第13R 百日草特別
スターズオンアースさん、川田将雅さん、桜花賞一着おめでとうございます。この先のクラシック戦線が楽しみで仕方がないので初投稿です。
冬の寒さ厳しい、東京競馬場。時計の針がぐるりと一周回るたび、そわそわと体が揺れ出す。別に、自分が走るわけでもないのに──そう言われても仕方ないが、それでも彰は、楽しみで楽しみで仕方がなかった。
東京第9R、1勝クラス。百日草特別。
そこが、愛息子ことヨサリオーロの、全国区に向けて初めてのお披露目となるからである。
「ワクワクだなあ、ヨサリ」
「ぶふふん?」
なになにー、と言いたげに声を返されるが、鼻先を撫でるとそれは満足げな嘶きへと変わる。彰とヨサリオーロはパドックへ向かうべく、装鞍所にて馬装を整えるところだった。近くには中丸調教師もいて、くすくすと笑いながらヨサリオーロの様子を見てくれていた。
「あんたたち、緊張とは無縁そうね」
「そんなことないですよ、なあ」
「ぶひゅん!」
「あっはは、ごめんごめん。でもさ、本当に……いつも通り、って感じだったからさ」
ヨサリオーロは見知らぬ場所に恐れ慄くこともなく、彰の傍に擦り寄って大人しく時が来るのを待っていた。チャカつくこともなく、きょろきょろと辺りを見回しこそしたものの、走り出そうなどという気概は一切ない。
彰はちょっと自慢げに、ヨサリオーロの鼻先を突っつきながら言った。
「そりゃそうですよ。俺たちは慣れてますから」
「……ああそっか、初めてだけど、初めてじゃないのね」
「そういうことです」
ヨサリオーロのデビューは早く、そしてコンスタントに出走を繰り返していた。中央競馬とは違い、田舎の中の田舎である附田競馬に所属していたこともあるだろう。それでも当時は、周りと比較すれば出走数は少ない方であると言えたのだが──こちらに来てみれば、その状況は少しばかり違ってくる。
中央競馬に初参戦。しかし場所が異なるとはいえ、既に地方では五戦五勝。勝ち鞍には二歳馬の地方重賞だってある。その有り余るほどの経験が、彰とヨサリオーロたちに余裕と自信を与えていた。
「本当に、経験の差はあんたたちの強味ねえ」
「場所が場所なので、井の中の蛙大海を知らず──と言われてしまえばそれまでですが。それでも、ヨサリオーロの強さは揺らぎませんから」
「ふひひん!」
「まったく大した男どもだこと!……なんだか私まで楽しみが増えてきちゃった!」
中丸はそう答えると、肩を上げてにんまりと笑った。長い髪がさらりと揺れて、白い歯と共にきらりと光る。その様子に思い当たる節があって、彰はずっと気になっていたことを問いかけた。
「中丸先生は……どうしてヨサリオーロの調教を請け負っていただけたんですか」
「えーなになに、真面目な話?」
「訊けるタイミングは今かな、と」
そうねえ、と中丸は考えるように口元へ手をやった。しばらく声をあげてから、答えがまとまったのかぱっと振り返って、彰に返事をする。
「やっぱり、面白そうだったからかな!」
「……面白そう、とは」
「調教師としての直感。ひらめき。この子のことを考えて仕事をする時、きっと楽しくなれるだろうなって。……もちろん、他の管理馬の仕事をしてる時だって楽しいわよ?」
ふふん、と艶めかしく笑みを口元に乗せて、中丸は目を細めた。通りすがる人々が、はっと息を飲んで中丸に視線を集わせる。対してヨサリオーロは飽き始めてきたのか、くわりと大きなあくびをこぼしていた。
「空太がこの話を持ってきた時、思ったの──うわ!この馬に乗りたい!って」
「中丸先生がですか?」
「そう、そう。請け負っている馬はみんな、私が乗りたいなと思った子。心にちょっぴりだけ残った少年時代の私が、これだ!って囁くのよ」
なんともスピリチュアルな返答ではあったものの、そういうものかと納得した。
骨の太さ。歩様の仕方。身体のしなやかさ。根性や性格。様々な要素を見た経験者は、「この馬は走る」と分かる。しかしそれ以上に、ホースマンたちの直感というものは侮れない。
