第12R はじめの一歩
お待たせしました。方向性は決まっていたのに、上手いこと形にするのにかなり手間取りました。
あとはボール投げて図鑑埋めたり超次元ワープホールに怒鳴り散らしたり馬券と睨めっこしたりしてました。
今回もお楽しみいただけたらいいな、そんな気持ちで初投稿です。
美浦トレーニングセンターの朝は早い。
日も昇らない、朝の四時にはもう既に人の気配がある。夏なら早く、冬が近づけばもう少しだけ遅くなる。しかし、大抵朝早くから仕事をするのに変わりはない。
ふわり、とあくびをこぼしながら、彰は美浦トレセンの敷地内を歩いていた。昨夜は空いていた寮の部屋に泊めてもらい、今日が仕事の初日──もっと詳しく言うなれば、美浦に来て二日目の朝である。
「んー……。慣れないけど、今日からこれが日常になるんだよな」
彰はまだ少しだけ重い瞼を擦って、ぼんやりとそう呟いた。
附田の牧場ではなく、美浦のトレーニングセンターで。彰はこれから、中央競馬に所属するヨサリオーロのためだけに、厩務員としての仕事をこなす。立場は少し周りと異なるが、やることは場所が違えども同じこと。
ふううっと深く息を吐くと、白い蒸気がもくもくと宙を舞った。昨日、あれから調教師の中丸に言われたことを思い出す。
『──特別措置よ』
『特別措置、ですか?』
『ええ。須和オーナーには競馬学校の卒業の経歴がありません。ですが、地方競馬での経験があるとのことですから……特別措置です』
ウインクを一つ投げかけて、中丸は彰にそう答えた。帰り道の出来事である。悲痛な叫びをあげるヨサリオーロを、なんとか馬房へと押し込んだ後──厩舎の周りをうろちょろしていた彰を、半ば引き摺る形で帰らせながら──中丸はニンマリと笑っていた。
『他の競走馬たちの世話は不要です、むしろ直接関わることは避けてもらいたいの』
『もちろん、そのつもりです』
『理解が早くて助かるわ。個人間での契約になるから、その話はまた詳しくね』
厩舎の仕事をしていたと言えども、彰だって他の馬主から請け負った競走馬を、なんの問題もなしに世話できる自信はなかった。むしろ、ヨサリオーロだけを見て仕事をすればいい。その言葉に安心感すら覚えていたまであった。
そしてその話を聞くと同時に、次に附田に帰るのは遠い未来になりそうだな、と思った。
しばらく牧場を空ける、ということもひかるには連絡を済ませていた。
というのも、なんとなくこうなることは彰も予想ができていたので、事前にひかるや牧場の従業員に対して、何度か相談を繰り返していたのだった。そう簡単には戻れないだろうということで、定期的な電話での業務連絡や報告をしよう、という話にまとまったのである。
改め、ひかるに連絡をしたのは、昨夜のことだった。
『──色々大変だろうけど、がんばれ、彰。ヨサリをよろしくね』
報告の電話を終えるタイミングで、そう囁かれた。ひかるには本当に世話になりっぱなしで、彰は少し、返事を返す喉が震えた。
「……ごめん、ずっと、世話かけっぱなしで。牧場の仕事も」
『謝られても困るんだけど!……他に言うべきこと、あるでしょ』
「……ありがとう、ひかる。みんなを、よろしく頼める?」
そう言うと、電話越しの声は満足そうに笑って、『ったり前っしょ!ていうか、投げ出して帰ってきたりなんかしたら……彰のこと牧場に入れてやらないから!』と言葉を投げかけた。プツリと切れた後の電子音に、繋がりと、温かみの余韻を感じた。
それが、昨夜の出来事である。
起床時間が体に染みついてしまった彰は、まだ真夜中と言えるであろう時間帯に目を覚まし、そそくさと間借りした寮の部屋から出てきた。ぼんやりと暗い空を眺めながら、厩舎への道をたどる。今日は初めて、ヨサリオーロが美浦にてトレーニングをする日だ。
走れるだろうか。眠れただろうか。これからやっていけるだろうか。そんな不安と同じくらいに高鳴る期待を胸に、彰は厩舎への扉を開けた。
「おはようございま──」
ずしゃり。
