77.玄関と回廊の掃除
ハストアルでは、春の訪れを告げる朝日がいつもよりも眩しく見えた。一階の回廊では、レーザーポイントが掃除範囲を示している。のぞみはモップを手に、フローリングの床のワックスがけをしていた。その首には約束どおり、『私はマヌケです』と書いた札をかけている。
本来は掃除機元に任せる仕事であったが、宣言闘競に敗北した際の条件として、二週間、ここの玄関と回廊の掃除が課せられていた。
掃除の時間は、他の心苗たちが朝練をしている時刻から、ホームルームが終わるまでだった。ヒイズル州出身の心苗の中には、のぞみの姿を見てくすくす笑う者もいた。首から提げている札はのぞみが手書きしたものだったため、日本語を知らない心苗たちにとっては意味がわからなかったのだ。
心苗たちが回廊を通り過ぎていくなか、E組のエクティットが足を止めた。
「神崎さん、おはよ!」
のぞみはモップがけの手を一旦止めた。
「おはようございます!!エクティットさん」
「今日って実戦格闘演習ありましたっけ?」
頭の中で今日の時間割を思い出しながら、「ありますよ」とのぞみは答えた。
「今週の組み手リストにはないけど、もし良かったらフリーバトルの時間に手合わせしませんか?」
「はい、是非、よろしくお願いします!」
「では、また後で!」
のぞみは呼びかけに笑顔で応じた。
蛍との闘いにより、のぞみはハストアルの二年生の間で話題の人物となっていた。闘競には負けたものの、その大半はのぞみに低い評価を与えていない。そのため、通りすがりで呼びかける心苗は多かった。もちろん中には、ハイニオスの制服を着ていながら操士の技に頼りすぎた戦い方に、闘士を侮辱しているのかと疑問を抱く者や、「怪脚」と呼ぶ者もいた。
「おはよう!負け犬!」
すでに耳慣れたその声を、のぞみは振り返る。掃除エリアに踏みこんだ蛍たちは、勝者らしく鼻高々といった態度で見下してきた。それでものぞみは、ニッコリと笑う。
「おはようございます。森島さん、ヒタンシリカさんにパレシカさんもお疲れ様です」
「床は綺麗になった?」
三人は、一体どこで朝練をしたのか、泥にまみれた靴で、のぞみがワックスがけしたばかりの床を踏みしめている。
「今やっているところですよ」
「ふん、これで私とあんた、どれだけ実力の差があるかよくわかったでしょ?」
「はい。森島さんのおかげで今の自分の実力を知ることができました。それに、やっぱり森島さんは優しい人ですね。あの日、私に繰り出した技。刀で斬るのではなく、拳や足を狙ってくれました。最後の一撃も、わざと外してくださったんですよね?」
敗者にもかかわらず自分を褒めるような言葉に、心がくすぐったいような感じがして、蛍は顔を赤くし、つい大きな声を出した。
「ば、バカじゃないの!!それはあんたが弱すぎて、死ぬかもしれなかったからよ!あんなつまらないバトルのせいで失格ポイントをもらってメビウス隊の取り調べを受けるなんて、ゴメンだわ!」
闘競で相手を殺してしまったり、瀕死の状態を表す黒ライトまで追いこんでしまったときには、失格ポイントが加算される。ポイントを100溜めると退学となり、また、生徒会の取り調べを受けることになる。結果により、審判庭から罰則も下される。罰則は、罰税もしくは禁足・禁修の刑罰だ。
禁則・禁修の場合、心苗は自分の寮に軟禁され、源気を使った技、スキルの鍛錬行為そのものを禁じられる。一ヶ月以上の受刑はもちろん、一週間であっても同級生との実力差が大幅に生じる刑罰で、最悪、留年になる可能性も高くなる。
現実にはさまざまな配慮があるものの、蛍の言葉は単なる照れ隠しのように聞こえた。
「そうですか?でも録画映像も見ましたが、源圧手裏剣の命中率、80%に達していたはずです。1メートルも外すなんて、手加減したとしか思えません」
「それは本当かしら?」
クリアとマーヤに問いただされ、蛍は焦った。手の緩さは弱者の証拠だ。そのことに気付かれれば、二人との居場所を追い出されるかもしれない。
「や、やかましいのよあんた!ちゃんと綺麗にしなさいよ!」
蛍は苛立った様子でその場を離れ、階段へと小走りで去っていく。
「ちょっと!待ってよ蛍!」
蛍があまりに不自然なことをクリアとマーヤは気にかけて、その後ろ姿を追いかけていった。