「……中丸先生なら、乗せてくれますよ。なあ、ヨサリ」
「ぶっふーん」
いいけど?なんて言い出しそうなヨサリオーロの首に抱き着いた中丸は、心底嬉しそうに破顔してみせた。褒め上手な中丸調教師は、ヨサリオーロも好んでいるようでよく鼻先をくっつけて遊んでいる。こっちでもヨサリオーロが信頼できる相手ができてよかったと思う反面──未だ若干距離を取りつつある同厩の馬たちへの対応は、しばしの間忘れることとした。
中性的な見た目をした中丸と、魚目を携えた青鹿毛のヨサリオーロ。絵になりそうなワンシーンがその場で巻き起こって、周りを忙しなく歩く人々の視線が集い始める。
「ねえ彰ちゃん、コレ後でインスタにあげていい?」
「写真ですか?確か明石屋さんは大丈夫って喋ってましたよ」
「それは知ってる!訊いてるのは……」
にたり、と中丸は珍しく悪そうな顔つきで笑っていた。ヨサリオーロと視線を交わすと、いつの間にか取り出していた携帯端末で、素早くカメラモードを起動する。呆けていた彰の身体は、突如ヨサリオーロの首に巻きとられて大きくよろけた──瞬間、軽快なシャッター音が辺りに響く。
「……彰ちゃん、あなたの方でした!」
「ぶっふん!」
液晶画面には、器用にウインクをしてみせる中丸とヨサリオーロ。そしてぽかんとした表情でカメラを見つめる彰の姿があった。
ヨサリオーロは満足そうに、画面を見つめてぶんぶんと首を縦に振っている。
「これからはヨサリオーロを、彰ちゃんとセットで撮ってあげるからね」
「ふひーん!」
「えっと……ありがとうございます?」
困惑するばかりの彰をよそに、中丸とヨサリオーロは嬉しそうに笑っていた。置いてけぼりのような、くすぐったいような雰囲気を肌で感じて、ぽりぽりと頬を掻く。
「……あ、来た」
すると、遠くから真新しい勝負服を纏った騎手が近づいてくる。呼びかけようと声を掛けようとして──開いた口元を、不安げにひくりと強張らせることになった。
二枠の黒いヘルメットが、歩くたびに小刻みに震えている。ぎこぎこと音が聞こえそうなほど、ブリキでできた人形かのように硬い動きをして歩いている。
リーディングジョッキー、高伊空太は──なぜか、今までのどのレースよりも緊張しているように見えるほど、動揺していた。
「いや、なんでだよ」
そんな呟きが漏れるのも仕方がないことだろう。中丸だって目を丸くして、まるで見たことが無い動きをした空太を眺めている。
「……よっ、よう!ヨサリオーロ、彰、先生!」
「……なにがよう、だよ。お前が一番慣れてるはずじゃないのかよ、なんで手足を同時に出してるんだ」
「なっ、いや、そ、ンなことねえし!いつも通りだっつーの!」
だん、と空太はその場で脚を踏み鳴らした。それと同時に己のジョッキーブーツを踏みつけると、痛みに飛び上がって、ぴょんぴょんと辺りを飛び回る。これを緊張していないと言うのなら、何と言うのだろうか。
中丸はじとっとした表情で、上がり切っていない空太の勝負服のファスナーを片手で引き上げた。ジッという勢いある音と共に、空太の背筋がピンと伸びる。
「しっかりなさいよ。上に乗るあんたが迷ってたら、ヨサリオーロにまでそれが移るわよ」
「はあ〜!?べ、別に、全然迷ってないですけどお?」
「ぶひゅ~ん」
姐さん、そう心配はいらないっすよ。そう言いたそうなヨサリオーロは、やれやれと首を左右に揺らしながら鼻を鳴らす。そんな様子を見た中丸は、腕を組んで呆れたような表情をしてみせた。
「ほら見なさい、ヨサリオーロの方が気楽そうじゃないの!」
「そりゃ、ヨサリオーロはよく分かってないんだから……」
「ぶふふん!ふいいん!」
「あだだだだだっ!?ちょ、やめ、いだだあ!?」
