第15R 僚馬の友
夏だ!競馬だ!夏競馬だ!! のため初投稿です。
ダービーも宝塚も帝王賞もダートダービーも楽しかったですね。今年は新馬戦や地方重賞なんかも、これまた楽しく見ています。競馬にハマってから毎週過ぎるのがが早い。
繁忙期真っ最中の中なんとか仕上げました、今回もお楽しみいただけたら幸いです。
中央競馬が開催されるのは、週末。大概が土曜と、日曜日である。年末になるとまた少し変わってくるが、競馬の開催日に関しては一般人だって知っている。
さて、GⅠレースを週末に控えた水曜日。調教師や助手たちの目は厳しく、ぎらぎらと熱い闘志で燃え上がっている。競走馬たちもどことなく、そわそわとした動きで歩き、輪乗りをこなしていく。
──今週末は有馬記念。美浦トレーニングセンター、その最終追い切りの計測日であった。
「有馬記念かあ……」
ぽつり、ともれたその呟きにいち早く反応したのは、我らが無敗のお坊ちゃまこと、ヨサリオーロである。寝藁を口先で玩びながら、ふんふんと鼻を鳴らして、馬房の掃除をしていた彰のもとに近寄ってくる。
「ふひん?」
「んー?なんだ、ヨサリも気になる?」
「ぶふふん……?」
厩舎の外では、カメラを持った記者たちが忙しなく歩き回っている。凍えそうな寒さの中で、確かな熱気が美浦トレセンに満ち満ちていくのを、彰は感じ取っていた。
ヘイキューブで汚れた口先を拭いてやると、甘えるような声をあげて頭を擦りつけてくる。今日も青鹿毛の毛艶はぴかぴかで、まるでビロードのようになめらかな光沢を放っている──もっとも、今は寝藁を身体中あちこちに引っ掛けた、かなりやんちゃかつワイルドなスタイルであるのだが。
有馬記念。それは、日本ダービーと並び立つ年末の一大レース。中山競馬場で行われるそれは、投票で選ばれた現役競走馬たちによる夢のグランプリレースだ。夏に開催される宝塚記念と同様だが、その年の集大成であるからか、ホースマンや競馬ファンによる有馬記念の熱量はすさまじい。
ヨサリオーロが所属している、美浦・中丸厩舎からも一頭が出走予定だ。GⅠ・天皇賞秋を制したばかりの白毛馬、アマノカグヤマ。その鞍上は前走に引き続き、我らがリーディングジョッキーこと高伊空太である。アマノカグヤマの引退レースも兼ねたそれに、空太はかなり入れ込んでいるらしかった。毎日のように跨っているヨサリオーロに、今日ばかりは乗ることができないとのことである。しかもその代わりに、わざわざ調教師の中丸が騎乗予定である、とも。
だとしてもなお、ただの二歳馬に対してはあり得ない好待遇だ。話を聞いた彰は思わず、豆鉄砲を食らった鳩のように目を丸くして見せたのだった。
「中丸先生が乗ってくれるだなんて相当だぞ、ヨサリ」
「ふひーん」
そうでしょうそうでしょう、と言いたげに鼻を伸ばすヨサリオーロ。楽観的な当馬と引き換えに、彰は若干の不安に駆られていた。なぜならば──ヨサリオーロが併走を上手いこと最後までこなせた記憶が、彰の脳内にこれっぽっちも存在しないからである。
附田競馬の時も、隣に僚馬を並ばせてみれば、指示を無視してぐんと加速し相手を突き放す。それならばと三頭でそれを行えば、明らかにやる気をなくした様子で、走り始める前からのろのろとダートをお散歩するばかり。担当調教師だった工藤もこれにはお手上げで、無理に走らせて怪我なんかをさせるよりかは、という考えに収まったらしい。ひたすら単走を繰り返し行う方が、ヨサリオーロの精神的にも効率的にも、結果だけを見れば都合が良かったようである。
「そうよ。この私が乗るんだから、今回ばかりはヨサリちゃんに好き勝手させないんだからね!」
「……あ、中丸先生。おはようございます」
「おはよう!改めて、今日はよろしくね」
