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暴れて逃げようか?
シエラが真剣にそう考え始めた時だ。
『我がヤドリギが心痛めている。なにごとか、なにごとか?』
ふわり、と天井付近に魔力が漂い、同時に淡く光る。
全員が見上げる先に、光が集まり、徐々に形を成した。
「な……め、がみ、さま……?」
老人が驚愕に目を見開く。
光ばかりで影はないのに、それが美しい女性の姿であることが見て取れる。
その顔は、通りすがりに見た、礼拝堂に祭られた女神像と同じだった。
不可思議な現象に、司祭たちが次々と跪く。
『我がヤドリギを罪深き狼藉者から守りしは、つい先刻のこと。
それがまた、このように哀しんでおるとは……。
まこと、この世界はけがれてしまったようである』
「そ、そうではございません、誤解でございます!」
『そこなる娘は、この世と我をつなぐヤドリギなり。
自由を妨げることは許さぬ。
苦痛を与えることは許さぬ。
さもなくば、我とこの世のつながりは露と消えるであろう。
こころせよ。
こころせよ』
一層強い光が発せられ、皆がまぶしさに顔を覆う。
やがて、おずおずと目を開いた先に、すでに女神の姿はなかった。
「なんということだ……」
老人は、呆然としている。
ラウルはといえば、悔し気に唇を噛みしめていた。
司祭たちは興奮気味にざわめき、一部はいまだ天井に向かって祈りを捧げている。
「つ、つまり、司祭殿が観測したという、暴力事件時の強い魔力は、女神さまがこの子を守った時のもの、ということだな」
さすがに真っ先に立ち直ったローズ大佐が、シエラの腕を握るラウルを押しのけながら言う。
誰も何も言わない。
教会側はそれを認めたくないだろうが、否定すれば、女神を疑うことになる。
女神のつながりがなくなる、つまり世界が加護を失うことになれば、何が起こるか分からない。
教皇庁はいろいろと問題はあるが、女神への信仰は本物だ。
「では、こちらで引き取らせてもらおう」
老人二人は大佐を睨みつけつつも、何も言わない。
それをいいことに、三人は堂々と教会を出た。
黙ったまま、馬車を呼び止め、乗り込む。
大佐とセヴィランが乗って来た軍馬は、あとから追いかけてきた騎士に預けてきた。
三人で密室にこもる必要があった。
馬車の狭い箱の中で、シエラはそっと言った。
「……マツリ様、ですよね?」
その声が聞こえたのか、ぱっと黒髪の少女が現れ、満面の笑みで言った。
「じゃじゃーん、当たりーっ! どう? どう?」
「どう、とは」
「女神のコスプレ、似合ってたーっ?」
この得体のしれない異界人は、恐ろしいことに、女神を騙ったのだった。
すぐに国を出ましょう、と言ったのは、セヴィランだ。
「女神の加護がある、というのは、それはそれで教皇庁の囲い込みに拍車がかかるおそれがあります。
手を出すな、という脅しが効いているうちは良いですが、引き込みの同意を得ようとしつこく接触してくるに違いありません」
ローズ大佐が、考え込みつつもそれに同意する。
「実は……新教皇になり、教皇庁の方針も変わったようなのだ。
我が国の信仰は、女神イシュタールを敬うものだが、基本的に程度は自由であった。
さらに他国民に強制はしない。
ある種、人々の裁量に任されていたのだが、それが──女神を一神教として信仰せよとのおふれがあったのだ」
「えっ?」
シエラは驚く。
巻き戻る以前に、そんな話はあっただろうか?
いや、いくら中央から離れ気味で、国境付近にばかりいたとは言え、そんなお達しがあれば耳に届いているはずだ。
歴史が変わった?
なぜ?