心外だ!とでも言いたいのか、ヨサリオーロは空太の背中に体当たりを繰り返す。ヘルメットからはみ出た髪の毛を毟ろうとし始めたので、彰はどうどうとヨサリオーロの手綱を引っ張った。二人と一頭に湿度高めの視線を浴びせられて、空太は思わず一歩後ろに下がる。
「しょっ……しょうがないだろ、緊張すんのは!彰が育てて、中丸先生が面倒見た、三冠目指せる馬に乗るなんて機会、そうそうないぞ!ないんだぞ!……夢だぞ!?」
「よかったじゃん、頑張って乗ってくれよ」
「ふひひん」
「だーっ!お前らは緊張感なさすぎだっつの!俺にも責任ってもんがさあ!」
「でもあんた、先週一番人気の馬飛ばしたじゃない」
「ゲート内で立ち上がって出遅れたうえでの四着ですが!?多少は見逃してもらえませんかねえそれはぁ!?」
「ぶふっぶふん」
「笑ったな!?お前今笑ったろヨサリオーロ!?テメェ表出ろちょっと調教するから」
ぎゃいぎゃい、と騒ぎ立てる三人と一頭。中丸厩舎御一行は今日も騒がしいな、なんて声が周りから飛び交う。肩をすくめた中丸はため息をこぼして、くいっと顎を一方へ向けた。
「ほら、パドック行くわよ。しっかりなさいね、何年目よあんた」
「わーってるよ、先生……」
空太はそっぽを向くと、ヘルメットをぐっと深くかぶり直した。顎を引いて肩甲骨を開くように胸を出すと、きゅ、と視線が鋭くなる。それでもまだ緊張の色が見える目は、小さく震えているように思えた。ヨサリオーロは彰と顔を見合わせて、困ったように首を傾げていた。
*
「…………なあ、お前本当に大丈夫か?」
──それから、というものの。
東京競馬場、地下馬道。そこに彰と、ヨサリオーロに騎乗した空太が並んで歩みを進めていた。
そして、彰がそう訊ねてしまうのも致し方ないだろう。先ほどのパドックは散々で、観客や周りの関係者たちもぎょっと驚き、ましてや空太を心配し始める始末であったからだ。躓く、転ぶ、何かしらを忘れて何度も道を戻る。観客たちはその様子を見て何を思ったか、三番手程度に落ち着いていたオッズがまた変動し、今や五、六番手にずるずると下り落ちていた。
「……大丈夫、大丈夫……何も問題ない……」
「空太、この指何本に見える?」
「六かな……」
「ああ、もうだめだな、これ」
「だっだだだ、だめじゃねえって!見とけよ!俺は高伊空太、これでも去年のリーディングジョッキーだぞ……」
掲げた二本の指を下ろして、彰はため息をこぼした。ヨサリオーロの背に跨る男は、到底言葉通りの存在だと思えなかったからだ。むしろ、彰が競馬学校に通っていた時を思い起こさせるような、おどおどとした初心な雰囲気をその身に纏っているように感じていた。
緊張で手と足が同時に出る。騎乗しようとして直前で転ぶ。走り出すまで、手綱を握る手が遠くから見ても分かる程度には震えている。──到底、ジョッキーにはなれないんじゃないか、と思ってしまうほどに、幼い頃の空太はあがり症だったのだ。
ゴーグル越しの不安げな表情が、その時の記憶と重なる。まるでパズルのピースのようにぴったりはまった顔が面白くて、彰は思わず吹き出すようにして笑った。
「なんで笑うんだよ!真剣だろこっちは!」
「いや、ごめん……なんか、そういうやつだったなあと思って」
それと同時に、そんな緊張しいな彼への対処法も思い出した。「ヨサリ」と声を掛けると、丸い目を輝かせて彰の方を向く。耳の根元を撫でてやりながら、ヨサリオーロにだけ聞こえるように口を動かした。
「悪いけど、返し馬の時の時はさーっと行ってくれる?」
「ふひーん?」
「そうそう、観客は無視しちゃってね。前よりもかなり……まあ多いと思うけど、なんにも気にしないで」
ヨサリオーロは陽気なリズムで首を動かした。よしよしと頷いた彰は、顔を上げて鞍上の空太へと声を掛けた。
「さて、と……空太、一旦止まってー」
「ああもう、なに……」
返事が全て返ってくる前に、彰は勢いよく右手を振り上げて風を切る。着地点はまっすぐ、アルマジロのようにすっかり丸まってしまった相手の背中へ!
──パアン!
