42.のぞみと楊
シェアハウスの庭へ出たのぞみは、いつも通り、源気の強化訓練を始めた。拳法の基本作法の構えを展開し、源気を充満させる。
椿色の光を体に纏い、立っている。冷たい雪も、のぞみが発する源気の熱に溶けていく。
その状態を一時間ほど保ったのち、次の一時間は、源気を充満させた状態のままで基礎拳法の型に移る。
冷たい風を受けても、熱い心は燃え続けている。手足を振り、体が揺れるたびに、汗が星の光のように雪上に輝いた。
そんなのぞみの姿を、一人の男が見ていた。男はハウスの裏扉から出て、一階のバルコニーを越え、階段を上り、のぞみに声をかける。
「神崎さん」
声を聞き、源気を感じ取ると、のぞみは驚き振り向いた。
「楊君!こんな時間にまだ起きてるんですか?」
「こっちのセリフだぜ。始業式の日から毎日毎日、深夜までずっと強化訓練してるだろ」
源気を全開状態にしているのぞみは、30キロメートルのマラソンを走ってでもいるかのように息が荒れている。
「ええ……」
楊は手に持っていた二本の瓶のうち、一本をのぞみに渡す。
「ほら、ホールニンスだぜ。スタミナ補給しな」
「えっ!わざわざ私のために?」
「ミュラさんが、皆が自由に飲めるようにって買ってくれたやつだろ?」
「ああ、そうでしたか。ありがとうございます」
瓶を受け取ったのぞみは蓋を開けた。ラムネ瓶のように、側面にあるボタンを押すと上の口が開く。
のぞみはその場にしゃがむと、両手でガラス瓶を持ち、ホールニンスを一口飲む。楊も瓶を片手で持ち、のぞみに声をかける勇気を振り絞るため、大きく喉を鳴らしながら一口飲んだ。そして、問いかける。
「なぁ、神崎さん。強化訓練は部屋でもできるだろ?なんでわざわざ庭でやるんだよ」
楊と二人きりの状況に戸惑って、のぞみは少し口ごもりながら答える。
「あ、これはその……。強化訓練をすると、ミナリちゃんにストレスを与えるんじゃないかと思って。ここでやれば、ミナリちゃんは落ち着いて過ごせます」
「ああ……。たしかにミナリさんは繊細すぎるかもな」
「ミナリちゃんはとても鋭敏な感覚を持っていますから。私がこの訓練を部屋でやると、深夜までミナリちゃんが眠れないじゃないですか?」
「なるほどな。源気を出す訓練は、戦闘態勢にあるって言うこともできるからな。そういえば、神崎さんって便秘なのか?」
のぞみの硬い表情を見て、楊はわざと言った。急な変化球にどう答えていいかわからず、のぞみは困惑する。
「べ、便秘ですか……?」
「冗談だぜ。神崎さん、何か悩んでるんだろ?夕食の時もずっと考えごとしてたじゃないか」
宣戦布告を受けてから、そして蛍の過去について知ったのぞみは始終、蛍のことを考えていたが、まさかハウスメイトにまで気付かれているとは思わなかった。
「何も言ってないのに、どうしてわかるんですか?」
「神崎さんは何かあったらすぐ顔に出るからな。いつも無邪気に笑ってる神崎さんらしくないというか、なんかぼーっとしてるだろ。ハイニオスで何かあったのか?」
「まあ、はい」
ガラス瓶の中で液体が揺れ、光っている。
天衣からアドバイスを受け、のぞみはもう一度、心の中を整理してみた。正義感に溢れた少女だった蛍が、今は弱者を憎み、いじめる側に回っている。
蛍は初音や真人との一件で大きな打撃を与えられただろう。真人の勝負条件を考えると、きっと初音は今でも蛍のことを許せないままだ。しかも、真人に敗北したのち、クリアやマーヤと付きあうようになった蛍を敬遠している。
今さらになって蛍がプライドを捨て、頭を下げて謝ったとしても、彼らがグループに再び彼女を受け入れるかどうかはわからない。
のぞみは蛍に同情していた。
宣言闘競に勝ちたいという気持ちとともに、蛍を助けたいという願いも強くなってきていた。
こんなふうに優柔不断な気持ちのまま、どう戦っていいのかわからず、のぞみは自分がバラバラになってしまいそうだった。
「楊君は、もし戦闘相手の可哀想な過去を知ったなら、それでも全力で戦うことができますか?」
フミンモントルにいる操士の中では、楊は戦闘訓練をよく受けている方だ。しばしばガリスとフリーバトルをしているのも目にしている。闘競について、自分より場数を踏んでいるだろうと、のぞみは期待を込めて訊いた。
「ん?誰かとバトルするのか?」
「そうなんです。新しいクラスメイトと闘競することになりまして」
蛍から受けたいじめ、そして宣言闘競を申し出たことまで、のぞみはポツポツと楊に話した。話を聞いて楊は、怒りの感情ごと丸呑みするようにホールニンスを飲む。
「そんなゲス女、全力で叩き潰すに決まってるぜ」
「でも、可哀想なこともあったんですよ?」
楊はゲス女と言い切ったが、蛍の心は今も優しい部分を秘めていると、のぞみは信じたかった。