ひょこりと顔を出したのは、調教師の中丸であった。ヨサリオーロも警戒することなく、ぴこぴこと鼻を動かしながら近づいていく。勢いづけて中丸が顔を撫でると、ふわふわとした毛が残る耳がゆったりと横向きに倒れていった。
「ふひゅ~ん……」
「あーらら、寝ちゃうぞ、寝ちゃうぞヨサリちゃ~ん。これから走るのに寝ちゃうだなんて悪い子め!おうここか、ここがええんか!」
「ふひ、ふひっ……」
すっかり仲を深めたらしい一人と一頭を眺め、彰は思わずにんまりと笑みをこぼす。馬との信頼関係を築くには、もちろん個体差にもよるだろうが、大抵長い時間がかかる。ヨサリオーロが調教師である中丸を認め、撫でることを許している時点でそれらは上々であるように思え、彰はほっと一息つけたのだった。
ぴろぴろと唇を弄ばれるヨサリオーロは、落ちてくる瞼と必死に戦っている。
「っよし!じゃあ彰ちゃん、私支度してくるわね」
「あっ、はい。よろしくお願いします」
「は~い、装鞍だけよろしく~」
そう言うと中村は、他の馬たちの頭を撫でながら──撫でられた馬たちのうっとりとした表情を都度確認したうえで──、一度厩舎を出て行った。
こうなれば、あとは時間との勝負だ。どれだけ手早く、どれだけ丁寧に仕事をこなせるか。よし、と気合を入れて、まずは眠りかけているヨサリオーロの身だしなみを整えることから始めた。夢うつつなヨサリオーロをなんとか起こし、肩に力をかけて足をあげさせる。蹄、蹄鉄、問題なし。脚を触ってみる、熱発なし。体温計を差し込むとびくりと身体を震わせたが、それも慣れているからかなんなく終わる。三十七台、いつもとなんら変わりなく、平熱。
藁が絡まったたてがみを梳かしていると、なぜだか隣の馬房から鋭い舌打ちが飛んできた。
これまたひょっこりと隣から顔を覗かせる芦毛の馬、フワ。舌打ちをしたその正体は、フワの担当厩務員である星七であった。地を這うように呟かれたそれは、端々からあからさまな苛立ちを感じさせた。彰は困り顔半分、愛想笑い半分の表情を浮かべて、被っていた帽子を軽く浮かせる。
「おはようございます、星七さん」
「……名前で呼ぶなって言ってるでしょ」
「あ、いやあ……ちょっと、それも個人的な都合が……」
しどろもどろな答えに返されたのは、凍てほどの冷たい視線である。嫌っている相手から名前で呼ばれたら、そりゃこうもなるだろうと言った具合だ。
今川星七。それが彼女のフルネーム。そして偶然も甚だしいことに、その名字は彰が以前付き合っていた彼女と同じものであったのだ。
『──そもそもアンタだって、その牧場継ぐのが嫌で都会に出てきたクチでしょ?今更何いい子ぶってんのよ、キモイんだけど』
そう、彰の実家である牧場をばっさりと言葉のナイフで切り捨てた、あの彼女である。
フラッシュバックするカフェでの一幕。荒くなる呼吸に倦怠感、そしてどんどん青褪める肌色は生ける屍の如し。笑い話になりきれないそれを聞いた空太やひかるに至っては、元彼女を「例のあの人」呼ばわりである。
美しく整えられた爪に、長く巻かれた髪。品の良い小さな鞄。思い出すだけで彰の中では背筋が震えるほどの苦手意識がすっかり完成。ひんひんと鳴くヨサリオーロに甘えて、しばらくは首元に顔をうずめさせてもらう羽目になる。
そんなわけで、必然的に星七のことは下の名前で呼ぶことになってしまった。
「いい加減にしないと、セクハラであなたを訴えたっていいんですよ」
「……今後一切お名前をお呼びしませんので、お許し願いたいです」
「……分かれば、いいんです」
それでもなお、不満そうな顔つきで鼻を鳴らす星七。ざくざく、と小気味よい音を立てて、馬房に敷かれた寝藁の一部を回収していく。それ以上の会話を続ける気もないらしく、彰は大人しく自分のやるべき仕事に戻った。
