第九話 賭けの結果
ほとんど黒といってもいいほどに暗い深緑色の毛並みのオオカミは、グラスウルフとは比べ物にならないほどの巨体だ。だが、そんな姿に似合わず疾風のようなスピードで大地を蹴る。戦い慣れたベテラン冒険者でさえも、その動きを捉えるのは困難だろう。
「殺せ!」
フィーアの何倍もある巨体なオオカミは、大木のような腕を振り下ろす。凶悪的なまでに鋭いそれは容赦なく襲い掛かる。が、それは黒曜石の大剣によって防がれる。
ガキン、と鈍く太い音が響く。突風のような風圧がぶつかり合ったそこから全体へと広がる。もちろん、それはフィーアのすぐ近くにいたシェイラをも襲い、容赦なくその細くか弱い体を吹き飛ばす。
「――きゃっ」
立っていられず、少し下がったところで尻もちをついてしまう。特に痛くはなかったが、無意識に声を上げてしまう。オオカミを弾き飛ばしたフィーアが振り向く。が、怪我がなさそうだと判断すると、すぐにオオカミの方へと向きなおし飛び出す。
黒曜石の牙がうっすらと赤い光を帯び、オオカミへと襲い掛かる。それを、巨体からは想像できないしなやかな動きで身を捻って躱すと、着地と同時にオオカミの巨大な口が噛み千切らんと迫る。
大剣を強く握り、滑らせるように大剣の腹でその牙を受け止める。見た目はガラスのようだが、その刀身に秘めた熱はマグマと同等。
『グルッ!?』
オオカミのナイフのように巨大な牙が大剣に触れた瞬間、黒ずみ砂のように崩れていく。フィーアは驚き身を引こうとするオオカミを逃がさず、斜めから大剣を振り上げる。深緑色の鉄のように硬い毛並みを切り裂き、肉と骨を切り裂けば、大剣の纏った赤い光が煌めくように輝く。
爆発音のようなものが響く。それは、オオカミの体へと大剣から流し込まれた魔力に耐えきれず強靭な肉体が木っ端微塵に破裂する音であった。
赤黒い独特な臭いを持った血と臓物の雨が降る。フィーアは大剣を頭の上に掲げ、傘のように降り注ぐそれを防ぐと、そのまま男の元へと向かう。その表情はゾッとするほどの無表情である。
「な、なんなん、だ……お前は……」
近づく彼女から逃げるように男は後ずさる。そして、手を前へと出すと魔力を込める。
水の球が彼の手からいくつも放たれる。それは、一つ一つが人間の体に穴をあけることなど造作もないと言えるほどのものである。だが、それは届かなければ意味はない。
大剣を振るい、次々と水の球を叩き落とす。高温のそれはあっけなく水の球を蒸発させ、白い水蒸気が煙のように立ち込める。
「く、来るな。来るんじゃねぇぇぇぇ!」
切り札であるオオカミを開けなく破壊され、自慢の魔法も全く通じない。今までの憎悪すら引っ込んでしまうほどの恐怖が男を支配していた。
大剣の間合いまで近づくと、フィーアは水蒸気を切り裂くとともに男の体を真っ二つに切り裂いた。縦半分にされた男は恐怖に満ちた顔を浮かべながら、ゆっくりと左右に倒れる。しばらく痙攣していたが、次第にそれもなくなり、やがて動かなくなった。
尻もちをついたまま、シェイラは動けなかった。あの巨大なオオカミをあっさりと打ち倒し、炎属性の天敵といわれる水属性をものともせず、容赦なく敵を屠る。その姿に、シェイラはこれまでにない高揚感を感じていたから。
「これで、全部終わりかな」
大剣を背中に担いだフィーアは軽くあたりを見回すと同時に感知魔法で、何もいないことを確認してからシェイラのほうにクルリと体を向ける。その顔には先ほどまで浮かんでいた無表情は消えて、いつも浮かべている明るい笑顔がある。
シェイラは静かに立ち上がると、割れた巨大な姿見へと向かう。真っ二つに割れたそれはフィーアの魔法の影響か、ところどころ溶けていた。
「魔道具かしら。でも、こんなの図鑑でも見たことない」
見た目はその異常な大きささえ除けば、どこにでもあるアンティーク調の姿見だ。作りこまれた繊細な植物の模様は買うとしたら相当に高価なものだということが分かる。
いろいろな魔道具が記された図鑑を何冊も読んだが、これは見たことない。もしかしたら、人目に出ることのなかった貴重なものなのかもしれない。
シェイラそんな鏡に手を伸ばそうとして、やめる。触ってはいけないような気がしたからだ。
「こういう魔道具は安易に触らないというのが定石よね」
「へぇ、そうなんだ。私はそういう怪しい奴ってとりあえず壊しちゃう。爆発とかしたら面倒だから」
「そうね……でもまぁ、これは調べてもらった方がいいわね。ギルドの人を呼びましょう」
「はーい」
