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「山岳信仰の研究、と」
イレニウス辺境伯は、ふ、と笑いながらそう言った。
セヴィランの用意した言い訳を、全く信じていない口ぶりだ。
セヴィランがまとった、紋章付きのマントのおかげか、謁見は思ったよりもあっさりと叶った。
こちらが騎士一人、子一人、だったこともあるだろう。
ましてや、武人と名高いイレニウス辺境伯と、その背後に並ぶ偉丈夫な護衛達の姿を見れば、シエラたちが例えよからぬたくらみを持っていたとしても、成功したとは思えない。
伯の横には、奥方の姿もある。
月の衣と呼ばれる、最上級の絹のドレスを纏い、同じように笑っている。
剣山に季節風が吹き付け、冬は雪深いこの地域は、絹の一大産地である。
まさに月の光を集めたような光沢、ほんの少しの動きにも美しい揺らめきを与える質感、噂にたがわぬ品質のようだ。
シエラは、これはダメだな、と悟る。
全く信じていない。
しかし、セヴィランの言い訳を嘘とぶっちゃけることもできない。
「恐れながら」
十歳そこそこにしか見えないシエラが口を開くと、あからさまに、夫婦の顔が柔らかくなった。
「君は?」
「あの、シエラと申します、姓はありません。
旅に出たいと言ったのは私なのです」
決して軍人の口調にならないよう、心掛ける。
「こちらの剣山は、私の国では見たこともないほど大きく、高く、広いすそ野を持ちます。
しかし、どこの地にも歴史上一度は出てくる山岳信仰は、見当たりません。
こんなにも雄々しく、畏れを感じるのに」
「ふむ」
「だとしたら、それはなぜでしょう。
私は知りたいのです。
この厳しく険しい土地で、絹の製法を発見するまで、人々はお山に住まう神々にすがらず、何にすがったのでしょう」
なるほど、と伯は言った。
驚きもせず、怒ることもない。
「姓を持たぬ立場の子供が、騎士を連れて国境を越えた、とな。
なるほど。
君たちの狙いは、『彼』だったか」
シエラは思わず、反応してしまう。
それを見て、また、夫妻は微笑ましそうな顔をした。
「別に、我らはそのことを隠してはおらぬ。
好きに散策するがいい。
だが、史料を直接見せるわけにはいかない。
分かるね?」
シエラは頷く。
「はい、こちらは防衛の要です。
ましてや、かの山はその砦。
他国の我々に、守りの全貌を開示するはずがありません」
「まあ、賢い子ね。
『彼』はもしかしたら気に入るかも」
ふふ、と笑う奥方に、びっくりする。
「面識があるのですか!
つまり……本当に?」
それは、『彼』、すなわち竜の存在を匂わせる言葉だった。
食いつくシエラに、彼らは答えない。
だが、否定もしない。
シエラは、胸がどきどきした。
半分信じて、半分信じていなかったから。
お父様は本気だったのだ。
そう、確信させてくれる笑顔だった。
奥方は侍従を呼んで何かを受け取ると、そのままシエラを手招いた。
おずおずと近づくと、手づから小さな籠を渡してくれる。
中には、おいしそうな菓子が詰められていた。
「甘いものは好きかしら?」
近くで見ると、奥方は透けるような金髪と透明な緑の目をしている。
四十代くらいだろうか、はかなげだが決して弱くはなさそうな視線でシエラをまっすぐに見る。
「……はい」
「そう。
一日一個よ、食べすぎはいけないわ」
「ありがたく」
「山に入るなら、持ってお行きなさい。
何かいいことがあるかもしれないし、なかったとしても猫騙しくらいにはなるでしょう」
呟くような言葉の意味は分からなかったが、聞き返す雰囲気ではなかった。
シエラは黙って、籠でふさがった手を考慮し簡単な礼をする。
その整った仕草を見て、セヴィランが額を抑えていたことには気が付かなかった。
翌日、野宿の準備を追加し、さらに山籠もりの可能性を加えた準備を整えてから、二人はそそりたつ剣山へと足を踏み入れた。
すそ野は豊かで、木々や草花が生い茂っていたが、道なりに頂上へ向かうにつれ、岩場が増えてきた。
一日経って、まだ三合目だというのだから、その険しさが分かるというものだ。
「日が落ちてからでは遅い」
シエラは、セヴィランの忠告を受け入れ、続行を諦めた。
仕方なく、まだ土の残る付近まで少し戻り、テントを張る。
むろん、別々に。
「火をおこしますね」
「では水を調達してこよう」
手分けをして夜を乗り切る準備をした。
携帯用の鍋に湯を沸かし、乾燥した野菜と塩を放り込む。
今朝がた焼き立てを買ったパンは、すでに端が固くなり始めていた。
「湿度がずいぶん低いな」
「南からの風がこの山に遮られていますからね」
山の向こうは、わずかばかりの土地を挟んで、海だ。
二人は黙って、これも固くなったチーズを木の枝に刺してあぶり、柔らかくしてからパンに挟む。
少し寒い。
山の気温は読めないものだが、日が落ちるとこんなにも寒いのか。
シエラは改めて、自分が今いる場所に恐れを感じる。
ぱちぱちと木の枝がはじけ、火の粉が舞った。
あたりはすでに暗闇で、シエラの盾がなければ、数分だって眠れそうにない。
「……本当に会えると信じているのかな、君は」
食後の紅茶をすすりながら、セヴィランが世間話のように聞いてきた。
シエラは自分のお茶に、乾燥させた茉莉花を放り込み、じわじわと沈んでいくのを眺めた。
冷えた夜の空気に、花の香りがにじむように混じる。
頭上には、闇夜に負けそうな細い月があった。
「そうですね、聞かれて気づいたのですが、かなり信じています」
「そうか」
「イレニウス辺境伯の態度のこともありますし、奥様の発言もありますし、なにより、お父様は荒唐無稽なことを口になさる方ではないのです」
「竜というより、父君を信じているのかな」
「いえ、間違えました、父には非現実を作り出す能力がないのです、ですね」
小さい頃、シエラの絵本に困惑していた父を思い出す。
彼にとって、象を飲み込む帽子も、パンケーキを焼くネズミも、困惑の展開でしかなく、全く意味が分からないまま棒読みをするばかり。
「アルノー侯爵、か……」
「どこにいるんだか」
「……そうだな、もしここで竜に会えなければ、父君を先に探すという手もある」
真剣にそう言う。
セヴィランが、シエラの話を本気で考えてくれている。
シエラはそれを感じ、なんだかくすぐったい気持ちになった。
味方がいる、というのは、いいものだ。
改めてそう感じる。
「そうだ、お菓子、食べますか?」
シエラは、つらつらと、イレニウス辺境伯がどこか父に似ている、と考えていたことから、奥方にもらったおやつを思い出した。
いそいそと荷物から取り出す。
焼き菓子だが、バターの香りとともに、紅茶の香りが豊かで、一見しても手が込んでいることが分かる。
セヴィランに一つ手渡し、二人そろって鼻をうごめかした。
なんという香り。
口を開いてまさにそれを味わおうとした時。
「あら」
声がした。
それは、盾の中。
「あらあらあら?」
ゆっくりと首を回すと、そこに、少女が立っていた。
黒い髪、黒い瞳。
それは。
「――異界……人……?!」
あんぐりと口をあけるシエラの前で、異界から呼ばれた人間の特徴を持つ少女は、シエラの口元を凝視していた。