「あの」
「あ、はい……えっと、なんでしょう」
じとりとした視線が背中に刺さる。思わず振り返ると、未だに顔を顰めた星七がヨサリオーロの馬房の前に立っていた。頭絡やゼッケンなど、調教に必要な馬具を一通り手に持っている。
「これ、使うんじゃないんですか」
「あっ」
急いで、それらを受け取る。ゼッケンや鞍など全て抱えれば、ずっしりとした重さが手に伝わってくる。
「……ありがとうございます」
星七は最後に、ヨサリオーロの頭絡をこちらに手渡した。艶を持った焦げ茶色の革に、月のように黄色いアクセントを付けたデザインのものだ。最後のそれを受け取ろうと、彰が手を伸ばした瞬間だった。
ハミに留められている長い手綱が、一瞬ふわりと宙を舞う。ぼんやりとした目線だけでそれを追っていると、突如として訪れた首の痛みと共に、彰はぐんッと身体を大きくしならせた。やけどのようなひりつく熱さと、衝撃と、細く苦しくなる己の喉の狭さを、一瞬にして全てを感じ取った。
「っぐう……!?」
驚き、思わず呻き声が口から漏れる。そして、それは良くも悪くも一瞬の出来事だった。
彰の首元を締め付けていた手綱はすぐに緩まり、重力に従って解かれて相手の手の内に戻っていく。ちょっと勢いをつけすぎて引っかけてしまった、と言えば逃れられるほどには、あっという間の出来事であった。
もちろんそれをやったのは、星七だった。まさに一触即発の雰囲気を携えて、ぎちりと細い手を震わせながら、つい先ほどまで彰の命を握っていた手綱を弄ぶ。
「あら、手元が狂いました」
それを聞いた彰はつい、相手を睨み返してしまった。喉の皮膚はじりじりと熱を持って痛んでいる、滑らかな革で出来ているとはいえ、一部の目の粗い布が喉を擦って赤くなっているに違いない、と思った。未だ細いままの気管でなんとか呼吸を繰り返しながら、必死に己の中に眠る冷静さを手繰り寄せる。
「…………そう、ですか」
「ですが、調子に乗っている方に対しては良い薬ですよね?」
「あの……私はなにか、あなたにしましたか?」
そう訊ねたのが、よくなかった。星七は目にぐっと力を入れて、白い歯をぎちりと不快な音と共に噛み締めていた。真正面から身長の高い彰を、射殺すかのような鋭い視線で見つめている。
「お前がっ!会津厩舎に喧嘩を売ったんでしょう。話は全部流れてきてますよ」
「いや、それは……」
「おかげでうざったらしい記者どもが、厩舎の周りでうじゃうじゃと……それも、中丸先生が直接断らないと引き下がらないくらい、悪質で執念深い奴らばかりで……!」
会津厩舎。聞き覚えのある名前だと思えば、それは先日中丸厩舎に訪れた不遜な人物──ホープフルステークスでのライバルとなるジョッキー、梅村の所属する厩舎である、と気付いた。宣戦布告をしに来た彼の声は存外大きく、周りを通りすがる記者たちにも丸聞こえであったらしい。
厩舎の周りをたむろする一部の粘着質な記者たちは、沸点の低い星七へ怒りの火種を投げ込むのに十分な働きをしたようだった。
なるほどな、と。喉元をさすった彰は、彼女の怒りの訳をようやく理解した。そして、頷きながら、比較的冷静な声色でこう答える。
「中丸先生には、悪いことをしてしまいました」
「そうです、だからあんたには……」
「でも、だからなんだというんでしょうか?」
「──は?」
思わず、といった口ぶりで星七は母音を漏らした。不安さが付きまとった細身の男は、今度は困った顔をして笑っている。あたかも、それが当たり前であるような雰囲気を携えて、彰はへにゃりと眉を下げながら星七を見ていた。
「喧嘩を吹っ掛けてきた相手には、相応の態度でお相手しなくちゃいけませんよね?もしここで下手に出たとして、中丸厩舎が弱気だと騒がれたら、私はもっと悪いことをしてしまう羽目になるので」
