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老人は目覚めた。
深く長い眠りは、身体の感覚を鈍らせていたが、意識は冴えている。
その胸中は、安堵でもあり、後悔でもあった。
いずれにせよ、賽は投げられた。
老人は、はるか遠くに感じる魔力を、少しずつ取り込み始めた。
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前回は一昼夜意識を失った。
「おはようシエラ、たった一時間のお昼寝だったわよ?」
今回は、ほんの一時間足らず。
その理由は、目覚めてすぐには分からなかった。
思いのほか柔らかい草地を背中に感じ、見上げる視界に一杯の、マツリの顔をやんわり手で避ける。
起き上がると少しふらりとしたが、すぐに安定した。
少し離れたところで、赤竜がゆっくり左右に揺れているのが見える。
体を起こした時、かかっていたセヴィランの上着が落ちた。
わざわざかけてくれたのか。
「ありがとうございます」
ぽんぽんと叩いて草を落とし、返却する。
彼は、ああ、うん、ともごもご言いながら、目をそらして受け取った。
「まあまずは服をなんとかしなくちゃね!
せっかくだから可愛いワンピースにしようか!」
「旅人らしい服装でお願いします、マツリ様!」
にこにこしているマツリに、セヴィランが怒ったように言う。
「ちぇ。じゃあ、まあ、ケープ付きのチュニックにひざ下で絞るパンツ、ウエストに皮ベルト、足は断然ブーツね!」
ふわっと風に撫でられたと思うと、見下ろした自分の服装が変わっていた。
魔法って、なんでもありだな。
「ありがとうございます、でもなんでお着替えで……す……?」
立ち上がって見たマツリの顔が、なぜか少し下にある。
さっきまでほぼ同じ位置だったのに?
「え?」
ぱあっと光が差し、目の前に鏡が現れた。
マツリが出した、全身を映す姿見だ。
「は?」
立っていたのは、シエラだった。
シエラ・アルノー。
金の髪、クオーツの瞳、そして、女性にしてはやや高めの身長。
「これは……どうしたことでしょう」
14歳、いや成人して15歳だったはずのシエラだったのに、鏡の中にいるのは、20歳少し前くらいの女性だった。
見覚えがある。
前世で通り過ぎた、若き日の自分だ。
「んー、多分、戻った魔力に体が耐えられないと判断したのね。
だから、耐えうる年齢まで、成長した。
あるいは、あなたのお父様がかけた魔法がほころびたか……。
どちらなのかは判断がつきかねるけれど、分かっているのは、あなたは本来持つべきものを全て取り戻したってこと!」
地面に、さっきまで自分が身に着けていた子供服がある。
そうか、サイズが小さくなったのか。
「ぱつぱつだったから、ほら、ぱつぱつだったから、上着かけられちゃったのよ」
「ありがとうございます?」
我ながら豊かな胸をケープで覆いながら、セヴィランをうかがう。
彼は早くもいつもの調子を取り戻し、冷静な顔をしていた。
この話題はスルーしよう。
「さて。これからどうする?」
マツリは、交互にシエラ達の顔を見た。
「そうですね……見た目が変わったことで、私をシエラと認識する者はいなくなったでしょう。
血縁と考える者はいるでしょうが、まさか当人だとは考えもしないはず。
私は、新しい身分を手に入れる必要がありますね」
「そうねえ、数か月引き延ばしたところで、誤魔化せる年齢差じゃないわね」
考え考え、シエラは口を開く。
「ひとつ目の案は、このまま隣国に乗り込むこと」
「馬鹿な」
「身元も履歴も浮いている私なら、アドラノーズ国民になりすまして入り込むことができます。
どこまで行けるか分かりませんが、直に戦力を削ることも今ならできる」
体中にみなぎる、異常なほどの量の魔力を感じながら、両手を握ってみる。
「もうひとつは、この国の中枢に入り込むことです」
「どうやって?」
「マツリ様がヒントをくれました──聖女を騙るのです」
眉を顰めるセヴィランに頷いて見せる。