そんな不穏な音と共に、視界が一色で埋め尽くされる。はらはらと頭から落ちていくそれは、なかなかの匂いを放つ寝藁の束であった。流石の彰も顔を顰め、髪の毛に絡まったイネ科の藁を指先で摘み上げる。
もちろん、なんの理由もなく寝藁の束がこちらに飛んでくるはずもない。馬が蹴り上げたのか、と訊かれた場合以外に限るが。
「……あ」
フォークを手に、馬房の掃除をしていた星七がこっちを見ていた。方向的に、寝藁をこちらに放ってきたのは彼女らしい。しかし彼女は随分と驚くような表情を顔に乗せ、振り返ってそのままの状態で固まっていた。それを見れば、今のはおそらく、故意からの行動ではないことが理解できる。
彰は手袋を嵌めると、残った藁を軽く拾い集めておくことにした。まだ空っぽであった猫車にそれらをまとめておくと、そのままヨサリオーロの馬房へと向かう。遠くから絡まれるような視線を感じたので、振り返って軽く会釈を返した。
「おはようございます」
「えっ、あっ、お、おは……」
はっ、と息を飲む音がして、星七がぷいっと顔を背けた。どうやら今の彼女には、彰との挨拶すらも控えたい状況らしい。思わずちょっぴり笑ってしまいながら──なに笑ってんの、と更に小さく呟かれながら──通りすがる競走馬たちに、おはようと声をかけていく。
厩舎は未だ少し冷えていて、いるのは彰と星七だけだった。足音を聞きつけ、ヨサリオーロが馬房からひょこりと顔を出す。口元が緩んでいるのか、ぺろんと桃色の舌先が飛び出ていた。
「ふひっ」
「ヨサリ、おはよう。よく眠れたか」
「ぶふふん」
首筋を撫でた後、鼻先を人差し指で突っつく。ぷるぷると細やかに動くこの触り心地は、馬の体の中で一番良い、と彰は自称している。鼻先の汚れを軽く落とすと同時に、ちょっとしたスキンシップをこなして、非常に穏やかな気分になれる。
すると隣であるアワアワフワフワ号こと、フワの馬房からぶつぶつと呪詛のような声が聞こえてくる。静かな厩舎であったからか、それはより一層響いて彰の耳まで届いた。
「なんであいつ怒んないの……?何事もなかったみたいに……あたしなんて眼中に入ってないってこと……?」
んなわけない。そう思わず返したくなったが、彰はバレないように肩をすくめて、出てくる言葉をこらえた。ヨサリオーロに一声かけてから、フォークを持って馬房に入り込む。
「……寝藁、やっぱいいな」
馬房に広がった寝材を確かめて、思わず呟いた。
厩務員の仕事は単純だ。しかし、それらの業務は大量に存在し、限られた時間内で手早く、かつ丁寧にこなす必要がある。
彰は慣れた仕草でボロを拾い、固まった寝藁をさっさと拾い集めた。ヨサリオーロは汚れものを一か所にまとめてしてくれる。おかげで暗い中での作業もそれなりにしやすい、と思う。
(……こういうところから、地方とは意識が違うのかな)
そう考えながら、湿気た藁の束をフォークでつつく。
須和牧場の馬房で使っていたのは、イネ科の藁ではなく、おがくずであった。藁に比べて比較的安価であり、かつ掃除がしやすいという利点がある。しかし、どうしても蹄の隙間にそれが入り込んでしまい、病気にはなりやすい。
寝藁は高価ではあるものの、その分蹄への影響は少ない。資金の違いもそうだろうが、先を見据えるのであれば間違いなく、こちらの方がいいのだろう。
(別に、全部中央が正しいってわけじゃないんだけど……具体的な違いをこう見せられると、ちょっとへこむな)
おがくずの片付けとはまた勝手が違い、慣れないながらも手早く掃除を終えた。ふうっと一息ついていると、背後からふんふんと鼻を鳴らして、ヨサリオーロが彰の後をついて回る。
「なあに。ちょっと邪魔だよ」
「ぶひゅん」
「……ブラシはちゃんとあとでかけるから」
「ぶふん!」
ぶんぶんと頭を振り、ガジガジとブラシを咥えて暴れるヨサリオーロと、拾い集めたボロを桶いっぱいにして外に持ち出す彰。するとまた、どこからかカタン、という小さな物音が耳に入る。彰は少しばかり顔を顰めると、相手にバレないようこっそりと視線を向けた。
