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【短編集】癖強め(検索除外作品等)

悪魔が憑いたから婚約を破棄したい?そんなの絶対、認めません!

「婚約を……破棄したい」


「……今、なんて?」



 許婚からの思わぬ言葉に、サラは息を飲んだ。



「婚約を破棄したいんだ、サラ」



 ハッキリと告げられた離別を望む言葉はあまりにも冷たい。震える己の身体をギュッと抱き締めながら、サラは唇を引き結んだ。


 アザゼルとは、もう何年も前から交流を重ね、互いに婚約者として歩み寄ってきた。二人の仲は良好で、サラはアザゼルをとても慕っていた。アザゼルとなら誰もが羨む夫婦になれるーーーー少なくともサラはそう思っていたのだが。



「どうしてなの?アザゼル」



 努めて冷静にサラは尋ねた。世の令嬢方がこぞって婚約を破棄される昨今でも、自分とアザゼルだけは安泰だと思っていた。だからこれは、何かの間違いだ。サラはそう、自分に言い聞かせる。


 けれどアザゼルはサラの問い掛けに答えることもなく俯いていて、表情を窺うことができない。



(何か、止むに止まれぬ事情があるとか?)



 そんな考えが頭に過るが、どうにもピンと来るものはない。


 アザゼルの家族ーーーー公爵家の面々は穏やかな方ばかりで、爵位も財力も安定している。それに家の事情で婚約を破棄するなら、サラの父母へ先に話が来るだろう。


 一番あり得るとすれば、サラ以外に好きな人ができた、というパターンだ。けれどサラは、アザゼルに限ってそんなことは無いと思っていた。


 品行方正、誠実を絵に描いたようなアザゼルは、学園でもそれ以外の場所でも、常にサラと一緒だった。


 周りにも『婚約者』だとハッキリ伝えていたし、態度で示していた。たとえアザゼルに言い寄るものがあっても、一切応じてこなかったことをサラは知っている。



(だったらどうして)



 考えたところで埒が明かない。

 サラは恐る恐るアザゼルに近づくと、そっと彼の顔を見上げた。



「…………っ!?」



 その瞬間、サラは血の気が引いた。


 悲しげな、苦しげな表情のアザゼルを想像していた。良心の呵責に堪えかねて、震えているアザゼルを。


 けれど彼は、サラの予想に反して笑顔だった。しかもその笑顔は、サラの知っているアザゼルとは異なるもので。



「なっ……アザゼル?あなた、本当にアザゼルなの!?」



 つい先ほどまでサラは、彼がアザゼルであることを疑いもしなかった。けれど今目の前にいる男性は、顔はアザゼルと同じ造りをしているが、ただそれだけだ。


 爛々と楽しげに細められた光り輝く瞳に、ニヤリと弧を描く唇。十年近く付き合ってきたが、サラはこんな風に笑うアザゼルを知らない。


 男はサラの髪の毛をクシャクシャとかき乱したかと思うと、声をあげて笑った。



「これで分かっただろう?お前の知ってるアザゼルはこの世にもういないわけ」



 まるで子供のようにあっかんべーをしながら、男は笑う。あまりのことに、サラはワナワナと唇を震わせた。



(こんなこと、信じられない!どうして、どうして!?)



 姿かたちや声がいくら同じでも、今目の前にいるのは、サラの婚約者だったアザゼルではない。そうサラは確信した。



「そういうわけだからさ、婚約は破棄!決定!だって無理でしょ、こんな俺と結婚するの」



 アザゼルのかたちをした男はそう言って楽しげに笑う。

 何が彼に起こっているのだろう。どうしてこんなことになったのだろう。サラの頭のなかは混乱を極めていた。




「な……納得できないわ。どうしてなの?アザゼル……どうして?何があなたをそんな風に変えたの?」



 アザゼルの身体に縋りながらサラが尋ねる。涙が自然に浮かび上がり,心がひどく痛かった。

 けれど男はサラを冷たく見下ろしながら,面倒くさげにため息を吐く。



「まるで悪魔に身体を乗っ取られたみたい……」



 天使が如く優しく穏やかで,いつも笑顔だったアザゼル。それが今や別人のようだ。悪魔が入ったとでも言わなければ説明がつかない。そうサラは思った。


 男はニヤリと笑うと、そっとサラの顎を掬う。驚きと戸惑いからサラの心臓がトクンと跳ねた。



「……ははっ。勘がいいじゃねぇか。もしも今、お前と話している俺が悪魔の化身ーーーーだったらどうする?」



 妖し気に光る男の瞳に,サラはたじろぐ。彼は先ほどの仮定に対し肯定も否定もしていない。



(けれど)



 サラはギュっと拳を握りしめると,男へと真っすぐ向き直った。



「それでも婚約破棄なんて認めない……いいえ,私がさせないから」


「は!?」



 意外な返答だったのか,アザゼルは目を見開きサラを凝視する。視線からくるプレッシャーが凄まじい。けれどサラは,もうめげなかった。キリリと男を睨み返し,大きく息を吸い込む。



「私は!絶対に元のアザゼルを取り戻して、彼と結婚するの!」



 そのまま高らかに宣言すると、アザゼルの身体をグッと引き寄せた。予想外の行動だったのか、男がグラッとバランスを崩す。途端に無防備となった男の唇に、サラは己のそれを押し当てた。



