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週末、夜さりに夢を見る  作者: 藤見 ときん
中央競馬 美浦トレーニングセンターにて
11/16

第11R 美浦トレセンにて

1週間お休みをいただきました。ぼちぼち再開して参ります!リアルダービーまでには本編も間に合わせたい……!

ちなみにダイヤモンドSはメロディーレーンちゃん本命にて楽しんでいこうと思います、仕事だけど。そんな気持ちで初投稿です。


■22.02.19 仕事でレーンちゃんタオルを買い逃しラジオを聞きそびれました


ヨサリオーロという馬は、全くもって奇妙なやつだった。


幼少期から母親と離され、ほとんどを人間と過ごしていたから。もしくは、彰やひかるが溢れんばかりの愛情を持って接したがゆえに、どこか常識離れした競走馬に成長してしまったとも言えるだろう。

しかし、それを踏まえてもなお、ヨサリオーロは変な馬であった。


「ほら、ヨサリオーロ号。こっちおいで」

「ぶひゅん……」


手綱を引っ張る女性の厩務員と、明らかに嫌そうな表情を浮かべるヨサリオーロ。意固地として馬房へと入らない彼に対し、遠くからそれを見ていた調教師、中丸は首を傾げた。


「慣れない場所だから、不安なのかしら」

「あー……いや、あれは……」


そう述べようとして、彰は口を噤んだ。名だたるホースマンたちの中で、自分のような者が発言をするということが、なぜだか恥ずかしく思えたからだった。しかし、それを見過ごす中丸ではない。彰の肩に手をかけて、にっこりと満面の笑みを浮かべてみせる。


「なに?言ってみて」

「……あ、えっと……ヨサリは今まで、他の馬が隣にいるってことがなかったので……」


美浦トレセン内、中丸厩舎。そこに彰一行は訪れていた。これからの住処となる場所であるにも関わらず、ヨサリオーロはつんとした様子で馬房から顔を背けている──と、いうよりも。


「その……お隣の馬が気になるのかなって」


彰は頭を掻いて、遠慮気味にそう呟いた。

思い返せば、附田にいた時もそうだった。至るところの厩舎に行っても、彼はどうやってか逃げ出してきて、須和牧場へと戻ってくる。工藤厩舎の僚馬と追切をかけても、ぎりぎりまで離れた背後にいるか、さっさと追い抜いて前に出ようとしてしまう。

端的に言えば、ヨサリオーロは自分のことを人間の仲間だと思っていて──馬はたぶん、苦手だ。


ふんふん、と鼻を鳴らす音。その正体こそ、隣の馬房からひょっこりと顔を出す馬であった。おそらく芦毛であろう真っ白な馬体と、桃色の鼻先。ヨサリオーロとはまた違う、丸くつぶらな目でじっとこちらを見つめている。ヨサリオーロはうざったそうに視線を返して、ひぃん、と彰を呼ぶようにして鳴いた。


「なんだ、フワが気になるのか」

「……フワ?」

「アワアワ、フワフワ号。この子の名前よ」

「えっ、あのフワフワ号!」

「そうだ。俺たちは略してフワちゃんと呼んでいる」

「その呼び方はまずいんじゃないでしょうか!?」


ゆらゆらと首を動かす芦毛の馬。名前を呼ばれたことが分かるのか、耳をぴこぴこと声の聞こえる方向に動かしている。ヨサリオーロとは違うタイプだが、彼もまた愛嬌のある馬であることに違いなかった。

仕方なくヨサリオーロの手綱を貰いにいくため、彰はおそるおそる二頭の間に近寄った。するとどういうことか、アワアワフワフワ号が敏捷な動きを見せ、突然彰の背後から帽子をぱっと奪い取る。あっと声をあげる前に、彰の肩にアワアワ フワフワ号の頭が乗った。

なぜか心なしか機嫌も良く、ころんと頭を近づけながら、すんすんと匂いを嗅いでいる。そしてそれを良しとしなかったのは、わなわなと体を震えさせたヨサリオーロであったのだ。


