依頼
「ぶっ壊れた家具のことなら心配するな。補償はきちんと出る」
「いえ。家具なんて、もういいんです。我が家には今、何も残っていませんから」
彼女は絞り出すように言った。
「ほう?」
紲は浮かせかけた腰を、そっと下ろした。
「昨夜、お前が襲われたことは憶えているか?」
訊ねると、楪はこくんと小さく首を振った。
「そいつは俺が祓った。それでもなお、駄目だと?」
「……はい」
「聞かせろ」
促す。彼女はひしと唇を引き結んでから、ぽつり、ぽつりと絞り出すように話し始めた。
「先週末、最上川沿いの道路で、乗用車とトラックの衝突事故がありました。車に乗っていたのは、私の姉と、姉の婚約者である淳平さん、そして両親です。姉は夏に結婚を控えておりましたから、庄内の方へ、式場の下見に行っていたんです。海に近い式場がいい、って」
「お前は行かなかったのか」
「当日まで楽しみにしていようと思いまして。それで、夜に差し掛かったころ、姉から電話をもらいました。素敵な式場が見つかって、帰っているところだからもう少し待っていて、と」
込み上げてくるものを押し流すように、楪はコーヒーを飲んだ。しかしすぐに苦い顔をして、砂糖とミルクをたっぷりと追加する。
「……変えさせようか?」
「いえ、だいじょーぶですぅ……」
涙がふるふると浮かべた楪は、たっぷりと砂糖を放り込んだ、コーヒーだったナニカで口直しをしてから、何度か深呼吸をする。
「時間はある。ゆっくりでいい」
「……私、電話越しに聞いたんです。低く唸るような声で『テン、ソウ、メツ』と」
「何だと? 確かにそう聞いたのか」
「はい。その後すぐに、みんなの悲鳴と、車のぶつかる大きな音がして。私、驚いてスマホを取り落としてしまったのですが……慌てて拾い上げて、姉に無事を問うと、不気味な声がしたんです。バッテリーが切れるまで、ずうっと」
「『入レタ入レタ』の繰り返し、だな」
「っ! はいっ、ご存じなのですか?」
「あ、ああ」
一瞬、前のめりの楪に気圧されるかと思った。本当に、変わった娘である。はじめに漆のような髪を見た時もそう思ったが、どことなく、琴葉に似ている。
――貴方は、いきなさい。
フラッシュバックとともに襲う頭痛を振り払うように、現実へと意識を集中させる。
煙草の味。コーヒーの香り。こちらを窺う楪の瞳――は、額を突いて押し戻す。
「続けろ」
「はい……実は、父と母の死亡は確認されたのですが、葬儀を終えて今日まで、姉と淳平さんが見つかっていないんです。そこで、長南さんという刑事さんに紹介されて、近いうちに、こちらを訪ねる予定でした」
「成程ねえ。そんな矢先に幽霊野郎の襲撃か。そりゃあ災難だったな」
紲は眉間に指を当てて唸った。昨夜の首無し男は、確実に楪を狙いに来ていた。
――ユズリハを、返せェ!!
だが、とてもじゃあないが、首無し男と『奴』とでは特徴が合わない。家族の巻き込まれた件の余波が来る事例もあるにはあるが、それにしては随分とご執心だ。
「すまない。まずはお悔やみを」
対面からの不安げな顔に気付き、頭を下げる。彼女はこなれた所作で会釈を返してきた。少し、胸が痛む。こればかりは、いつまでも慣れることはなかった。
「長南警部補から、現場の状況について詳しいことは?」
「そこまでは、何も」
「そうか」
紲はポケットからスマホを取り出し、通話履歴から件の刑事を呼び出した。
『……聞いたわよお。女子高生を強姦しようとしてたんですって?』
開口一番、疲れた声が出迎えた。
「ご挨拶だな、ハナ。その辺の報告は留守電入れただろうが。テメエこそ、LINEも既読無視しやがって。俺たちゃ倦怠期のカップルか何かか」
『こっちだって事後処理が忙しかったのよ。楪さんも起きてないっていう話だったし、込み入った話はそれからでもいいと思っていたの』
「その楪は、今しがた目を覚ました。最上での事故があったというところまでは聞いている」
『あら、面倒くさがりな貴方が、行動速いわね。あ、もしかして。またあの夢を見たんでしょう。いつもそのくらいの優しさを持ってくれれば、イイ男なのに』
「……うるせえよ」