じいっという効果音が聞こえそうなほど、そして、まるで穴が開くんじゃないかと思うほどに強烈な視線を向けてくる。
「……手際は、良い。馬にも、慣れてる。でも、なんでこいつが……」
その正体こそ、先ほどまでそっぽを向いて仕事をしていた彼女──星七であった。体半分を壁際に隠しながら、彰の仕事ぶりを観察するかの如く、重苦しい視線を投げかけている。そしてその後ろでもそもそと動く白い何かは、フワの鼻先だろうか。
「…………あー、そろそろボロを捨てようかな。水も変えて、新しい寝藁も増やしておきたいかなー……」
そうあからさまに呟いて、またもや視線をちらり、と向けた。すると、星七はようやくそれを察してくれたのか、そそくさとフワの馬房へと戻っていく。
ほっと一息ついて、彰はようやくボロ入りの桶を持って馬房を出た。猫車にそれらを積んでいると、見覚えのある声が背中から飛んでくる。
「彰、おはよ」
「……おお、空太。おはよう」
ひらりと片手を振って、空太がにこやかに笑っている。ひんやりと冷たい朝の空気の中、笑みが眩しいほどだった。
「なんか、お前におはようって言うの、変な感じ」
「言ってただろ。前は、毎日」
そうか、と端的に言葉を返す。昔を思い出されるかのようで、どことなく照れくさい。空太は特に何かを感じるような様子もなく、自身の襟元を直しながら言った。
「迎えに来た。何がどこにあるか、まだ分んないだろ」
「あー、ほんと?助かるよ、ありがとう」
「いいっていいって。今日はヨサリのために来たと言っても、過言じゃないしさ」
「検温とか終わってからでもいい?」
「もちろん。俺も声かけておきたい」
長靴を鳴らしながら、元来た道を戻る。朝の空気は澄み、遠くの景色がくっきりと見える。美浦の朝がやってくる瞬間を目に焼き付けながら、二人は厩舎への道をたどった。
「……どうだ、調子は」
「うん?ああ、まだ歩様とかは見れてないから分からないけど……体調自体はよさそう」
「そっか。なら……いいんだけどな」
含みを持たせたその言い方に、彰は足を止める。二、三歩先を行く空太も振り返って、綺麗な形をした眉を下げた。
「……お前は?」
「何を心配することがあるの」
「いや、だって。無理やりここに連れてきたのは、俺だから」
そっと目を逸らされる。彰は一人、はあっとあからさまにため息をついて、空けていた距離をぐっと踏み込んで詰めた。
そして、彰よりも十センチほど低い相手の額に、勢いづけて自身の中指を跳ねさせた。鈍い音がして、思わずといった様子で空太から苦悶の声が上がる。
「──ぐあッいったあ!?」
「成敗!」
「なにが!?どういう理屈で!?っていうか、すげえいってぇんだけどお前のデコピン!」
「気負い過ぎているように感じたので、払っておきました!」
「悪霊みたいな言い方すんじゃねえよ!怖いだろ!」
目を見開く空太に、彰は笑った。感情を表に出して取り乱すさまが、本当に昔に戻ったかのように思えたからだった。くすくす、けらけらという笑い声が、静かな朝の厩舎に響く。
「──感謝してるよ、お前には」
目尻に溜まった涙を指先で押さえ、彰は口元をほころばせた。
「今日は、ヨサリオーロに乗るんだろ?」
「……そりゃあ、そのつもりだけど」
「それなら、自信もって貰わないと。俺が一番上手く乗れるんだ、って気持ちでいてもらわなきゃ、ヨサリは乗せてくれないよ」
きしし、と歯を見せてまた笑う。心配なんてされる必要はないと、分からせてやりたかった。自分のことよりも、ヨサリオーロのことに今は集中してほしかった。
彼との約束と、彼自身の誓約を叶えるために。
少し長い栗色の髪をくしゃりと手で遊ばせて、空太もどこか満足そうに鼻を鳴らした。
そして、その様子を窺う影が一つ。厩舎の中から、楽しそうに響く二つの声を聴き、ぐっと唇を噛み締めている。
「……ああ、やっぱり」
知り合いだったんだ、と。そう呟く小さな影。その囁きには、ずんと重い落胆の色が確かに滲んでいた。
