前編
※※※※
目の前の扉をノックする前に、深呼吸をする。
これから告げる言葉に、自分自身で辟易するが、仕方がない。
いつものように、聖女と言われた笑みを浮かべる。
心を落ち着けて、言うべき言葉を反芻して用意した。
『婚約を破棄すると言われたけれど、貴方に非など在りはしないわ』
『神様はいつも正しき者の味方。だから気を落とさないで』
私の本心など押し殺して、決意を込めて息を吐く。
握りしめた拳の想いなど、私にしかわからないものだけれど。
指に力を込めて拳で、できるだけ軽やかにドアを叩く。
涙声の応えに胸を締め付けられながら、私は扉を開けた。
※※※※
―――我慢の限界だ。
「お姉様に、私の気持ちなんて、わからないわ!」
そう叫ばれ、差し伸べた手を跳ね除けられた。指先が痛みで熱を持つ。
誤解だ、と言いかけたが、何処からともなく公爵が現れて遮られてしまった。
「そうやって、アリーシャを追い詰めていたのか」
「シオン様……」
いきなり人の家に先触れもなく乗り込んできたその男は、未婚の妹の腰を堂々と抱く。
そして妹は、それを平然と受け入れた。……家族でも婚約者でも親類でも何でもない男の手を。
「お姉様に悪気がないことなど、わかっております……。ですが」
「ああ、そちらの方が余程たちが悪い」
背筋が凍るほど冷たい視線を寄越す公爵、へ反論しようと口を開く。
が、またしてもノックもなく扉が乱暴に開く。
「大丈夫か、私の天使!!そこの性悪に何かされなかったか!?」
ズカズカと大股でこちらに向かってきたのは、この国の第二王子だ。
そして、何故ここに居るのか口を開こうとする私の両手を、強く握ってきた。
……婚約者でも恋人でも何でもない、私の手を。
にこりと笑んだ私に王子が鼻の下を伸ばした隙に、するりと手を外す。
「……殿下、目を覚ましてください。その令嬢は天使、などと呼ばれるような者ではありませんよ」
「何を言う、シオン!美しく心清らかな彼女を前にしてっ!お前こそ、そこの地味女に操られているのではないのかっ!」
とげとげしい声で、公爵が殿下に的の外れた注意をする。
そして、そこではないだろうと訂正する隙は、殿下のぎゃんぎゃんした声に潰されていった。
いがみ合う二人、顔を暗くして公爵から離れようとする妹。混沌が加速する部屋。
―――そろそろ、我慢するの止めてもいいかな。
※※※※
私は由緒正しい子爵家に生まれた―――それも非常に美しく。
光を集めたような白金糸の髪は緩やかな曲線を描き、サファイアも霞むほど煌めく深い蒼の瞳。
誰にも踏み荒らされぬ新雪のような穢れなき白き肌に、神が直接絵筆をとったが如く完璧な顔の造形。
紅を差さずとも艶やかな唇が笑みに弧を描けば、それだけで一国を堕とす価値がある、まさに傾国の美姫。
……以上の褒め言葉は、周囲の人々が言った私である。
私としては、神だの傾国だの、いくらなんでも言い過ぎだと鏡を見ては首をひねっていた。
ただ、私が自覚しようがしまいが、そう見られていることに変わりはなく。
幼い頃から蝶よ花よともてはやされ、溢れんばかりの贈り物と賛辞に囲まれて、私は育った。
―――そんな私に転機が訪れたのは、妹が出来たときだ。
産気付いたお母様から離され、大人しく自室で待っていたものの、待てど暮らせど何の知らせも来ない。
待ちくたびれて昼寝をしてしまった。
が、夕食に呼ばれても、無事生まれたと言われないことに酷く心配になっていく。
「お母様は、赤ちゃんは、大丈夫なの?」
テーブルに着くなり問いかけると、お父様は私の前で滅多に見せないしかめ面で答えた。
「問題ない。もう生んで、あいつは今自室で休んでいる」
「……え?」
この第一声からして、既に可笑しな点が沢山あった。
どうして、無事生まれたはずなのに、喜んでいないのか。
どうして、生まれたとき私に知らせてくれないのか。
どうして、生まれたばかりの子供のそばに父はいないのか。
どうして、性別もなにも教えてくれないのか。
どうして、母も子もどちらも大事ではないような言い方をするのか。
甘やかされてたとはいえ、きちんとした教育を受けてきた。
ましてや、妹か弟が出来ると聞いてから、楽しみ過ぎて色々な本を読んで予習してきたのだ。
どの本にも、自分の子供を喜ばず産後の妻に付き添わず父親が忌々しそうにする、なんて書いていなかった。
それもこれも、お父様もお母様も誰もが、良い姉になりなさいと言うから、張り切って勉強したというのに。
―――これは一体どういうことなんだ?