「なっ……!?」



 男は頬を紅く染め、信じられないといった表情でサラを見つめている。



(そんな顔しないでよ……私だって驚いてるのに)



 男にアザゼルの記憶が残っているかは分からないが、婚約者として長い付き合いをしてきた二人が、こうして口付けを交わすのは初めてだった。サラも、まさか生まれて初めての口づけをするだなんて今の今まで予想すらしていなかったというのに。



「っ……そっ、そういうわけだから!絶対、婚約破棄なんてさせないんだからね!」



 そう言ってサラは、脱兎のごとくその場から駆け出した。気恥ずかしかった。たとえ相手がアザゼルの皮を被った悪魔だったとしても、恥ずかしくて堪らなかったのだ。



(でも、おかげで覚悟は決まったんだから!)



 サラは両頬を思い切り叩きながら、前を向いた。そのまま足を速めると、目的地まで急いだ。




***



 初めに足を運んだ先は公爵家――――アザゼルの家だ。



「いらっしゃい、サラちゃん」



 サラを出迎えてくれたのは、彼の3歳年上の姉と、母親の二人だった。



「お久しぶりです。おばさま、お姉さま」



 幼い頃から互いの家を行き来しているため、サラはアザゼルの家族との仲も良好だ。二人は今日も、ニコニコと好意的な笑顔を浮かべている。



(……う~~ん、どうなんだろう)



 未だ二人とも、アザゼルの変貌を把握していないのだろうか。普段と全く変わらない応対で、サラは少なからず戸惑いを覚える。



「折角来てくれたのにごめんなさいね。アザゼルは今出かけているのよ?」



 そう言ってアザゼルの姉――――ラファエラがティーポットを準備してくれた。



(知ってます……!とは、言えないんだけど)



 丁重に礼を言いながら、サラはじっとラファエラたちの様子を観察する。


 いつもと変わらぬ屋敷の様子、楽し気にお茶を淹れるラファエラ達の好意的な雰囲気から察するに、どうやらアザゼルの様子がおかしくなったのはつい先ほど、サラと会う直前のことらしい。つまり、婚約破棄についてもアザゼルが勝手に話をしているだけで、公爵家は何も把握していないし、承諾もしていないことになる。



(良かった!これで先手を打てる)



 サラはキリリと居住まいを正してから、小さく咳ばらいをした。



「あの……お二人にお願いがあります」



 改まった様子を見せるサラに、それまで楽し気に談笑していた二人が小さく目を見開いた。


 普段のサラはどちらかというと大人しいタイプで、こういう風に改まった話をしたり、真剣な表情を浮かべるようなことはない。ラファエラ達は互いに顔を見合わせながら、真っすぐにサラへと向き直ってくれた。



「アザゼルとの婚約のこと…………もしもこの先、アザゼルが私との婚約を破棄したいと言ってきても、認めないでいただきたいのです」



 言いながらサラの瞳には涙が滲んで来た。先程、アザゼルの皮を被った悪魔と話していた時に処理しきれなかった驚きや悲しみ、やり場のない怒りや苦しみが一気に押し寄せてくる。


 ラファエラ達は驚きに目を見開くと、急いでサラへ駆け寄ろうとした。


 けれどサラは、首を横に振り俯くことも涙を拭うこともしない。真っすぐに前を見据え、二人に座るよう促した。



「ど、どういうことなの?サラちゃん」



 アザゼルの母親は困惑した表情でサラを見つめた。ソファの背に身を預けるようにして自身の胸を何度も撫でている。きっと、自分を落ち着かせたいのだろう。ラファエラはサラを見つめたまま眉間に皺を寄せた。



「アザゼルが……あなた達が婚約を解消するだなんてあり得ないでしょう?違う?」



 ラファエラの言葉にサラは唇を尖らせる。



(私だって、ついさっきまでそう思ってた)



 アザゼルと一緒にいると心地が良かった。楽しかった。結婚して、ずっとこんな穏やかな日々が続くのだとそう思っていた。


 けれど、アザゼルから『婚約破棄』の言葉を突き付けられたのは、紛れもない事実だ。どんなに信じがたくとも、その事実だけは受け入れなければならない。



「私は先ほど、アザゼルと会いました。そこで彼に言われたのです。私たちの婚約を破棄したい――――と」


「そんな、まさかっ」


「信じられないわ」



 ラファエラ達は口元を押さえながら、互いに顔を見合わせている。



「だってあの子、あんなにサラちゃんを可愛がっていたのに」


「そうよ!家にいたっていっつものろけ話ばかりするし、私が離婚して出戻った時だって『俺たちは姉さんみたいにはならないよ』なんて嫌味まで言ってきたのよ?そんなあの子が、まさか……」



 サラは二人に向かって小さく笑う。けれど、いつものように上手には笑えなかった。それだけで聡い二人にはサラの言うことが事実だと伝わったのだろう。二人とも悲し気な表情を浮かべた。