「絶対、認めない。厩舎の人たちがいいって言っても、あたしだけは」
フワが静かに、凪いだ瞳でじっとその様子を見つめ続けていた。
*
彰とヨサリオーロは、呆然とその光景を見つめていた。目の前に存在する景色が、その場にいても信じられないような気分に陥っていたのである。
「……すごい!」
「ぶるる……」
トレーニングセンターでの、朝。約二千頭ものの現役競走馬たちが、それぞれのトレーニングコースへと、向かうべく、集団となって輪乗りをしていた。鹿毛、栗毛、芦毛、それに青毛──多種多様なサラブレッドたちが、一堂に会する瞬間。競馬学校に通っていた彰も、小さな牧場暮らしであったヨサリオーロも、見たことが無い。息を飲むほど、その壮観の大きさに一人と一頭は圧倒されてしまった。
「そうかあ彰、これも初めてかあ」
「……なんだよ、いいだろ」
腕を組み、うんうんと一人頷く空太。その様子に少しばかりかちんときて、彰は不満そうに眉を顰めた。それに合わせてかヨサリオーロはぶうっと唇を震わせて、長い舌をべろりと突き出す。
すると相手は揶揄うような口調で、ふんっと鼻を鳴らして笑っていた。
「いやー、競馬について、彰より俺の方が知ってることがあるなんてね……と、思ってさ!」
「ヨサリオーロ、行こうか。付き合ってられないや」
「ぶふふん」
「ちょちょちょお前ら!勝手に行こうとすんな!百歩譲ったとしてもそっち逆方向だしさぁ!」
縋りつくようにして引き留める空太に、冷たい目線を投げかける一人と一頭。横を通りすがる人々は、見知らぬ競走馬と担当に頭を下げるのが、あの高伊空太であるということに驚きを隠せないでいるようだった。ざわつく周囲に気付いた彰が、ため息をついて頭を上げさせる。
「あのさ。そうは言うけど、当たり前じゃん」
「……なにが?」
「俺は一回、この世界から逃げた。戻ったのも、中央じゃなくて地方だったし。……でも、空太はそれ以上に、ずっとここでやってきてるんだから……お前の方が、知識が上に決まってる」
父親の威光を背負っていると言われようとも。新人の癖にとネット上の掲示板で叩かれようとも。最年少リーディングを獲ったあとも、この世界で乗り続けてきた。彰とは間違いなく、経験や知識の差が天と地ほども違うだろう。
「いやまあ、俺もだからといって負けるつもりもないし……まだまだだけどさ。追いつくために、頑張るから」
「彰、お前ってやつは……」
──なぜだか、空太は彰のことを同格か、それ以上に見ている節がある。しかし本来であれば、こうやって会話をする機会さえないだろう。それほどまでに置かれた立場や、知識量なども差は歴然だ。だとしても、互いに競い合った仲として──負けるわけにはいかない。彰だって、相応の覚悟を以ってここまで来たのだ。
自身の愛馬を、この広い舞台で羽ばたかせるために。
しかし、それを聞いていた空太は、なんとも不思議な表情をしていた。なにかが歯の間に挟まったかのような、曖昧かつ微妙な顔をしてみせたのである。
しかしそれもたった一瞬の出来事であり、彰がそれを視認する前に、いつもの爽やかな笑みに戻っていた。ヨサリオーロだけがそれを知っていて、訝し気に「ぶひん」と嘶く。──俺を放って話をしたくせに、なんだその顔は。そう言いたげな態度だった。
すると、遠くから手を振って駆けてくる人影が見えた。ひと際目立つその金髪で、その場にいたものはなんとなくその正体を知っていた。
「須和オーナー……いや。今日から厩務員の彰ちゃん!おはよーっ!」
「中丸先生、おはようございます」
「ウス。おはようございまーす」
「うんうん、お二方とも元気そうでなにより!……本当はCWのコースに行く予定なんだけど、とりあえずヨサリオーロだけは今日、別行動ね」
「わかりました、よろしくお願いします」
そう会話する二人の隣を、見知った馬が通り過ぎていく。競馬ファンからしてみれば、その光景はまるで夢を描いたかのような図であっただろう。
小柄な馬体の白毛馬でありながら、今年の天皇賞秋を勝ち得た牡馬、有馬記念を控えるアマノカグヤマ号。