「ぶひぃぃん!」

「ふふん?」

「ぶふん!ぶっもっもっもっもっ……」


大きく嘶いてから、彰を引きずるようにして馬房へと入る。しかし相手は気にする様子もなく、すんすんと鼻を動かして首を伸ばしてくる。ヨサリオーロへ興味があるのか、何度か呼びかけるようにぶるるっと鳴いた。しかし、ヨサリオーロはそれを無視するように、黒の馬体を横たわらせて、どかっと寝藁へ座り込む。


「……ひとまず、入ったわね」

「ヨサリ、お隣さんと仲良く……とまでは言わないけど、喧嘩ふっかけちゃだめだよ」

「ひん!?」


ショックを受けるヨサリオーロをしり目に、彰はさっと身を翻して馬房を出た。出入り口が塞がれて、ひんひんと悲痛な泣き声が響く。それを見て、中丸と空太は困ったように笑っている。


「ほんと、ヨサリオーロは彰にべっとりだな」

「……なんというか、申し訳ない」

「いいの、いいの。そのためにあなたもここへ呼んだんだから」


含みを持たせたような言い方をしてみせた中丸。彰は目をぱちくりとさせてその意味を考えるが、「さ、これからのこと考えましょ」と中丸に腕を引かれたため、思考を中断して後をついていく。


「……せな、いくぞ」


空太が声を掛けたのは、先ほどヨサリオーロを馬房へと入れるべく、手綱を引いていた厩務員の女性だった。ぐっと口をまっすぐに結び、彰を見ている。

「おい、せな」

「わかってる!」


荒い語気で言葉を返した女性は、安全靴を鳴らしてその場を去っていく。ヨサリオーロと相対した時と比べ、随分ととげとげしい印象だ。空太は頭を片手で押さえながら、波乱の予感を覚えて小さくため息をついた。



「──と、いうわけで!」


ぱん!と手を叩くと、その場の空気がぴりりと締まった。彰もつられて背筋を伸ばす。部屋にはストーブの火が焚かれていて、ふわふわとした暖かい空気が漂っていた。席には中丸調教師と彰、後から厩務員の女性と空太が扉から入ってくる。冷たい風が一瞬吹き荒んだが、部屋はすぐさま暖かい室温に戻った。


「はじめまして、須和くん。中丸です……今日は来てくれてありがとう。驚いた?」

「あ、その……嫌とかいうわけではなく。びっくりして」

「まあ、素直だこと」


彰は自分の膝ばかり見つめていた視線を、そっと向かいの席に座る相手に戻した。

尾花栗毛のたてがみのような髪は長く、手入れされてまとめられている。シャープな印象を持たせる骨格と顔立ちは中性的ではあったものの、間違いなく男性。しかし、飛び出す言葉はどこかたおやかに思える女性口調であった。そのアンバランスさに、彰は思わず言葉を詰まらせる。


金色の髪をさらりと後ろに流して、男性の調教師こと、中丸は笑った。対して空太はちょっとばかし呆れたような表情で顔をしかめ、肩をすくめている。


「こんなんだけどいい人だし、腕も確かだから心配すんな」

「そうそう。喋り方はただの癖みたいなものだから、あんまり気にしないでもらえたら嬉しいな」


さて、と中丸は話を切り上げた。空太は足を組み、椅子を傾けるようにして座っている。滑って怪我をするんじゃないか、と不安になったが、案外バランスよくゆらゆらと爪先が揺れているのが目に映った。


「では、須和オーナー。今日は君に頼みがあって、美浦まで来てもらいました」

「……なんでしょう」


怖がらないで、と中丸は自虐的に笑った。しかしそれすらどこか爽やかに感じられて、なぜだか申し訳ない気持ちになる。話の内容なうっすら察してこそいたが、彰は大人しく次の言葉を待った。


「ヨサリオーロ号のお世話を頼みたいの」

「……そう、ですよね」


彰はうなだれた。散々空太に言われてきたが、ここにきてやっと確証を持てたからであった。


女性の厩務員はまた、ちらりと彰を見てから額にしわを寄せている。

厩務員の仕事を何年も続けている自分が、何度引っ張っても動かなかったヨサリオーロが、彰が持ち替えた途端、自分から馬房へと入っていったのを目の当たりにしたからだ。もちろん、隣の馬房にいたアワアワ フワフワ号のこともあるだろう。元々ヨサリオーロの傍にいたのは彼だった、ということもあるだろう。