「理由は?なんて言っていたの?」



 アザゼルの母親は勢いよく身を乗り出しそう尋ねる。けれどサラは返答に困ってしまった。


 こう尋ねられることを予想していなかったわけではない。初めはありのままの真実を二人に話そうと思っていた。


 けれど、サラが婚約破棄を切り出された話をしただけで、こんなにも心を痛めた二人だ。サラの口から今のアザゼルの状況を伝えるのは得策ではないように思えた。



「詳しくは……教えてくれませんでした」


「そう」



 しばらくの間、誰一人として口を利かなかった。気まずい沈黙がサロンに横たわる。けれど、ややしてサラは大きく息を吸い込むと、沈黙を破った。



「私は、絶対にアザゼルとの結婚を諦めません!」



 アザゼルに宣言した時のようにハッキリと、高らかと宣言をする。すると二人は、パッと瞳を輝かせ、コクコクと頷いた。


「そう!そうね、サラちゃん!」


 先程までの悲嘆な空気が嘘のように、温かい雰囲気が戻ってくる。ラファエラはサラの手を取ると、ギュッと握りしめた。



「私たちに任せて?あの子が何を言ってきても、絶対に婚約破棄なんて認めないから」


「ありがとうございます、お姉さん!」



 サラは力強く微笑むと、ほっと息を吐いた。



***



 次にサラが向かったのは、街の大図書館だった。


 国中のありとあらゆる本が集められ、庶民から貴族まで、多くのものが訪れるこの図書館は、アザゼルのお気に入りスポットだった。ラファエラ達の話によると、昨日もアザゼルは一人で足を運んだ様子だったという。



(タイミングからして、ここに手がかりがあると思うんだけど)



 大理石のロビーを歩きながら、サラはキョロキョロと辺りを見回す。この図書館は本の種類ごとにフロアが別れているため、どこから見て回れば良いものか迷ってしまう。それに、何十万冊もの本の中から、アザゼルを変えた何かを見つけるのは決して容易ではない。そもそも、ここに手がかりがあるという確証はないのだ。



(ダメだ。始めてすらないうちからめげそう)



 しょんぼり気を落としていると、誰かがサラの肩を叩いた。



「こんにちは、サラ」



 振り向くと、そこには金に輝く長髪を緩く一つにまとめた、見目麗しい男性が立っていた。



「クラウド様……!」



 思わずサラは膝を折る。けれどクラウドはクスクス笑いながら、サラの頭を撫でた。



「俺にそんな堅苦しい挨拶はいらないよ。幼稚舎からの仲だろう?」



 サラはそっとクラウドを見上げながら、小さくコクリと頷いた。


 クラウドはアザゼルとサラの幼馴染であり、この国の王太子だ。最上の身分に文武両道、容姿もすこぶる良い上、女性の扱いに長けているため、学校ではいつもモテモテだった。


 サラにはアザゼルがいるため、彼に心を揺さぶられることも、惹かれることも無かったが、クラウドからのスキンシップは多く、ヤキモキすることも多い。とはいえ、クラウドはアザゼルとも仲が良いため、何の気なくやっていることだとはサラにも分かっていたのだが。



「今日はどうしたんですか?こんなところでお会いするなんて、珍しいですね」



 ニコリと微笑みながら、サラが尋ねる。


 彼の暮らす城には、ここに引けを取らない程の蔵書があるはずだ。わざわざ足を運ぶ意味はないように、サラには思える。



「息抜きだよ。城にいるのも疲れるし、ここは広くて快適だしね」



 クラウドはそう答えながら、鬱陶しそうにチラリと後ろを振り返った。


 息抜きと言いつつも、彼の後ろにはがっしりとした体形の護衛が二人、ピタリと付いて回っている。治安の良い国ではあるが、何があるかは分からない。王太子という身分も中々に大変なようだ。



「サラこそ、こんなところで何をしているの?」



 クラウドはサラの髪の毛を一房手に取り、囁くようにして尋ねる。



(きょ、距離が近い……!)



 身を捩るようにしながら、サラは苦笑いを浮かべた。



「探し物がありまして。ここなら何か見つかるのではないかと」



 うまく距離が取れたことに安心しながら、サラは心の中でそっとため息を漏らす。いつもはサラが少しでも拒絶の色を見せれば、それに応じて動いてくれるクラウドなのだが、今日は少しだけ様子が異なる気がした。まるで今から口説こうとしているかのような、そんなモーションだ。



(なんて、自意識過剰よね、きっと)



 心の中でサラはそう結論付ける。クラウドは困ったように笑いながら、小さくため息を吐いた。



「あの、クラウド様」


「うん?」


「最近、アザゼルに会いませんでしたか?」



 折角、アザゼルの唯一の友人と呼べる人物に会えたのだ。手がかりは一つでも多い方が良い。サラはメモを片手にクラウドへ尋ねた。



「最近……いや、学校で会ったのが最後だと思うけど」


「そうですか」



 クラウドの話が本当であれば、彼がアザゼルと会ったのは2~3日前。毎日顔を合わせている家族のラファエラ達があんな様子だったのだから、クラウドが事情を知っているということは無いだろう。



「あいつがどうかした?」


「いっ、いえ~~!何も!ちょっと気になったものですから」



 サラはペコリと頭を下げると、そそくさとその場を後にする。クラウドはしばらくサラのことを見つめていたものの、やがて小さく笑いながら、図書館の入り口の方へ向かうのが見えた。




(んん~~~~想像はしてたけど……多っ。一体何冊あるの、これ?)