オープン入り後、重賞を連続勝利。牡馬と負けず劣らずな体つきは、牝馬には思い難い名スプリンター。鹿毛のライソメットは、ちらりとヨサリオーロに視線を投げて去っていく。
そして、安田記念の勝ち馬である芦毛の馬。大きな馬体を弾ませ、ヨサリオーロにぐっと近づいてくるアワアワフワフワ号である。
「ふふん!」
「おお、フワちゃん。昨日はヨサリと仲良くしてくれてありがとう、いってらっしゃい。……ほら、ヨサリもいってらっしゃいは?」
「ぶも!?」
その言葉に振り返るヨサリオーロ。対して近づいてきたフワは、きらきらとつぶらな瞳を輝かせて、長く、切り揃えられた尾を高く上げていた。
「ぶ……ぶ……」
「ふひん……?」
「ぶ…………ひん」
「ふふん!」
唸るようにして、ヨサリオーロが小さく鳴いた。それとは対照的に、フワは耳を機嫌よく動かして四つ足でリズムを取る。いかにも嬉しそうなその様子を見て、騎乗している担当の男性は、けらけらと楽しそうに笑っていた。
「なんや、新入り君はもうフワと仲良くなったんか!……悪いね兄ちゃん、フワは黒い馬が特に好きでよ」
「どうも。こちらこそ、仲良くしてもらえてるみたいで安心しました」
「あっはっは!そりゃなによりだわ。今日は芝かい?」
「そうらしいですね」
「……ああ朝倉、ちょうどいいところに来たわね。今日はカグヤマと併せ馬して。後ろからそれなりに追ってあげてくれたらいいから」
「ほいほい、がってんしょーち……そんじゃあな新入り!」
男性は快活に笑って、未だヨサリオーロの傍にいたがるフワの手綱を引いた。彰も出遅れまいと、中丸が指示したコースへと向かおうとして、ヨサリオーロに声を掛ける。
「ヨサリ、行こうか」
「ぶひひん……」
「……ヨサリ?」
かりかり、と前足で地面を引っかけるような仕草。彰は首を傾げ、前掻をするヨサリオーロの首筋をなんとなく撫でる。しかし、その動きは止まることなく、かつかつという蹄が鳴る音が響き続けていた。
「どうした?ご飯は、調教が終わった後にちゃんと──」
「……ぶひゅん!」
珍しく、ヨサリオーロはぷいっと顔を背けてしまった。彰に寄り添うこともなく、少し距離を空けてからずんずんと目的の場所へと歩きはじめる。
歩様を確認、異常なし。毛艶も、さほど問題はなさそう。彰は首をまた一人傾げて言った。
「なんだろうな、機嫌悪いのかな」
先を行こうとするヨサリオーロの手綱を引っ張って、隣を歩いた。その後ろから、微妙な顔をした空太が目を細め、見つめている。
「……少し、度が過ぎるかな」
そう呟いた言葉は、集まり始めた美浦トレセンの空気に吸い込まれ、消えていく。
*
馬装を終え、もごもごとハミを噛むヨサリオーロを連れて、芝コースへとやってきた。他の調教馬はダートやウッドチップでの調教が主となるため、こちらの込み具合はかなりまばらだと言える。しかし、初めて芝を走ることになるヨサリオーロにとっては、大層都合が良かった。さくさくと深い芝の感触が珍しいのか、ヨサリオーロはスキップを踏むように、そわそわした様子で足を上げ下げしている。
「それじゃあ、まずは軽く一周してきてもらおうかしら」
「はーい、りょーかいでーす」
「ヨサリオーロ、乗るぞー。止まれー」
かちり、とヘルメットを嵌めた空太が声を掛ける。しかし相手はじとりと相手を睨みつけて、長い尻尾をぐわんと回した。「何指示しとんねん、ワレ」と言わんばかりのその表情に、彰ははらはらと手綱を握ることしかできなかった。けれど空太はけろっとした様子で、軽く首筋を撫でている。
「……空太、補助は?」
「おっ?じゃあ頼もうかな」
手綱を一旦中丸へと預け、足元にしゃがみ込む。履き慣れたジョッキーブーツを支えるようにしてやれば、空太がヨサリオーロの鞍に手をかけた。彰が顔を上げると、なぜだか相手はくっくと喉を鳴らして笑っている。
「……なに?」
「まさか、お前に騎乗の補助される時が来るなんて……と思って」