「ッだアァーーーーーッ!?」
静かな地下馬道に衝撃音が響く。
背中を思いきり叩かれた空太は、びりびりと震える空気の中で涙目になりながら振り返った。彰は何故だか、にんまりといたずらっぽく笑っている。
「っおい!何して……」
「空太、楽しめ!ヨサリオーロに乗れるなんて、超超超──羨ましいぞ!」
そう叫んだ彰の顔は、いつものそれとは違っていた。厩務員として、牧場の一人息子として、柔らかい雰囲気を纏った彰の姿ではなかった。
競馬学校にいた時と同じように。勝ち負けに貪欲な、勝負師の目をした一人の男が、ギラギラと力強い眼差しで空太を見つめていたのだ。
「だって、どうやって勝つかを考えるだけで──ものすごく、ワクワクするだろ?」
空太は背中の痛みすら忘れて、その表情にごくりと息を飲んだ。彰はつまり、ヨサリオーロであれば勝ち方すら選べるのだと、そう言ってみせたのである。
空太はまるで、あの時に時間が巻き戻ったかのように錯覚した。今から挑むレースだって、一勝クラスの第九レースじゃなく、学校の模擬レースであり。今から彰や他の騎手候補生をアッと言わせてやるんだ、と意気込んでいた、あの虎視眈々とした瞬間のように思えたのだった。騎手としてそれなりに長く乗り続け、培われた冷静さの裏側に僅かに残っていた少年の心に、静かに、小さく火が灯る。緊張はどこかへとかき消えて、空太は相手につられて、いつの間にかその場でにっこりと笑みを浮かべていた。
──そうだとも。高伊空太という男は、こうでなくては。小さな体にそぐわない、剃刀のように鋭い勝利への渇望。彰はその様子を見て、ぞくりと肩を震わせると同時に、満足げに一人頷いていた。
「……今のは、昔の俺から。これから言うのは、一応……馬主としての俺から」
こほん、と咳ばらいをしてから、彰はゴーグル越しの空太と目線を合わせた。言葉を大人しく待っているヨサリオーロにも、にこりと笑いかける。
「人馬共に、無事に」
馬主として。厩務員として。そして、親友として、待つ側の者として。そう声を掛けるのは、必然だっただろう。
空太はヨサリオーロと視線を交わして、互いにこくりと頷いた。
「もちろん、そうなるように精いっぱいの努力をする」
「……ありがとう。じゃあ、あとは楽しんできて」
彰はヨサリオーロの手綱を空太に手渡し、握手した。冬の地下馬道は空気が冷え切っていたが、触れた指先は炎が燃え盛っているのかと錯覚するほどに熱を持ち、血が巡っていた。
「──俺、俺さ、お前がいなくなってから、すげー寂しかったんだぜ」
「……うん、ごめん」
「将輝も、他の奴らも。並んでやるって目標にしてた彰がいなくなって、しばらくはポカンとしたまま過ごしてた」
だから、と空太は言葉を続ける。ヨサリオーロがゆっくりと歩き出して、繋がれた手がそっと離された。
「今日、この日が迎えられて、まだ夢なんじゃないかと思ってる自分もいる」
──どちらかが引退した後に、厩務員か調教師になったら、もう片方がその馬に乗って、GⅠで勝利すること。
もし競馬学校を辞めても、必ずまたこの界隈で再会すること。
その約束は半ば、叶いかけていた。
「でもあとは、勝つだけだ」
彰の横を通りすがる瞬間、そう呟いてこつんと拳を合わせた。
「行ってくる」
「ふひひん!」
「……行ってらっしゃい、ヨサリ、空太」
心地よい高揚感と、少しの緊張。あとは、親友たちへの信頼を携えて。
──週末にまた、ファンファーレが鳴る。
*
『──東京競馬場、第九レース。一勝クラス、百日草特別。全八頭での出走となります。クラシックレースに向けて弾みをつけたい、未来の優駿たちが集う一戦です。
1枠1番、ナックランド。
2枠2番、ヨサリオーロ。
3枠3番、ケントマエバシ。
4枠4番、ツンツクツン。
5枠5番、アイシクルレイ。
6枠6番、ジェイクポッドサン。
7枠7番、シャインビバーチェ。
8枠8番、カデナプレミアム。
以上全八頭です。それでは、ファンファーレです──』
「おう空太、随分良い馬乗ってんな」
「へへ、そうでしょ」
輪乗りの最中に、美浦の騎手が空太へと話しかけた。栗毛の牝馬が興味深そうに、ふんふんと鼻を鳴らしながら近づいてくる。ヨサリオーロはすたこらさっさと辺りを速歩で回って逃げるので、鞍上の空太は笑うたびに肩が揺れていた。
「その馬、地方からの編入だろ?ダートじゃなくて芝でよかったのか?」
「血統的には問題ないですし、この馬の走り自体も元々芝寄りですよ」
「おいおい、なんや空太ぁ。その馬連れてくる場所、間違えたんとちゃう?」
「……はいぃ?」
その言葉に思わず空太と、共に話をしていた騎手は後ろを振り返った。鹿毛の牡馬に乗った騎手が、からかうような笑みを浮かべてこちらを見つめていた。
「地方走ってた箱入り娘のお嬢様には、こっちの目まぐるしさについてこれんとちゃうんか、って」
