190.豊臣邸での出会い ②
リビングの窓からは、広い裏庭がよく見えた。汐を待っている間に、玄関扉の開く音がした。義毅の気配ではない。この家の住人だろうかと、のぞみは気になってしまう。
汐はキッチンから、飲みものと洋菓子を四人分、トレイに入れて運び出した。その時、少年が帰ってきて、ちょうど鉢合わせた。少年はターバンから金色の前髪を覗かせている。
「うしお、ただいま」
「クラウド兄ちゃん、おかえりなさい」
聞こえてきた会話に、のぞみは何気なく耳をそばだてる。
「お客さんが来たんですか?」
「はい、トヨトヨパパの教え子です」
「そうですか。僕は部屋に戻りますね。夕食ができたらまた呼んでください」
遠慮する男を、汐は気優しい実妹のように誘う。
「クラウド兄ちゃん、挨拶に来ませんか?」
「たくさん人がいるようなので、僕は結構です」
「優しいお姉ちゃんと、お姉ちゃんを守る先輩が二人いるだけですよ」
「良いです、僕なんかが……」
極めて内気な人のようだ、とのぞみは思った。
「恭子ママはお客様が来たら必ず挨拶しなさいって言っていましたよね?きっとコミュニティーを広げる助けになりますよ。大丈夫です、お姉ちゃんは優しいし、可愛らしい方です」
「そ、それは余計に緊張ですよ……」
「飲みものを持ってくれませんか?」
「……分かりました」
少年はトレイを持ち、汐の後に付いてリビングにやってきた。
のぞみは少年に顔を向けて席を立つ。
少年は190センチほどの細身な体型で、金髪に青い目をしている。のぞみは見上げるようにして目を合わせ、笑顔で挨拶した。
「お邪魔しています。私は豊臣先生のクラスの心苗で、神崎のぞみと申します」
少年ものぞみを見た。だが、その麗しい容姿を見ていると、耳まで真っ赤に染まり、緊張のあまり声が出なくなる。
「お姉ちゃん、こっちは一緒に寄宿しているクラウド・ランス・ハイネールです」
汐に紹介されたクラウドを見ると、彼はボロボロの黒マントを着て、背中には大きな長い剣を背負っていた。スカーフや、シンボルの金属彫刻が繊細に施されたリング、その風貌を見ていると、彼が魔導士であることが分かった。
「は、はじまして、ぼ、僕は、クラウド・ランス・ハイネールと言います。あ、アイラメディス、ロードハイムカレッジ、二年トゥームクラス所属で、魔導剣士を専攻しています……」
自己紹介しながらも、クラウドはずっと目を伏せている。
「よろしくお願いします」
「お、おのみのもをどうぞ……」
緊張のあまり噛み噛みとクラウドは、トレイを持ったままローテーブルに近付く。が、何もない場所で足元を掬われ、体が前傾した。トレイと飲みものが吹き飛ぶ。
クラウドの動きからその予兆を感じ取っていたのぞみがすぐさま膝を折り、落ちるトレイと飲みものを両手でキャッチした。飲みものはソーサーにこぼれたが、幸いなことに床に落ちることはなく、のぞみはほっと息を吐いた。
「ふぅ、危なかった……」
のぞみはトレイをローテーブルに置く。
美女に迷惑をかけてしまったドジのクラウドは、床に付くほど頭を下げて謝った。
「ご、ごめんなさい……。手足が不器用で……」
顔を真っ赤にして謝るクラウドに、のぞみは優しく微笑む。
「いえいえ、水難にならず良かったですね」
一部始終を見ていた汐が二人に声をかけた。
「ご迷惑をかけてすみません、新しいものを作ってきます。クラウド兄ちゃん、お姉ちゃんとお話ししていてくださいね」
「えっ、僕一人でですか……」
「夕食の準備もありますから、お願いしますよ?クラウド兄ちゃんなら大丈夫です」
癒やしの笑顔が自分を見上げている。その光景を見れば、どんな男でも心が燃えあがるだろう。
「分かりました……」
しかしクラウドは、大多数の男とは違って、不安げな表情を滲ませる。
汐はトレイも持って階段を上り、キッチンへと向かった。
しばらく、シーンとした空気がリビングに流れる。クラウドは体を緊張で強張らせたまま、急にのぞみを振り向いた。
「ど、どうぞ、座ってください……」