「お父様、その、赤ちゃんに会い」「駄目だ」「――え?」
酷く歪んだ醜い顔で、お父様は吐き捨てるように言った。
「アレは、我が家の子ではない。今後一切、アレの話はしない」
激しい憎悪にさらされて、私の世界が一変する。
甘やかで優しい世界に、醜く悍ましいものが入り込んで居座ってしまった。……このヒトは誰だ?
恐ろしさに震える手を押さえて、幼い私は為す術もなく頷くしかなかった。
※※※※
私付きの侍女たちに、おねだりをしてようやく情報を得た。
生まれたのが『妹』であること、お母様は元気でいるが妹と一緒に別棟に閉じ込められていること。
―――そして、お父様はその妹を『不義の子』だと思っているらしい、ということ。
もちろん、直接的な言葉ではなかった。
かなり遠回しな言い方だったが、繋ぎ合わせれば子供でも分かる。
そして驚くべきことに、その根拠は彼女の髪が黒かったから、だけのようだ。
………お父様は確か上級官吏で、ゆくゆくは長官補佐にまで手が届く、と言われているほど切れ者のはずなのに?
確かに家系図を引っ張り出しても、誰も黒髪である記述はない。が、外見を書かれていないご先祖様もいるのだ。
もっと昔にさかのぼれば、女性の名前すらない時代もある。
更に言えば、15代目に隣国の伯爵令嬢が嫁いできている。隣国では、黒髪はむしろ神聖視され積極的に取り入れられているから、その家系に黒髪のご先祖様が居てもおかしくはない。
遺伝ではない、とお父様がどこで判断したのか、非常に謎だ。
そして更に驚くべきことに、私の妹を『忌み子』だとも思っているらしい。
これは屋敷の噂話を密かに集めた結果だ。そして、その理由も彼女が『黒髪』だから。
調べてみると、この国で黒髪の一族が残虐の限りを尽くし滅ぼされた、という歴史があった。
それゆえ、『黒髪』はその一族の血をひくと思われ、忌避の元になっている。
だが、本には「嘆かわしいことに」と枕詞もあるし、以降髪の色素における遺伝についてが滔々と語られており、専門用語を読み飛ばして要約すれば、「その一族の血脈でなくとも、どの家系でも黒髪が発現する可能性は僅かではあるがある」と締めくくられていた。(ちなみに歴史書だと思った本書は遺伝論文だった)
と、侍女に手伝ってもらいながらその本や家系図を広げ、更には隣国の慣習も歴史書も用意して、私はお父様に拙いながらも反論した。
小一時間かけて熱意を込めて、『私の妹は不義の子でも忌み子でもない』ことを。
「―――お父様、わかってくれた?」
「………ああ、よく分かった」
上手く説明できただろうか、と不安で聞いた私の言葉へ、お父様は返してくれた。わかった、と。
よかったと喜んで私が笑うと、お父様から空虚な笑みが返ってきた。
「私の姫に、余計なことを言ったのは、誰?」
ぞわり、と肌が粟立つ。今までの説明を、私自身の言葉として受け取ってもらえていない?