「空太、さっきから何?今茶化すようなタイミングじゃないと思うんだけど」
「いやいや、喜ばしいから言ってんのよ。どうよお兄さん、バレットの仕事もしてみない?」
「ばかなこと言ってないで、落とすよ」
「ちょ、本気で落とそうとすんな!分かったって!乗るから!」
軽口を叩く空太の脚をぐらつかせたら、相手はすぐさま謝罪の言葉を述べた。せーの、の掛け声でぐっと力を入れ、ヨサリオーロの背へと飛び乗る。耳を絞ったヨサリオーロが、何か言いたげにもごもごと口を動かした。
「よーし、乗れたわね。じゃ、走ってきて」
「オッケー。ヨサリ、行くぞ」
ぐっと腹に力を入れる。いわゆるゴーサインだ。空太ほどの騎手であれば、その仕草だけですっと馬は前に出る──はずだった。
「……あれ、ヨサリ?」
しかし、ヨサリオーロは動かない。白けたような顔をして、晴れた空をぼーっと見つめている。彰は思わず首を傾げた、附田で熊谷や弥助が乗ってくれた時には、こんなことは一度もなかったからだった。
「なにかしら、ボロかな」
中丸が様子を見守るも、ヨサリオーロの尻尾はだらんとやる気なく下がったまま。風の音だけが聞こえる芝コースで、拗ねたようにそっぽを向く黒い馬の姿がそこにあった。
「ヨサリ、やっぱり今日調子悪い?」
「ぶひん……」
声をかけると、きゅるん、と丸い目が彰を見た。熱発はなかったが、いまいち先ほどから調子が良くは思えなかった。輸送されてきたばかりなのもあるのか、走ることへの意欲が少し薄れているように思えた。今までこのようなことはなかったというのも手伝って、彰はヨサリオーロが酷く心配になったのである。
「すみません、中丸先生。今日はちょっと……」
「うん。初めてのことが多すぎて萎縮しちゃったかな?走らせなくても、引き運動くらいは……」
「──いや、まだだ」
きっぱりと、その声は否、と答えた。未だヨサリオーロの鞍上にいた空太が、ゴーグルの向こう側から、鋭く視線をこちらに投げかけていたのだ。彰は「でも」と返事をしようとしたが、片手でそれを止められる。
「離れたところで、見てて」
中丸は何かを感じ取ったのか、小さく頷くと彰の手を引いた。困惑した様子で立ち止まっていたが、彰もおずおずとその場から離れていく。
大きさが豆粒ほどになった頃、空太はそっぽを向くヨサリオーロに対して語りかけた。
「ヨサリオーロ。お前、彰が取られてつまんないんだろ」
その言葉に、当たり前のことだが、ヨサリオーロは言葉を返さなかった。しかし、代わりに二つの耳はぎゅっと絞られて、不機嫌さを表すかのようにぷるるっと振るわれる。その様子に、空太は思わず苦笑交じりで眉を下げた。
「こっちに来てから、まだ彰と遊べてないもんなあ」
「ぶぶぶ……」
まだ、附田で中央へのスカウトをしていた頃の話だ。牧場の隅に、サッカーボールが転がっているのを見つけた。彰にも、競馬意外に趣味があっただなんて──そう思いながら、「サッカー好きだったの?」と訊ねたのだ。しかし、返ってきた答えは空太の想像しているものとは大幅に違っていた。
『ああ、それヨサリの』
『……あいつって馬だよな?中に小学生男子が入ってたりとかってしないよな?』
『正真正銘のサラブレッドだよ』
けろりとした顔の彰が言うに、ヨサリオーロはボールを転がし合って遊ぶのが好きなんだと。上手いことドリブルだって出来て、長くそれを続けることが楽しいようだ、と。
その時は、奇妙な馬もいるもんだと思った。しかし実際にその様子を見るに、どうやらヨサリオーロは、彰と過ごす時間を楽しんでいるのだな、と分かった。近くで様子を見ていた自分に、悪戯半分で彰からパスを回された時。あの瞬間のヨサリオーロの顔つきは、今でも忘れられたもんではないのだ。
だから、美浦に来てからヨサリオーロとの時間を取れていないこと。そして、あちこちからちょっかいを掛けられている彰にいじけて、嫉妬をしてしまっている──そう考えたのである。
実際、ヨサリオーロに騎乗する直前で彰と会話をした時の、ヨサリオーロの不満そうな様子と言ったら!
