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農家の朝は早い。
朝と言うよりも深夜といっていい時間に、家族全員がもそもそと起きだす。
顔を洗い、真夏でもなお冷えた空気をたたえた夜空の下に、そっと出て行く。
そして、その日その日で収穫できるものを荷車に積み込み、一時間かけて市場へ持っていく。
シエラは物心ついた時からそんな生活をしていた。
だから、「今」がいつかなんて、気にしたことがなかった。
気にすべきは季節であり、時間であり、気温と星と太陽の位置だ。
「今」がいったい、歴史という大きな流れの中のいつなのか。
父も母も兄も姉も、知らないのだろう。
だからシエラも知らなかった。
それだけのこと。
けれど、十四歳になったシエラは、初めて「今」について考えた。
きっかけは、市場のおじさん達の噂話だ。
「もうすぐ、隣国との戦争が始まるんじゃないかって話だぜ……難儀なことだ」
「なんだって、和平を結んだと聞いたが」
「それが……その直前に、アドラノーズからの特使を、第一王子が切り捨てたとか」
「はあ!? なんでそんなことを!」
「さあね、わしらには分からんが、なんせその特使が、向こうの総司令部のお偉いさんのお嬢さんだったとか……。
激怒した軍部は武力攻勢を推し進めていて、もはや向こうの王にも止められないらしい」
「じゃあ、その王子のせいじゃねえか!ちゃんと謝ったのか?」
「どうだかね。それに子供の喧嘩じゃあるまいし、謝ってすむかいな」
木箱ごと荷下ろしをしながらそれを聞いていたシエラは、ふっと、ある思いを抱いた。
違和感というか、何か、胸の痛む思いだ。
そうして、こう考えた。
『何言ってるの? アドラノーズ国との戦争は終わったじゃない、当国の大敗で!』
くらりとめまいがした。
胸を押さえると、そこは、死んでしまうのではないかと思うほど、心臓が激しく鳴っている。
シエラは、声を絞り出すようにして、おじさんに聞いた。
「今……今は、いつですか?」
「え、なんだってお嬢ちゃん? どうした、具合が悪いのか?」
「いいえ、教えて下さい、今は、陽帝歴何年ですか?」
「今かい? ええと、422年だよ」
答えを聞いた途端、胸の痛みは耐えきれないほどの鋭さになった。
思わずその場にうずくまったシエラは、口々に心配の言葉をかける人々の声を聞きながら、ゆっくりと意識を手放した。
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「左軍を砦の防御にまわせ! 傭兵どもを下げて、騎士が前線に出る!」
シエラ・アルノーの良く通る声に従い、軍隊が編成を変える。
そのまま歩き出しかけた彼女の肩を、乱暴につかむものがある。
振り向けば、禁軍連隊長のアーティだった。
「やわな騎士連中を出してどうしようってんだ、傭兵のほうがまだ戦える!」
黄熊の革を貼った肩当ては、人間に掴まれた程度ではびくともしない。
シエラは彼の手を軽く振り払い、
「このままでは砦が落ちる。
ザノーラの戦いを忘れたか、砦が落ちれば、備蓄を失うことになり、兵たちは飢え死ぬか、ひょろひょろと敵の前に出て死ぬかの二択だ」
「だからって前線の兵を減らしてどうする、前線が下がれば結局は同じことだ」
「下げなければいいのだろう」
シエラは、側近の連れてきた馬の手綱を握った。
「まさか……お前が出る気か」
「もとよりそれが私の仕事だ」
第一師団中将の地位を得たのは、シエラの能力が特化していたからだ。
「私の魔力からにじむアールに耐えられるのは、曲がりなりにも魔力をもつ騎士だけだ。
つまり、お前も邪魔だ。
下がっていろ」
魔力のない庶民あがりであるアーティは、シエラを睨んだ。
攻撃魔法には必ず、アールと呼ばれるわずかな副産物がある。
人体に有害だが、多少でも魔力があれば、これを浄化するのは難しくない。
なれど、魔力がなければ、最悪死も見える。
庶民ゆえに魔力ゼロ、いや、ゼロゆえに庶民であるアーティには、耐えられない。
それをあげつらわれた、と思ったのだろう。
だが、彼女にはそんなことに構っている暇はない。
シエラは素早く馬にまたがり、騎士たちを引き連れ、東へと駆った。
戦の境目で、馬を降りる。
尻を叩くと、馬は勝手に砦の方向へと走り去った。
戦火がゆらめく、夜空の彼方を透かし見る。
目には見えないが、とてつもなく大きなアールのゆらぎが感じられた。
「……何か、くる……」
シエラの呟きを聞くものはいない。
彼女の背後5mの位置に、騎士たちが防衛の陣形で集合しているが、小さな声はそこまで届かない。
なのに、答える声があった。
「アドラノーズの防衛省が近年開発していた兵器だろうよ」
振り向いたシエラは、思わず声を上げた。
「お父様!」
ずば抜けているシエラの魔力は、父譲りだ。
ゆえに、当然父も軍部に所属しているが、齢五十を超えた今では名誉職につき、前線に出ることなどありえなかった。
確かにシエラの魔力は強い。
だが、この父の影響なくして、31歳と言う若さで中将の地位には就けなかっただろう。
つまり、父は英雄だった。
その強い魔力で、前回の戦に勝利をもたらした。
しかしそう聞けば、ふと首をかしげるものもあるだろう。
英雄の子なら、むしろもっと出世していてもいいのでは?