しかし、逆恨みとまではいかずとも──深いところにある、己の仕事への自尊心が傷つけられたような気がして、思わずぎちりと相手を睨みつけていた。


「……そうそう、聞いてるわよ。須和オーナーと離れたがらないそうね?」

「なんといいますか……でも、そうなんでしょうか」


預けた厩舎から逃げ出す。追切をちょっとサボる。吠えて威嚇する。奇妙な行動の数々の裏には、必ず何かがあるとは思っていた。しかし、いざその根本的な原因が自分にあると言われると、いたたまれない気持ちになってくる。


「ヨサリオーロは、早いうちから母馬と離されたんだっけ?」

「ああ、そうです。母馬が初産だったこともあって、体調が悪化してしまって……他に比べたら、かなり早いうちから離してしまったと思います。代わりに世話をしたのが俺と、うちの牧場の従業員でして……」


母、メイジョウツバキ号の乳の出も良くなかったので、半分以上は人口哺乳をして育てていた。はじめてということもあり、当時の彰は寝る間も惜しんで、幼駒であるヨサリオーロの世話をしていた。

──そのせいあってか、放牧の時間は近くに彰がいれば、幼いヨサリオーロは柵ぎりぎりまで寄り添ってくるようになっていた。

真っ黒の小さな仔馬が、こちらを見つけると一目散に駆け寄り、きゅんきゅん鳴く。その姿に、当時の彰の心が奪われないはずがなく。


『腹減ったな、ミルク飲むか?』

『ひんっ』


『ツバキの体調が悪いから、悪いけど今夜は離れて寝てもらうぞ』

『ふひぃん……』

『…………俺と一緒に寝るか?』

『ひんっ!』


『こらこら、ついてくるな!お前の馬房はあっち!』

『くひゅん……』

『…………今夜だけだぞ』

『ふひんっ!』


──そうして年月を積み上げてきた彰の携帯端末は、二年分のヨサリオーロの写真でいっぱいだ。ついつい、ひかると一緒になって甘やかしてしまう。もちろん、体重管理や調教などはしっかり行ってこそいるものの、どうしても寂しげな目で見つめられると、彰も馬房で仕事をこなしたりと、常に一緒に行動を共にすることが多かった。

うーん、と中丸は腕を組んで、軽やかな笑い声をあげる。面白がるような、はたまた諦めの色が垣間見えるような、絶妙な表情を浮かべていた。


「須和オーナー、無理よ」

「えっ?」

「ヨサリオーロと須和オーナーを離すことは、現段階では無理だと判断しました」


空太は話を聞きながら、黙って目を閉じた。ですよね、知ってた。そういう顔だ。


「親離れができてない二歳馬なんて前代未聞だけれど、こうなったら仕方がないわ」

「──本当に、すみません」


まさかこんなことになるだなんて、想像することもできなかった。ずっと附田で、怪我のない程度にレースへ出走して、引退して、それを最後まで見届けようと思っていたからだった。

青褪めた顔で頭を押さえていると、からりとした明るい声で「大丈夫、大丈夫!」と笑い飛ばされる。


「一応、試してみたいこともあるし。それ以上にヨサリオーロくんには期待してるわ」


心配しないで、と軽やかにウインクをひとつ投げかけられた。ひとまず、少しだけ安心するも、彰はずっと抱いていた不安をおずおずと口にした。


「あの……でも俺、競馬学校を卒業できてなくって」

「ああ、そのことね。それなんだけど──」


中丸が口を開いたその瞬間、言葉を遮るかのように、ドンッと力強くテーブルが叩かれた。音の出どころを探ると、厩務員の女性が俯きながら、両手で勢いよく立ち上がっていたようである。彰は驚いて目を見開いたが、空太はぎょっとした表情で、急ぎ女性に手を伸ばした。しかし彼女はそれすらもすり抜けて、がつがつと靴を鳴らしながら彰の元へとやってくる。目の前でぴたりと止まると、己の拳をぐっと握りこんだ。