 ようやくロビーを抜けたサラが向かったのは、図書館の奥の奥。少々マニアックな本や、あまり人目に晒したくない蔵書が陳列されたあたりだ。その一角に、サラの目当てとなる本が並べられていた。



(黒魔術に白魔術……魔界考察って…………)



 棚を占拠するラインナップを目で追いながら、サラはひっそりと息を呑む。タイトルを読むだけで身の毛のよだつような本ばかりがそこにはあった。


 けれど、先程のアザゼルの様子から、一番手掛かりになりそうなのはこの手の内容だろうと考えたのだ。



(実際、『勘が良い』なんて言ってたし)



 アザゼルを乗っ取った男の言うことがどこまで本当かは分からない。けれど、あの様子だと全くの的外れでもないのだろう。サラはブルりと震える身体を擦りながら、黙って視線を走らせた。

 すると、本と本の間。影になってよく見えない辺りに隠れるようにして陳列された一冊が、サラの目を惹いた。



「これ……!」



 本のタイトルは『悪魔召喚術』。何ともきな臭いタイトルだが、今のサラにはインパクト十分だ。



(もしも……もしもこの本に従って、アザゼルが悪魔を召喚していたら?)



 そんなことを考えるだけで、背筋が凍りだしそうな感覚に襲われる。

 けれどサラは勇気を出して本を手に取ると、そっと閲覧コーナーへ向かった。


 館内にいくつも設置された閲覧用のテーブルは、元々マニアックな本のエリアということもあり、人も少なく快適だ。サラは空いた席の一つに腰掛けると、最初の1ページに手を掛けた。

 ゴクリと耳の奥で唾を呑み込む音が聞こえる。ギュッと目を閉じ、恐る恐るページを捲ろうとしたその時だった。



「お嬢さん、その本は読まない方が良いよ」



 誰かがサラに声を掛けた。しわがれた老人のような声だ。サラが振り向くと、そこには年のころ70歳位に見える、見知らぬ男性が一人立っていた。



「あ……あの」



 何と答えるべきなのだろう。そんな考えが、サラを口ごもらせる。けれど男性はサラの心情もお見通しだったのか、フルフルと首を横に振った。



「悪いことは言わん。自分自身のためでないのなら、その本は開かない方が良い。悪魔に魅入られれば、元には戻れなくなるよ」



 神妙な顔つきの男性に、サラは後ずさりした。



(まさか本当に……!)



 正直言って半信半疑だったアザゼル変貌の原因に現実味が増してくる。



(でも)



 今しがた男性が口にしたこと――『悪魔に魅入られれば、元には戻れなくなる』という言葉が、サラの心に突き刺さる。


 本当にアザゼルはもう元には戻らないのだろうか。サラが大好きだった、優しくて穏やかでいつも笑顔なアザゼルには、もう会えないのだろうか。 



「私の婚約者が変わってしまったんです。まるで悪魔に憑りつかれたかのように――――」



 気づけばサラの口は勝手に動き始めていた。男性はサラをまじまじと見つめ、時折頷きながら話を聞いてくれる。やがてすべての事情を話し終えると、男性は目を細めて笑った。



「なるほどね。お嬢さんの事情は分かったよ」



 男性はサラの隣に腰掛けると、小さくため息を吐いた。けれどサラを迷惑に思うだとか、そういった表情ではなく、どうしたものか考えあぐねているかのような、そんな表情だ。



「――――――婚約者さんが変わってしまってから話をしたのは、一度きりかい?」



 ややして、男性はポツリとそう尋ねた。サラは首を傾げながらもコクリと頷く。



「はい。先程、婚約破棄を主張されたのが最初で最後です」


「だったら、その本を開く前にもっとその婚約者さんと話さないとね」



 男性はサラの前に置かれたままになっていた本を手に取ると、徐に立ち上がった。



「そうすればきっと、今はまだ見えないものが見えてくるから。この本を開くのは、その後にすればいい」



 男性の言葉を聞いて、サラは残念なような、それでいてホッとしたような、複雑な気持ちだった。この本を読めば手がかりが掴めるかもしれない。そう思ったのは本当だが、やはり恐怖心は拭えなかった。誰かに止めてほしい気持ちもあったのかもしれない。

 男性は穏やかに目を細めると、サラに笑いかけた。



「私はいつでもこの図書館にいるから。何かあったらいつでも話し掛けると良い」



 そう言って男性は、本を持ってどこかへ行ってしまった。


 気が付けば窓の外は真っ暗だった。あちこち動き回ったためか、気疲れのためか、サラの口からため息が漏れる。



(取り敢えずはあの人の言う通り、アザゼルともっと話してみることから始めようかな)



 そんなことを思いながら、サラは図書館を後にした。



***



 翌日から、サラの猛アタックが始まった。



「おはよう、アザゼル!」



 何事もなかったかのような満面の笑みを浮かべ、サラはアザゼルに笑いかける。けれどアザゼルは至極鬱陶しそうな表情を浮かべると、何も言わず、そのままスタスタと歩き去ってしまった。