確かにその通りだ。
もしもシエラに父と同じだけの力があれば、総帥の地位も夢ではなかった。
だが、シエラにあるのは魔力だけだった。
そのとてつもない量の魔力に、「攻撃魔法」は発現しなかった。
では何に特化したのか?
それが、「盾」だ。
シエラの作る防御壁は、どんな攻撃魔法も通さない。
まさに最強の盾。
ただ、それだけ。
だから今、シエラが前に出ようとしている現状というのは、つまるところ「打つ手なし」ということなのだ。
防御に徹するしかない、攻めに転じるには力が足りない。
それが今の戦況だ。
「ごめんなさい、お父様」
「何を謝る」
「お父様に、『負け戦』を経験させてしまいます」
この戦争は負ける。
もうすぐ。
父はそれを知っていてここに来た。
これ以上の武力は、傷を広げるだけだ。
だから、最大の爆弾を投下させ、相手の留飲を下げることで、終幕とする。
シエラは待っていた。
最終兵器と呼ばれる新兵器が出てきて、シエラの盾を壊し、全ての幕を引くこの時を。
燃えているかのような、敵軍基地の明かりを、父は目を細めて見ている。
そして、低い声で言った。
「いいや、シエラ。
謝るべきは私なのだ」
「……何がですか?」
「私は、平和ボケしていた。
私がある限り、戦など起こるまいと奢っていた。
だが、私は老いた。
そして、王家は私の想像以上に無能だった」
「お父様!」
「ふ……聞いているものなどおらんよ。
聞かれたとて、滅びるばかりの王家など、何を恐れることがある?」
終わりを悟った静かな表情を崩し、父は小さく笑った。
だが、シエラは、父の体内にじわじわとたまっていく魔力を感じていた。
「何をしようとしているのです?」
英雄と呼ばれた父の、異次元の量を誇る魔力が、一点に集中していく。
ふとすれば周辺一帯を弾き飛ばしてしまいそうな量だ。
「まさか抵抗を?」
「いいや。
私の話はまだ終わっていない。
聞け、娘よ。
私が犯した罪は、この戦いを予見することが出来ず、国を救う策をつぶしてしまっていたことだ」
「何の話です?
あ、もしかして、我が国も、兵器の開発を?」
「いいや。
ある意味、兵器ではある。
それはな、お前だよ、シエラ」
私、ですか?と、聞き返す。
全く話が読めず、相手の意図を探りながら渡世のすべを得ていた軍人シエラには、不安しかない。
「お前には、戦わせるつもりはなかった。
だから、『封じた』のだ。
自分自身を守る『防御』の魔術以外、すべての力を」
「……私、の?」
その瞬間、夜空に、魔力を放出する前の空気の圧縮を感じた。
父が舌打ちする。
「早い」
シエラは慌てて、両の掌を上向け、意識を集中した。
レンガが組みあがるように、透明な障壁が立ち上がっていく。
ドーム状に砦を覆う。
騎士たちが、シエラを狙う敵兵の攻撃を叩き落としていた。
やがて、盾が完成するかどうかという間際。
とてつもないアールの放出と共に、敵陣から一筋の魔力光線が発せられ、シエラの盾にぶち当たる。
地面がごうごうと揺れるほどの衝撃波に、騎士たちもたまらずよろめく。
なんという強さ。
これは、防ぎきれない。
とっさに、力の差を悟り、シエラは叫ぶ。
「お父様、撤退を!」
死ぬことはない。
せめて父だけでも。
しかし、吐き気に耐えながら振り向くシエラに、父は、素早く近寄って来た。
そして、その手を、シエラの背中に当てる。
「私にはこれが限界だ。
いいかシエラ。
竜を探せ」
竜?
滅びたと言われる、あの古の?
問い返す時間はなかった。
めきめきと音をたて、シエラの盾が外側から浸食され、そして。
陽帝歴425年、多くの兵と、英雄の命を失い、アラノルシア国は敗戦国となった。
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はずだった。
目を覚ました自室のベッドの上で、シエラは天井を見上げた。
市場のおじさんの話が嘘でなければ、今は陽帝歴422年。
敗戦の三年前だ。
シエラはゆっくりと右手を挙げてみた。
手のひらを上向け、集中する。
ぽ、と炎がともった。
生活魔法である発火に成功し、確信する。
自分は、シエラ・アルノーだ。
英雄である侯爵の父と、幼馴染の公爵家の娘だった母の間に生まれた、生粋の魔法師。
発現を必要としない生活魔法と、防御の盾魔法だけが使える、軍人。
しかしまた、ただのシエラとしての記憶もある。
農家に生まれ、物心ついたころから家業を手伝い、汗水たらして働いてきた。
これは何を意味するのだろう。
自分はこれから、どうするべきだ?
「竜を探せ」
思い出すのは、最期の父の言葉だ。
そして、もうひとつ。
優しい、第一王子の笑顔も。
お久しぶりです