「神崎さん、それは優しさじゃないぜ。ひどいことをされたうえ同情までする必要なんて一つもないぜ」
「でも、森島さんは元ヤングエージェントです。きっと、心が傷つきました」
「だからどうした。神崎さんは闘競に勝ちたくねぇのか?それに、神崎さんだって、傷ついたんだろ?」
相手の心配ばかりしているのぞみが、楊はいじらしかった。
「もちろん勝ちたいです。でも、私が傷ついたことよりも、森島さんを助けてあげたいんです」
「俺からすれば、余計な悩みだって思っちまうぜ。そもそも、闘競前に相手の可哀想な過去に囚われるなんて、バトルに差し障るだろ」
「そうですよね。相手のことばかり考えて、馬鹿馬鹿しいですよね」
「馬鹿馬鹿しいとは言わねえけど、相手のことを考えすぎると手加減しちまったり、間違いなく神崎さんが不利になっちまうぜ」
のぞみは足元の一点をじっと見つめて、しばらく黙っていた。数多あるバトルのうちの一回で終わらせたくなかった。蛍が何かを変えるきっかけを作りたかった。
「……でも、みんな同じ心苗同士じゃないですか。救いの手を差し伸べてはいけないでしょうか?」
「その森島ってやつは、神崎さんだけじゃなくて周りの心苗もいじめてんだろ?そんな奴助けたって、ロクなことねぇぜ。過去に偉業を成したって、心が変わるってこともあるだろ。元に戻りたいと思ってるかどうかもわからないじゃねぇか」
「そうでしょうか……」
のぞみが深く悩む姿に、楊は不謹慎にもキュンとしていた。のぞみのルックスが好みということもあったが、それよりも楊は、他人のことを自分のことのように悩むその優しい心に惚れていた。恋する女性の支えになれないかと、楊はふっと天を仰ぐ。
「森島って女が、考え直す気になれば別の話だ。神崎さん、その女に自分を見つめ直させるだけの力はあるか?」
「見つめ直させる力……ですか?」
「闘士は戦場で力をもって対話するだろ?だからバトルで決着を付けるのは一番容易い方法だな。だけどそれは、相手と同程度、またはそれ以上の力がなければ話にならない。神崎さんには思いを伝えるだけの力があるのか?」
門派の入門試験も落ちてばかりののぞみだ。今の実力で蛍と渡りあえるかは不安が残る。それでも、楊のアドバイスを聞いて、のぞみの目は光を取り戻していた。蛍を助けられる方法があるなら試してみたかった。
「……わかりません。でも、もしできるなら、やってみたいです」
「おう。なら、俺は応援するぜ」
のぞみが少し元気を取り戻したように見えて、楊はホッとした。
「ありがとうございます。でも、楊君は闘士のことをよく知ってるんですね?意外でした」
「俺の幼馴染みが闘士だからな。気高い奴さ。子どものころはよく、敖潤を使って打ち合いしたもんだぜ」
「そうでしたか。楊君が他の操士より戦闘に長けているのは、そういうわけだったんですね」
「そうだな。あいつは戦いのセンスが抜群だったから、良い訓練になったぜ」
意中の相手から褒められ、楊はくすぐったいような気持ちになる。
「楊君。アドバイスをくれてありがとう」
横並びに座るのぞみが楊に視線を合わしたとき、今さらのように距離の近さに気付き、楊は照れくさくなって目線を逸らした。
「いや。俺は神崎さんが相談相手として話をしてくれたことが嬉しかったぜ」
「母にも言えなかったんです。平和主義な人なので、できるだけ戦いは避けなさいと言うでしょうし、バトルでもさっさと白旗を振りなさいと言われると思って」
母親の話になるとのぞみは反抗期の娘のようにムスッとしていたが、楊は違う意味を汲みとった。
「それはかえってすごいことだと思うぜ。相当な実力とそれに見合う経歴があるからこその考え方だろ?争いを避けるってのは、誰も傷を負わず、資源の消耗もない。それでいて目的を達成できるなら、間違いなく最高の戦術だぜ」
「そうでしょうか?でも、楊君から話し相手になってくれてありがたかったです。ガリス君とフリーバトルしているのを見て戦闘に詳しいんじゃないかと思って、相談しようかどうしようかと悩んでいたので」
「そうだったのか?何か参考になればいいけどな。また何かあれば気軽に聞いてくれよ」
のぞみに頼られ心を躍らせていた楊とは反対に、のぞみは考えこんでいた。
楊の意見を聞いて、母の考えには、自分が思っていた以上に深みがあるのかもしれないと思った。ただ相手に白旗を振るというだけでなく、それはある意味では最強の戦略なのだろうか。
思考を振り払うようにホールニンスを飲みきると、のぞみは立ちあがる。
「では、私はもう少し頑張りますね」
のぞみは拳法の型の予備構えをして源気を体から湧き出させる。そして、手足を打ち出しはじめた。
楊はダンスパフォーマンスを見る観客のように、しばらくその強化訓練を見ていた。
その夜、のぞみが強化訓練を終えたのは3時だった。
つづく