その栗東の騎手は、よく同レースを走る相手に軽口を叩くことで有名だった。先輩後輩問わず、それはリーディングジョッキーである空太に対しても同じ態度であった。
しかし、それは特段ルール違反というわけでもない。勝負寸前のギリギリまで言葉の駆け引きをする、狡猾な男だと周りは皆言う。空太もそんなことは百も承知ではあったものの、珍しく今日は不機嫌そうに唇を突き出した。
「なんですか、田名部先輩。喧嘩でも売りに来たんですか?」
「え?ああ、いや別にそんな……」
田名部と呼ばれた騎手は目を丸くした。空太がこのような軽口に引っ掛かることなど、今までに一度だってあったことが無いからだ。いつもであれば、適当な相槌を一、二回してさっさとその場から立ち去ってしまうというのに。
空太は赤い舌を出して、子どものように反抗的な返答をしてみせた。
「言っときますけどヨサリオーロは、お姫様なんかじゃ収まりませんよ」
「いや、別にそう言う話をしたいわけじゃ」
「強いて言うなら、必殺仕事人の暴れん坊将軍っすね」
「必殺仕事人の暴れん坊将軍ってなにぃ!?」
ギョッとした顔で叫んだ騎手を、更に美浦の騎手が笑っていた。ゲート入りを促され、ヨサリオーロとともに威嚇の声を上げていた空太が、渋々とスタートに向けて動き始める。
「なんやったん、あいつ」
「……まあ、つまりは勝つのは俺って言いたかったんじゃないかな」
「なんや、それ。はあ、変に調子狂わされたわ」
「そりゃお互い様でしょうよ、田名部さんに関してはさ」
「なあユキ、正論ぶつけるのはやめんか?」
からころと笑った美浦の騎手を置いて、今度は田名部と呼ばれた騎手がゲートへと入っていく。肩をすくめて、今日も人馬の無事を祈りながら、大外枠の馬を連れて最後の騎手は鉄の扉へと向かっていった。
ぶるる、といななく声。そわそわと、今にも飛び出しそうな不安な動きをするもの。ピリ、とした特有の緊張感が走る。
「……俺が良い位置に連れて行く。前みたいに出遅れる必要は、ない」
「ぶふんっ……」
『ようやく大外、8番カデナプレミアムが収まりました。係員がゲートから離れます。
第七レース、百日草特別……っああ!?8番カデナプレミアム立ち上がった!?しかしゲートが開きます!
──っスタートしました!
なんということだ、三頭が大きく出遅れました!かなりバラバラっとしたスタート!』
「ひひんっ!?」
「……悪いなヨサリオーロ、これはちょっと……想定外かも」
空太は思わず、ヨサリオーロの上で小さく舌打ちをした。大外枠のカデナプレミアムが立ち上がったかと思うと、まだ年若い二歳馬たちはそれにつられて大きく暴れ出した。出遅れたのは3番ケントマエバシに4番ツンツクツン、それから8番カデナプレミアム。
『先頭ナックランド、リードを三馬身程広げてぐんぐん前へと出て行きます。二番手はシャインビバーチェ。その後ろ6番ジェイクポッドサン追走、外を回るのはヨサリオーロ。少し下げたか5番アイシクルレイは後方に控えたか。大きく離されて出遅れた三頭が懸命に追いつこうと手綱を動かしています──』
周囲に惑わされることなく、自分のペースでゲートを出たヨサリオーロ。しかし、それが仇になる日が来るだなんて、思ってもみなかった。少し離して最後方、もしくは外を回って後ろから二、三番手を維持したいところだったが、5番のアイシクルレイが下げてきたおかげで、押し出されるようにして中団で先行勢を追走する形となった。
「──ヨサリオーロ、頼む、今だけちょっと堪えて……」
そう言った空太が、ちらりと目線を下へと向ける。すると悲壮感溢れるため息と共に、「ですよね」という小さな呟きが漏れ出ていた。
落ち着いた様子を見せていたヨサリオーロではあったが、今は明らかに顔が外を向いている。原因は明らかで、ヨサリオーロの馬嫌いがここでも発揮されてしまったのだ、と分かった。
後ろに下がろうかとも思考したが、出遅れた三頭たちがこちらに向かってくるのが背中越しに見えた。
「なあ頼むよヨサリオーロ、今だけ協力してくれ……!」
「ヴヴヴ……」
後ろにぺったりと倒された耳元にそう呟くが、ヨサリオーロはそれを聞く様子もない。なんとか手綱を引いてギリギリの位置を保ち、控え続けさせるのが精一杯だ。少しでも手綱を緩めれば、突如スピードを上げて先頭へと躍り出てしまう未来さえ目に見えていた。
「……おおい、空太、苦しそうやけどどうした?まだ序盤やで」
「相変わらず性根悪いっすね、田名部さんは……!」
「さすがはリーディングジョッキー、お世辞が上手いわあ」
「ああクソッ……!」
関西訛りの言葉を携え、背後の騎手はにんまりと笑った。
後ろに下がろうと手綱を引こうとした直後。5番の馬アイシクルレイを操る田名部が斜めに動き、ヨサリオーロたちの進路を封じたのだ。おそらく、今までのヨサリオーロが、全て後方からの追い込み一辺倒での勝利である、と知ったうえで。
(この人にマークされると、本当に上手いこと走れた試しがない……!)