「……今、なんと?」

「…………は?」

「JRAの競馬学校を、卒業していないと言ったのですか?」



黒のショートカットが、ふるふると揺れている。目元は隠れて見えないが、ふつふつと地の底から湧きあがるようなその声は、何かしらの苛立ちと怒りに満ちているような気がしてならない。

しかし、ここで嘘を吐くようなことをするのも気兼ねする。彰は正直に「……そうです」と答えた。すると女性は勢いよく顔を上げ、苛立ちを露にしながら彰を強く睨みつけた。


「──競馬学校を()()()()()()()()()()奴が、この中丸厩舎で競走馬の世話をすると言うのですか?」

星七(せな)!」


空太が止めに入るが、星七と呼ばれた女性は大きな目をきつくつり上げて、どこまでも鋭い視線で彰を射抜いた。握った拳を机に叩きつけ、大きな音を立てる。


「中丸先生はすごい人です。中丸厩舎はすごい場所です。先ほどのアワアワフワフワ号だって、今年の安田記念の勝ち馬です。それなのに、一頭の競走馬すらまともに躾ができないあなたが、どうしてここで働けると思ったんですか?」

「星七、やめろ。連れてきたのは俺だ」

「黙ってください。──JRAに認められてすらいないあなたに、ここにいる資格はありません」


星七はそう言い切ると、背を向けてつかつかと歩き出した。まるで壊れそうな勢いを伴って、部屋の扉を開ける。冷たい空気が入り込んで、一気にその場が冷え込んだように思えた。


「お帰りください」


ひゅうう、と風が鳴く。彰は何度も瞬きをしたまま、口を閉ざしたままであった。そんな一触即発の空気を破ったのは、調教師である中丸の一言だった。


「星七、扉を閉めなさい」

「っ……ですが」

「閉めなさいと言っています」


端的な言葉であった。星七の喋りが焼き焦がすような炎に例えるのなら、中丸の喋りは冷たかった。どこまでも鋭く、氷のように背筋を凍えて震えさせるような威圧感すらあった。調教する(教える)立場における人間が持つ、独特な雰囲気を漂わせていた。

星七はぐっと唇を噛み、多少乱暴ではあったものの、扉をすぐに閉めた。目線で促され、そっと元居た席に戻る。彰も静かに椅子に座り直した。


「星七、謝りなさい」

「っだって、こんな人を厩舎にだなんて──」

()()()()()()()()


ひゅう、と息を飲んだ音が聞こえた。先ほどまでつり上げられていた目が、大きく見開かれている。中丸の声は冷静であり、怒りを漂わせていない分、不気味に思えた。真実ばかりを伝えていた。


「競走馬だけがいても、厩舎では何もできない。馬主が預けてくれるから仕事ができる。信頼を裏切るような真似はできない」


中丸はすっと立ち上がって、彰の方を向いた。ぐっと深く頭を下げると、黄金色の長い髪がぱさりと落ちる。


「すみません須和オーナー、私の監督不足だわ」

「…………っすみ、ません、でした……」


少し時間を空けてから、星七ものろのろと頭を下げた。彰は少し困った様子を見せてから、おずおずと口を開いた。


「いえ、別にいいです」

「本当に失礼なことをしてしまって、申し訳ないと思っているわ。あとで指導を」

「いえ、本当に大丈夫です。そこは全然どうでもいいので」

「え」


蛙がつぶれたような声をあげて、星七が顔を上げる。目元がひくひくと引き攣っているのは、驚きか、それとも話を切られたことによる苛立ちか。

彰は一人、納得するように頷いて言った。


「というか、そう思われるのも無理ないです。おそらくですが、あくまでも俺が……えっと、私が担当するのはヨサリオーロ号だけ、ですよね?」

「そうなるわね。厩務員、というよりヨサリオーロの……」

「──世話もできる帯同馬か、なにかかと思ってください」


ね、と彰は女性に眉を下げて笑ってみせる。星七はその言葉に口元をひくりと歪ませた。それこそ、苦虫を食い潰したような表情をしてみせてから、ぐっと視線を逸らす。


「俺、他の競走馬の邪魔はしませんから」


返事は戻ってこなかった。彰は視線を中丸に戻して、小さく首を傾げて問う。


「ところで次走のお話なんですが……明石屋さんはこちらに一任するとのことで」

「……ああ、もう話はついているのね。助かるわ」


共同馬主である明石屋とは、先日から連絡を取り合っていた。なるべくクラシックには出走してほしいが、体調を最優先。特に、当時のオグリキャップのような出走ローテでないのなら、どのレースに出しても構わない──そういう内容であった。

