168.捜査情報と親友との約束
それから三日が経ち、のぞみたちは休日の朝を過ごしていた。その間、未来からの刺客が手を出すことはなく、まるで忽然と姿を消したかのように、手がかりすらも全くなかった。
アトランス界の一週間は8日だが、その週の初めにあたる休日はいつも、心苗にとって重要だ。というのも、恒例闘競はこの日に集中して行われている。朝の11刻目から夕方の10刻目まで(地球界の朝8時頃から夜7時頃まで)一日中、学園のあちこちのステージで闘競が繰り広げられていた。
厚い雲の隙間から出た日差しが、シャビンアスタルト寮第28ハウスの門の石板を照らす。前庭の木々の枝や入り口のゲートのフェンスに付いていた氷は、もうほとんど溶けていた。庭からシャ、シャ、シャと軽い音がする。
ハウスの裏口から出られる照らす席では二人の女子心苗が朝食を食べていた。彼らはハウスの住民ではなく、庭掃除をするのぞみを見張っている『尖兵』だ。
光が雲に呑まれ、途端に空気が冷たくなる。
のぞみは昨晩よく眠れたが、今の空模様を映したような曇り顔で庭掃除をしていた。
『尖兵』の一人はルーチェ・タレティ・アミールカレ。紅色のショートヘアを耳にかけながら、もう一人の『尖兵』であるエルヴィ・アクアライントに声をかける。
「あの後輩、どんどん様子が酷くなってく」
アッシュブルーの髪の毛を太い三つ編みにしたエルヴィは同情するように応えた。
「毎日誰かから狙われてるって考えてばかりで、ストレスが大きいんでしょうね?」
「それだけじゃないみたい。他のメンバーと情報交換したんだけど、修業も上手くいってないみたい」
「同じ学院の先輩として、たまには困ってる後輩にアドバイスをあげたらいかがですか?」
ルーチェは憂鬱そうに庭掃除をしているのぞみをもう一度見ると、溜め息をつき、首を横に振った。
「いや、人にモノを教えるような役割は合わないって、自分が一番知ってる。アドバイスなんかしたら逆効果になりそう……。そもそも彼女には「怪脚」の傾向がある。闘士一筋で修業してきた私の考えは彼女には合わないだろうし、私も彼女の気持ちは理解できない。観念を一方的に押しつけるような理不尽な真似はしたくないしね」
エルヴィもルーチェの考えに肯定するように頷いた。
「確かに、汎用的な素質がある心苗には、枠組みのある鍛錬法が合わないのかもしれませんね」
「カンザキさんに実技のアドバイスをするなら、私なんかよりリュウさんの方が相応いかもね」
「そうですね。本質の部分はちょっと違うけど、私たちよりも共感できるところはありそうです」
エルヴィはバターナイフを取って食パンにジャムを付けながら、言い続ける。
「そういえば、アミールカレさん、聞きましたか?捜査班は時空を超えてやってきた刺客に関する手がかりをまだ掴んでないらしいですよ」
「ああ、聞いたよ。二回目の襲撃からもうすぐ五日になるのに。これまでどんな事件でも五日以内に解決してきたラメルス副長の指揮でも難航してるんだから、レベルA級以上の事件になるだろうね」
ルーチェはピザトーストを大きく頬張った。もぐもぐと咀嚼しながらエルヴィに訊ねる。
「私、捜査班の人たちとあまり付き合いないんだけど、アクアライントさんは何か新しい情報知ってる?」
「……いえ。捜査の進行状況についてはエロランタさんもロヴァートも何も言わなかったわ。でも最近、捜査班は全日、四人配置で活動してるようですよ」
この数日間は、警護班も不審な人物を見ていない。刺客たちはまるで姿を消したようなのだ。ルーチェは少し、我慢できないように言った。
「もう!全く進展がないなんて、捜査班は大丈夫なのかな?まさか、向こうが手を出してくる一瞬を待ってるしかないとか?」
「守護の役割を務める私たちにできるとすれば、それくらいでしょうね。ただ、気になるのは事件が長期化した場合です。刺客たちが長期的に手を引いた場合、捜査班だけでなく、私たち警護班の士気も下がる。それは考えたくない展開ですよね」
「最初の襲撃と二回目との間は二週間だった。もし次の襲撃までにそれ以上の期間がかかったなら、任務の緊張感が緩まる恐れはあるね」
「その場合は、まず自分の精神の靭性を保つしかありませんね」
エルヴィは落ち着いてコップを取り、お茶を一口飲んだ。
「そういえばカンザキさん、今日は同級生の闘競を観に行くのよね?」