クラウドは斜めがけに締めた帯を解き、背中の大剣を武器棚に置くと、長ソファーと繋がっているカウチに座った。だが、のぞみとの間に何の話題もなく、何を話せば良いのかほとほと困り果てて、堅苦しい顔のまま目を伏せ、口も硬く結び、祈るように合わせた両手を足の間に置く。
さらに数十秒、空白の時が見送られた。
結局、無限のような、無音の空気を切り拓いたのはのぞみだった。
「あの、ハイネールさんは『魔導士』ですよね?私、アイラメディスにはあまり行ったことがないんですが、どんなところですか?」
わずかにアイタッチすると、クラウドはまた床を凝視しはじめる。
「ふ、普通……です……」
情けない表情のクラウドを慰めるように、のぞみが続ける。
「私は『魔導士』のことも、『章紋術』のこともさっぱり分かりません。そんな術を自由に操れるのは凄いと思います」
「そう言われても……、僕は最底辺のトゥームクラスですから……」
トゥームという石は、物を錬成した後に残る廃棄物のことを言う。再利用するにも一度、最小位の粒子にまで戻さなければならないため、埃の集合体とすら言われている。つまり、トゥームクラスというのは、いくら磨いたところで大した器にはならないと酷評された者たちのことなのだ。
「私もクラスの中では最下位で、バトル評価も最悪の闘士ですよ」
苦笑して自分の恥を晒すのぞみと、クラウドはようやく目を合わせた。
「それは大変ですね……。操士なのにハイニオスに通うなんて、凄い勇気ですよね……」
「えっ?どうしてそんなことまで知ってるんですか?」
「あ、いや……べ、別に……。ただ、トヨトヨ先生が神崎さんの宣言闘競の記録映像を見ているとき、つい、見えてしまって……」
「なるほど。お恥ずかしいところをお見せしました」
「……いや、元操士なのに、相性の悪い闘士とあそこまで戦えるなんて、容易いことではないですよ。……それって、僕が『騎士』と宣言闘競するようなものでしょう?そんなこと、考えたこともありません」
のぞみは、義毅がホームステイの心苗に無断で情報を漏らしていたことに衝撃を受けていた。だが、よく考えてみれば学園の公式掲示ボードに載っているのだから、バトルは誰に見られていてもおかしいことではない。しかし、闘士の中ですら評判の悪いあのバトルが誰かに褒められるとは思ってもみなかった。
「そうなんですか……」
「ごごごめんなさい。も、もしもご機嫌を害されたなら謝ります……」
デリカシーのない失礼なことだが、ド正論であることもたしかだ。短気な闘士などなら腹を立てたかもしれないが、のぞみはクラウドのデリカシーのなさに怒りを感じるどころか、素直にその言葉を受け止めた。
「いえ、機嫌を損ねるわけがありません。……無計画だと、何度も言われました。でも、転校したことも含めて、自分の決めたこと全てに後悔はありません。それに、ハイネールさんの言葉で何だかリフレッシュしました。ありがとうございます」
「は、初めて人にお礼を言われました……」
のぞみはクラウドのおかげで自分が転学院した頃からのことを全て思い出し、考えがまとまってリフレッシュした気持ちになっていた。
「お待たせしました、お茶とケーキをどうぞお召し上がりください」
汐が、作り直したお茶とケーキを持って戻ってきた。のぞみは振り向くと、一人分ずつセットになったお茶とお菓子をローテーブルに移す手伝いをする。
汐がのぞみの隣に座り、会話が再開される。
三人の雑談は、汐に歌の趣味があるというところに流れた。汐はソファーから立つと、テーブルの向こう側に立ち、のぞみたちと向かいあう。
「それでは、お耳を拝借いたします」
汐が細い両手を胸元に置き、小さな口を開いた。
最初の一句を歌うと、その美しい声にのぞみは鳥肌が立った。任務に集中していた二人の『尖兵』ですら、汐に目と耳を奪われた。
透明感のある歌声は、三階までの吹き抜けの間に広がり、響く。高音は天井を破って数千キロの空にまで澄み渡り、低音は心の底までじんと届く。天使の羽根が心身に優しく触れ、全ての嫌な感情や記憶が癒やされ、思わず涙が溢れてくる。歌えば歌うほど、汐の周囲の光は増えた。歌声は、聖霊でさえ癒やされるほどの、浄化の力があるのだ。
一曲が終わると、のぞみは拍手を送った。