10
「やっぱり。
やっぱりですのね、あの売女……!
なにが魔力よ、下層の農奴ではないの!」
リーリアは、薄汚れた帽子を握りしめた男の前で、勝ち誇ったようにそう言った。
その瞬間、男の顔にむっとした表情が浮かんだが、彼女は気づかない。
庶民の表情をうかがうなど、したこともなかった。
男の後ろには、婚約者を名乗る若い男もいたが、身なりからしてたいした家ではなさそうだ。
顔もリーリアの好みではなく、声をかける必要性も感じない。
「分かりました。
お前はここでお待ちなさい。
今すぐ連れてくるわ、お前の娘とやら。
ああ、姿を見られないよう、その門の陰に……そう、そこでいいわ」
そう言い捨てると、駆けださんばかりの勢いで、シエラの部屋へと向かう。
全く、全く、気に入らなかったのだ。
リーリアは高等部の卒業が遅れたため、入団は同僚よりも半年遅く、ゆえに、リーリアは今まで唯一の新人として目をかけてもらってきた。
周囲の思惑としては、リーリアがあまりに技術も座学も体力も低かったため、叱咤のつもりで声をかけていたのだが、本人はそうは思っていない。
貴族らしく、父とも母とも乾いた関係で育ってきた彼女にとって、それは人に注目される初めての機会だったのだ。
しかし、シエラが来てから変わってしまった。
先輩としてそろそろできるようにならなくちゃね。
もう新人じゃないのだから、これくらい一人で考えなさい。
シエラの教育に悪いふるまいはおやめなさい。
そんな小言が、一気に増えた。
今までうまくやって来たのに、最近は全然楽しくない。
むしろ辛い時間が増えた。
誰も手助けしてくれないし、誰も褒めてくれない。
何もかも、シエラのせいだ。
シエラの父親を名乗る男は、見るからに庶民であり、貴族であることを至上と考えているリーリアには、それだけでもはや「勝った」のである。
とはいえ、シエラがいなくなるにこしたことはない。
ノックもせずに、部屋のドアを開けた。
「お前、すぐに正門前へ行きなさい。
お迎えよ」
「び、びっくりした!
お迎え、ですか?
誰だろう」
「あなたのお待ちかねの人よ。
いいから急ぎなさい!」
戸惑っているシエラを追い立て、ぐずぐずするなと叱りつけて、正面玄関から外へと、そして正門へと歩かせた。
彼女は上品なワンピースを身に着けていて、本当はそれをはぎ取りたかったが、疑問を持たれ逃げられるわけにはいかず諦める。
「誰もいませんけど」
「その門の向こうよ、そら!」
どん!と突き飛ばし、敷地の外へと押し出す。
「見つけたぞ、シエラ」
彼女は、自分の二の腕をがっしりと掴んだ男を見て、みるみる青ざめた。
きつく握られたシエラのワンピースの袖は、綺麗なドレープがつぶれ、ああ皺になるわ、とだけリーリアは考えた。
「父さん、やめて、手を放して!」
ぐいぐいと引っ張られ、足をもつれさせながら、シエラは懇願した。
今にも転びそうなのに、父は止まらない。
大通りからかなり外れた騎士団の寮から、間にある公園を抜け、馬車道に出てから、ようやく父は止まった。
そして、乗合馬車の待合に近いところでシエラに向き合うと、手を振り上げる。
ぶたれる、と、反射的に身をすくめたが、衝撃はこなかった。
「やめてくれ、往来で馬鹿な真似を」
父の手首を、若い男が握っている。
そういえば、さっきからずっと一緒に歩いてきたが、誰何だろう。
「し、しかしヨーデリン様、自分勝手な娘にはお仕置きが必要です!」
「ああ、存分にやるがいい、家でな。
ここをどこだと思っている、王都の往来だぞ。
お前の村の、法も道徳もないような田舎ルールはまかり通らないんだ」
さりげなく失礼なことを言いながら、男は父の手を放す。
さすがに、父もそれ以上シエラを叩こうとはしなかった。
その代わり、きつく睨みつけてきた。
「全く、お前のせいで、馬車代も滞在費もかかったんだ、いずれ返してもらうぞ!