「私も彼女から伺いました。中央学園の闘競広場にあるラトゥパス闘技場だそうですよ」
「それってつまり、私たちの仕事が一層ハードになるってことだよね?」
「ええ、彼女はたぶん、一般席を取ります」
大衆の中でのぞみの見張りをすることは、想像しただけで面倒くさそうだ。ルーチェは渋面になった。
「うわぁ。せめてVIP席にしてよ~」
「……。人混みでトラブルが起きると、パニック状態になり、リスクが増えるでしょう。午後の観戦イベントは警護班全員で行くことになってますよ」
エルヴィの冷静な様子に、ルーチェは焦った。
「ちょ、ちょっと。いきなり全員が公衆イベントに投入されるの?事前ミーティングは?」
「もちろん、あります。今朝、部長が行うって言ってました。アミールカレさんも他の要件がなければぜひ参加してほしいって、リュウさんからの伝言です」
「はぁ……。休憩なしってこと?」
エルヴィはルーチェに微笑みを向ける。
「今のうちに、ですね。彼女はわざわざ私たちにも素敵な朝食を作ってくれたんですから、その分も込みで、今日の見張りはもっと気配を強くしていきましょう」
食卓にはのぞみの作った、多様多彩な料理が並んでいる。ルーチェはそれを見ながら、アトランス界には馴染みの考えに納得した。
「「等価代償」のことね。ま、確かに彼女の作った料理は別格だね」
のぞみはまだ庭掃除をしている。
ミナリがハウスの裏口の扉を開き、ルーチェとエルヴィにぴこぴこと頭を下げた。
「アクアライント先輩にアミールカレ先輩、おはようございますニャ」
ルーチェは頷き、エルヴィが返事をする。
「おはよう。カンザキさんならそちらで掃除をしていますよ」
この数日間、二人はよく部屋の見張りにも入ったが、リュウともう一人のペアとシフトすることもあるため、ミナリはまだ二人に緊張していた。
「は、はいニャ」
ミナリはテラスの階段から降り、のぞみに呼びかける。
「のぞみちゃん」
思案顔だったのぞみは、ミナリの声に顔を上げた。
「おはようミナリちゃん。今日はいつもより早起きだね」
「はいニャー。のぞみちゃんこそ、今日の掃除当番はミュラさんのはずだニャー?」
「うん……。ミュラさんと相談したの。何かしてないと落ち着かないからって」
「のぞみちゃん、ストレス溜まりすぎだニャー……」
あまりミナリに心配をかけたくなくて、のぞみは作り笑いをした。
「大丈夫だよ。いつもここで特訓してるんだけど、この庭を綺麗にできたら、ちょっと気持ちがスッキリした!」
状況が変わらない以上、のぞみは耐え続けることしかできない。
今回の件は、ミナリも無理しないでと気楽には言えなかった。戦いの苦手なミナリは、親友のために何ができるのかもわからない。せめて側にいて、一緒に悩んでいたかった。
「あの、最近、平日はのぞみちゃんとなかなかお話しできないニャー。だから、一緒に買い物に行かにゃい?」
強化訓練に暗殺騒ぎと、転校してからは自分のことでいっぱいいっぱいののぞみは、ミナリと過ごす時間がかなり減っていた。心配をかけているだけでなく、彼女と時間を共有できていないことも、のぞみは反省する。
「うーん……。宣言闘競を観たあと、他の闘競も観るのかな……」
のぞみは今日の観戦にどれくらい時間がかかるか予測しづらく、うんうん悩んでから返事を決めた。
「じゃあ、午後の4刻目にベルコット商店街で待ち合わせはどう?午後の闘競を観てから行くよ」
しかし、意外にもミナリは首を振った。
「ミナリも一緒に闘競を観たいニャー」
「え……でも、ミナリちゃん、闘競は苦手だよね?」
「中間テストには闘競項目もあるから、勉強したいニャ」
ミナリはそう言ったが、操士が主に評価される項目には戦闘力は入らない。操士の心苗で戦闘能力を気にするのは、『源将尖兵』など、仕事依頼を受けたい者だけだ。
「ミナリちゃん、『尖兵』になりたいの?」
「分からにゃいけど……。でも、この間ものぞみちゃんの命が狙われたニャ。ミナリも少し戦う力を備えておけばいいと思うニャー」
自分のせいで、親友がどれほどの心配をしているのか。
のぞみの作り笑いも限界が近く、苦いものでも食べたように表情が歪んだ。
「ミナリちゃん……。じゃあ、買い物の途中で一緒に闘競を見に行ってもいい?」
「大丈夫ニャー」
「なら、午後に一緒にお出かけしよう」
「それの方がいいニャ」
ミナリは久々に、のぞみと一緒にお出かけをする約束ができたことが嬉しくて、午後が楽しみだった。