英とは、別段仲が悪いわけではない。軽口を叩くことで、生きていたかバカヤロウと確認する、一種の挨拶のようなものだった。
紲はテーブルの上の煙草に手を伸ばそうとして――代わりに茶箪笥から取り出した、一般販売の紙巻きタバコに火を点けた。やはり、味はこちらの方がタバコらしい。
「それで、状況は」
『正直、芳しくないわ。運転していた仁間淳平という男性だけれど、運転席に残っていた血の量を見る限り、明らかに生きていられる出血量じゃないのよね、コレ』
「だのに、姿がない?」
『そ。ひしゃげたドアとエアバッグに挟まれたらしくて、血痕がべっとり。身を挺して守ろうとしたのかしらね、車は運転席側を対面に衝突させた状態だったから』
「随分な王子様だな。咄嗟の状況じゃあ、普通は我が身を守るもんだろ。だがまあ……妹の方見てりゃあ解かる気がする。それくらいじゃねえと釣り合わないんだろうな」
『ふふっ、貴方とは真逆のタイプね』
うるせえよ。紲はわざと大きな音を立てて煙草の煙を吹いた。
「それで、姉の方の痕跡は」
『ちょおっと待ってて、今探すから。ええと、御廟紫、御廟紫……』
資料をパラパラと捲る音がした。気に留めていなかったが、電話の向こうでは様々な話し声が聞こえる。華の金曜日だというのに、今日も警察様は忙しぼっこに追われているらしい。
対面では楪が、茶菓子に手をつけていいものかとそわそわしていたので、クッキーを一枚だけ摘まみ上げて残りを編み籠ごと押し出してやった。
『あったわ。あーいや、ごめん、訂正。あったけれどなかった、というべきかしら』
「……は?」
『少なくとも、車内で彼女の血液は確認されてないの。せいぜい、窓ガラスに頭をぶつけたらしい、髪の毛と皮脂の痕跡くらい』
「パニック状態になった御廟紫が、婚約者を引きずってどこかへ行ったという見立ては?」
『勿論、可能性としては薄いなりに色々考えていたわよ。けれど、遺族である楪さんの話を聞いて、それらは一旦棚の上』
「ヤマノケ、だからな」
『さすがに私でも小耳に挟んだことのある話だったもの。夜の山道をドライブ中、娘がヤマノケに取り憑かれてしまい廃人となった。「テン、ソウ、メツ」と「入レタ入レタ」のインパクト、加えて「ウルトラマンの怪人ジャミラのような」というイメージの容易さが印象的な話よね』
二本目の煙草に火を点けると、電話の向こうでもライターの鳴る音がした。
数拍の間を置いて、憂いを帯びた吐息。
『それで、どう?』
「何が」
『お姉さんの方はヤマノケの線だとして、王子様の失踪は謎。見立ては?』
「まだ何も。十二時の鐘が鳴ったのかもな。とりあえず判ることは、シンデレラか王子様のどちらかが、ガラスの靴を持っているかもしれないってことだけだ。そいつの自宅は?」
『実家の方に当たっているのだけど、そっちも本人との連絡は付いてないみたい』
「ちなみに、何かヤバそうな家系だったりはしないか? 陰陽道だとか魔術だとか」
『いいえ。交友関係も、ちょっとヤンチャな友達がいるくらいで、そっち方面で妙なところはなかったと思うわ。父親は大手のカーディーラー。母親は専業主婦。息子本人も、県内の芸術学校を経てから父親と同じ会社に勤めてる。デザイナー志望だったんですって。店内の装飾やポップを作れば大好評、接客も丁寧ときて、同僚からもお客様からも人気みたい』
紲は曖昧に相槌を打ちながら、視界を遮断して思考回路に意識を寄せた。
目の前の楪の言葉遣いや所作を見るに、きちんとした躾を受けていることは間違いない。仁間淳平の経歴や素行は、そんな家の娘と婚約関係になることも十分に適いそうなもの。実際、既にその関係にあるのだ。たとえば、見初めた御廟紫に袖にされたことをきっかけに、支配欲や逆恨み的に呪いへ手を出して囚われたという類なら珍しくもないが。
「(仁間淳平は怪異とは関係がないのか……? しかし、それならば何故遺体がないんだ)」
実は辛うじて生存しており、ヤマノケの《《相手》》をさせられているのか、あるいは。
「……一先ずは把握した。引き続き、何かあれば連絡をくれ」
『りょーかい。気をつけてね』
紲は電話を切り、テーブルの上に放り投げた。
煙草を一度、大きく吸いこむ。どうにも、キナ臭かった。
「楪」