フィーアはポケットから鳥の形をした小さな人形を取り出し軽く魔力を流す。そうすれば、強い光を放ち、光が薄れれば人形だったそれは生き物のように羽ばたき、洞窟の外へと飛んでいく。
ギルドから渡された伝達魔法と呼ばれるものだ。シェイラは鳥が見えなくなると、洞窟の中に散らばった死体漁りを開始するのだった。
調査と後片付けをしてくれた職員と共にギルドへと戻った二人。
すると、酒場で騒いでいた男たちが二人に気付くなり物々しい雰囲気で見つめる。いやもう、睨んでいるに近いだろう。フィーアがすっとその視線たちを遮るようにシェイラの近くに立つ。
男たちが口々に「本当に帰ってきやがった」や「どうせ、どこかの冒険者に手伝ってもらったんだろ」と言う。シェイラはそんな声や視線など気にすることなくしっかりとした足取りでカウンターと向かう。
そして、シェイラがフィーアに向かって顎をしゃくる。と頷いた彼女は肩に担いでいた大きな布袋をカウンターへと置いた。置いた拍子に布袋が横に倒れると――大量の牙が零れる。
「都近くの“巣”を潰したわ。これで、正当な冒険者として大丈夫よね」
大量に零れたそれは、ざっと数えただけでも100体分はあるだろう。カウンターの女性のみならず、ギルドにいる人々がみな、信じられないといった様子で二人を見ている。
女性は布袋に手を伸ばし、その中身がすべて牙であると確認すると、頷き二人を見る。その視線はどこか期待の色を浮かべていた。そして、二人の前に二冊の手帳を差し出す。
「依頼達成を確認できました。これが、冒険者の証となる手帳です」
にこりとした女性は言葉を続ける。
「おめでとうございます。これより、貴女たちは正式な冒険者として認められました。貴女たちに女神の祝福があらんことを」
その言葉に二人は軽く頷く。女性はこれからの依頼の受け方などの冒険者としての説明を行い、それが終わると、二人はギルドを後にするのだった。
ギルドを出て少し歩いたその時だった、背後から数人の男が二人の元へと近づいてきた。それは、ギルドの酒場で酒を飲んでいた男冒険者たちであった。
「あの依頼、お前らが本当にやったのか」
「そうよ。正確にはこっちだけど」
シェイラは素っ気なくそう言ってフィーアを指さす。男はギロリとフィーアを見下ろす。その迫力はすさまじく、普通の少女であれば思わず逃げ出すほど。実際、シェイラたちの横を通り過ぎる人々は足早に目を合わせないようにしている。だが、フィーアは男のことなど視線に入っていないかのような態度でいる。
それが、男の癇に障ったのか、ハッと鼻で笑い飛ばす。それでも、フィーアの態度は変わらない。
「どでかい剣を持ってるみたいだが、どうせ見掛け倒しだろ。お前ら、どうやってあんなに大量の牙を手に入れたんだ」
「殺して引っこ抜いた」
間髪入れずにフィーアが短く答えれば、男はこれでもかとバカにした態度で腕を組む。
「全部か? 嘘をつくならもっとましなウソをつけ」
そういって男は鋭い視線を向ける。シェイラは侮蔑の色を浮かべている男を見上げながら、“面倒な人”と呟きたいのグッと堪える。フィーアはつまらなそうに欠伸をする。と、より一層の怒りを顔に浮かべてフィーアへと言葉を畳みかける。
「ギルドの奴が認めても。お前らを俺は気高き冒険者とは認めない!」
男がそう言い切った時、フィーアが噴き出した。
「……なにがおかしい」
男の威圧感が一層の重たさを持つ。言葉は静かだがその声色からは強い敵意が見えている。あたりの温度が低くなったように静まり返る。ほかの冒険者も、射殺すような鋭い視線を向けている。だが、その状況であってもフィーアは肩を震わせ笑っていた。
「なにがおかしいて、くだらなすぎてに決まってるでしょ。気高き冒険者様がお昼から酒を飲んではダラダラと過ごしているなんてさ」
フィーアは男を見上げる。その夕焼け色の瞳は怒りに染まった男を映し出す。シェイラは一瞬、止めようと思ったが、面白そうな展開に黙って見ることにする。
この後、きっと男は殴り掛かるだろう。そして、そんな周囲の予想はフィーアの決定的な一言によって見事に的中する。
「だから、すぐ死んで数が減る一方なんだよ」
「貴様……俺を誰だか知らないようだな。このギルドで一番の冒険者だぞ。そんな俺に生意気な口をきいてただで済むと思うなよ」
額に欠陥を浮かび上がらせて男はこぶしを振り上げた。だが、その拳がフィーアへと振り下ろされることはない。
「――グァァッ!?」
太い枝でも折れるような音が響いたと思った次の瞬間、男が悲鳴を上げる。振り上げていた腕が――折れたためによるものだ。