相手の手腕に関心しながらも、空太は焦りを心のうちに隠して手綱を握りしめた。
このまま無理やり下がっても良かったが、進路妨害で降着を取られても面白くない。
──どっちを捨てるか、決めねえと。
空太は乾いた薄い唇を舐めて、細い眉をぐっと顰めた。
脳内で浮かんだ選択肢は二つ。一つは、このままロングスパートをかけて三コーナーから加速し、早いうちから馬群を離れること。
もう一つは、掟破りの大外回り。ギリギリまでこのまま控えさせ、馬群が開け次第カメラにも写り切らないほど大外を走らせ、直線で抜け出すというパターンだ。
今から逃げ馬を追ってハナを取るには、あまりにも距離が離れている。我慢か、外か。二つに一つ、選択を迫られる。
『──現在五〇〇メートル地点を通過。依然先頭はナックランド、二馬身リード。控えてシャインビバーチェ、その後ろ緑の帽子ジェイクポッドサン──』
(こんな時、親父なら……?)
ぎゅる、と思考が回転する。ヨサリオーロのスタミナと、芝の状態と、今回のペースを俯瞰して視る。脳内で今の状況を組み立てて、上から眺めるような形で分析する。
スタートダッシュこそついたが、案外流れは早くもないミドルペース。このままいけば平均か、それよりも少し遅い程度か。
目線を斜め前にずらす。レースの続いた中山の芝は既に傷み始めて、最内にはボコボコと穴が開いていた。
(親父なら──きっと、次のことまで考える。このまま馬群が苦手なままでは、次回以降のレースも不安が残る。ここで一旦控えさせることを覚えさせて、脚を貯めて三コーナーからスパート……)
でも、と。空太は脳内の歯車を一旦かちりと止め、ヨサリオーロを眺め見た。ヨサリオーロは外に向けていた視線を、黙って、じっと空太に返していた。
(いや──ここは)
空太はぐっと頭を下げて、後ろに倒れたヨサリオーロの耳元に顔を近づけた。できるだけ、周りに声が漏れないように。
「坂を下り切ったら、ゆっくり、外に持ち出す。いいか……ゆっくりだぞ」
ぴん、と手綱がまっすぐに引かれた。そのままヨサリオーロの脚が、回転数をじんわりと上げていく。
『……その後ろ緑の帽子ジェイクポッドサン──ここで2番ヨサリオーロがじわじわと前との差を詰めていく。
高伊空太ゴーサインを出したか、前目につけて…………前、に……?
前じゃない?』
「──おおい、バカッ!実は話聞いてねーだろ、ヨサリオーロォーッ!!」
「ぶっふふーん!」
『2番ヨサリオーロ逸走か!?馬群からぐんぐん離れて大外、コースギリギリに向かって斜めに走りだした!隙間を縫って後方からカデナプレミアム!先頭ナックランドまだ二馬身のリード、内で控えているシャインビバーチェ!ジェイクポッドサンも間を詰めてきて、かなり抜けた大外並ぶようにヨサリオーロ!まだ控えるかアイシクルレイ、後ろカデナプレミアム、しんがり並んでケントマエバシとツンツクツンの二頭!残り一〇〇〇メートル!タイムは61.1秒です、平均的なペースで前が少し詰まってきたか──』
「おまえ、マジ、後でうらむ、からっぐぎぎぎぎ、な!」
「ぶふん!ふふふん!」
大外を回る影響あってか、普段の数倍もの遠心力が乗り手の空太を襲う。ヨサリオーロも文句を言いながら、びゅんびゅんと強い風を切るようにして綺麗な芝を走っていた。馬群を改めて遠くから眺めてみると、芝が剥がれてもいないのに砂埃がもうもうと舞っている。
(冬だし、中山だし、よくあることだけど……外から見たら、だいぶ酷いな。ダートコース走ってるみたいだ)
地方でダートコースを走っていたヨサリオーロにとっては、さほど気にするような問題ではないと思っていたが。ある意味、外を回って正解だったような面もあるだろう。だとしても、明らかに大外すぎるという問題はあるのだが。
返事をするかのように、ヨサリオーロは目を釣り上げた。猛スピードで流れる景色の中で、怒りを表したいのか二つの耳がバタバタと動き回る。空太はそれを見て、ふと何かに気がついた。あり得ぬことだとは思ったが、その可能性が自分の中で否定しきれずにいることも事実だった。
