、分かった分かった。《《たぐり》》とでも言った方がお行儀がいいか?」
不貞腐れてやると、ヨジロウは観念したらしく、苦笑で先を促してくれた。
「ともかく、イザナミがヒノカグツチを産む際、苦しみのあまりに吐いたブツから生まれた神。それがカナヤマヒコと、カナヤマヒメだ」
「カナヤマ――ふむ、鉱山の神か」
「あの辺りだと、尾花沢の銀山、最上の金山である満沢、銅山の長富なんかが揃っているからな。守るために祀っていたんだろう。ちいと、解したくねえが」
ため息を吐くと、ヨジロウがマカロンに歯を立てたところで止まった。
「解せない、ではなく?」
「不気味なくらいに辻褄が合っていくからな。鬼子母神なんかも山に多いし、尾花沢だったら尚更、山刀伐峠の旧道を上ると子宝杉があるだろう。だから唯一、ヤマノケが出産の痛みで逃げ出そうとする、という部分が気にかかるが……まあ、あくまで山ツ神が性神でしかなく、出産に関しては別の神が絡むのならば、これさえクリアできるんだ」
「『ヤマノケ=神』の図式じゃな。しかし、神性があると何か拙いのか?」
「単純に対処法が変わる。めんどい。疲れる」
「また、子供のような理由だのう……」
ヨジロウの呆れたような表情は、最後のマカロンとともに押し流す。
「いやマジで。花子さんの時は数こそ多くて骨は折れたが、片っ端から真言を唱えて刀振って回るだけで片付いたんだよ、マジで」
あれは楽だった、と零した瞬間、背後の方でバンバン! と扉を叩く音がした。
「チッ、聞いてやがったか……行ってくる」
紲は眉間を抑えて、重い足を引きずるように仏間を通り抜けた。
勝手口の隣、トイレのドアを開ければ、そこには小学生ほどのおかっぱ幼女が、ぷっくりと頬を膨らませて仁王立ちしている。
「あのな、花子。今のは氣力の消費の話でな?」
弁解をしようとしたが、花子はさらにむぅーと頬に空気を入れ――ようと失敗してハッとなりながらも、もう一度、ぶっすぅー! と抗議のぷんすか顔を向けてきた。
これだけ見れば実に愛らしい女の子ではあるのだが。我が家へ頻繁に顔を出している彼女は、某NHKのトップなのだというのだから、見掛けによらない。
「分かった分かった、謝るから。お前はすごかったよ。昨夜も助かった」
屈み込んで、小さな頭をそっと撫でてやる。すると花子は『わかればよろしー』ととても満足そうに、むふーと花を咲かせた表情で消えていった。
ヨジロウの下へ戻ろうかとしたところで、スマホが着信を告げた。
番号欄には『非通知』とある。おヤチからの報告である。
「俺だ」
『旦那様。たった今、御廟様は山形駅に入られました。大事ありません』
「そうか、気を付けて帰ってきてくれ。俺は出てくる。悪いが、夕飯はいらん」
『ふふ、かしこまりました。それでは、また後程』
電話を切り、縁側に戻ると、ヨジロウが菓子のゴミを片付けているところだった。
紲は持ってきたカップとフラスコを持ち上げ、ヨジロウから空箱を受け取ると、背を向けた。
「それじゃあ、行ってくるわ。留守を頼む」
歩き出そうとしたところで、背中に優しげな声がかけられる。
「その昔。山刀伐峠には山賊がいて、貴奴らに殺された女子が『両腕が刃物の幽霊』として出没するという心霊話もある。とかく、気を付けいよ」
「あいよ。今日は下見だ、深入りはしないさ」
壁掛け時計を見れば、もうすぐ十九時になろうかというところだった。ここから尾花沢まで、国道を飛ばせば一時間ないしは一時間半。頃合いとしては悪くないだろう。