前腕に新たな関節を増やされた男は数歩後ずさると、折れた腕をかばうようにしながら怒りに体を震わせる。その眼差しから殺意を感じ取ったフィーアの顔から笑みが消える。
腕を折られた男の仲間が激昂して叫ぶ。
「テメェ! よくもロイクをやりやがったな!」
男たちが武器を取り出す。フィーアは片手でシェイラを下がらせる。気付けば、シェイラたちの周りには人がいなかった。
一人目の男が剣を斜めに振り下ろす。フィーアは半身になってそれをギリギリで躱すと、男の顔面に拳を叩き込む。まるで岩でもぶつけられたような衝撃に意識を一瞬で奪われた男は鼻血を吹き出しながら後ろへと倒れる。
フィーアはその男を一瞥すると、斧を振り下ろしていた男の腕と肩を掴み、軽く力を込めて骨を外す。ボキリという音と共に男がうめき声を上げ、斧を取り落とす。フィーアは痛みで蹲ろうとする男の顔面に膝蹴りを入れる。
意識を刈り取られた男が崩れ落ちる。フィーアは男を投げ捨てると、すっかり恐怖に縮こまってしまった男へと体を向ける。その横ではロイクと呼ばれていた腕の折れた男が痛みに動けず、フィーアを睨みつけていた。
フィーアはそんな男の顔面委容赦なくつま先を叩き込む。男は短いうめき声と共に体が吹っ飛びそのまま地面を転がり動くことはない。
「ひ、ひぃっ」
まさか、自分よりも強い三人があっという間にやられるとは思っていなかった男は武器を握り締めたまま動けない。カタカタと小さく武器を震わせる彼にフィーアはゆっくりと近づき――
「弱いくせにおこぼれに釣られてくるからからだよ」
男の腹部を強く殴る。体全体へと響くその衝撃に男は耐えられるもなく、透明な液体を吐き出しそのまま崩れ落ちる。フィーアはそれをポイっと道に投げ捨てるとクルリと体を反転させシェイラへと向かう。
「さっ、宿に行こう」
いつもの明るい表情を浮かべる彼女と男たちを交互に見やりながらシェイラは、彼女の戦闘能力の高さに舌を巻く。ここまでの少ない戦闘で十分とは言えずとも、かなりの強さだということはわかっていた。が、ここまで強いとは……
見事な戦闘だという一言に尽きる。素人目にもわかるほど無駄のない動きだった。明らかに戦い慣れた冒険者数人を相手にしてああもあっさりと気絶させてしまうとは。
「貴女ならこの程度の相手なら殺すことも簡単なんでしょうね」
「むしろ殺す方が簡単だよ」
「ふーん、でも今回は殺さなかったわね。どうして?」
前回、下品なゴロツキもどきに絡まれた時、彼女は何の躊躇もなく殺していた。それを思い出しながら問いかければフィーアは困ったようにはにかむ。
「前に言われたんだ“町とかではむやみに人は殺すな”って」
「花屋さんに?」
「そう。まだ、この国に来たばっかの時に言いがかりをつけてきた人がいて、面倒だったから首を折ったら言われた。あの時はこっぴどく叱られてやらないって思ってたんだけど……忘れてたよ。でも、今回は大丈夫! ちゃんと生きてるよ」
子どものように無邪気にそう言い放つ彼女に、シェイラは改めて彼女が自分とは全く違くて想像もできない道を歩いてきたんだと噛みしめるのだった。
ギルドの酒場にて、一人の男がカウンターでゆっくりとウィスキーを飲んでいた。いつも騒がしい酒場の中で、その男の周りだけは静けさに包まれていた。
「コッドさん、どうしてあの二人が無事に冒険者になれるってわかったんだい。もしかして、知り合いか?」
カウンターでコップを拭きながら職員がそう言うと、男は軽く肩をすくめる。
「知り合いじゃないさ。ただ、知ってただけだ」
「ほぉ、もしかしてどこかの騎士家系とかだったり? ほかの奴らは気付かないが、俺は分かるぜ、あの大剣を担いだ子は相当の手練れだ」
「さぁな」
男はグラスを傾けウィスキーを飲み干す。と、グラスを職員の前へと置いてフッと口元を緩めた。
「賭けに勝って今日は機嫌がいい。一番高いウィスキーとそれに合うつまみをくれ」
「はいよ。んじゃ、少し待っててな」
奥へと引っ込んでいく職員から、酒場で騒ぐ男たちへと視線を向けた男はハァ、とため息をつく。このギルドも随分と堕ちてきた。優秀でいて皆の目標となるような冒険者はいなくなり、影で“自分が頂点だ”とくだらない思いを抱き、機会をうかがっていたヤツラが我が物顔でギルドに居座っている。
澱んだ風だ。変えなければいけない。新しく清々しい風が必要だ。だがそれよりも……
「彼女を助けてくれる者が必要だ」
男はそう小さく呟くと、先ほど冒険者となった少女二人を思い浮かべた。