 その途端、俄かに周囲が騒めいた。



「今の……本当にアザゼル?」


「サラのことを無視するなんて」



 皆が皆、信じられないと言った形相でアザゼルの後姿を見つめる。

 容姿はアザゼルのままだというのに、目つきや顔つきが違うだけで、随分と別人に見えてしまう。それに、サラとアザゼルの婚約や仲の良さは、何年も前から周知の事実だ。混乱して当然の状況だった。



(挨拶をシカトされるぐらい、想定の範囲内よ。このぐらいでめげたりしないんだから)



 グっと拳を握りしめ、サラは急いで校内へと向かった。


 それからというもの、教室でも、廊下でも、どこでもここでも、サラはアザゼルに付きまとった。必死にあれこれ話しかけているものの、アザゼルはまるでサラの存在を認知していないかのように扱う。



(あぁ……憐みの視線が痛いよ~~~~)



 サラが取っている行動自体はいつもと変わらないはずなのに、一方が拒否反応を示しているだけで、周りに与える印象は随分と変わって見える。今のサラを傍から見れば、好意を寄せる相手にアタックをしているのに全く相手をされていない哀れな女の子だ。


 気恥ずかしさは残るものの、他に解決方法が無いのだから致し方ない。友人たちからは事情聴取を受けたり、慰められたりと、今日のサラは中々に忙しかった。



「アザゼルったら酷いよね~~。少しぐらい話をしてくれれば良いのに」



 そう言ったのはクラウド――昨日も図書館で偶然会ったこの国の王太子だ。クラウドは満面の笑みを浮かべ、サラの頭を撫でながら空いていた席へと座る。


 今は昼休み。アザゼルは机に突っ伏して眠っているので、サラはその隣の席を陣取り、ひたすらに熱い視線を送っている所だった。



「え……えぇ、と」



 なんと返すべきか迷いながら、サラは口ごもる。

 クラウドはなおもニコニコ笑いながら、チラリとアザゼルを見た。



「女の子にはもっと優しくしないとね?子どもの喧嘩じゃあるまいし、もっと……」


「あの、驚かないんですか?アザゼルがこんな……急に変わってしまって」



 サラは思わず口を挟んだ。クラウドは今日、人相の変わったアザゼルを見ても動じることなく普通に接していたし、アザゼルもそんなクラウドを邪険に扱うことはしなかった。今だって、アザゼルの応対を咎めただけで、まるで今の彼アザゼルであることが当たり前のように話している。



(大抵の人は、『アザゼルの様子がおかしいこと』を先に尋ねてくるのに)



 それがサラにはどうにも腑に落ちなかったのだ。



「ん~~~~~~そうだねぇ?」



 クラウドは思案顔を浮かべながらサラを見つめると、そっと顔を寄せた。



「驚いていないと言ったら嘘になる……そのぐらいかな?」


「え?」



 何やら含みのある物言いに、サラは首を傾げた。クラウドはなおもサラへ近づくと、そっと耳に口を寄せる。



「ねぇ、このままずっと、アザゼルがこんな感じだったらさ……俺と結婚しよっか」


「へ!?」



 思わず素っ頓狂な声を上げながら、サラは飛び上がった。全く予想だにしていなかったセリフに、心も体も全く順応できていない。



「さすがに会話も成り立たなかったら結婚なんてできないでしょ?」


「じょ……冗談ですよね?」



 そう思っていても、頬は紅く染まるし、心臓はバクバクと騒いでしまうもので。クラウドは何も言わぬまま、ニコニコと真意の窺えない笑みを浮かべていた。


 クラウドに婚約者でもいれば、冗談だと断定し笑い飛ばすこともできようが、生憎彼には未だそういった相手はいない。



(ど、どうしよう……)



 なにを言えば良いのか、どう反応すれば良いのか、サラには正解が分からない。混乱で頭がグルグルする。



「クラウド」



 その時、アザゼルの声が聞こえた。眠そうな、不機嫌そうな声だ。

 アザゼルはむくりと起き上がると、クラウドの眉間を拳で軽く小突いた。



「うるさい」


「えーー?うるさかった?ごめんごめん」



 全く悪びれる様子なく、クラウドは答える。アザゼルは大きく伸びをすると、今度はサラに向き直った。


 サラの心臓が小さく跳ねる。半日付きまとってきて、彼がサラを視界に入れてくれるのはこれが初めてだった。



(いつもなら、こんなの当たり前なのに……)



 何やら妙に嬉しく、感慨深い。大きな達成感にサラは笑った。

 けれどアザゼルは再びふいと顔を背けると、大きなため息を吐いた。



「この調子なら問題なさそうだな」


「えっ、何が?」



 サラが聞き返すと、アザゼルは意地悪気な笑みを浮かべた。



「新しい婚約者がすぐにも見つかりそうじゃねぇか。これで安心して俺から離れられるだろ」



 口調は相変わらず荒々しく強いし、言ってることだって、サラを拒否する言葉だ。けれど、どうしてだろう。サラには何故かそれがアザゼルの本心では無いように感じられた。



(もしかして、アザゼルの心はちゃんと残ってる?)