勝手なことをして、この、我儘娘が!」
「ごめんなさい父さん、でも私」
「でももクソもない、お前は来月には成人だ、そして式を挙げなければならないというのに!」
「式?
式って、成人の儀のこと?」
「そうじゃない、お前の、結婚式だよ!
お前はな、このヨーデリン様に嫁ぐんだ!
名誉なことなんだぞ、それを、全く……!」
嫁ぐ?
シエラは呆然として、男の顔を見た。
男は、ニヤリと笑う。
そして、シエラの体をじろじろと眺めまわした。
本能的に、ぞくりと悪寒がする。
「で、でも、私、結婚なんて」
「お前には直前に言うつもりだったんだ、お前は愚図だから、考え事をする間もなく行動したほうがいいんだよ」
それはつまり、不意打ちで無理やり嫁がせるということではないか。
シエラが嫌がることを見越していたのだ。
嫌がるような相手だ、ということではないか?
シエラは必死で考えた。
ヨーデリン家というのは、あの、村から一番近い、シエラが野菜を売りに行っていた都市の大店の名前だ。
貴族ではないが、庶民層の中では裕福なほうだろう。
なるほど。
シエラは、父の必死な様子に、合点がいった。
金か。
普通、シエラのほうが持参金を携えて嫁ぐのだが、この結婚は、向こうから金が出る。
そうでなければ、父がこんなところまでシエラを探しにくるはずがない。
金で売られるのだ、自分は。
「ふん、こうして見ると、悪くないじゃないか。
若いだけが価値だと思ったが」
男は、シエラに手を伸ばし、あろうことか耳を掴んできた。
しつけをするように、強く。
痛みと屈辱で、シエラは思わず、その手をパン!と払ってしまった。
男は瞬間、歯をむき出して怒りを表した。
しかし、シエラのほほを叩いたのは、今度こそ、父の大きな手のひらだった。
農業を何十年もしてきた父の、分厚く大きな手は、シエラの小さな体を簡単に吹っ飛ばす。
よろけて道の端に倒れたが、地面にすりむいた手足よりも、顔の半分がくらくらするほど痛かった。
気力がなえる。
シエラはぐったりと体の力を抜き、父に腕を掴んで引き上げられるままになった。
連れ戻されるのか。
これで。
そう、思った時。
「なんの騒ぎだ」
低い声が、かかった。
シエラは、痛みをこらえながら、うっすら目を開ける。
立っているのは、中尉の紀章をつけた女性騎士と、数人の男性騎士だった。
中尉が顎で示すと、男性騎士の一人がシエラを支え、もう一人が父の腕を掴んだ。
「いだだだ!」
軽く掴んだように見えたが、父が叫び、シエラの腕がぱっと放される。
すかさず支えられ、よろめきはしたが、倒れずにすんだ。
「なにすんだ!」
叫ぶ父に、中尉は全く表情を動かすことなく、
「王の膝元で暴行を働いておいて、何をするとは笑わせるものだ」
「ぼ、暴行じゃねえ、これは俺の娘だ、親が娘を叱って何が悪い!」
父の言うことはほぼ正しい。
村だろうが王都だろうが、血は水よりも濃しとする法は、親子であれば暴力どころか殺人も時に許される。
だが、中尉は、ほう、と言いながらわざとらしく首を傾げた。
「親子である、と主張するか」
「主張もなにも、当たり前のことだ!」
「ふうん。
お前と。
そこなる高貴な少女が、親子だ、と?」
ふと気づくと、周囲には人だかりができていた。
馬車道で、かつ乗合所が近く、ただでさえ人通りが多いのだから、こんな騒ぎがあれば当たり前だろう。
そしてその集まった人々から、シエラに視線が集中する。
中尉は少しの間、じっと黙った。
まるで自分の言葉と、シエラの容姿が、じっくりと人々の目に焼き付くまで待つように。
「……美しいブロンド、ブルークオーツの瞳、仕立ての良い服、サロン・ド・ヴィヴィの靴。
もう一度聞くが、この方が、お前の娘だと?」
「そ、そうだって言ってんだろうがあああ!」
父にも思い当たることがある。
自分たち夫婦の娘とは思えない。
忌み子。
自分たちと、そして自分たちにそっくりな四人の子供たちとは、違う。
ずっとそう思ってきたはずだ。
それが、声に出る。
動揺と、強がり。
さわさわと周囲の人々が囁きかわす。
その中には、笑い声さえ混じっていた。
誰も信じていないのだ。
中尉は、誰もが嘘だと確信したような空気が浸透したのを見届けるように、騎士たちに指示を出した。
「この男を捕らえよ。
貴族の娘をかどわかし、暴行を加えた罪で取り調べる」
「な、やめろ、俺は、俺は……!