それを聞いて、星七ははくはくと口を鯉のように開け閉めするばかりだ。呆れか、それとも相手の発言を理解しきれないからか、反論するために張り上げかけた彼女の声は、すっかり消え失せてしまっていた。
『──うちのキララアバンティは、ヨサリオーロよりももっと、ずっと強いですよ』
満ちた自信と威嚇をはらんだ、梅村の声が彰の脳内をリフレインする。しかし、ヨサリオーロだって、うちの空太だって、負けてはいないと思った。お手柔らかにと返すのではなく、正々堂々と戦う相手として、こちらも宣戦布告ぐらいしておくべきだ、と。彼はそう思っただけである。
彰は気付いていなかったが、彼自身に宿った負けず嫌いな根性は、少しばかり他人よりも並外れていた。それはあの過酷な競馬学校時代を過ごすことによって育まれたものではあったが、それ以前に、どうしようもなく彰の性格そのものだったのだ。
陰口を叩く相手を、真正面から自らの功績をもってして叩き潰す。馬主初心者とみて群がってきた者共を、これでもかと言わんばかりの謙遜と宣戦布告で黙らせる。
競走馬、ヨサリオーロ号は言わずと知れた負けず嫌いだ。そして、それを育ててきた須和彰という男は、それ以上に無自覚の負けず嫌いが祟った、一見すると分からないのがタチの悪い人間だったのである。
彰はうっすらと赤い、紐上の痕が残ってしまった首を撫でて、へらりと人の良さそうな笑みを浮かべる。
「それでも……中丸先生と、他の皆さまには謝らなくちゃだめですね。教えてくれてありがとうございます」
「──ッこの……!」
星七の手が大きく降り被さった。彰はそれを止めようかと思考したものの、止めた方が面倒なことになるのだろうな、と察しがついていた。一種の諦めをもってして、ぐ、と黙って目を閉じる。
バシン!という乾いた音が響いた。
しかし星七が振り上げた右手は降ろされることなく、中途半端な位置で止まってしまっている。音の正体に驚いた星七は、え、と母音をもらしながら目を見開いていた。
「──ぶるるっ!」
ヨサリオーロが、不機嫌さを表に出しながら鼻を鳴らす。彰と星七の間に割り込んだヨサリオーロは、美しく切り揃えられた長い尾を用いて、強かに星七の脚を打ったのだ。
馬房で騒がれて、苛立ちのあまり蹴るわけでもない。噛みつきにいくわけでもない。ただヨサリオーロは、相手の行動を窘めるかのように、相手に対して自らの尾を振るっていたのである。
──そしてそれは、彰にも同様に。
「ぶふん!」
「あいった!ごめん、ごめんって、騒いで悪かった!」
「ふひひん!」
「分かったって!もう喧嘩しないから!」
星七はそれに目を見開いて、再びぎりりと歯を食いしばった。
今の会話が、彼にとってはちょっとした喧嘩でしかないのだ、と気付かされたからであった。
「……っ!後悔、しても……しらないから!」
「あっ、ちょっと……!」
星七は足を大きく振り上げて、寝藁を彰に向かってけしかけた。引き留めようとした彰の顔面にそれらは直撃し、その隙に駆け足で馬房から逃げ出す。頭に引っ掛かった藁を指先で除けながら、彰は遠のく彼女の背中を視線で追いかけることしかできなかった。
「ふひん……」
「……なんか、申し訳ないね。ごめんね、ヨサリ」
「ぶしゅんっ」
開け放たれた扉から、冬の冷気が忍び寄ってくる。くしゃみを一つしたヨサリオーロの鼻面をわしゃわしゃと撫でる、少し赤くなった首元に、大きな頭が擦りつけられた。
そして、ヨサリオーロの耳は、器用にも片方だけ別方向を向いていたのに、彰は気が付かなかった。
厩舎の出入り口、内側からは陰となって見えない場所。扉に背を持たれて、腕を組み、悩ましい表情で額を揉んでいる。中で準備を進める彰には聞こえないよう、ひっそりとした音量でため息が吐かれる。