 勘違いかもしれない。サラの願望がそう感じさせるのかも。本当は今すぐアザゼルにすがり付きたかったし、戻ってきてと泣きたかった。けれどサラは大きく首を横に振ると、身を乗り出した。



「なに言ってるの?私は婚約破棄なんて認めないって言ったでしょう?」



 サラの言葉に、アザゼルは機嫌悪そうに小さく舌打ちをする。


 けれど次の瞬間、クラウドを初め、側にいたクラスメイト達がすごい勢いで周りを取り囲んだ。



「アザゼルとサラが婚約破棄!?」


「様子が変だと思ってたら、それが原因なの?」


「俺たちにもついにチャンスが!?」



 思ってもみなかった反響にサラはたじろぐ。



(何!?何がそんなに面白いの?どうして皆、こんな……)



「バーーカ」



 周囲の反応に戸惑うサラへ、アザゼルが冷たくそう言い放った。サラの唇がワナワナ震える。



(やっぱりこんなの、アザゼルじゃない!悪魔よ、悪魔!)



 盛大にため息を吐きながら、サラは項垂れた。



***



 それから数日は地獄のようだった。


 噂というものは広がるのが早い。翌日には、サラの両親にもアザゼルから婚約破棄を申し入れられたことが知られてしまった。

 すぐに両家での話し合いが設けられたが、アザゼルの母親は泣き崩れるわ、サラの父親は変わり果てたアザゼルの様子に憤慨するわで大変だった。


 あの日からサラはずっと、アザゼルの両親やラファエラを案じていたが、やはり彼等は未だ現実を受け入れられていないらしい。婚約破棄を主張するアザゼルを必死に宥めてくれていた。


 結局、話し合いが纏まることなかった。途中サラの父親がアザゼルとの婚約破棄を主張した時はどうなることかと思ったが、サラやアザゼルの両親の必死の説得により、何とか婚約の形を保てている。


 けれどその後、サラにとっては不可解なことが起こった。

 あちこちからサラに対して婚約の申し入れが届くようになったのだ。



「サラ、やはりアザゼル君との婚約は破棄しよう!こんなにたくさん婚約の申し入れが届いているし、皆アザゼル君と同じかそれ以上に条件も良い。何もあんな男にこだわる必要はないだろう?」



 父親はこれ見よがしにそう言ったが、サラは頑として首を縦に振らなかった。


 けれど、アザゼルとの関係は、一向に改善しない。毎日付きまとい、話し掛け続けているが、殆ど無視されている。しかも、令嬢の中には今のアザゼルに惹かれるものも多くいて、サラは毎日冷や冷やしていた。



「いい加減諦めたら?」



 アザゼルは呆れたような声音で、そう吐き捨てた。今は休み時間、用もなしに校庭を歩き回るアザゼルをサラは小走りで追いかけている。



「諦めないしっ!」



 運動不足の身体に持久走はキツイ。



(でも)



 アザゼルの体型ならば、歩く速さは今ぐらい――サラが小走りで追いかけるくらいがちょうど良いのだろう。けれど、アザゼルはこれまでずっと、サラに歩調を合わせてくれていた。それが当たり前だと思っていたことにサラは気づく。



(本当にアザゼルって優しい人だったのよね……)



 ここ数日感じたこと。


 もしかしたらアザゼルは、婚約者のサラがずっと側にいることで、本当は別に話したい人がいたとしても、そうできなかったのではないか。ずっとずっと自分を押し殺してきたのではないか。そんな風に感じるようになっていた。



(とはいえ、付きまとうのは止めないけど)



 心に矛盾を抱えながら、サラは必死でアザゼルを追いかける。

 するとその時、何かがサラ目掛けて勢いよく飛んできた。



「あっ……!」



 避けようとそう思うのに、身体はうまく動かない。サラは腕で頭を庇いながら思い切り目を瞑った。その途端、バン!という大きな音が周囲に響く。けれどサラの身体に痛みはなかった。



(ど、どうして……)



 目を開けると、目の前にはアザゼルがいた。サラに覆いかぶさるようにして、眉を顰めている。



「アザゼル……」


「怪我はないな?」



 ぶっきら棒にアザゼルが尋ねる。サラは必死にコクコクと頷いた。


 どうやらぶつかったのはボールらしい。硬そうな材質のボールがアザゼルの近くに転がっていた。


 アザゼルはそのままボールを持ってどこかへ行ってしまう。けれどサラは、もうアザゼルを追いかけなかった。


 目頭が熱い。心臓が張り裂けるように痛かった。

 そのままサラの足は、とある場所へと向かっていた。




◇◆◇




「そろそろ降参したらどう?」


「何のことだ?」



 幼馴染からの問いかけにアザゼルは質問で返した。


 本当は何のことか、分からないわけでもなかった。けれど、長年良い子を演じてきた付けだろうか。素直に返答をするのは癪だった。



「サラちゃんのこと。どうして頑なに拒否するかな~~?あんなに可愛いのに」



 アザゼルはムスッと唇を尖らせた。



「気やすくサラちゃんとか呼ぶな。それに、あいつが可愛いのは当たり前だろ?――――――って感じ?」



 そう口にしたのはクラウドだ。まるでアザゼルの心の中を読んでいるかのような物言いに、クラウドは小さくため息を吐いた。



「分かっているなら、あいつにちょっかいを掛けるのは止めろ。おまえみたいないい加減な奴にサラは渡さん」



 アザゼルはそう言って、手に持った書類数枚に目を通していく。そこに書かれているのは男性――――しかも、アザゼル達と同じか少し上位の年頃の、家の爵位が高いものの情報だ。