「でもな、ヨサリオーロ。あいつはお前のために色々やってんだよ」
そりゃ、勝手にやることなすこと決められて、走らされて、鞭で叩かれて、そりゃないよと思うかもしれないけれど。
そう呟くと、ヨサリオーロはぐっと首を曲げて空太を見た。水色の目が斜めに吊り上がってはいるものの、「ぶるるっ」と嘶く声は、嫌なものを感じない。
──走るのは好きだ。それであの子に褒められるのはもっと好きだ。
なんとなく、そう言っているように思えるのは、人間のエゴなんだろう。
それでも、空太はこの奇妙な生き物のことを、信じて見たくなったのである。
──自分が一番信頼している相手は、目の前の彼が信じるものと、全くもって同じ人物なのだから。
「ヨサリオーロ。頼んでやるよ、彰とここで遊べるように」
「…………ふひ?」
明らかにぎょっとした目で見られて、空太は不満そうに口を尖らせた。どうやら、空太はただのおじゃま虫だと思われていたらしい。千疋屋の果物を差し入れした時よりも、随分と輝かしい眼差しでこちらを見つめ返していた。
「彰に限ってないだろうが、やっかみがないよう俺も見ておくさ。……星七のことはしばらく我慢してくれ、あれは時期に何とかなる」
「ぶふう……」
一人の厩務員に対し、騎手としてあまりにも度を超えた懸念ではないか──中丸や星七、もしくは附田の工藤調教師などがこの場にいれば、呆れ半分でそう提言しただろう。しかし、それを深堀して突っ込もうという人間は、生憎ながら存在しなかった。強いて言えば、その条件にぽっくりと頷くサラブレッドが一頭いるばかりである。
少し不満が残りつつも、まあいいか、といった様子だ。妥協を飲み込んだ雰囲気のヨサリオーロの首筋を撫で、空太は話を切り出した。
「なあ、ヨサリオーロ。お前は、たくさんの人間の夢を背負ってここにいる。分かるだろう」
「ぶるるっ」
「そうだ。彰の夢を背負ってる。もちろん、まあおまえにとっちゃついでだろうが──俺の夢も」
でもな、と続けて口を開く。乾き始めた喉奥に、ごくりと唾を流しいれる。
「それは、ここにいる競走馬、全てに言えるもんだ」
約二千頭。それも、証明された確かな血統と才能を携え、勝ち上がってきたサラブレッドたちばかりだ。そして、それを世話するホースマンたちも、厳しい試験や大きな壁を乗り越えてきた強者のみに限られる。大口を叩いた星七だって、のらりくらりとした調教師の中丸だって、一人前のホースマンなのだ。
「いいか、周りの奴らを下に見るな。確かにヨサリオーロの……お前の末脚はすごい、附田では誰も相手にならない脚だった──けど、こっちなら?」
ボッと、氷色の目に小さな火が灯る。微かな、だが確かな手ごたえを感じて、空太は口元を楽しげに引きあげた。
「スタートダッシュが上手い奴。ポジション付けが上手い奴。パワーで馬群を抜け出てくる奴。末脚で全てを振り切る奴──これを、全部一頭で出来る奴。そんな化け物みたいな奴らが、ここにいる。お前はどうだ?」
馬相手に、空太はそう訊ねた。するとヨサリオーロは荒く鼻息を鳴らしながら、カチンと音を立ててハミを噛み直す。
「ふひん!」
おうとも、か。それとも、上等!か。しかしどう聞いたとて、それは負けず嫌いの精神が全面的に出た返答であるように思えたのだ。それならば、と空太は改めて手綱を握り直す。ぴんと張られたそれを伝って、意思の強さがハミに繋がっていく。
「やる気はあるな?」
「ぶふふん!」
「なら、俺がお前を連れて行く。みんなが夢見た、その先へ──ヨサリオーロを、この高伊空太が!」
ヨサリオーロの視線が前を向く。そっぽを向いたのではない。空太が視線で示した道筋を辿るようにして意識が向けられたのだ。
附田時代の騎手、熊谷弘成とはまた違った方法で──高伊空太はヨサリオーロに認められた、その瞬間であったのだ。