「ともかく、準備を急ごう。
実は、アドラノーズで兵器開発が始まったという情報があるんだ。
シエラ、君は言っていたね。
とんでもない兵器によって国境線は壊滅したって」
「はい。時期的にも符合します。
おそらくそれが……我が国を敗戦に追い込んだものかと」
それから急いで旅の支度が整えられ、以前と同じ、シエラとセヴィランの二人で出立となった。
今回は移動重視で、軍の馬車を仕立てている。
もちろん、その首にはオコジョが巻き付いている。
柔らかな毛は感じるが、体温はない。
生き物ではない不思議な感覚に、また、父のことを思う。
誰も父を知らないが、きっとどこかにいる。
果たして、生きているのだろうか。
「国境だ」
王都を出発して三日後。
セヴィランの声で視線を上げると、街道沿いの向こうに大きな町が広がり、さらにその奥、高い壁がそそりたっていた。
同盟国との物流はさかんで、関所のあるこの町はかなり栄えている。
急いだせいで足りなかったものをいくつか買い揃え、明日の出国とした。
その夜、素泊まりの宿を出て、二人は近所の食堂に入った。
注文が終わるころ、
「お待たせー!」
と、待ち合わせの態でマツリが合流する。
宿代を三人分取られてはたまらない、という、意外にしまり屋の彼女の提案だった。
「さて、まずどこに向かうべきかな」
一人だけエールを飲みながら、セヴィランが言う。
シエラはマツリのためにせっせと貝の煮込みから殻を外しながら、そうですね、と考え込む。
「ドルマンは平地がちで、土地に対して人口が多いですよね。
だから、竜がお住まいになれる場所と言うのは、そんなに候補がないと思うんです。
国境に近い高地、森、人里離れたそういう場所を順に探すしかないでしょうね」
歯ごたえのある貝柱をもぐもぐもぐもぐと噛んでいたマツリは、それを飲み込んでから、
「私、探してあげるよ」
と言った。
「可能なのですか?」
「うん、できるよー」
セヴィランが少し間をおいてから聞く。
「なぜ我々に手を貸してくださるのです?
あなたはエルサンヴィリアのかたでしょう、我が国の危機など、無関係でしょう」
「ちょ、そんな言い方」
わざとなのか、挑発するような物言いをたしなめたが、マツリは気にしないようだ。
小首をかしげ、さらりと髪を流した彼女は、うーん、と言った。
「暇だからかな」
「暇だから」
「うん、なんかもう500年くらいただ漂ってるし、シュヴァルツは話通じないし、イレニウスさんとこは忙しいし、他に知り合いいないし」
「いないんですか?」
「あんまり姿見せてもどうかなって思ってさ。なんでこうなってるかも分かんないし。
でもほら、シエラちゃんも、同じだから」
にっこりと笑う。
「本当のシエラちゃんを知っているのは、ごく少数よね。
自分を隠して、狭い世界で生きなきゃいけない。
なんか、可哀そうだなって」
「それは、自分自身を憐れんでいるということですか?」
「そりゃそうだよ、可哀そうでしょ、私。だんなさんとも死に別れて、転生どころか生まれ変わることもできないでひとりぼっちでさあ。
やんなっちゃう」
マツリは、シエラが切り分けた固まり肉の端っこをつまんで口に入れた。
「世界に何かが起きてるんなら、もしかして、私はこのために存在してるのかなと思うの。
これが終われば、私は本当に死ねるのかもって期待がある。
だから、この旅は、私のためでもあるんだよ」
二人とも黙っていると、マツリが、セヴィランを睨んだ。
「ねえ今、こいつのんきなお気楽女じゃなかったんだな、って思ったでしょう!」
「えっ、そ……とんでもありません!」
目を泳がせる彼を睨みながら、マツリはまたもぐもぐと貝を咀嚼した。
もしかしてこの待ち合わせも、生前の慣習を体験したかったのではないだろうか。
そう考えていると、不意に、目の前に一口大の塊肉が差し出された。
セヴィランが、フォークに刺したそれを突き出しているのだ。
シエラは反射的に、それをぱくりと食べる。
マツリに食べさせているシエラが、ほとんど食べていないから?
なんだか満足そうに笑うセヴィランから、つい目をそらしてしまう。
なんだろう。
まっすぐ見られなくて、シエラはまた、せっせと貝を剥いた。