「そんなこと言って!王太子の俺でダメなら、一体どんな奴だったらサラちゃんに相応しいわけ?」



 クラウドは唇を尖らせながら身を乗り出した。



「家柄は伯爵家以上、顔も整ってないと却下。それから包容力と忍耐力があって、優しくないとダメ。成績優秀で、将来仕事できる奴じゃないとサラが苦労するだろうからその辺も厳しく見る。あと浮気とか余所見する奴も論外」



 アザゼルの唇があまりにも流暢に動く。クラウドは目を丸くしてアザゼルを見つめながら、クスクスと笑った。



「おまえ……そんな男、本当にいると思う?」


「いる。いてもらわないと困る。じゃなきゃサラが一生未婚になるだろ」



 アザゼルは真剣な表情でリストに目を通しながら、小さくため息を吐いた。実際はクラウドの言う通りで、サラに相応しい男性などすぐに見つかるわけがない。



(でも……)



 アザゼル自身がサラと結婚するわけないはいかない。眉間に皺を寄せながら、アザゼルは目を瞑った。


 ずっとずっと、自分を偽って生きてきた。親の前でも良い子を演じて、そうして心の中で悲鳴を上げていた。本当の自分を見せたいと思っているのに、どうすれば良いのか分からない。


 そんな中、婚約者として紹介されたのがサラだ。


 サラはこれまでに出会った誰よりも可愛く可憐で、これから先の人生で彼女以上の人物に出会うことはないと、幼いアザゼルは思った。心根も素直で、とても優しい少女は、アザゼルの心の拠り所だった。本当の自分は見せられずとも、サラといると優しくなれる。自分が良い人間でいられるような気がした。


 けれど月日が経つにつれ、今度は罪悪感がアザゼルを襲った。自分はサラを騙している。偽りの自分だから、サラは自分と一緒にいてくれる――――そう思いながら生きることは、とても辛かった。


 だからアザゼルは自分を殺そうと思った。


 本当の自分を悪魔に捧げ、偽りの自分が本当の自分となる。そんな非現実的で自分に都合の良い何かを信じて、必死に方法を探した。


 そしてある日、アザゼルの前に悪魔は現れた。


 アザゼルは悪魔に契約を持ち掛けた。けれど悪魔は首を横に振る。アザゼルは落胆した。自分の願いは叶わない。これから先も罪悪感に苛まれながら、偽りの自分を生きていくのか。それともいっそのこと、ここで命を絶つべきなのか――――と。



「……一つ条件を飲んでくれたら、君との契約を考えても良い」



 打ちひしがれるアザゼルに、悪魔はそんなことを囁いた。アザゼルが顔を上げると、悪魔は穏やかな笑顔でこう言った。



「君の大事なサラと婚約破棄をしておいで?それが出来たら契約してあげよう」



 アザゼルは言葉を失った。


 サラを失うことはアザゼルにとって死ぬに等しい。けれど、偽りの自分を本当の自分にしたいと――――悪魔と契約したいと思い至ったのも全て、サラを騙すのが嫌になったからだ。サラと婚約を破棄すれば、少なくともこんな罪悪感からは逃れられる。



(それに、悪魔が本当に契約をしてくれるとも限らない)



 ならばいっそのこと、本当の自分を出してから、全てを終わりにすることだって悪くはないのかもしれない。



「分かった」



 アザゼルは悪魔にそう告げると、生まれて初めて本当の自分を表へ出した。




「しかし、おまえに本性がバレてたとはな」



 アザゼルはクラウドをチラリと見ながらため息を吐いた。

 一番近しい存在だったサラや家族達がアザゼルの本当の姿に驚愕し、悪魔と口走ったたほどだったというのに。



(あれは結構堪えた)



 敢えて必要以上に冷たい態度を取っていた事情はあるものの、サラに本当の自分を受け入れてもらえなかったことは、想像以上にアザゼルの心を抉った。



「王族だからね。そういうのは見える体質なんだよ」



 クラウドはそんなことを言って笑った。特に事情を話したわけでもないのに、クラウドはアザゼルの考えも全てをお見通しかの如くアザゼルと接する。彼の言う『見える』とはどういう感覚かわからないが、事実なのだろうと思う。



「それに、これでも俺は王族――――王太子だからね」



 そう言ってクラウドはアザゼルの側に来るとニヤリと笑った。何やら意地の悪い笑みだ。アザゼルは眉間に皺を寄せながらクラウドを睨みつけた。



「何が言いたい?」


「俺がもしもサラへ正式に婚約を申し込んだら、どうなると思う?」



 アザゼルの身体から血の気が引いた。


 こうしてフランクに接しているとはいえ、国における王族の力は絶大だ。もしもクラウドから婚約を申し入れられて、一貴族がそれを退けられるはずはない。



「おまえ……」


「ずーーっとさ、遠慮してたわけ。これでも。王妃にするならサラちゃんがぴったりだなって思ってたのにお前が婚約してたから。でも、アザゼルが婚約破棄するなら良いでしょ?そのリストの中でなら絶対に俺の方が条件良いし。ちゃんと幸せにするよ?浮気はするかもしれないけど」



 クラウドの瞳は妖しく光っていた。どうやら先程の軽口とは違い、今度は本気らしい。



(サラが俺以外の奴と……?)