彰もおおむね同意見で、ヨサリオーロの輸送や仕上がり具合に合わせて考えようと思っている。そう伝えると、脳内の予定とすり合わせているのか、中丸は天井をじっと見つめながら言った。


「そうねえ、地方重賞の獲得賞金を合わせても……ちょっと足りないかなあ」

「やっぱりそうですか。一勝クラスからですかね」

「そうなるかな。年内のレースをどうするかって話だけど……」


彰は少し悩んだ素振りを見せてから、くるりと体の向きを変えて首を傾げた。


「……空太は、どう思う?」


その言葉に、中丸はちょっと笑ったように見えた。椅子を傾けて座っていた空太が、タンッと音を立てて着地する。


「俺は、二歳馬のGⅠを獲れると思ってるよ」


彰はそれを聞いて、一人納得したかのように頷いた。


『──ホープフル、皐月、ダービー、菊花。それから有馬。無敗でここを獲る。そうすることで、俺はやっと()()()()()()()()


車内でそう言っていた空太の姿を思い出したからであった。ふぅん、と中丸は相槌を一つ打って、隅に置かれていたカップのコーヒーを口に含んだ。


「血統的にも言わずもがな、ホープフルステークスね」

「千六でもいいけど、距離はあればあるほどいいと思う」


GⅠレースの前に、一度練習がてらのレースを挟みたい。そのため、少しでも日付の間隔がある方が良いという理由もあった。しかし、中丸は口には出さなかったが──空太はホープフルステークスを選択するであろう、ということを読み取っていたのである。


「それなら」


そう言うと、ぱっとスケジュール表を取り出して、ペンライトで壁に掛けたカレンダーの日程をなぞってみせた。紅い光に照らされて、数字が皆の前に示されていく。


「年内の二歳馬が出られるレースで、なおかつなるべく中距離(ミドルディスタンス)に近いとなると──百日草特別、黄菊賞、十二月ならエリカ賞かな」


彰と空太は視線を交わし、その言葉に頷く。なんとなく、互いに次言うべき言葉を分かっていた。


「百日草特別に向かいましょう」

「ホープフルを控えるなら、余計な輸送は避けた方がいい」


ヨサリオーロはたった今、今日美浦に輸送されてきたばかりだ。体調の問題こそなさそうだが、それにまた時間を取られてはトレーニングもできなくなる。黄菊賞は京都、エリカ賞は阪神競馬場でのレースである。美浦トレセンが置かれている関東で行われるのは、東京競馬場にて開催される百日草特別のみであった。

阿吽の呼吸を見せた二人に、中丸は小さく笑いをこぼした。「じゃあ、決定ね」と上機嫌でペンを片手で回す。


「時間がないわ。様子を見ながらだけど、明日からさっそく仕上げにかかります」

「はい、よろしくお願いします……中丸先生」

「……うん、イイね。オッケー、任せて」


話は終わった、とばかりに、中丸は再度手を叩いた。パンパン、という乾いた音と共に視線が集中する。


「では、ヨサリオーロ号は次走、百日草特別に出走登録をしておきます。方向性としてはそこからホープフルステークスへ。年内は芝中距離二戦、ということで」


ピッ、と中丸の視線が鋭く一人に向けられる。それを受けた彼女は、今までだんまりとしていたが、己の肩を小さく震わせて視線を返した。


「星七。馬房に様子を見に行ってちょうだい。どこに何があるか、須和オーナーに教えてあげて」

「…………分かりました」

「ありがとう。……喧嘩しちゃダメよ」

「分かってます、子どもじゃないんですから」


少し大きめの物音を立てながら、星七と呼ばれた厩務員は席を離れた。彰も急いで立ち上がり、中丸に一礼をして部屋を去る。半ば駆け足で星七の後を追うその姿を眺めて、中丸はふうっと深い嘆息をもらした。