空太の片手が挙げられて、指先が丸を形どる。遠くで様子を見ていた彰が、ほっとしたように手を振り返した。
「彰が心配してるぞ、さあ、一周走って迎えに行こう」
「ふひひぃん!」
重心を後ろから前に。軽く腹周りに合図を出せば、美しい青鹿毛の馬はステップを刻んで、走り出した。
一瞬の並歩。それから、感覚を確かめるように速歩へ。空太の体の軸はぶれることなく、ゆっくりと進むその瞬間をじっくりと確かめていた。
「いくぞ」
「ぶふん!」
言われずとも。そう言いたげな雰囲気を漂わせ、駈歩へと移行する。前後に揺れる、ブランコのような感覚がふわっと空太の全身を覆う。
(──あれ)
空太は、騎乗したまま器用にも己の首を傾げた。
よく、名馬は乗った瞬間に名馬であると分かるのだ、という。それはもちろん、乗った側の経験がものを言う体験であることは確かだろう。しかし、ヨサリオーロの背中は案外──こう言ってはなんだが、かなり普通に思えた。
(硬すぎず、柔らかすぎず……バネはあるし、バランスがいいってことなのかな)
そんなことを考えていると、ヨサリオーロが走りながらこちらを見ていることに気が付いた。何かを待っているような、そんなそわそわした雰囲気がにじみ出ている。
──まさか、と思った。
ごくん、と唾を飲み込んで、空太は少し口をすぼませる。チッチッチ、と。舌鼓を打って加速を促す。すると、ヨサリオーロはぐっと脚の力を込めて──飛んだのだ。
いや、駈歩であることに変わりはない。しかし、空太にはそれが飛んでいるように思えたのだ。
(……さっきより、滞空時間が長くなってる!?)
広いストライドで動く長い脚。そこから生み出される推進力は、想像を大幅に超える加速力を生み出した。規則正しく、落ち着いた呼吸音と、風を切る音。そして、リズミカルな足音が耳に飛び込んでくる。
(こんなに速いのに、揺れが小さい!最大速度……どこまで伸びる?ずっと?先が見えないなんて、そんなことあるのか?)
意図的に、走り方を変えたのが明確に分かった。その証拠に、目の前の黒い馬は自慢げに、ぺろりと舌を出してご機嫌な様子だ。
「……は、はは」
「ふひん?」
「……あっははははははは!」
「ぶるるるるっ!?」
突如大きな声を上げた空太に、ヨサリオーロは酷く驚いた。急速に走りを止めると、勢いよくその身体の上を空太は滑っていった。その反動で宙を舞い、隕石の如く地面にどしゃりと崩れ落ちる。
『……うわあーっ!?空太が落ちたぁーッ!?』
遠くから、悲鳴に近い声が風に乗って聞こえてくる。ラチの内側であおむけになった空太は、青空でいっぱいの視界にまた笑った。じんじんと背中の痛みが響くようにして伝ってくるが、受け身をとったおかげで大した怪我ではなさそうである。
そしてそこに、ひょこり、と無垢な顔つきのヨサリオーロが飛び込んでくる。大丈夫?なんて訊ねるわけでもなく、「おい、何落ちてんだよ」と言いたげな、不満そうに目を細めた顔つきだった。
空太は目を丸くしてそれを見つめていたが、遠くからざわめく音が聞こえてきて、ようやくはっきりとした意識を取り戻した。
「…………すげえ」
「ふひん?」
「すげえよ、やっぱお前はすげーよ!ヨサリオーロ、お前なら……」
──無敗の三冠、獲れる。
心配で彰と中丸が駆け寄ってくるまで、空太はヨサリオーロの頭に抱き着いていた。ヨサリオーロは目を白黒させて、助けを求めるように「ひん」と鳴く。
空太は、笑っていた。少しばかり、鼻声であるかのように思えたが、吹きすさぶ冬の風が、それを丸ごと攫ってしまっていたのであった。
「やっと、あえた」
その日、また一人の男は、運命と出会ったのだ。
どこまでも遠く、叶うはずのない願いを現実とするための、夢のかけらを。
私事ですが、乗馬クラブに行き始めたので多少は描写にリアルさがプラスされていたらいいなあ……と思います。馬かわいい。あと馬は返事をする。マジ。