 アザゼルは思わずクラウドへと掴みかかった。クラウドは涼し気な笑みを浮かべたままアザゼルを睨み返す。


 けれどその時、アザゼルの部屋の戸がノックされた。怒りに煮えたぎっていたアザゼルも一瞬で冷静さを取り戻す。さすがに王族に手を挙げて無事では済まない。両親や姉、それからサラにだって火の粉が降りかかる可能性もあるのだ。



「誰だ?」


「アザゼル、私よ」



 返って来たのは思わぬ人物の声だった。



(サラ……)



 アザゼルの心境は複雑だった。つい先ほど、クラウドから大いに心をかき乱されたというのが理由の一つだが、アザゼルは段々とサラに対して冷たい態度を取るのが難しくなっていたからだ。


 顔を見れば撫でたくなるし、抱き締めたくなる。でろでろに甘やかして、ずっと自分の側に置いてしまいたい。

 矛盾だらけな自分の心。



(いや、矛盾だらけなのは最初からか)



 そんな風に自嘲しながらアザゼルはため息を吐いた。



「まさかこんな所まで来るとはな……」


「あのね、話があるの。大事な話。私――――――婚約破棄を受け入れるわ」


「えっ」



 サラが口にしたのは思わぬ言葉だった。アザゼルの心臓がバクバクと鼓動を刻む。クラウドから手を離すと、アザゼルは自分の胸に手を置いた。



(サラが受け入れる?俺との婚約破棄を?)



 アザゼルは部屋の入口までふらふら向かうと、そっとドアを開けた。


 サラは少し驚いた表情を浮かべたが、真っすぐにアザゼルを見上げた。



「アザゼルを元に戻すのは諦める。だから、この婚約は破棄して構わないわ」



 呼吸がうまくできない。まるで変な魔法にでも掛かったかのように、身体がうまく動かせなかった。



「そ、そうか」



 アザゼルはそう口にするのが精いっぱいだった。そして気づいた。アザゼルは、心のどこかでサラは諦めないと――――婚約破棄を認めはしないと、そう思っていたし、望んでいたのだ。けれど、目の前のサラには憂いもなければ迷いもない。もう決心しているのだろう。



(いや、これで良いんだ。もう婚約はできなくても、また、皆が望む俺が戻ってくるんだから)



 これでアザゼルは、悪魔の提示した条件を満たしたことになる。サラへの罪悪感と引き換えに、周りの望む自分を得て、今の自分を殺せるのだ。



(これで良い。これで良かったんだ……そうだろう?)



 アザゼルは天井を仰いだ。俯けばどんな表情をしているのか、サラにバレてしまう。涙が零れ落ちそうな所を見られたくはなかった。



「良かった。では改めて」


「……!?」



 サラはそう言うと、無防備になっていたアザゼルの身体に抱き付いた。思わぬことに、アザゼルは言葉を失う。



「サラ!?おまえ、俺と婚約破棄したいんだろ!?」


「うん。前のアザゼルとは婚約破棄する。だから今度は、今のアザゼルと――――本当のアザゼルと婚約したいの」



 そう言ってサラはアザゼルを見上げた。瞳には薄っすらと涙が溜まり、唇がふるふると震えている。



「私が気づかなかっただけで、アザゼルはずっとそこにいた。変わってなんかなかった。やっと本当の自分を出せたのに、私ひどいことを言って……!ごめんなさい、アザゼル!本当に、ごめんなさい!」



 サラの涙がアザゼルの心に沁み込んでいく。

 サラはアザゼルを受け入れてくれた。偽りの自分ではない、本当の自分を。



(信じられない)



 けれど、身体は心には逆らえない。気づけばアザゼルは、サラを抱き返していた。久しぶりに感じる甘やかな香り、柔らかさ、サラの温もりに、アザゼルは涙を流す。



『契約は不履行で良いのか?』



 サラやアザゼルがいる方向とは違う何もない空間を見つめながら、クラウドが尋ねる。普段使っている国の言語とは異なる言葉だ。


 すると、どこからともなく、しわがれた男の笑い声が小さく響いた。



『良いんだよ。今回はオマケってことにしとくから』



 クラウドはクスリと笑いながら、サラたちをチラリと見つめた。



『サラの方にはなんてけしかけたんだ?』


『なぁに。簡単なことだよ。あの子は自分で、答えが分かっていたからね。『婚約破棄をしておいで』と言っただけだ』



 男はそう言うと、大きな黒い本を手に持った。何やら禍々しいオーラを放った、不気味な本だ。



『その本はどうするんだ?』


『魔界に持って帰ることにするよ。私もそうそう呼び出されたくはないからね』



 男は幸せそうに微笑むアザゼルとサラをそっと見る。それから、二人の唇が重なるのに合わせて、男の身体は静かに消えていった。

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