「あ、ひゃいっ?」
「お前、呪いの方法は知っているか」
何を問われているのか分からないといった様子で、楪はお茶請けのパウンドケーキを咥えたまま、眼をぱちくりとさせている。
「ああ、いい。知らないなら、それで」
口の中のものを早く飲み込んで返事をしようとするハムスターのような口を落ち着かせる。
姉の幸福を妬んだ妹が何か謀ったかとも考えたが、ただの日本人形を見てあれほど怯える女子高生に、呪いをどうこうする頭などないだろう。消しゴムの角だのミサンガだの香水をつける場所だのという呪いくらいが関の山だ。
紲はため息を吐いて煙草の火を消し、茶箪笥の引き出しを開け、クリアケースから書類とペンを取り出した。
「依頼は、失踪している二人の捜索、ということでいいな」
「はい」
「承ろう。ここに名前と、電話番号を頼む。電話が繋がれば、住所はいらん」
差し出されたペンを握ったまま、契約書を見て、楪は首を傾げた。
「あのう、報酬の欄に『気持ち次第』とあるのですが……?」
「文字通りだ。解決した場合、それに対して支払う額を決めてくれればいい」
「えっ、それでは商売が成り立たないでしょう。払わない、なんてことも……」
「それが、無えんだよ。ここに持ち込まれる依頼ってのは、つまりそういうモノだ。支払いを踏み倒すなんてことをしたら、どんな呪いをかけられるか分かったもんじゃねえだろ」
おどけて見せたつもりだったのが、
「ぴぇっ」
楪は瞳いっぱいに涙を浮かべていた。
「かけるんですかっ」
「さあな。呪いをかける方法など試したことはないが、人を一人消し飛ばすくらいの術は持っている。じゃなきゃこんな生業、続けてねえよ」
微笑みかけると、楪はほっと、スカートを握る手の力を抜いた。
「初端から踏み倒す気もないんだろう? ビビる必要もないだろうに」
「それは、そうなのですけれど……」
声を潤ませながらも住所欄まできっちり埋めた楪は、こちら側に書類を返すと、何度か口を開いては閉じてと遊ばせてから、おずおずと切り出した。
「あのう。もう一つ、お願いがあるのですが」
「何だ」
「こちらで、住み込みをさせてくださいませんか」
「…………は?」
危うくコーヒーのカップを取り落としそうになる。
「もちろん、お手伝いでも何でもしますから! 至らぬ程度ですが、家事もできます。せめて、この件が解決するまで、お願いします!」
「独りになって寂しいのは同情するが、うちは保育園じゃねえぞ」
「承知しています」
テーブルに擦り付ける程に下げた頭は、微動だにしない。
そのままの姿勢で、楪は続けた。
「……あの日から、悪夢を見るんです」
「どんな」
「暗い、暗いところで、向こうから、和服を着た女の人のお化けが手招きしてくるんです。ケヒッ、ケヒッ、と不気味に笑う顔が、日に日に、ゆっくりと近づいてきていて……」
顔を上げた彼女の縋るような眼を見て、紲はあることに気が付いた。
おヤチが急拵えで施しただろう化粧で誤魔化されてこそいるが、目の下のくまが濃い。怖がりで可憐に見えていたのではなく、実際、参っているのだろう。
「和服のお化け、ねえ」
紲は頭を掻き、シガーケースから煙草を出して、携帯灰皿とともにテーブルに置いた。
「幽霊に憑かれている人間からは独特の臭いがするんだが、今のお前にはそれがない。姉が尋常じゃなない事件に巻き込まれて、自分は昨夜襲われて、参っているだけだろうさ。
それでも不安なら、寝る前にこれを一本燃やせ。柊や月桂樹、ホワイトセージ、ローズマリーなんかを混ぜた特別製だ。吸わなくていい。口の中に煙を溜めて、寝室の四隅に吐いてから寝ろ。やり方はさっき見ていただろう」
「ですが、煙草は持っているだけでも犯罪なのでは」
「バカなのか真面目なのかわっかんねえなお前は。万が一捕まったら、俺かハナ――長南警部補を呼んでもらえ。誤魔化してやる」
契約書の控えを切り離し、裏面に自分の電話番号を書いて渡した。
まだ何か言いたそうにしていたが、そうする他にないのだから仕方がない。
ヤマノケは女性に憑く怪異。それだけでも危険だというのに、そもそも『異なるもの』を扱う生業に関わらせてしまっては、彼女の悪夢とやらが現実になりかねないのだから。