「……オーナーに、とんでもなく悪いことしちゃったわね」

「あれ、意外と気にしてんすね」

「当たり前でしょ!……別の厩舎に行かれても仕方ないと思ったわ、あの瞬間は」


嗚呼、と声をあげる。扉を開けて帰宅を促したあの瞬間、その場の空気が冷えていくのを空太も感じていた。どうしてあんなにも突っかかるようにして喧嘩を吹っ掛けたのか、その理由こそいまいちよくわかずじまいではあったのだが。

首を傾げていれば、「確かに、空太には分からないかもね」と返される。失礼な、と思ったが、そういうものかと仕方なく頷いた。


「でも多分、彰はあれ、気にしてないっすよ」

「……マジ?」

「うん、マジ。多分ね、超()()()()()()()()()()()。足に蟻が登ってきて、ちょっと噛みついてきた、みたいな。ぱっぱと手で払って終わりでしょ」


けろっとした表情で、彰は中丸の不安を一蹴する。思い出すかのような遠い目をして、ふふんと自慢げに笑っている。不気味がりながら、中丸はその意図を尋ねた。


「……ええっと、許してもらえているならいいのだけど。指導と見張りはしっかり私もしておくわ」

「そうしてやって。実害がない限りは大丈夫だと思うけど、むしろ俺が言い返してしまわないように」

「……あんたたち仲、いいわよね」

「お、そう?やっぱそう見えちゃう?でもまあそりゃそうでしょ。だってさぁ、

──競馬学校でどれだけ俺たちが疎まれたと思ってんの?」


からっと晴れた笑顔でそう言い切る空太。しかし、その裏には決して拭いきれない自虐が浮かんで見えた。


「俺と将輝は父親とかじいさんとか、そういう騎手の一家だったから余計に七光りって言われたし、彰も実技だけが取り柄って陰口叩かれてたの、俺たち知ってっから」


──そんなはずないのに、と。少し寂しさを交えて呟く。

のしかかるプレッシャー。日々厳しい体調管理とトレーニングで積み重なる、小さなストレス。そのはけ口となるのも、身近にいる相手に他ならない。共に戦い、競い合う仲間と思っていた相手から、思わぬ言葉を聞いてしまった瞬間。後ろを向く暇はないと知っていながらも、まだ二十歳にすらなっていない年若い少年の心を、言葉は重くのし潰した。


「まあ、とは言っても。俺も最初はめっちゃ落ち込んでたっすけどね」

「こう言っちゃなんだけど、意外ねぇ」

「でしょ?昔からこんな生意気なわけじゃ……あったか。あったけど、当時の俺は負けず嫌いな癖にへなちょこでしたもん。……ま、おかげで年上のお姉さんにはモテてましたけどね」


長く喋って口が乾いたのか、机に置かれていた缶コーヒーを手に取った。かしゅ、という音ともに喉を潤したあと、ふうっと息を吐きだす。


「でも、そこでケツ蹴り飛ばして、背中叩いてくれたのが彰だったんすよ」


彰は生産牧場の一人息子だ。周りの人間に、騎手や調教師がいなかったことは確かだ。頼る人もいない環境で、しかしがむしゃらに勉強をして、馬に乗って、競馬学校に入学してきた。空太にも負けず劣らない、騎手になるという確かな希望と熱意を携えて。


親の七光り、そう陰で囁かれてきた。

小さい頃から、散々言われ続けてきた。慣れたとさえ思っていた。


『……俺たちが立ち止まる理由には、これっぽっちにもならないよ。俺たちが最後に向き合うのは人じゃなくて、どこまでもサラブレッドだけなんだから』


しかし、彰がそう言い放った時の、力強い笑みに──どれだけ心が救われたことか。

空太は苦いコーヒーを味わいながら、ほんのりと微笑んだ。青春の記憶はどこまでも甘く、爽やかで、いつまでも光り輝いて海馬に染み付いて残っている。


「なあ、せんせー。俺、やっぱりあいつのこと尊敬してんだ。だってさ……天才ジョッキーって呼ばれたこの俺が、唯一、競馬学校時代に実技で勝てなかったのは、彰だけなんだよ」


