158.風向きが変わった
中央学園エリアの東南部、イトマーラ本都市の平野から、中央学園につながる山坂に沿って造られた町に、ベーロコット商店街はある。遠い昔の帝国の面影を感じさせるこの城下町は、今や心苗たちの買い物の名所となっていた。
7本ある坂道のうち、真ん中の坂は「中央坂道」と呼ばれ、とくに人気がある。坂上にある公園から坂下のモールセンターまで、全長5ハル(およそ6キロメートル)の坂道は、四つの学院の制服をはじめ、装備、武器、小道具などがすべて揃う、充実の商店街だ。
露店市場から心苗たちの集団が経営する小売店まで、中央坂道は東西に30本の小道を抱え、さまざまな商店で賑わっている。ここで働くことは、心苗たちにとってアルバイトをするような感覚だった。
大道芸人の音楽や売り子たちの声、そして往来の雑踏や話し声が醸す賑やかな雰囲気は、日中から夜間まで、鳴りやむことがない。
その日の夜、商店街のある洋食レストラン風の酒場の、窓の外の壁に、一匹の黄金虫が飛びついた。黄金虫は、店内の会話を聞き取るように目を光らせる。
店内は熱っぽく、客たちが騒がしく飲み食いしていた。その片隅で、一組の男女が静かに飲食している。黒色のフードを下ろすと、グレーグリーンのショートヘアが覗いた。男は痩せている。女の方は20代前半と思しき外見で、ブラウンベージュのミディアムヘアを縦ロールにしている。二人とも、欧米人系らしい立体的な顎と、白い肌をしていていた。
女は落ち着きなく、不機嫌そうな顔をしている。
「この店、一体どうなってんのよ?こんなに騒がしいなんて、落ち着いて食事もできないじゃない」
「このレストランを選んだのはお前だろ?」
「この時間点にある店の営業方針なんて知らないもの」
「我慢しろ。もう注文したんだから、今さらキャンセルするのはルール違反。ミッション実行中なんだから、目立つ行動は避けるべきだ」
女はグラスに入ったガラス製のストローで、カクテルに残ったアイスをくるくると混ぜて、考えごとをしている。
「それはわかってるわ。……それにしても、たった三年とはいえ、アトランス界にも変わったものもあるのね」
何気ない女の言葉を聞くと、男は周囲に目を光らせる。近くを通る人物に気付くと、「おい、その話は」とたしなめた。
女は男の顔色を見て自分のミスに気付くと、今さらのように右手で口を塞ぐ。
二人のもとにウェイトレスがやってきた。その後ろから、人間型の霊体がトレイを運んでくる。その霊体は、オレンジ色に光る象の首を持ち、腕は6本ある。その6本の腕でそれぞれ、料理や飲みものを運んでいた。そして、彼らの注文した5つの品をテーブルに置く。
「以上で注文したものはすべてお揃いでしょうか?」
「ああ、間違いない」
「では、御用の際は気軽にお呼びください」
「あっ、すみません。これ、おかわり頂戴」
ウェイトレスはにっこりと笑った。
「ブラッドグレーズを一つ追加注文ですね、かしこまりました」
そして、霊体を従え、他のテーブルのサービスのため、去っていった。
数分後、ウェイトレスは新たなカクテルを持ってきた。女は大きな一口でそれを飲んだ。
「お前、まだ飲むのか?もう6杯目だろ、ミッション中だぞ」
「平気よ、私、お酒強いから。あんたも早く食べなさいよ。さっさとミッションコンプリートして帰りたいわ」
「それだけは同感だな」
男は無造作な表情で、ステーキを頬張った。
勘定を済ませて店から出た二人はフードを被る。その姿を確認すると、黄金虫も飛びはじめた。
数分後、男は足を止めた。
「尾けられてるな」
囁くような男の声に、女は少し焦った。
「嘘でしょう?このフードを着ていれば、源気センサーも遮断できるはずよ」
二人が動きを止めると、虫も翅を休め、近くの屋根下に止まった。
「間違いない。あの虫、ずっと僕たちを尾けてきてる。他にも四つ、源の気配が一定の距離を取って追ってきてるな」
「嫌よ、こんなところで捕まるわけにはいかないわ。武力で撃退しましょう」
男は長考してから言う。
「……どうやって僕たちの居場所を当てたのか知らないが、おそらく機関の追っ手だろ。仮にここで交戦して騒ぎになれば、さらに増援される可能性もある。こっちが不利になるだけだ」