「……こっちも、なんとかしなくちゃだめかあ」
金色の長い髪を人差し指に巻き付けて、中丸はすっかり肩を落としていた。
鉛色の重い雲は、冷たい風は、今にも荒れ始めそうな雰囲気を伴って、そこにいる。
*
競走馬たちは、つい、と首を上げた。複数の馬たちが脚を止め、乗り手たちは何があったかと首を傾げる。そして、彼らの視線の先を辿ったうえで、「ああ、そうか」と納得の声をあげるのだ。
「──すごい仕上がりだな、アマノカグヤマ」
どこからか、そんな呟きが風の音に紛れて聞こえた気がした。
芦毛とは異なる、混じりなく白一色の馬体。艶やかなベルベッド生地のような毛並みは、朝に差し込む僅かな太陽光を携えてぴかりと光る。ピンク色の鼻先は機嫌よく、もごもごと動いている。その上に乗るのは、誰もが認める日本の名若手ジョッキーだった。
「空太!」
かちゃ、とゴーグルを外す音。切れ長の目が声のした方向を向くと、ぱっと表情が明るくなった。アマノカグヤマの隣で手綱を引く厩務員も、どこかほっとした様子で小さく頷いている。
「随分と遅い到着じゃあないか?中丸先生」
「はいはい、そりゃ悪かったわね」
「寒空の下、何時間待たされるかと思ったもんなあ?アマノ」
ぶひゅん、と。白い馬はどこか呆れたような雰囲気を持って返事をした。指の節々が赤くなり始めた手で首を撫でれば、アマノカグヤマはすっと姿勢を整えた。
均整の取れた体つきに、すらりと伸びた細い脚。トモの筋肉は著しく鍛え上げられ、まるで見本のような、近世的なスピードタイプの馬であることが分かった。彰はヨサリオーロを引きながら、思わず嘆息をもらして馬体を見つめている。
「ふひん!ぶひゅんっ!ぶるるるっ」
ヨサリオーロは、アマノカグヤマとは対照的と言えるだろう。青みがかった艶のある黒い毛並みに、まだまだこれからの成長を予感させる、少し小さな身体。長い尾はぱっつんと先がまっすぐに整えられて、感情的にそれが揺れている。
やる気の表れか、それとも親を取られた気分になったことによる嫉妬か。カツカツと前脚で地面を掻いたヨサリオーロは、まだ年若く、高い嘶きを上げた。
「ふひいぃん!」
「……ブルルッ」
対して、アマノカグヤマは冷静であった。ちらりとヨサリオーロを見やったかと思うと、もう既に視線は空を向いている。文字通り、視界に入っていないと言わんばかりである。
「ぶいぃぃん!ぶるっぶるるっ!」
「…………ぶふふん」
喧嘩を自ら吹っ掛ける後輩と、それを無視する先輩。こういう構図だ、と彰はどこか現実離れした光景をぼんやりと見つめていた。中丸やアマノカグヤマの厩務員は言い争いを止めることなく、面白そうな顔をしてそれを見つめている。どんな化学反応が起こるかな、と実験の結末を見守る科学者たちのような表情で。
「ヨサリが他の馬に興味を持つなんて、珍しい」
思わずそう呟くと、中丸はくっくと笑っていた。メンコとブリンカーを着けていたヨサリオーロの耳が、ピクリと動いて後ろ向きに倒れる。
「いい感じの刺激になってくれそうね」
「……それは、どちらの意味で?」
「もちろん、お互いに」
答えたのは、先日の調教でアワアワフワフワ号こと、我らのフワ号に乗っていた男性であった。中丸厩舎の調教助手、朝倉という名前の男である。少し伸びたひげを撫で、人の良さそうな顔付きで彰の肩を叩いた。
「よう兄ちゃん。手、空いてんだろ?ちょっと見て行けよ」
「ええと、はい、ぜひ」
彰がそう言うと、今度はアマノカグヤマに乗っていた空太が目を見開いた。そして、ヨサリオーロも彰の方を見やって、荒い鼻息を鳴らしている。ぶんぶんと首を大きく揺らすので、着けられたマルタンガールがガチャガチャと騒がしく音を立てた。