だから、と言葉を継ぐ。不敵に笑う。ぎらぎらと、獲物を狩るような目で未来を見据えている。


「不平等だって言われようと、俺は彰とヨサリオーロを贔屓する。騎乗依頼が被ったって、絶対ヨサリオーロ号に乗る。そんで、勝つ。周りから文句は言わせない」

「……別に、だめとは言ってないじゃない」

「彰と先生の意見が分かれたら、多分考える間もなく()()彰の方につくし」

「あ、撤回するわ。間違いなく贔屓だわ」


思わず飛び出た一言に、また空太は笑った。


「多分あいつは、逃げ道がない方が全力でやれるタイプだから──競馬(こっち)からもう、二度と逃げ出せないようにしてやる」


空になった缶コーヒーを、軽く放り投げる。甲高い音がして、それは弧を描きながら華麗にゴミ箱へと着地した。


「じゃあ明日乗りにくるんで、よろしく」


そう言い残した空太は、機嫌よく部屋を出て行ってしまった。一人残された中丸は、頬杖を立てて冷めたコーヒーをぼんやりと口に押し込む。


「……ここの厩舎、癖の強い奴らしかいないわねぇ」


あんたもな、と返してくれる、都合の良い相手は生憎不在のままだった。



「……竹箒はそこ。使い終わったらその向きで立てかけておいて。ブラシもここ。フォークはそこ。……替えの藁はこっちにある、ついてきて」


ショートカットの髪をなびかせて、すたすたと馬房に続く道を進んでいく。教える気があるのか、それともないのか、説明はどこまでも一直線上に進んだ。後ろの人間を顧みることなく、それは続く。


「……ここ、散らかったら、なるべくすぐ掃いて綺麗にする」


声に反応して、何頭かがひょこりと馬房から顔を出す。それを軽く片手で撫でながら、ようやく星七は後ろを振り返った。しかし彰は存外マイペースに、馬房を一つ一つ覗きながら星七へと追いついてくる。それが気に食わなかったのか、星七は盛大に舌打ちをして顔を顰めた。


「……やり返しでもしようって?」

「え、なにがですか?」

「なにが、じゃないです。ふざけてるんですか」


彰は頬を軽く掻いて否定の言葉を口にした。


「ふざけてないですよ、大丈夫です」

「……じゃ、もうどこに何があるか訊かれても、なにも答えないから」

「そうですか、分かりました」


さっと顔を背ける星七。しかし穏やかに頷くばかりの彰の反応に、みしり、とまた眉間にしわが寄る。


「……あなたの方が年上かもしれないけど、ここの厩舎ではあたしが先輩。田舎では好き勝手やってたかもしれないけど、今日からはこっちに全部従ってもらいます」

「……全部は無理かもしれませんが」

「っ全部です!オーナーだからってなんでもこっちが言うこと聴くと思ったら……大間違いですから!」


子どもっぽい癇癪を起こす相手に対し、彰はちょっとだけ困ったような顔をして、小さく頷いた。


「できる範囲内でしたら」

「~~~っ!……勝手にすれば!」


ついに耐え切れなくなったのか、星七はその場からたっと駆け出していく。騒ぎを聞きつけ、ひょっこりと顔を出したヨサリオーロが甘えるように近寄ってくる。首筋を軽く愛撫しながら、彼女の後姿をぼんやりと見つめていた。


「ぶひゅん?」

「……ん?大丈夫、大丈夫。場所が変わってもやることは同じだし。一応説明もちゃんとしてくれたしね」

「ひん」

「……あの子も、大変だなあって思っただけだよ。それに、競馬学校を卒業できてないのは本当のことだから」


すりすり、ぐいぐいとヨサリオーロが彰に顔を押し付ける。腕全体でそれを抱えるようにしながら、彰はけろりとした顔で笑っていた。


「心配すんな、ヨサリ。今日はゆっくりお休み」

「ふひん!」


不安はなかった。多少の心配はあれども、それ自体は大したこともないと感じでいたからだ。時折感じる嫌な予感は見る影もなくうっすらとした緊張のみが漂っている。

そしてなによりも、ただ純粋に。


「ヨサリが芝で走るの、楽しみだなあ」

「ぶるる!」


遠足を翌日に控えた子どものように。彰は、やってくる明日が楽しみで楽しみで、仕方がなかったのであった。


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