女は周りの賑やかな商店街を見回して、打つ手もないというように、苛立ちを見せた。
「じゃ、どうすればいいのよ!このまま休憩拠点に戻るわけにはいかないでしょ?」
「仕方ない。レンさんの練ったB案に移行する」
女は目を白黒させた。
「それは」
「ああ、リスクの大きい賭けになる。だが、歴史に従うなら、僕たちはまだ終わりじゃない」
二人はまた移動を始めた。商店街エリアを離れ、ひと気のない裏道から、山登りのための古い階段道へと出る。
二人は登山道の途中にある、平地の広がる場所に出た。すると戦車大の戦闘機元が、絶壁から二人の前に飛びあがった。乗組員は一組の男女『尖兵』で、女のストレートの長髪が揺れている。女は源を使って、背中に蝶の翅をつけた大人の人間型の聖霊を呼び出した。平台に立つ二人を、戦闘機元のサーチライトが照らす。
ライトに照らされた二人は、登山道のさらに上から下りてくる男を見つける。その男は耳にテナガコガネの金のイヤリングを付け、メガネをかけている。
「そこまでだ。ケビン・ウェスリー、ならびにカロラ・クロンバリ。いや、ここは未来から来た殺し屋といった方が正しいですかね?」
女が振り向くと、さらに二人が後ろの階段を登って追ってきていた。一人は先ほどをウェイトレスで、6本腕の聖霊を操っている。男の方はドラゴンの角を生やしたオオカミのような生き物を従えており、警戒するように唸りをあげた。
二人は挟み撃ちに遭い、明らかに劣勢に立っていたが、男はまだ余裕があるのか、口元に笑みを浮かべた。
「お前、酒場のウェイトレスか。なるほど、入店前に僕たちをロックしたのか……」
「無駄な抵抗はしないで、大人しくしなさい」
可憐な営業スマイルを見せていたウェイトレスは、怒り顔に一変している。
「いや、僕たちは機関の同士と揉め事を起こしたいわけではない。どうやって僕たちをマークしたか、教えてくれないか?」
アーリムは人差し指でメガネのブリッジを支え、さらさらと答えた。
「いいだろう。君たちの着ているそのフードの付いたコート。それはまだ実験段階だ。一般の心苗はもちろん、『尖兵』にさえ使う権限のないものを着ているのだから、それだけで怪しまれるだろう。さらに君たちの会話内容を聞いていれば、未来から来た者と確信できる」
金色の虫がアーリムの指に留まる。すると、その目の色が白から黄色に変化し、録画された映像が宙に浮かぶ。そこには先ほどケビンとカロラが飲み交わした酒場の建物が、内部を透視する形で映されていた。そして、二人の会話の様子が再生される。
「なるほどな」
「言い訳はイールトノンで聞こうか」
男はフードを下ろした。その顔にはまだ笑みが張りついている。
「ふふふ、実に愉快な話だね」
「何が可笑しい!?」
戦闘機元を操っている男子心苗が怒鳴った。
「さすがは我が学院の「元」保安補佐官、アーリム・ラメルス先生だ」
ケビンの不穏な物言いに、アーリムは動揺した。
「……どういう意味だ」
カロラもケビン同様、フードを下ろす。
「ふふ、私たちの時間点にあるイールトノンでは、ラメルス先生はすでに保安補佐官の席を降りているわ。原因は、ある汚職の証拠を掴まれたこと。今は学院の別の先生がお務めになっているのよ?」
その場にいた四人の『尖兵』は、信じがたいような表情でアーリムに注目した。アーリムは、針の飛んだ音楽のように、筋肉の引き攣った表情になっている。
「き、きみは可笑しいことを言うね!」
「それはまあいいわ。僕たちは『尖兵』として、663コード特例権限を実行し、ある極秘ミッションの実行のためにこの時間点にやってきたの」
ケビンとカロラは自分のマスタープロテタスを出し、『尖兵』が任務実行の際に使うエンブレムとコードを宙に投影した。
弱みを握られ、アーリムはたどたどしい笑みをこぼす。
「ほう。それを先に言ってくれればこちらも無駄な力を使わずに済んだね。さて、じっくりと話を聞かせてもらおうか」
「もちろんさ。ただし、説明は隊長と合流してからだ」
「いいだろう、案内を頼む」