虚無感に足元が崩れ落ちそうだったが、踏ん張る。
こうしている間も、妹は別棟に閉じ込められているのだ。お母様は妹を守って出られないから、私が頑張らなくちゃ。
―――そう、私は姉になったのだから、妹を守らなくちゃ。
「いいえ!私が調べて考えたことなの!お願いお父様」
どうかわかって、と続けようとした言葉が口の中に消える。それほど冷えた目を、父がしていた。
「私の可愛い娘が、忌み子を庇うわけがない」
それは拒絶だった。……そして気付く。彼が、私の外側しか必要ではないということを。
彼にとって重要なのは『誰にも謗りを受けることのない美しい妻と娘』であり、『弁明をしなければならない娘は不要』であるのだ。
それまで感じていたはずの暖かな愛情も優しい記憶も、全てが中身のない箱に置き換わる。
そしてそれは、今私の目の前にあって、あと一言私が踏み込めば、ぐしゃぐしゃに潰されるだろう。
―――簡単に、無残に、容赦なく。
「な、んでも、ありませんでし、た。ごめんなさい、おとうさま」
「……良いんだよ、シャーロット」
美しく笑う彼へ、自慢だった父へ、もう上手く笑い返すことは出来ない気がした。
※※※※
「―――おい、聞いているのか!」
ふいに怒鳴り声が至近距離からして、我に返る。
目の前には怒る公爵、そして泣きはらした妹。……ああ、そうだった、騒動の最中だった。
私はただ、婚約破棄されたアリーシャを慰めようとしただけなのに。
あの父との苦い記憶から、私なりに懸命に妹を救おうとした。
……え?妹だけかって?
母親はなんと驚くべきことに、妹にすべてを押し付けて、父に縋りついたのだ。
悪魔が来て無理強いして出来た子だの悍ましい闇の気配に同じ部屋に居られないだのと、この母の腹から出てきたことを後悔しそうなくらい、愚かな妄言だった。
そうして勝ち得た本館で、久しぶりに会った彼女は、酷く卑屈な目で私に笑いかけた。
ぐしゃり、と箱がつぶれる音が聞こえて。
―――その瞬間、私は優しくて暖かなお母様を永遠に失った。
「そうやって、涙の一つでも浮かべれば、誰でも言いなりになるとでも思っているのだろうが、私には無駄だ」
「何を言っているんだ!こんな無粋な男に怒鳴られてこんなに怯えて可哀そうに……貴様ら、シャーロットに早く謝罪しろ!」
なんともずれた会話をしているものだ。ああ、まだいたのか殿下も。
因みにこの涙は昨晩遅くまで起きていたせいで出た、かみ殺したあくびによるものだ。
だから、どちらも的外れである。
そうなのだ。公爵の態度は例外中の例外で、大抵の人は殿下のようになる。
私が何か言う前に、私の意思を捻じ曲げて、彼らは自分の理想通りの考えを私がするものだと、勝手に決めつけて押し付けてくる。
さも私がそうしてくれと頼んだと言わんばかりに。
最初は、私だって言葉を尽くして伝えようとした。
私は妹を守りたい、幸せになって欲しい、酷いことをしないで欲しい、と。
すると決まって彼らはこう返す、「あなたの為だ」と。
酷い人になると、「あの妹が言わせているのか」と顔を歪め、妹へのいじめが加速した。
―――冗談ではない。
妹へ暴言を吐き、食事を腐らせ、病を放置する、それのどこが私の為になるというんだ。
彼らは只、私を隠れ蓑に、醜い己を隠したいだけ。
ただ容姿がいいからと私を勝手に『善』だと思い込んで、その私の両親に流されて、『悪』とされた妹なら何をしてもいいと、くだらない正義感に酔いしれているだけだ。
捻じ曲げられる言葉なら言うのを止めようかとも思ったが、それでは妹を守れない。
だから、彼らに耳障りの良い言葉使いで、慎重に丁寧に伝えてきた。
聖女のようだと言う、だから決して声を荒げず誰に対しても丁寧な言葉で接するようにした。
妖精のようだと言う、だから政治や金や欲望など知らぬと、浮世離れした話しかしないようにした。
そうした私の努力によって、少しずつ妹を守れるようになった。
妹の出生届すら出さなかった両親失格な二人に代わって執事長に届け出をさせたし、無知を装って妹の食事を口にすることで最低限のものを出させることが出来た。
……それにしても、人ひとりを育てるというのは大変なものだったなぁ。
食事や着るものがあればよいわけではない。言葉巧みに教師を用意し、普通に世話をしてくれる侍女を見つけ、暗殺されぬよう仕事熱心な護衛を付けた。
妹が、アリーシャが、大勢の悪意にさらされぬよう、細心の注意を払って。
「お姉様の影で、私はいつだって惨めだった。先生も侍女も護衛も、みんなお姉様に言われたから私に接しているだけだって、そうでなければ私に何もしないと、そう言われ続けてきたわ」
頑張って守ってきたはずの妹から、恨みの篭った声と目で、そう言われる。
……そのあたりは許して欲しい。当時の幼い私に伝手などなく、善良な人があの両親に寄って来るはずもなく、その中でも少しでもマシな人に声を掛けるしかなかったのだ。
―――だが、なんて言えばいい?