「有馬記念の一番人気、アマノカグヤマと、中丸厩舎の期待の二歳馬、ヨサリオーロ。どちらがどうなるかは分かり切ってるが、きっと面白いことになるだろうよ」
気合が乗ったヨサリオーロに対し、アマノカグヤマはどこか抜けたような様子で空を眺めている。時間も迫る中、二頭は美浦のWコースへと向かっていく。朝倉と呼ばれていた男性は、その後ろをついてくるように彰に呼びかけ、さっさと先を歩いて行った。彰も、さらにその後ろを追いかける。
「美浦のウッドチップは、二千メートル。昔より広くなった分スピードも出る。今日は先に出走するアマノカグヤマに合わせて、有馬記念と同じ右回りで走らせる。同じ中山を走るヨサリオーロにとっても都合がいいだろ」
「そうですね。前走は左回りだったので、助かると思います」
遠くを歩く二頭を指さす朝倉。白い馬体と漆黒の馬体は遠くからでも目立ち、どこにいるのか一目瞭然だ。それだけに、周りの視線も自然とそこに集まる。話をしていた周囲のホースマンたちも、興味深そうに首を伸ばして様子を見ているようだった。彰は、だんだんと跳ね始めた心臓のあたりをぎゅっと押さえる。ヨサリオーロが併せ馬をするところを見るのは、きっとこれが初めてだからだ。
「さあ、出るぞ。お前の息子がどう走るか、じっくり見ておけ」
朝倉の言葉と共に、二頭の後ろ足が勢いよく、ぱっと地面を蹴り上げた。
*
一度、空太に訊ねたことがある。ただ単に、興味本位で確認してみたというだけのものだ。
──GⅠ馬、アマノカグヤマと。期待の新生ヨサリオーロ。どちらの方が乗りやすいのか、という単純な質問だ。もちろん、アマノカグヤマは現在五歳で、ヨサリオーロは未だ二歳。気性や今までの競馬の経験を考えてみれば、比較対象とするには難しいということは分かっている。それでも、なんとなく、乗り手の意見を聞いてみたかったのだ。
そして空太は、あっけらかんとした様子でこう答えた。
「ジェットコースター、好きっすか?」
「ええ、まあ、好きだけど」
「俺も結構好きです、だからヨサリオーロに乗るのも好き」
それじゃあ、と、会話にワンテンポの間を作ってから再度口を開く。
「ジェットコースターと電気自動車だったら、どっちが好き?」
「……んー、比較対象が明らかに違うわね」
「そういうことです。アマノカグヤマは、ゲートが開けばすっとエンジンがかかって、そのままスーッと伸びる。静かな電気自動車に乗ってる感じで、乗りやすくて操作性も良いから好き。対してヨサリオーロは気まぐれで、気持ちが乗っていれば鞭一つでドカンと伸びる。ジェットコースターみたいにひやひやするけど、直線になれば風になったみたいで、これも好き」
「……あれ、結局、ヨサリオーロは乗りにくいってこと?」
確認の意味も込めてそう訊ねると、空太はにんまりと口元を歪めて、楽しそうに笑ってみせた。
「……乗ってみりゃ分かりますよ、乗ればね」
中丸は、あの言葉の意味が、今日ようやく理解できた気がしていた。
(──ああっもう!確かにこれは~~~っ!)
びゅん、とマルタンガールが揺れる音。びゅおお、と耳元で風を切る衝撃。そしてなにより、少しでも気を抜けば一瞬で全てが飛んでいってしまいそうな力強さ。外を回って駆けるヨサリオーロは、二色の目をぎりりと細めて限界まで脚を伸ばしていた。今にも持っていかれそうになりながら、中丸は懸命に手綱を押さえ、とにかくハミを効かせるべくして親指に力を入れ続ける。ヨサリオーロの内ラチ側、一馬身ほど離された後方には、まだまだ余裕そうな雰囲気のアマノカグヤマが控えていて、じっと視線をこちらに向けながらゆったりと追っている。
(ジェットコースターじゃなくて、どっちかというと……ああそう、大型トラックって感じ!?)