「分かっています、精霊であるマツリ様ならともかく、私などがそんなことをすれば、いずれ女神様より天罰があるでしょう。
けれど、いつか訪れる運命など、恐れている場合ではないです。
私は未来から来ました。
すなわち、未来の出来事を知っている。
これを利用し、聖女として予言を行うのです」
前世のシエラは、何も知らなかった。
レアンドル第一王子が何を思い、どうして様々な行動を起こしたのか。
王宮内では何が起こっていたのか。
アラノルシアとの関係が実際のところどうだったのか。
戦地に立ち、目をそらしていた。
レアンドルの存在を忘れてしまおうとした。
けれど、それ以外のことならば知っている。
毎年の小麦の出来や、被害の大きかった災害、貴族たちの婚姻や生まれる子の性別、死、そして戦局。
貴族の子女として必要な情報は集めていたし、領地経営に携わってもいた。
他の貴族とも、細々と付き合いはあり、特に生死に関わる話はきちんと回ってきていた。
今こそ、その未来の知識を利用する時だ。
「王宮内に入り込み、現状を把握することができます。
戦争が本当に必要なのか、戦うべき時なのか、私は兵器として立つべきなのか。
今のままでは何も分かりません。
知らなくちゃ。
本当のことを」
セヴィランは、じっとシエラを見ていた。
「君は……まだレアンドル殿下のことを?」
ゆっくりと首を振る。
「いいえ。彼が私を切り捨てた時、私は傷つきました。
その日、私の愛は死んだのです。
生き返ることはないでしょう。
そういうものですよね、女なんて」
冗談めかしてマツリに言えば、彼女は大まじめに、
「男は新規保存、女は上書き保存らしいわよ」
「なんの話ですか。
とにかく……まずアラノルシアへの単独潜入は認められないよ。
以後、シエラの存在は消えてしまうわけだから、教皇庁が騒ぎだすに決まってる。
何かのきっかけで君が他国にいると知れることになれば、どう言い訳しても逃亡、下手すれば反逆罪だ」
「ばれっこないわよお、こんなに違うのに!」
「一瞬で姿が変わったのです、いつかまた戻らないとも限らないでしょう!」
「あらあ……限りなく低いけれど、まあ、ゼロじゃないけどー。
心配性ねえ」
「心配はいくらしてもタダです」
シエラは少し嬉しくなる。
本気で案じていることが伝わって来た。
「ありがとうセヴィラン様。
ではやはり、王宮へ行きましょう」
「しかし……」
「大丈夫、私は上手くやれます。
本当の私は子どもじゃないし、31歳まで生きてさらに15年加わった元軍人です。
でも、見た目であなどってくれるなら、それも強みになるでしょう」
国の未来のために。
そう付け加えれば、セヴィランは小さく肯いた。
「ちびシエラの時のように、教皇庁につけ入る隙を与えたくないな。
そう……新しい身分か。
ここドルマンから、関所を越えてエルサンヴィリアに戻った街が、トルエ。
トルエからほど近い場所に、うちの領地がある。
今は父が行政庁に詰めているから、兄が領主代行を務めている。
父の薫陶を受け、政治的判断に優れた人だ。
兄のアドバイスを聞きに行こう、きっとこれという案を出してくれるさ」
シエラは頷いた。
どうせ今の自分は何者でもない。
どうなろうと、現状以下ということはないだろう。
「馬鹿か?」
「あっ、なんだろう……すごい既視感」
セヴィランの兄は、彼とはあまり似ていなかった。
髪と目の色は同じだが、年齢は30手前というところで、セヴィランよりも貴族的で、セヴィランよりも怖い。
眉間にしわがあり、いつも苦悩を抱えている顔だ。
「しかしですね兄上、彼女はこう見えて元……」
「駄目だ駄目だ! 何を考えているんだお前は!
こんな……こんないたいけな少女を、王宮に潜入させるなどと馬鹿げたことを!」
あ、いい人だった。
シエラは安心して、一歩進み出た。
そして、拳を胸に当て、軍式の礼をする。
「御目通りをお許しいただきまして、感謝申し上げます」
兄──ジョエル・ルージュは、眉間の皺を一瞬だけ消して、シエラをまじまじと見た。
その顔は、やはりセヴィランに似ているなと思う。