「……お前、それ、正気?」
睨みつけるように投げかけたヨサリオーロの目線は、一点に集中していた。後ろから接近し、こちらが逸走し始めるまでは徹底的にマークし続けてきた馬、アイシクルレイ。そしてヨサリオーロは、それよりも斜め後ろを誰よりも厳しく睨み上げていた。
「お前さては、今日は馬じゃなくて──田名部さんを嫌ったな?」
「ぶるるっ」
田名部の煽りに言い返している最中。誰も気付いてこそいなかったが、ヨサリオーロは静かに怒っていた。ダンッといつもの数倍力強く、足を踏み鳴らすようにしてゲートに入っていった。どこぞの馬の骨とも知らぬ男に見くびられたのだから、プライドの高いヨサリオーロにとってかなり屈辱的だったのかもしれない。
ヨサリオーロが人の言葉をわかるような態度を取ること、それを栗東所属の田名部が知らなかったのも無理はない。ゆえに、溢れんばかりの怒りをパワーに変えて、闘志をみなぎらせながらこの牡馬は走っていた。
「ぶひゅん、ぶるるッ!」
──あっと言わせてやろうぜ、あのスカした奴を。
ギラギラと闘志に満ち溢れた、薄い青色の目。空太はその様子を見て、納得すると同時につい笑ってしまった。散々、ヨサリオーロを人間みたいな奇妙な馬だと言ってはきたが。
まさか馬相手ではなく、その上に乗る騎手に対抗心を燃やす馬がいるだなんて!
「……本当に、俺はお前には驚かされてばかりだぜ、ヨサリオーロ」
「ふひんッ!」
やる気に満ち溢れた表情をしてみせるヨサリオーロ。一人ゆっくり、こくりと頷いてから、空太はまた思考の歯車をかちりと回転させ始めた。
東京コース、左回り、もうすぐ第三コーナーに差し掛かるところ。先頭の逃げ馬は少し息を入れているのか、先行勢との差は一馬身程度に縮まり始めている。縦長の隊列で、平均ペース。
そして、この馬が求めていること。他の馬との接触時間をなるべく最小限に。
それでいて、あの鞍上にあっと言わせるド派手な勝ち方を。
「……箱入り娘だなんて言ったこと、後悔させてやろうぜ。さあ、かっ飛ばすぞヨサリオーロ!」
「ふひいぃん!」
ガチン、と。ハミを噛む音が小さく、しっかりと耳に響いた。
『──さあ、第三コーナーをカーブ。先頭は依然ナックランド!少々掛かり気味か鞍上が手綱を押さえている、その後ろ7番シャインビバーチェ。出遅れたケントマエバシとツンツクツンは厳しいか。ゆっくりと進出を始めたのは6番ジェイクポッドサンです、アイシクルレイも併せて外へと持ち出す。カデナプレミアムはまだ脚を溜めている、さあ第4コーナーへ各馬一斉に向かった──!
さあ!どうだ!先頭変わった変わったシャインビバーチェ。シャインビバーチェが先頭だ、外から5番アイシクルレイも伸びてくる。さあ直線だどこまで伸びるかアイシクルレイ!
いや!何かが外から突っ込んでくる!──悠然と先頭に迫る黒い影!
なんということだ!
大外の大外から、画面の端を回るのは!
2番が、ヨサリオーロが追って来たァ──ッ!』
空太は小さい頃から、体重と筋肉がつきにくい体質だった。
手足だけがひょろっと長くて、それが騎手の家系である父から受け継がれてきたんだと知った。
馬の乗り方も、加速のさせ方も、手綱の捌き方も、すべて父から受け継いだのだ。
──馬を操るんじゃない。速い馬は、何もせずとも走るもの。邪魔をせず、いかにその馬を走りやすくするサポートができるか。
首を押して前へと促す。鞭を持ち替えて叩いて合図する。迷いなく視線を定めて、進路をここだと決めてやる。すると競走馬は、ヨサリオーロは、ただ走ることだけに意識を集中してくれる。
大きく広がって、伸びた四肢。一歩ごとに進む距離は遠く、飛ぶように。他の馬より、外ラチの方が近いくらいの大外から。
──直線で、全てを撫で切る圧倒的な末脚を魅せる!