ジェットコースターは、速さの表現だと思っていた。しかしどうやら、勢いづけて下る際の重圧感のことを彼は言いたかったらしい。意志を持って走ろうとするヨサリオーロは、素人には手が付けられない。空太が、空太以外をヨサリオーロに乗らせようとしない理由が、遅ればせながらもここでようやく理解ができた。
(それなのに、あーもう……ヨサリちゃんに乗ってた時も、今も、余裕そうな顔しちゃってさ)
アマノカグヤマは未だ抑えたままで、鞍上の空太も涼しい表情だ。あと少し、あと半ハロンも走れば、ヨサリオーロの外を回ってこちらに追いつこうとし始めるだろう。ラストランとなる有馬記念を控えたアマノカグヤマは、そうすることで直線での叩き合いを制するイメージを掴むことができる。
しかし、それだけであれば併走相手はヨサリオーロでなくともよかった。中丸は、敢えてヨサリオーロを指名し、自分が乗ると言った。そうする必要があると、そう思ったからであった。
中丸の父は、三冠馬を支えた調教師であった。伝説としてその名を馳せ、空太の父親を乗せたその馬も、ヨサリオーロのように気性難で、暴れ馬で、すぐ人間や馬を蹴飛ばすような、デビューすら危ぶまれた馬であった。しかし中丸の父は、そんな気性の難しさを、無理矢理抑えつけるような真似はしなかった。
「……ヨサリちゃん、いーい?今日は、抜かされる恐怖を覚えなさい」
「ぶるるッ」
風切る速さの中、中丸は手綱を引きながらそう言い聞かせた。そろそろ仕掛け始めようと促した空太が、後ろから興味深そうにこちらを見つめている。
「ヨサリちゃんの後ろから、白い馬が追い付いて、追い抜いていくわ。でも、まだ追っちゃダメ」
「…………?」
「五秒で抜かされるよ、感じて。そら、いっち、に……」
待機していたアマノカグヤマが、ぐんっと勢いをつけて前に出た。ウッドチップを蹴り上げながら、ヨサリオーロの前に出るために加速を始める。ヨサリオーロはそれを認めて、同じように速度を上げようと首を下げるが、中丸の手は動かなかった。がっちりと手綱を握りしめ、スピードを維持したまま、追い抜くアマノカグヤマをただ見せ続ける。
「ぶるるるッ!」
「悔しいね、ヤだね。どうして追いつかせてくれないんだって思うでしょ」
ゴーグル越しに、中丸は視線をまっすぐに向けて睨みつけた。ヨサリオーロはそれに反応して、横を向きかけていた顔を元に戻す。
「追いつくのは、ココじゃないからだよ」
アマノカグヤマに乗っていた空太は、一瞬ちらりとこちらを見た。突き放そうとして、しかしそれでもヨサリオーロは突き放されず、ぴったり一馬身空けたまま食らいついてきているからだった。
「ヨサリちゃん、我慢だよ。貯めて、貯めて。貯め続けて。爆発的な追い込みをかけるには、速さと、体力と……何より、根性がなくちゃ!」
「ぶるるるるるッ……!」
中丸は再度、小さく秒数を数え始めた。実際に時計と見比べたら、その正確さに人は驚くだろう。体内時計の正確さは、ホースマンにとって必要不可欠だった。
「ほーら、もーちょい、さん、にー、いちっ──!」
軽く、背中を押す。それだけで、ヨサリオーロは勢いよく飛び出した。舌鼓も鞭も使わず、数秒培われた闘争心一つで、ぐわりと一気に差を詰めたのだ。それを横目に見た空太は、いかにも楽しそうに目を細め、笑っていた。
「アマノ、いいのか?年下に抜かされちゃうぞ」
「…………ぶるっ」
いかにも余裕そうな様子で、ぺろりと舌を出していたアマノカグヤマ。しかし空太が声を掛けると、明らかに目の色が変わった。ピッチ走法で駆けていたアマノカグヤマ、その脚が更に回転を速める。
「そらいけッ!」
「まぁだまだっ!」
じわりじわりと、二頭の姿が重なり合おうとする。しかし、次の瞬間にはまた半身分白い馬体が抜け出ている。三白眼気味の黒目と、透き通った水色の目がバチリと見合う。
「ぶるるッ」
「ぶるるるるぅッ!」
一瞬、火花が飛び散ったように思えた。視線が元に戻ったかと思うとぶつかるギリギリのところで競った二頭が脚を伸ばす。ぐんぐんと伸びて、差が縮まって、離されて──その繰り返しであったが、徐々に黒い馬体が僚馬との差を縮めていくのが目に見えた。しかし、Wコースの距離はどこまでもあるわけではなく、有限であった。