そんな教師でも、いなければ無教養だと馬鹿にされ、両親に放り出されるところだと?
そんな侍女でも、いなければ三食用意されず、飢え死にするところだと?
そんな護衛でも、いなければ両親や自称私の信奉者に暗殺されるところだと?
常時酷い言葉を言われ続けるアリーシャに、わざわざ実の両親に殺されそうだと、欠片も愛されていないと、重ねて言うなんて私には出来ない。
――だから、憎まれているのはわかっていても、何も言えなかった。だけど。
「だけど、あの人だけは!彼だけは味方だと思っていたのに、それさえもお姉様は奪っていった!」
限界だ。聖女のような笑みを作ることすら難しくて、口元を扇で隠す。
「お姉様と、お姉様と結婚したいから婚約を破棄してくれと!その上、優しくしたのも贈り物も何もかもお姉様に言われてやっていたと!言われた私の惨めさがわかる!?」
私は、どうしたらよかったんだろうか。
目を瞑って、アリーシャへかける言葉を探すけれど、もう私の中には見つけられない。
「お前みたいな惨めな女と聖女のように優しく美しいシャーロットと、どちらと結婚したいかなど、一目瞭然ではないか。逆恨みも甚だしい」
頼んでもいないのに、殿下はしたり顔で妹を侮辱する。
王族だからと、私はまだ我慢を重ねなければならないのだろうか。
「妹の婚約者に媚を売って密会していた女が、聖女だって?笑わせるな」
「公爵、口が過ぎるぞ!密会など、そんなもの、シャーロットの美しさに惑わされた奴が無理強いたに決まっている!」
「……るさ……」
「はっ!彼女の方から休憩室へ誘ったと、目撃した者がいるのだ」
「そんな……お姉様……」
「シャーロットからだと?無垢な彼女がそんなふしだらなことをするものか!」
―――ああもう、無理。
「うるさい、黙れ」
「「「……は?」」」
白熱していた部屋の空気が、凍り付く。
思わず出た本音と繕うことのない声は、生まれてから今まで、出したことのない程低くて乱暴だった。
人間と言うものは、驚き過ぎると本当に目を白黒させるものなのだなと、殿下を見て思う。
そんな空気の中、いち早く立ち直った公爵が、忌々し気に吐き捨てた。
「やはり本性を現したかっ」
「だから、うるさい。無関係な人間が、何故ここに居るんだ」
「……彼女を貴様から守るために決まっているだろう」
「は?私の何からだ?先触れも出さない非常識人が」
「常識通りに動いている場合ではない。守るのは貴様の悪意からだ。アリーシャを苦しめるために婚約者を奪い、それを彼女に突き付けていたぶるつもりだったろうがそうはいかない」
きっぱりと言うその彼の目は、自身の正しさに燃えていた。
ちらりとアリーシャを見ると、私の言葉使いに呆然としているものの、公爵の言葉に異論や驚きはないようだ。
……そうか、妹からはそう思われていたのか。
―――すべてが、虚しくなった。
私は天才じゃない。
だから、アリーシャの肉体を守るのが精一杯で心まで守れなかった。
だから、周囲に悟られないように私が味方だと伝える術なんてなかった。
はあ、と溜息を吐いた。ため込んだ全部を吐き出せそうなくらい、深く。
そうして、私は妹を傷つけまいとすることを、止めた。
「元からアイツはアリーシャの盾だ、両親からのな」
「「は?」」
「婚約者という外の目を置かないと、アイツらはアリーシャを殺すからな。護衛一人じゃ足りない」
それで期限付きで婚約者という名で雇ったに過ぎない、そう告げると、妹は糸が切れたようにストンと、その場で座り込んだ。
そのアリーシャを庇うように、公爵は私を睨む。
「アリーシャの前でなんということをっ!?」
と言うってことは、公爵も知ってたわけか、あの両親が妹をどう扱おうとしていたか。
ふと、それほどまでに頭の良い、権力もある公爵には、私の拙い努力などお見通しじゃないのかと疑問に思った。