ヨーデリン様、証言してください、俺が父親だって!
……ヨーデリン様?
どこです!?」
驚いたことに、あの若い男の姿は見当たらない。
不利と気づいて逃げたのだろう。
「なんとも逃げ足の速い共犯者だな。
逃亡したほうが罪が重くなると、教えてやらなかったのか?」
騎士たちが彼を見逃すはずがない。
わざと逃亡させたのだと気づき、シエラは感心した。
そして、感心したことで、ようやく平静を取り戻し始めたことにも気づく。
見知らぬ襲撃者は返り討ちに出来ても、父に暴力はふるえない。
小さなころからそう育てられた農家の娘としてのシエラは、父の怒鳴り声には反射的に委縮してしまう。
怯えが先に立ち、反撃なんて思いもつかなかった。
父が拘束され、騎士たちに両脇を抱えて引きずられていく姿から、目をそらす。
今、父に助けを求められたら、自分はどうするだろう。
判断はつかなかったが、幸いなことに、父は騎士たちに喚きたてながらすぐに角を曲がっていった。
「大丈夫か?」
父の姿を遮るように、中尉がシエラの前に立った。
「は、はい、あの、ありがとうございました」
「礼ならセヴィランに言うのだな」
ぱっと目を上げる。
中尉は、日焼けに傷のある顔をにこりとさせ、シエラに手を差し出す。
まるでエスコートされるように、近くの馬車に案内された。
シエラとともに中尉も乗り込むと、御者の鞭が鳴る。
静かに、しかし手早く、シエラは騎士団本部へと移動した。
「シエラ!
ああ、無事で良かった!
……いや、なんだよ、待って、なんだよこの傷は!」
本部で、再びのあの取調室に入ると、中ではセヴィランとアーロンド司祭が待っていた。
手を広げて安堵の表情でシエラを迎えたセヴィランが、なぜか中尉を睨む。
「あ、父に殴られたんです、エリナ中尉はスマートに助けてくださいました!」
そう言うと、彼は、痛ましそうな顔をする。
そして、口の中で小さく、罵りの言葉を呟いた。
「君と父親の容姿の違いを利用して、騎士団の見回りが咎める作戦は、セヴィランが考えたのだよ、お嬢さん。
だから私は、君が暴行を受けるまで待っていたことになる。
申し訳なかったな」
エリナ中尉の言葉に、シエラは、とんでもない!と手を振った。
「逮捕して隔離するためには、必要な行程でした。
理解しております。
ありがとうございました」
エリナ中尉は、凛々しい顔をにこりとさせる。
「傷の詳細はすでに記録した。
治してさしあげるがいい」
すぐにアーロンド司祭が進み出て、治癒魔法をかけてくれた。
暖かなその光を浴びていると、
「彼女が貴族でないことは、事実確認ですぐに知れてしまう。
つまり、あの父親だと言う男も、せいぜいが一晩か二晩の拘束が限界だぞ」
中尉がそう、忠告する。
「さて、どうしよう、サージェス様にお知恵をお貸し願おうか……」
考え込むセヴィランに、シエラは言った。
「あの」
三人の顔を見回しながら、きっぱりと。
「私、王都を出ます」
ローズ大佐の名前をアティカ・ローズに変更しています。