「──先着、アマノカグヤマ。大体四分の三馬身差ってとこだな」
比較的冷静に、遠くからそれを見ていた朝倉はそう言った。6F、79.8。ラスト1Fに至っては十一秒台にかかっていて、調子はすこぶる良さそうだ。朝倉は満足げに、コースを駆け抜けて身体から湯気を立ち昇らせる二頭を眺めていた。
「羨ましいだろ」
「…………はい」
朝倉は、小さな声が返ってきた方を見やった。彰が、帽子の下の陰になった目を爛々とさせている。頬に赤みが差し、どこか前のめりになった状態で二頭を見つめていた。きし、と朝倉が笑う。
「乗りたいんだろ」
「はい」
「分かるぜ、俺もそうだからな」
ホースマンとしては身長が高い朝倉が、感情の色を目ににじませながらそう答えた。
「競馬に、あの速さで乗ることができたら──どれだけいいだろうな」
朝倉はにかりと白い歯を見せた。目尻にしわが寄る。思わず握られていた彰の拳を見て、軽く肩を叩いた。
「行こうぜ。まさか、アマノカグヤマとほぼ着差を付けずに走り切るとはな……迎えに行って褒めてやれ。最初は落ち込むか、いじけるかするだろうがな。この後坂路でもって仕上げてくれるだろ」
「そうですね。ヨサリにとっても、今日の併走は必要な経験だと思います……たくさん褒めてあげないと」
遠くから見えるヨサリオーロは、じっと相手を見つめ続けている。何度か荒く鼻を鳴らし、桃色に染まりかけた白い馬体を持ったアマノカグヤマを、ぎんと下から睨みつけていた。前脚ががつがつと踏み鳴らされ、白い吐息がハミが噛まれた隙間から漏れだす。きっとヨサリオーロが持つ水色の瞳は、悔しさと対抗心の炎が燃え上がっているのだろう。
対してアマノカグヤマはいたって静かでいて、艶やかな黒い目でヨサリオーロを見つめ返す。
「…………ぶふふん」
確かにその時、彼は何かを言ったのだろう、しかしその意味は我々人間には理解出来かねることであった。しかしアマノカグヤマは小さく嘶くと、空太の指示に従って次のコースへと向かう。ふわりと風になびいた尾は、高く持ち上げられてご機嫌に揺れていた。
「ぶるるぅ!」
がつん!と蹄鉄が地面に触れて音を立てる。中丸はそっと首を愛撫して、遠のいてくアマノカグヤマを一緒になって見つめていた。満足そうな微笑みを浮かべて、深く長い息を吐く。
「ヨサリ!」
「ふひん!」
彰が声を掛けると、黒い馬体がぴくっと揺れた。スキップをするような小刻みな歩行で、ヨサリオーロは主人のもとへと駆け寄ってくる。その上から、中丸はひらひらと手を振っていた。短い時間であったとはいえ、白い肌は熱気だって赤く色づいている。
「ねえ彰ちゃん、今のすごくよかったよね、ね!」
「はいっ、見てました!まさかちゃんと、ヨサリオーロが併せ馬を出来るだなんて!えらいっ!」
「……あれぇ、驚くところそこぉ?」
首を傾げる中丸を見て、隣で腕を組んでいた朝倉が楽しそうに笑い声をあげた。その最中も、ふんふんと鼻を鳴らしたヨサリオーロが、彰の身体に顔を突っ込むようにして愛撫をねだる。三日月形の星が埋め込まれた額を大きく撫でると、冬毛が抜けてほわほわと風に乗って飛んでいった。顔を擦りつけてくるのは確かにかわいいが、気を抜けた彰の身体ごと吹き飛んでしまいそうな勢いである。
「ヨサリー」
「ふひん……ひん?」
「負けたね」
「ヒンッ!?」
違うの違うの、とでも言いたいのか、更に顔を押し付けてくるヨサリオーロ。彰はその態度が可笑しくなって、ついつい笑ってしまう。もはや押し返すような力加減で額を撫で返し、汗が乾き始めた首元を軽く叩いた。
「初めてだね、負けたのは。ちゃんと悔しかったかな」
ひんひん、と鳴き続けるヨサリオーロ。その声に、どこか悲しみの色がじんわりと混ざっていたことに、彰はちゃんと気付いていた。ヨサリオーロの頭ごと、ぎゅっと腕全体で抱きしめる。まだ熱は引かず、まるで炎を抱いているかのようだった。
中丸がちらりと時計を見やる。あと一分だけだよ、とそう目で訴えた。彰は小さく頷いて、ヨサリオーロを抱きしめた腕に、更に力を籠める。
「先輩の胸を借りたんだ、ちゃんと次に進むんだよ、ヨサリ」
ひぃん、と悲痛な嘶きが聞こえる。灰色の曇り空からは、白い綿雪がひらりと舞い始め、美浦の人間たちに本格的な冬を予感させていた。