妹の婚約者の真実も、私が妹を守り続けてきた事実も。
公爵の、黒色の目の奥を覗きこむ。
―――暗くて淀んだ、黒い影が奥底にちらりと見えた。……ああ、なんだそういうことか。
「……きもちわる」
心の底からの軽蔑を込めて、公爵へ吐き捨てると、彼はすっと目を細めて口を開こうとした。
「シオン様に、失礼なことを言わないでっ!」
座り込んでいたアリーシャが勢いよく立ち上がり、声を張って私をなじる。
「彼の黒色の目は、不吉でも気持ち悪くもないっ!綺麗な黒よ!」
「アリーシャ……」
感動したように零す公爵と、許さないとばかりにこちらを睨みつけるアリーシャ。
その二人をみて、違う誤解をされたことに気付く。まあ、気付いても、私にはどうということでもないが。
「………ああ、黒い目?それはなんとも思ってないが」
吐き気を堪えて、公爵の目を改めて探る。
独占欲、自己欺瞞、独善、征服欲―――私の周りではよく見る、ありふれた感情だ。
「気持ち悪いのは、ソイツの魂胆だ」
何を言うのかと警戒する公爵を鼻で笑い、怒るか戸惑うかを選べず狼狽えるアリーシャに向かって遠慮なく言う。
「両親の殺意も、アリーシャの婚約者の嘘も、私がアリーシャを守ってきたことも、ぜーんぶ知ってて、それでも自分に依存させるためにそれをアリーシャに黙ってる、その腹が気持ち悪いだけだ」
「――言いがかりも、甚だしい。何を根拠にそのようなことを」
「別に、根拠など示す必要などない。私は、もう、信じて貰いたいわけではないからな」
「――ぅそだ」
隣から、微かなうめき声のような言葉が聞こえる。
……そういえば、放置していたが第二王子がいたな。本当になんで私の家にいるんだろうな。
確か、私に婚約者が居ないのは、この第二王子を筆頭に公爵侯爵がよく解らない『シャーロットを守る会』なんぞを立ち上げて邪魔しているからで……。
こんなところに居ることといい、一体彼は何がしたいんだろうか。
冷めた目で第二王子を眺めていると、王子然とした端正な顔を歪めて叫び出した。
「うそだうそだ!!シャーロットが、私の天使が!こんな、乱暴な、下賤な言葉を、言うはずが――」
―――ゴキャ
あまりにもうるさく喚いたので、思わず顎を殴ってしまった。
殴られた勢いのまま綺麗な弧を描いて、ふかふかの床へ沈んでいく第二王子。…そう、第二王子。
―――これは、良い考えを、思いついた。
「あーしまったー、だいにおうじさまを、なぐってしまったー。なんてことー不敬罪だわー」
あっけにとられる奴と妹の前で、気絶した王子の懐を探る。
やはり、あった。何用かは知らないが、ちらりと鞘から抜けば、随分と切れ味のよさそうなナイフが。
「……貴様、何をする気だ。まさか、我らに危害を」
「自惚れが過ぎるって言われないか、あんた」
言外に『危害を加えるほどの関心なんぞない』と滲ませつつ、作法も言葉もぶち切ると、公爵は虫でも飲み込んだような顔をして黙った。
それに構わず、ナイフの鞘を払う。……あ、その前に。
状況について行けなさそうなアリーシャに、視線を合わせる。
「餞別として、言葉を贈るよ。アリーシャ」
「―――せん、べつ?」
ああ、と私自身の笑みを浮かべると、若干妹に引かれた。
曰く、釘で引っ張られたような歪んだ口元に細い目のその顔は、その前との落差が激しすぎて視覚がおかしくなるらしい。
だが、楽なものはしょうがない。これからは諦めろ、これを見ることになる私の周りの人間よ。
「これから、この家に味方はいなくなる。アリーシャがどう認識していようとも、な。
そこの変態公爵に囲われてもいい。箱庭の人生を選ぶのも、まぁ私はごめんだが、幸せは人それぞれだからな。
だが、姉として妹への最後の言葉だ。
―――疑え」
「……え」
零れ落ちそうな程、アリーシャがその黒い目を見開く。