『大外回りもなんのその、さあ上がっていくぞいったぞいったぞ、ヨサリオーロが前に届くかあと二〇〇!』
「──おいおいおい、アホか!?外回らされてなんでその速さだせんねん!?」
ヨサリオーロが希望していた例の声が、風に乗ってこちらまで届く。明らかに焦りの色が垣間見えるその呟きは、思わず必死に追い続ける空太でさえもニヤリとさせる一言であった。
「……これが箱入り娘なわけあるかい、暴れん坊の最強牡馬じゃ!ボーケがァ!!」
ヨサリオーロも応えるように力強く鼻を鳴らす。たなびくたてがみが、細長い手足が、真っ黒な一筋の影となって前線へと躍り出る。
──そうだ、見て驚けよ。次の主役はこの俺たちだ!
「さあ中央初勝利だ!しっかりこの雰囲気を味わいな──ヨサリオーロ!」
「ふひーん!」
『いったいったいった!
届いた!
差し切った!
後ろを突き放しまして、ヨサリオーロが一着ゴールイン!
最後には半馬身差をつけ流しました、高伊空太今日も快勝です!二着アイシクルレイ、三着接戦ジェイクポッドサントがわずかに優勢か。
掲示板が確定するまで、お手元の投票権を捨てずにそのままお持ちくださいますよう、お願い申し上げます。
以上、東京競馬第9R、一勝クラス、百日草特別の模様をお送りしました──』
「勝ーった勝った!快勝!無敵!最強~ッ!」
「ふひっ、ひっ、ひっ……ぶふふん!」
他の競走馬よりも大幅に外を回ったヨサリオーロは、流石に疲れたのか、何度かに分けて鼻から息を吐き出した。風船から空気が出て行くかのような音と共に、得意げな嘶きが空太の声に被さっていく。
軽く残りのコースを流すように入っていると、観客のざわめきが聞こえてくる。地方の馬。ダートじゃなかったのか。やっぱり血統的には芝なんだよ。ガミった。買ってない。次のクラシックはあの馬かな──。
空太はヨサリオーロの首元を軽く叩いた。歩かせながら、ぎゅっとまだ真新しい勝負服に包まれた腕で抱きしめた。検量のために来た道を戻ると、なぜか苦笑いを浮かべた彰が小さく手を振っている。ヨサリオーロはぱっと表情を一転させ、スキップでもするかのような動きで機嫌よく彰へと近づいた。
「ぶっふふーん!」
「彰、勝ったぜ!やっぱりいい脚してるよこいつ!芝もダートも関係なし……」
「お疲れ、ヨサリ、空太。喜んでるところ悪いんだけど……」
手綱を引きながら、彰は肩をすくめている。ヨサリオーロを撫でてから、くっと顎を引いて後ろに視線を促した。少し間が開いて、空太が思わずといった様子で、ひゅっと息を飲む。
顔に影を落とし、にっこりと笑っている一人の青年。握られた拳には血管が浮き出て、指先が威嚇をするようにパキポキと音を出した。
「ヨ~サ~リ~、空~太ぁ~……?」
「せ、せせせせ、せんせー……?俺たち、勝ったんだけど……?」
「ひっ……ひふふん……」
コツコツ、とヒールを鳴らして近づく中丸。ゼッケンを降ろし、細かに震える空太にゆっくりと近づくと、彰に対してにっこりと微笑んだ。
「ヨサリオーロの耳、押さえといてもらえる?」
「ハイッ!わかりました!」
「彰!あきら待って、傍観者にならないで!あれは事故!どうしようも」
「……空太ぁ〜?」
「…………は、はぁい……」
2枠のヘルメットをがっしりと掴み、相手のこめかみに拳を添える。中丸は綺麗な笑顔を見せたまま、青筋を立てて空太の耳元でがなり立てる。彰はそっとヨサリオーロの耳を押さえると、今後起こりうるであろう出来事から目を逸らすべく、静かに瞼を閉じた。
「……しょっぱなから平地調教再審査にさせるバカがいるか、このバカがーッ!」
「あいっだぁーーーッ!!?」
「ヨサリ……審査、一緒に頑張ろうね」
「ぶ、ぶひゅん……」
冬の東京競馬場。勝利を祝うべく駆けつけた記者や関係者たちは、その怒号に思わず苦笑いを浮かべたのだった。
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◯nakamaru_stable_official
今週もお疲れ様でした。有馬記念も近づいてきました。次走の応援もよろしくお願いします。
#ヨサリオーロ
#高伊空太
#百日草特別
#空太反省中
#調教再審査頑張ろうね
#二人並んで反省中
#新しい厩務員さんと一緒に
・takai_kuta_jocky
中丸先生は怒らせないほうがいい。