オニキスのような艶やかなその色合いが綺麗だと思っていたことを、私は一度も言えなかったから、アリーシャはそれを知らない。
……それでも、私は一度だってアリーシャから目を逸らしたり、その黒色を蔑んだことなどなかった。それに気付いて貰いたかったこの気持ちは、我が儘だったのだろうか。
軽く目を閉じて、少しだけ、妹を思う。そして、ゆっくり目を開くと、真っ直ぐアリーシャのその目を見返した。
「大抵の人間は、汚くて自分勝手でどうしようもないんだ。他人よりも自分が大事で、自分を変えるより他人を変えたがる生き物なんだ。そっちの方が、楽だからな。
だから、その人を信じる前に、疑え。何のためにそう言うのか、何があってそうするのか、何をもってそう考えるのか、常に裏を見ろ。
自分をどう変えさせたがっているのか、自分に何をさせたがっているのか、自分に何を求めているのか、常に思考を辿れ。
私は、ずっとそうしてきた」
「おねえ、さま……?」
呆然とするアリーシャを、隣の公爵が聞くなとばかりに抱きしめる。いやだから、妹は未婚の娘なんだけれど。
―――だが、それももう、関係のないことだ。彼女は、私が守るべき妹ではなくなるのだから。
……さて、最後の餞も贈った。彼女の為にだけ残っていた此処にはもう、何の未練も執着もない。
長い髪を無造作に掴み、思い切りよくナイフでバサリと切った。―――視界の端に、金糸が揺れる。
「お、お姉様っ!!」「何をっ!?」
狼狽える二人の足元へ、切った髪を放る。
白金色の髪が陽の光を反射しながら、ふわりと舞い落ちた。
……大分散らばってしまったが、まあいいだろう。
「これで、説明しておいてくれ。公爵、あんたなら『王子に不敬を働いて自害』でも何でも、都合の良い嘘を作れるだろう?」
「お姉様……?い、一体何を?」
彼女には伝わらなかったが、公爵には私の意図が伝わったようだ。
戸惑いが一瞬現れて、恐らく疑う方に傾いたのだろう、敵愾心をむき出しにして彼は顔をしかめる。
「貴様は、魔術も体術も護身術の域から出ていないはずだ。そんな身で庇護なく出ていけば、たちまち路上で死体となるぞ」
世間知らずのお嬢様を脅すように、公爵がのたまう。
床に伸びてる王子は、油断も油断、相手の動揺と過信が重なって起きた、単なる奇跡だ。
常にこんな奇跡が起きることがないことくらい、私が一番よく知っている。だが。
「―――それが、どうした」
堂々と、胸を張って言い返す。
私のその態度に怯んだ奴を鼻で笑い、返事など待たずに続ける。
「私以外の人間になって生きるより、一歩踏み出たその場で私として殺される方がいい。
―――ま、そうやすやすと、死んでやるつもりもないがな」
ああ、なんて爽快なんだろうか。
相手の意に反することを、ありのままを口に出すなんて、実に甘美な自由だ。
絶句する公爵を尻目に、ツカツカと大股でテラス窓へ向かう。
勢い良く窓を開け放つと、外気が一気に室内へなだれ込み、軽くなった髪を揺らした。
―――長いこの髪が、嫌いだった。
褒めちぎられ切ってはいけないと丁寧に手入れされた髪、女神に似せて整えられ崩してはいけないと言われた髪、崇拝していると口では言えど欲望を込めて触れられ続けた髪。
私の一部の筈なのにままならなず、私以外の誰かを重ねられ、触れられる先から切り落としたかった。
だが、それももう終わり。
これからは好きな長さに髪を切って、好きな髪型にして、触れられる前に手を叩き落とせる。他の、何もかも、自分で決めることが出来る。
清々しい気持ちで、駆けだしていく。
後ろから聞こえる喚き声を無視して、長いスカートの裾を捌き垣根を飛び越える。
見上げた空は、どこまでも飛んでいけそうな程、青く高く広がっていた。
※※※※
※お読みくださりありがとうございます!